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関ヶ原の戦い・全国大名一覧(畿内 伊賀・近江)
・引用、参照は各自の責任において行ってください。

東軍西軍寝返り不分明、中立など

■伊賀

東 筒井定次 つついさだつぐ 1562-1615
(1)上野城、20(9.5)万石
(2)藤四郎。従四位下伊賀守。羽柴伊賀侍従。
 筒井氏は大和の土豪。興福寺一条院の衆徒として勢力を伸ばした。
 天文年間(1532-1555)には大和を制したが、順昭の子順慶の代に
 松永久秀に筒井城を逐われた。久秀が信長に背いて滅亡すると、
 順慶は大和を与えられた。1580年には郡山城に移る。
 1582年、本能寺の変が起きると順慶は光秀の与力であったが、山崎の戦いでは
 中立的態度を取る。日和見の代名詞である「洞ヶ峠」という言葉は
 このときの順慶の態度に基づくとされるが、実際に洞ヶ峠に行ったのは
 光秀の方で、ここで光秀は順慶の出兵を促している。
 秀吉に恩を売った形の順慶は大和の所領を安堵されたが、二年後には病死した。
 定次の父は筒井(慈明寺)順国(順昭の弟)。母は順昭の娘(順慶の妹)。
 順慶の養嗣子として筒井家を継いだ。翌年、伊賀上野城に移り二十万石を領した。
 秀吉に仕えて小牧長久手、四国攻め、九州攻め、小田原攻めに従軍した。
(3)会津征伐に従軍し、西軍挙兵後は東軍に属す。
 西上の途中で居城を奪われるというが、定次は本戦に参加、所領安堵。
(4)1608年、家臣中坊秀祐が定次の不行跡を幕府に訴えたため、改易され、
 鳥居忠政に預けられた。1615年三月五日、大坂方への内通嫌疑で子順定と
 ともに切腹させられた。定次の改易後に筒井家を継いだ定慶は大和郡山城番として
 一万石を領したが、大坂夏の陣で大坂方に攻められて落城、のち自害して絶家。

東 松倉重政 まつくらしげまさ 1570-1630
(1)梁瀬城、0.8万石
(2)筒井定次の家臣。関ヶ原後に独立大名となったので特別に掲げる。
 父は島左近と並び称された松倉右近重信。筒井定次が伊賀に移ったとき、
 伊賀名張(梁瀬)城主となった。
(3)東軍に属して大和高取の本多正武(利朝)とともに美濃を守備。
(4)1608年、主家筒井家の没落後、幕府から吉野郡五条(二見五条)一万石
 を与えられる。大坂の冬の陣では真田丸の正面に布陣。夏の陣の前哨戦では
 郡山城を落とした大坂方が撤退するところを追撃して首級を挙げる。
 戦後、戦功により肥前島原四万石を与えられる。
 島原では厳しく年貢を取り立て、またキリシタン弾圧を行った。
 これが子勝家の代に起こった島原の乱の原因となる。
 乱後、勝家は死罪、弟重利の系統が旗本として存続。

■近江

− 山中長俊 やまなかながとし 1547-1607
(1)山中城、1万石(このほか代官領3万石)
 摂津西三郡、河内中部、近江、伊勢などに所領は散在
(2)橘内。従五位下山城守(1593年)。石見守為俊の子。
 山中氏は古くから近江甲賀郡山中村に所領を持ち、六角氏に仕えた。
 長俊は山中氏の庶流で織田信長、柴田勝家、丹羽長秀、堀秀政に仕え、
 その後秀吉に仕えて右筆、代官を務める。小田原攻めにも従軍した。
(3)大坂城に在城したため、戦後所領を没収され、京都に隠棲。

西 樋口雅兼 ひぐちまさかね ?-?
(1)近江国内、1.7万石
(2)次郎、彦右衛門、淡路守。政武とも。
 信長家臣時代の秀吉に仕えるという。1583年に近江国内で一万七千石を領す。
(3)西軍に属したとされ。戦後所領を没収された。
(4)大坂の陣でも籠城し、戦後は出雲の堀尾氏の庇護を受けた。

西 石田正継 いしだまさつぐ
(1)近江国内、3万石
(2)三成の父。政成、晴成とも。藤左衛門、左吾右衛門。従五位下隠岐守。
(3)佐和山城本丸を守備、九月十八日の落城で自刃。

西 石田正澄 いしだまさずみ ?-1600
(1)近江国内・河内国南河内郡の内、2.5(1.5)万石
(2)三成の兄。一氏、一成とも。弥三。従五位下木工頭(1593年)。
 堺奉行を務める。
(3)佐和山城の留守居となり三の丸を守備。本戦後に東軍の攻撃を受け、
 九月十八日、落城で子朝成とともに自刃。

西 石田三成 いしだみつなり 1560-1600
(1)佐和山城、19.7万石(諸説あり)
(2)佐吉、初名三也(みつなり)。従四位下、治部少輔。いわゆる「五奉行」の筆頭。
 のちの天下人、政権創始者の徳川家康に敵対した割には、江戸時代から現在に至るまで
 人気も評価も低いところに留まっている。関ヶ原で家康に伍するだけの人数を糾合した
 ことは評価に値するが、政権の正当性に訴えかけてもそれ自体を否定する者の前では
 自ずと限界があったといえる(彼自身が痛感していたとは思うが)。三成の存在が
 反三成派を形成させ、三成の願う豊臣政権の崩壊を招いたのは歴史の皮肉といえよう。

 石田氏は近江坂田郡の土豪といわれる。正継の二男であった三成は僧籍に入れられる。
 三献の茶で秀吉に認められ、取り立てられたとの逸話は有名。
 もっぱら吏僚として活躍。1585年、秀吉の関白就任に伴い従五位下治部少輔に叙任。
 その後、堺奉行となり、各地の検地や蔵入地の代官も務める。
 1590年の小田原攻めでは武蔵忍城攻めを行う。秀吉の高松城攻めにならって水攻めに
 したが苦戦し、これが三成は戦下手との評にもつながっているとされる。
 その後の奥州平定、朝鮮出兵でも兵を率いて従軍している。
(3)反三成派の存在を家康に利用されて、最終的には西軍の中心として挙兵に至る。
 七月十九日には鳥居元忠のこもる伏見城攻撃を開始。苦戦するもみずから督戦に赴き、
 これを八月一日に落とす。八月十日には大垣城に入城し、前線の指揮にあたった。
 東軍の予想以上の快進撃に対応しきれず、関ヶ原での迎撃を決意、九月十五日の決戦
 を迎える。朝から始まった戦いは当初西軍優勢、昼頃までは互角以上の戦いを見せるが、
 小早川秀秋が西軍を攻撃したことから一気に敗退。主力同士の決戦は一日にして大敗、
 大津城攻めの立花宗茂や田辺城攻めの小野木重次の軍勢を活用するには至らなかった。
 戦場から落ちのびて逃走するものの田中吉政に捕えられ、十月一日に京の六条河原で
 処刑される。嫡子の隼人正重家は助命され僧籍に入った。同じく子の重成は津軽氏に
 仕え、杉山氏を称したという。

西 長束正家 なつかまさいえ ?-1600
(1)水口城、12万石
(2)新三郎、従五位下、大蔵少輔。のち従四位下、侍従。いわゆる「五奉行」の一人。
 もと丹羽長秀の家臣。算術に明るく、長秀の死後はその吏才をもって秀吉に仕え、
 九州攻め、小田原攻めで兵站準備に携わった。
 ほかにも検地奉行や伏見城普請など財務・内務官僚としての活躍がもっぱらである。
 1595年、近江水口五万石を与えられ、のち十二万石に加増される。
(3)西軍に属し伊勢安濃津城攻撃に参加、のち長宗我部盛親らと南宮山麓に布陣した。
 しかし本戦に参加できないまま退却、居城にこもったが、
 九月三十日に開城して弟直吉(正隆)とともに自害した。
 一説に十月三日、池田長吉(恒興の三男)に欺かれて城を出て、近江桜井谷で
 自害したとも。子孫は浅野家に仕えたともいう。

東 京極高次 きょうごくたかつぐ 1563-1609 参議
(1)大津城、6万石
(2)小法師、小兵衛、若狭守。従五位下侍従、従四位。従三位参議(1596年)。
 足利尊氏の盟友・佐々木高氏こと京極道誉の子孫。
 京極氏は室町幕府の四職(ししき、侍所の長官である所司を務めた四つの家柄。
 ほかは山名、赤松、一色。土岐氏を含んで五つとも)の一つであったが、
 応仁の乱後は衰退する。高次は長門守高吉の子。本能寺の変後、明智光秀に味方して
 近江長浜城を攻める。妹が嫁いでいた若狭の武田元明も光秀方についたが敗死する。
 高次も秀吉に殺されるところだったが、美人の誉れの高かった妹が
 進んで秀吉の側室となることを申し出たため(のちに松の丸殿)、命を助けられた。
 その後の高次は、浅井長政の二女お初(常高院)を配され、大津六万石の城主となった。
 なお、高次の母は浅井久政の娘(長政の姉、京極マリア)であり、
 お初とはいとこ同士の結婚である。
(3)会津征伐の途中に立ち寄った家康を、お初(淀殿および秀忠の正室お江の姉妹)や
 松の丸殿(西の丸殿とも)、弟高知(信濃飯田十万石の城主)と饗応する。
 高知は会津征伐に従軍することになり、高次も従軍を願い出たが、
 家康に上方に変事あったときには要衝の地である大津城のことを頼むと
 言われて大津城に残った。その後、西軍が挙兵するとこれを家康に報せた。
 また西軍からはしきりに味方するようにとの使者が来たが、
 これを断って籠城しようにも大津城の修理がまだ終わっていなかったので、
 息子熊麿(のちの忠高)を人質として大坂に送り、一時西軍に属して時間稼ぎをした。
 北陸に出陣したがほどなく大津城に引き返し、
 九月六日には城下を焼き払って籠城の準備を整えたが、
 すぐに西軍の毛利元康(元就の八男)、立花宗茂ら一万五千の兵に囲まれた。
 九日間の籠城ののち大津城は開城し、高次は高野山に入った。
 この大津城が開城したのは十五日の朝であり、この日は関ヶ原で東西両軍の本隊が
 雌雄を決した日に当たる。戦後、高次は西軍の兵を足止めしたとして功を賞せられ、
 若狭小浜八万五千石を賜った(翌年、近江高島郡内で七千石加増)。
(4)大坂の陣では、常高院が和平交渉に尽力して冬の陣の講和を成立させる。
 忠高は大坂両陣に従軍して戦功を立て、戦後加増を受けた。
 出雲(隠岐含む)松江二十六万石の城主となった忠高だが無嗣のまま没し、
 当時はまだ末期養子の制度がなかったので領地は収公された。
 しかし、高次の勲功により忠高の弟高政の子忠和に播磨竜野で六万石が与えられた。
 子孫は讃岐丸亀五万石余の大名として存続した。

西→東 朽木元綱 くつきもとつな 1549-1632
(1)朽木陣屋、2万石
(2)竹松丸、弥五郎、信濃守。従五位下河内守(1590年)。宮内大輔晴綱(貞綱)の子。
 朽木氏は近江佐々木氏の一族で、代々近江高島郡朽木谷を領した。
 室町幕府直属の奉行衆として将軍を援け、祖父稙綱と父は将軍の諱を賜っている。
 1570年、信長が越前朝倉氏を攻めている最中、浅井氏が離反し、信長は朽木越えをして
 急ぎ京に戻ったが、その途中の信長を迎えて無事に帰還せしめている。
(3)関ヶ原の戦いの際は、初め西軍の招きに応じて大谷吉継の軍に加わるが、
 脇坂安治、小川祐忠らと藤堂高虎を通じてひそかに東軍に誼を通じ、
 本戦で小早川秀秋らとともに東軍に味方して、大谷吉継らを破る。
 ついで秀秋らと佐和山城を攻める。戦後、朽木庄など九千五百九十石を安堵された。
 (戦前は二万石であったから減封である)
(4)大坂冬の陣には子宣綱とともに永井直勝(徳川譜代)の軍に属して従軍する。
 元綱の死後、所領は三子に分割されたが、そのうち三男の稙綱は下野鹿沼(かぬま)で
 一万石を領する大名に取り立てられ、子孫は丹波福知山三万二千石で定着。