異端審問

自分達と考えを同じくしないものを『異端』と捉え、これを粛清するというのはフェアなやり方ではない。しかしながら、過去に異端審問が横行し、粛清の嵐が吹き荒れたことはカトリック教会の大きな大きな汚点である。ショーン・コネリー主演の『薔薇の名前』では、異端審問官を恐れる修道者たちの様子を余すところ無く描き出している。『異端』と疑われただけで大変なことになる。自由が極端に押さえつけられる様は,極めて異常だったと言わざるを得ない。

新聞報道 教皇が大聖年にあたり、過去2000年間のカトリック教会の過去の過ちについて、ミサにおいて神の赦しを願った。(2000年3月12日)
その中で、『十字軍遠征や異端審問では異端に対する敵意を持ち、暴力を用いた』ことを認めて、赦しを願っている。画期的なことではあったが、遅きに失した嫌いがあることは否めない。

ローマ法王がカトリック教会の過去の過ち認める (朝日新聞2000.03.13)

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は12日、バチカンのサンピエトロ寺院で、過去2000年間にキリスト教会が犯した罪を認め、神の許しを請うミサを行った。こうした形でローマ法王が過去の過ちをざんげするのは、カトリック教会の史上初めて。
CNNなどによると、ミサでは、カトリックの異端審問、十字軍や異教徒への改宗強制に際しての暴力、ユダヤ人や女性、先住民に対する差別や抑圧などが罪として挙げられたが、法王は歴史的な具体的事例には触れなかった。

ローマ法王、過去2000年の過ち認める=ユダヤ人迫害・十字軍など (時事通信社2000年03月13日)

【ジュネーブ12日時事】ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は12日、バチカンのサンピエトロ広場でミサを行い、ユダヤ人迫害の容認や十字軍の遠征、宗教裁判などについて、過去2000年間にキリスト教会が犯した過ちと認め、神の許しを請う告白を行った。こうした形でローマ法王が過去の過ちをざんげするのは、カトリック教会史上初めて。
法王はカトリック教徒が許しを請うことは、将来同じ過ちを繰り返さないための「記憶の浄化」につながると訴えており、キリスト生誕2000年を記念する大聖年の「許しを求めた日」は、世界10億人の信者にとって歴史的に大きな意味を持つことになりそうだ。

<ローマ法王>カトリック教会の犯した過去の過ちをざんげ (毎日新聞2000年03月13日)

【ローマ支局13日】ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は12日、バチカンのサンピエトロ寺院でのミサで、過去にカトリック教会が犯した過ちを認め、神の許しを請うざんげを行った。ユダヤ人迫害の容認や十字軍遠征などについて、法王が過ちを総括してざんげするのはカトリック教会史上初めて。
ミサは、キリスト生誕2000年の大聖年に合わせて行われたもので、カトリックの分裂や異端審問、十字軍、異教徒への布教などの際の暴力、ユダヤ人や女性、先住民に対する差別や抑圧などが列挙され、法王がこれらについて神に許しを求めた。
◇ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が12日のミサでざんげした主な言葉は次の通り。

一、歴史上、あなたがた神の子(ユダヤ人)を苦しめた行為を深く悲しみ、許しを求め、真の兄弟愛を誓う。
一、(十字軍遠征、異端審問などでは)異端に対する敵意を持ち、暴力を用いた。これらカトリック教会の名誉を汚した行いについて謹んで許しを求める。
一、(アフリカ、米大陸などへの布教では)人種、民族的な差別に基づいた排他的な行いがあり、罪深いふるまいがあった。異人種の権利を迫害し、彼らの伝統的宗教や文化に対する侮辱的な態度を取った。

ローマ教皇、過去2000年の過ち認める ユダヤ人迫害・十字軍・異端審問など

【CJC=東京】ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は3月12日、バチカンのサンピエトロ大聖堂で、カトリックの立場から、キリスト教徒が過去に犯した過ちについて、「赦(ゆる)し」を請う歴史的なミサを行った。
教皇は「真理の名の下に、キリスト教徒が暴力に頼ったり、他宗教の信者に敵意を向けた」ことなどに関し、「赦しを請う」と呼びかけた。
これは、東方正教会や新教各派などへのキリスト教会の分裂、異端審問、十字軍、異教徒への暴力的な改宗強制、ユダヤ人や女性、先住民に対する差別や抑圧などを、これまでキリスト者が犯した過ちと認めたものと見られる。
教皇は「謙虚に告白している信徒の悔い改めを受け入れ、慈悲を与えるよう」求めた。 今年はキリスト生誕2000年を記念する『大聖年』で、この日は『赦しを求める日』にあたっていた。 「罪と許し」は『大聖年』の主要テーマの一つ。
このような形で教皇が過去の過ちをざんげするのは初めて。
許しを請うことは、将来同じ過ちを繰り返さないための「記憶の浄化」につながると教皇は訴えている。
3月下旬のイスラエル訪問を前に、ユダヤ人に対する発言が注目されたが、教皇は「ユダヤ人に苦しみを与えた者たちの行為に深い悲しみを覚える」と述べたものの、ナチスによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)への教会の対応などについて直接の言及は避けた。
これについてイスラエルでは不満の声が上がっているが、ユダヤ教指導者のラビ・ラオ師らは「教皇が3月下旬にイスラエルを訪れる際に明確な謝罪がなされるものと期待する」と述べた。
教皇は21日から6日間の日程で、イスラエルとパレスチナ自治区の聖地を訪れる。

カトリック中央協議会HP、『カトリック教会の概説』から

事実を淡々と書いてはいるが、あまり反省しているようには受け取れない。冒頭の教皇メッセージの方が新しいということもあろうが、...

1 古代のキリスト教 … 5 正統と異端    http://www02.so-net.ne.jp/~catholic/Dogm/Dog06.htm

ローマ帝国の精神的風土は多神教とヘレニズム文化によって彩られていた。そうしたなかに広がっていったキリスト教は、自己の純粋さを保つために当初から幾つかの戦いに直面しなければならなかった。
一つは帝国内で盛んであった種々の密儀宗教との対決である。その多くはキリスト教の洗礼や聖餐式に類似した儀式を行っていたため、聖書信仰との境目があいまいになる危険性が常にあった。また一方では、宗教の本質は超自然的知恵(グノーシス)を得ることであるとする哲学的な宗教も盛んだった。それは、霊肉二元論をうちたて、精神や魂を罪と滅びの原理である物質や肉体よりも優れたものとみなしていた。ごく初期から教会内部にはこの立場からキリストを理解しようとする者が現れ、キリストはグノーシスの現れであり、地上のイエスの肉体は仮にそう見えただけのことと唱えた。しかし、そうなれば神のことばの受肉や十字架のあがないも 意味をなさなくなってしまうとして、早くも使徒パウロやヨハネは、こうした異質の信仰と戦わなければならなかったのである。
以上のような外からの迫害や内からの異端との戦いという教会の危機に対処していく過程で、正統信仰を保つ道筋が次第に整えられていった。
第一に司教制の確立である。すでに2世紀初頭、アンチオケのイグナチオは、司教は使徒たちのあかしを継承する正統信仰の担い手であり、教会は司教を中心として成立することを主張している。司教、あるいは司教団こそはあらゆる異説に対抗する防波堤、教理と信仰教育の担い手とされた。
第二に「信仰の尺度」と呼ばれた信条が制定された。初代教会以来、洗礼志願者は信者会衆の前で信仰定式文を読み上げて信仰告白を行っていたが、それが正統と異端を見分ける尺度として用いられるようになった。
第三に、正統信仰を裏づけ、保証する文献として聖書正典が定められた。すでに教会は旧約聖書を正典として受け入れてきたが、それに加えて典礼の場で用いられた、ナザレのイエスをキリストと証言する文献が新約聖書として定められたのである。
こうした司教制の確立、信条の制定、聖書正典の成立は、ほぼ迫害の終息と同じ時期にあたっている。ここにカトリック教会の土台が定まったのである。

2 中世のキリスト教 … 2 教義論争    http://www02.so-net.ne.jp/~catholic/Dogm/MDog.htm

キリスト教がヘレニズム世界に広がるにつれ、本来の信仰内容を保ちながらヘブライ的、聖書的な枠組みを超えて、ギリシャ的な思弁によってどのようにイエス・キリストを再理解し、それを適切に表現するかが問題になってきた。ことに東方教会では激しい教義論争が展開され、4世紀初めのアリウス論争から8世紀の聖画像論争に至るまで、教会は正統と異端をめぐって激しく揺れた。このような論争はしばしば宮廷内部の権力抗争とからんで、いっそう複雑な状況を呈した。
教会は問題解決のために、司教を中心とする「公会議」をしばしば開催し、論争に決着をつける場とした。なかでも325年の第1ニケア公会議、381年の第1コンスタンチノープル公会議、451年のカルケドン公会議は、教会史上重要な意味をもった。これら一連の論争と公会議の諸決定は、次の点を正統信仰として確認したのである。すなわち、イエス・キリストは真の神にして真の人である。父と子と聖霊は等しい神性を有する唯一の神である。キリストの人格(ペルソナ)のうちには神性と人性が分離も混合もなしに、しかも区別されて存在するということである。これらは、いわゆる三位一体と神人両性論と呼ばれ、世界信条としてキリスト教共通の遺産とみなされ、今日に至っている。
一方、西方教会ではアウグスチヌスが登場し、多くの著作をもって古代教会以来の豊かな信仰の遺産を受け継ぎ、さらにそれを再構築して次の世代に引き渡すという偉業を残した。それは、以後の教会にはかり知れない影響をもたらすことになった。

『教会は誠実に罪の赦しを願った』のだろうか   『福音宣教』第55巻第3号、2001年3月号  西山 俊彦師(大阪教区) から引用

http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/sub2.html

筆者による歴史的事実の指摘

例によって「筆者による」を付加しますから、間違っていれば御指摘下さい。

(1)「キリスト者の分裂」ほど「愛の宗教」にとって痛ましい現実はありません。東西キリスト教の分裂(1054)と宗教改革(1520- )が最大のものとしますと、前者は教皇聖レオ九世とコンスタ ンチノープル総大主教ミカエル・ケルラリオスとの相互破門状をもってのことであり、後者は、 ルターを異端として破門したのは教皇レオ十世の大勅書 Exsurge Domine (1520)であったとされています。「全キリスト者が愛の証しに生きてなかったから」との『文書』の指摘は認めると しても、「息子や娘たち」に破門できるはずはなく、できたとしてもそれに何の意味があったとい うのでしょうか。  
(2)「真理への奉仕に不寛容であり、暴力を行使した」ことは、十字軍の遠征であり、異端審問であり、魔女裁判であり、強制改宗を意味すると思われます。どの一つを採っても、正に「暗黒時代」そのものですが、第一回[十字軍](1096-1099)は教皇ウルバヌス二世とクレルモン教会会議の、第二回のそれ(1147-1149)は教皇エウジェニウス三世と聖ベルナルドゥスの提唱奮励によるものであり、それ以降も、教皇インノチェンチウス三世の召集した第四回ラテラノ公会議(1215)とか教皇イン ノチェンチウス四世の召集した第一リオン公会議(1245)等が関与していたのではなかったのでし ょうか。  
同様に、[異端審問]制度を確立したのは教皇グレゴリウス九世の大勅書 Excommunicamus et anathematizamus (1231)であり、それに拷問の使用を認めたのは教皇インノチェンチウス四世の大勅書 Ad extirpanda (1252)ではなかったのでしょうか。なかでも教皇インノチェンチウス三世の南仏カタリ(アルビジョア)の異端に対する十字軍遠征は残虐の極みで、犠牲者 114,000名中、10,220名は火刑に処せられたと伝えられます。「1790年から1792年にかけてマドリッ ドの異端審問所長官だったリリョレンテは、『国土回復』以降彼の時代までだけでスペインで 30万人が死刑になったと見積っています。これはローマ皇帝の犠牲となったすべてのキリスト 教徒とも比較できない数字とされ」 ます。そして異端審問が一番長く続いたのがローマで、 十九世紀は教皇ピウス九世の時迄でした。  

[魔女裁判]については、魔女についての定義を与えた教皇インノチェンチウス八世の大勅書 Summis desiderantes affectibus (1484)以降、「これを否定する者は司教であれ神学者であれ 異端とされました。」これによって「ふと目を覚ますと愛していたはずの女がじつは隠れた魔女だったことに気づくという事態が起こるようになり」、「長すぎる冬、あるいは収穫の遅れがあれば、それはこういった不幸な女たちの大量焚殺を意味しました。」
(3) 「キリスト者とユダヤ教徒」と中立的な見出しですが、中味は深刻です。ナチスによるユダヤ人迫害に関して教皇ピウス十二世が沈黙し続けたことが非難されますが、ユダヤ人全体に「キリスト殺害者」としての汚名を着せることは、クリゾストムス等教父時代からのもので、この汚名が取り払われたのは、ようやく第二バチカン公会議においての事でした。教皇インノチェン チウス三世と第四ラテラノ公会議(1215)は、十字軍を招集し、異端審問を徹底させた他に、ユダヤ人に「土地の保有、軍隊に入ること、役人になること」を禁じるとともに、キリスト教世界で生活するイスラム教徒とユダヤ人に識別のための印「黄色の星章」を強要しました。ナチスの迫害に先立つ事七百年の事柄です。「キリスト殺害者であるユダヤ人は生まれながらの奴 隷であり、そのような者として扱わるべきこと」を強調したのは教皇パウロ四世の反ユダヤ主義の大勅書 Cun nimis absurdum (1555)で、「同教皇の在任期間にローマのユダヤ人は半減した」と言われています。

ガリレオ    こども宇宙教室レベル2から引用  http://www.planetary.or.jp/StarChild/galileo_2.html

ガリレオ・ガリレイは1564年2月15日、イタリアのピサで生まれた天文学者そして物理学者でした。父親のビンセンツォ・ガリレイは、よく知られた音楽家でしたが、息子のガリレオを医者にしようと考えていました。  
1581年、父のすすめで医学を学ぶためにピサ大学に入学しました。しかし、ガリレオは数学の才能があることに気づいたので、父親を説得して大学をやめ数学の教師になりました。後年、数学の教授になりました。  
1609年、ガリレオは小型望遠鏡、いわゆる「遠めがね」が発明されたことを知り、得意の数学の知識と高い技術を使って、この小型望遠鏡を改良して本格的な望遠鏡(屈折望遠鏡)を作りました。その年の末、初めて望遠鏡で月を観測し、月は平らではなく、地球のように山も谷もクレーターもあるという最初の天文学上の発見をしました。更に新しい望遠鏡を作って、木星をまわる4つの衛星(ガリレオ衛星)を発見しました。続いて土星、金星の位相(月と同じように、新月から満月まで変化する様子)、太陽の黒点を観測しました。  
こうした観測で、ガリレオは、地球やその他の惑星は太陽の周りをまわっているというコペルニクスの説を確信するようになりました。ガリレオの時代でも、ほとんどの人々は地球が宇宙の中心で、太陽とその他の惑星が地球の周りをまわっていると信じていたのです。カトリック教会が非常に強力な権力を握っていて、地球中心説を支持していたのです。  
ガリレオが太陽中心説の論文を発表すると、カトリック教会はガリレオをローマに呼び出し、異端審問という宗教裁判に出頭を命じました。 1616年初め、カトリック教会はガリレオを教会の教義に反する異端者として告発しました。異端とは、時には死を宣告されるほどの罪でした。異端の罪は免れましたが、地球が太陽の周りをまわっているという説は二度と公言してはならないと命じられました。その後もガリレオは天文学の研究を続け、ますます太陽中心説の確信を深めました。  
1632年、彼は本を出版し、その中でコペルニクスの太陽中心説は正しいと述べました。彼は再び異端審問に召喚され、1633年、異端の罪で終身刑を宣告されました。しかし、老齢と健康の悪化のために入牢を免れ、自宅監禁に処せられました。ガリレオは1642年1月8日に亡くなりました。

フス

http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/116-europe16.html

ベーメン(ボヘミア、現在のチェコ共和国)のフス(1370頃〜1415)は、貧農の子に生まれ、プラハ大学に学び、同大学教授(1398)、のちに同大学総長となった(1409)。  
大学教授を勤めると同時に、プラハ市のベツレヘム教会の説教者となり、ウィクリフの説に共鳴して聖書中心主義の立場からカトリック教会を批判し、教皇の世俗的権力を否定し、教会改革を主張した。このためローマ教会と対立を深め、破門されたが(1411)、これに屈せず、各地で活動した。  
フスの説を支持する者はボヘミアだけでなく、全ヨーロッパに広まったため、ローマ教会はコンスタンツの公会議(1414〜18)を開き、フスを召喚し、彼に学説の撤回を迫った。しかし、フスがこれを拒否したため、彼の説は異端とされ、フスは火刑に処せられた(1415)。  
ドイツ皇帝ジギスムントの主宰で開かれたコンスタンツの公会議(1414〜18)には約5万人が参加したと言われているが、この会議はシスマの解決と異端の審議を主目的として開かれた。  
シスマについては、ローマ教皇を正統と認め、分裂中の3教皇を廃し、統一教皇としてマルティヌス5世(位1417〜31)を選出してシスマを解決した。また異端の審議については、フスの説を異端として火刑に処すとともに、ウィクリフの説も異端として彼の遺体を掘り起こし、彼の著書とともに焼いてテムズ川に投じた。  
フスの処刑後、ドイツ皇帝ジギスムントは、プラハ市とプラハ大学を迫害したので、市民はフスの説の承認を求めて反乱を起こした。このフス戦争(1419〜36)は、チェック人のドイツ支配に対する抵抗でもあった。  
こうして教皇権はかつての栄光を失って衰退に向かい、教会の世俗化や腐敗に対する教会革新運動は後を絶たず、ついに近代初頭にドイツのルターの宗教改革が起こることになる。

ジャンヌ・ダルク

Jeanne D'Arc
1412年1月6日生 1431年5月30日没

「オルレアンの少女」と呼ばれたフランス国民的英雄であるジャンヌは、ドレミという貧しい農家の娘として生まれた。当時、フランスでは英仏百年戦争が始まり、国内も王族が分裂して危機にあった。ジャンヌは、幼いながらも祖国の危機に心を痛め、毎日祈っていた。ある日、彼女は「フランスを救え」という神からの啓示を受けた。13歳のときだった。しかし、フランス軍の司令官は彼女の言葉を信じなかったので、フランス軍はオルレアンの近くで敗北するだろう、ということを彼女は予言した。そのとおり、フランス軍は敗北。神学者たちは、ジャンヌが神から啓示を受けたことを認め、彼女はフランス軍を率いる許可を得た。彼女は白い軍服を着て馬にまたがり、イギリス軍に包囲されたオルレアンに進撃して、解放した。第2、第3と勝利を得て、皇太子をシャルル7世として王位につかせた。しかし1430年、対立していた軍に捕えられ、イギリス軍に引き渡された。宗教裁判にかけられたジャンヌは、魔術によって神を冒とくしたという罪で火刑の宣告を受けた。燃えさかる炎の中でも、彼女はイエスとマリアのみ名を呼び、息絶えたといわれる。その25年後、教皇カリスト3世によって、宗教裁判のやり直しが命じられ、無罪の判決をうけてジャンヌの名誉は回復された。
1920(大正9)年 ローマ教皇ベネディクトゥス15世はジャンヌに聖人の称号をあたえ、5月30日を祝日とすることを決定


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