北アイルランド

このページはアイルランド大使館の資料からの抜粋です。
片方の民族が権力をすべて握ってしまっていて、他方を完全に押さえ込む構図 こそが紛争の火種なのだと思うが、...

アイルランド
歴史
アイルランドには、約9000年前から人が住んでいた。最初の移住者は中石器時代 の文化をもたらし、新石器時代、青銅器時代の移住者がこれに続いた。鉄器時代 は、紀元前300年頃から始まった。有史時代の始めに、アイルランド人は既にケルト語を話し、進歩した社会・法律制度や、豊かな口伝の文化を持っていた。キ リスト教は5世紀に守護聖人であるセント・パトリックによって導入されたもの と、伝統的に信じられている。その後数世紀の間に、修道僧達は、国内や、イギ リスその他のヨーロッパの国々に学校を開設した。8世紀から10世紀にかけてバ イキングの侵略者や移住者達が都市を建設し、商取引を始めた。国の南部と東部 の大部分は12世紀にウェールズからのノルマン人に征服され、植民地化された。 ノルマン人達は次第にアイルランド社会に同化していったが、16世紀と17世紀に アイルランド全体が英国の支配下におかれ、古いゲーリック制度は廃止された。 アイルランド、特にアルスター地区は、宗教上の相違もあって土着の人々が同化 しなかったので、イングランド・プロテスタント及びスコットランドからの移住者に没収され、植民地化された。 ノルマン人によって設立された植民地議会は、暫定的に自治権を認められるよう になった1782年まで英国に従属していた。
1798年、フランス革命に刺激されアイ ルランドの独立を求めて、ウルフ・トーンとアイルランド人同盟をリーダーとし て反乱を起こしたが鎮圧された。選挙民を代表する制度になっていないアイルラ ンド議会は、1800年に自らの投票によって議会を廃止した。19世紀にダニエル・ オコンネルはカトリック教徒に対する政治的差別緩和に成功したが、新しいアイ ルランド議会を実現するまでには至らなかった。1840年代にジャガイモ飢饉が起こって百万人以上の人々が死亡し、数百万人が移民せざるを得なかった。立憲的な手段によるアイルランドの自治獲得の試みが英国議会でアイザック・バルトや後にチャールズ・スチュワート・パーネルの率い るアイルランド議員団によってなされたが功を奏さなかった。19世紀には武装蜂起が各地で起こり、立憲的自治運動の不首尾はこうした傾向に拍車を掛けた。1916年の蜂起は押え込まれたが、アイルランド自治推進者たちは、1918年の選挙で圧倒的支持を得て、1919年に初めての国民議会を設立した。
1921年、英国からの独立戦争の終結後、アイルランドを分割する条約が調印された。アイルランド自由国(26州)は独立を果たし、北アイルランド(6州)は連合王国に残ることになった。 英国との条約に反対する派との間に内戦が起こったが、1923年5月に休戦協定が結ばれ、自由国が誕生した。独立後最初の30年間のアイルランド政治は、1922年 から32年の間首相であったW.T.コスグレーヴと1923年から1959年まで殆ど継続的に相を務めたエイモン・デヴァレラによって運営された。

北アイルランド
政治的背景
アイルランドの政治的分割は、アイルランド32州のうち26州が何世紀にもわたる英国支配(その間にはアイルランド全土が連合王国の一部として英国に統治されていた120年間が含まれる)の後に、独立を手に入れた1920年〜1921年に始まる。残りの6州は北アイルランドとして英国領にとどまる選択を許され、統治権は英国議会に残されたものの他の多くの権限は1920年にベルファストの地方 議会及び政府に委譲された。 1921年から1972年までの間、北アイルランドは英国議会議員を選出していたものの、地方政府は地方行政に関して自治権を保持していた。政権はこの地域の多数派であるユニオニスト(英国に留まる事を望む者の総称)を支持母体としたユニ オニスト党が独占し、北アイルランドの全人口の3分の1を占めるナショナリス ト派(南北アイルランドの統合を望む者)は地方政府に参画できず、選挙権や住 宅、さらに雇用の機会などに関して構造的な差別に苦しんできた。 市民権獲得を目指した1969年の非暴力運動は敵意に満ちた激しい抑圧を受けた。 以後北アイルランドは長く政治的危機を迎えることになる。1970年代初頭にはそれ以前にも時々繰り返されていた。IRAによる武装行動が一段と増え、それにつれてロイヤリスト過激派と呼ばれる反対勢力による武装行動も増加した。 末期的状況の下、1972年に北アイルランド地方議会と政府は停止され、再び英国政府があらゆる面において北アイルランドを直接統治することになった。これ以後、1974年に権限分担行政機関が設けられたほんの短い期間を除いて、北アイルラ ンドの統治は現在まで英国政府の北アイルランド担当相のもとで行われている。 北アイルランドは現在のところ英国議会に17人の議員を選出している。
英国・アイルランド政府間協議(1981年)
1980年のダブリン城での当時のホーヒィー首相とサッチャー首相との両国首脳会談において英国とアイルランドの両政府は二つのアイルランド、及び英国とアイルランドの関係改善に向けて合意に達することが出来た。 これが両国関係の新しい出発となり、翌1981年には両国政府間評議会が設けら れ、この評議会によって、北アイルランド紛争の解決に向けて最重点的に協議できる公式の枠組みが出来上がった。
英国・アイルランド間の合意
1985年11月、英国・アイルランド両国政府は、英国・アイルランド間の合意に調 印し、国際協定として後日国連に寄託した。この合意は、「北アイルランドに平和と安定をもたらすため、アイルランドにおける二つの主要な伝統の和解と二国間の新しい協調体制の創造、反テロリズムへのいっそうの協力」とその目的とし ている。政府間評議会が設立され、アイルランド政府が北アイルランド問題に対 して意見を求め、提案をする事が可能となった。そして、英国、アイルランドの 両政府に両国間に起こりうる相違点の解消のための決然たる努力を求めている。 評議会の議長は両国の代表、アイルランド外務大臣と英国の北アイルランド担当相が務める。
Round Table Talks 1991/1992 (円卓会議 1991・1992)
1991、および92年に、アイルランド・英国両国は北アイルランドの主な政 党を招き円卓会議を開催した。(シン・フェイン党は 除外。)会議は北アイル ランド情勢を形成する3つの関係、北アイルランド内の関係 、南北関係、およ び英・アイルランド関係という3つの柱に沿って行われた。幾つか共通の立場を 確認することは出来たが、包括的な合意に到達することは出来なかった。
Joint Declaration 1993 (共同宣言 1993)
1993年12月15日、当時のアルバート・レノルズ首相とジョン・メー ジャー英国首相は共同宣言を発表し、アイルランド・英国関係、およびアイルラ ンド国内関係の政治的解決を目指す和平プロセスの土台となる基本原則を表明した。 宣言の核をなすものは、自決権と同意尊重の原則である。英国政府は「北アイルランドに如何なる利己的な戦略上や経済的関心も有さない」ことを表明し、「北アイルランド住民が英国との連合又はアイルランドとの統一のどちらを選ぼうとも多数の民主的意志を支持する」ことを再確認した。さらに英国政府は宣言の中で「もし統一されたアイルランドがアイルランド住民の望みであるならば、南北双方の合意により、双方で自由かつ同時に表明された了解に基づき、自決権を行使してこれを実現できるのはアイルランド住人のみである」ことに合意してい る。また、アイルランド政府の立場として宣言は、「アイルランド全体の住民に よる自決という民主的な権利は北アイルランド住民の過半数の合意と了解があってはじめて達成され、行使されるべきものでなければならない」ことを認めている。 この宣言は、政治的目的追求に関る全ての問題の解決は平和的、かつ民主的手段にのみよらなければならないとしている一方で、「平和的方法にのみよることを 誓い、民主的プロセスに従うことを示した民主的な権限の受託をうけた政党は民主政治に全面的に参加し、今後両国政府と関係政党間で行われることになる対話に自由に参加することができる」と述べて、軍事組織関係者にも政治的な和平プ ロセスに参加できる道を開いている。
Paramilitary Ceasefires 1994 (停戦 1994)

1994年8月31日、IRAは軍事行動の完全停止を発表した。これに続き、 ロイヤリスト合同軍事司令部(CLMC)も同様の趣旨を1994年10月13 日に声明している。これらの停戦を受けて、両国政府はシン・フェイン党ならび にロイヤリスト2政党との直接対話を開始した。
Joint Framework Document (枠組み文書)

1995年2月22日、 当時のジョン・ブルートン首相ならびにジョン・メー ジャー英首相は「合意のための新しい枠組み」と題する文書を発表し、北アイルランド政党による対話と交渉を支援するために両国政府間で確認された見解を示 した。同文書にはいかにすれば北アイルランドに存在する2つの伝統を持つコ ミュニティーの永続する要望や利害を損なわずに、名誉ある和解を導き出すこと ができるか示されている。同文書は共同声明にうたわれた原則を実行することを 目標とし、双方にとって偏りの無い憲法改正と北アイルランド状勢を形成する3 つの関係全般に関る新しい政治のありかたを提案している。また、より充実した人権保護策も盛り込まれている。両国政府は 「枠組み文書」が計画書ではな く、討議の基礎となるものだと明言した。また、両国政府は北アイルランドの政 党を含む包括的交渉を公約しており、その結果について南北での国民投票という 形の民主的批准を受けることを表明している。 「枠組み文書」の発表と同時に、英国政府は北アイルランドの内部調整のため のより詳細な具体案を発表した。
Subsequent Political Development (その後の政治情勢の経過)

「枠組み文書」が発表された翌年には、全政党を含む包括的対話をより推進する ための様々な努力がなされた。1995年11月28日、アイルランド・英国両首相はコミュニケを発表し、交渉の基本ルールの合意と武装解除問題にどのよう に対処していくかについて合意に達するという二重の目的をもったプロセスを開始した。 両国政府により設立された国際委員会(議長:ジョージ・ミッチェル米元上院 議員)は1996年1月24日武装解除問題に関する報告書を発表した。報告書 はまず双方の軍事組織に交渉前武器放棄の意志がないことを認めた上で、交渉に 参加する全関係者が民主主義の六原則に従い、完全かつ検証可能な武器放棄を含めた非暴力主義に徹することを誓約するよう勧告した。委員会はさらに幾つかの武器放棄方式を挙げ、交渉参加組織に対し交渉期間中にある程度の武器放棄を実施する案を検討するよう勧めた。 1996年2月9日IRAは停戦を破棄した。それに伴い、アイルランド・英国 両政府はシン・フェイン党との閣僚レベルの接触を絶ったが、事務レベルでは続 けられている。閣僚レベルの対話の再開ならびにシン・フェイン党の交渉への参加は1994年8月のIRAの停戦の再開が前提であることを両国政府は合意している。
Political Negotiations (政治的交渉)
5月末の北アイルランドでの選挙を受けて、北アイルランドの主要政党(シン・ フェイン党を除く)ならびにアイルランド、英国政府間の包括的交渉が1996 年6月10日に開始された。アメリカの元上院議員ジョージ・ミッチェル、カナダの将軍ジョン・デ・シャステランとフィンランドの元首相ハッリ・ホルケリが議長を務めている。
Renewed Ceasefire (停戦再開)
1997年7月20日 IRAは、停戦を再開した。
International Fund for Ireland (アイルランド国際基金)
英国・アイルランド間の合意第10条の条項に基づいて、1986年アイルラン ドと英国の両政府は経済及び社会の発展、さらには全アイルランドのナショナリストとユニオニストの対話、和解を促進させるためにアイルランド国際基金を設立した。アメリカ、EU、カナダ、オーストラリア及びにニュージーランドがこ の基金に寄与した。 アイルランド国際基金は、その目的の遂行にあたり、特に北アイルランドでもっ とも不利な立場に置かれた地域の改善に重点を置いて、私企業や地域社会団体の経済活動をさまざまなプログラムを通して支援している。

Economy (経済)
1996年6月の北アイルランドの推定労働人口は57万3,090人。主要就 労分野は、サービス業(74%)、製造業(鉱業、採石業を含む)(18%)、 建設業(4%)、農業、狩猟、林業及び漁業(3%)、電気、ガス及び水道水供 給産業(1%)である。1996年8月の失業者数は9万2,554人で、全労 働人口の12%にあたる。 北アイルランドの現在の人口はおよそ160万人である。


しかしいまだに、完全に平穏な日々がきた訳ではない。
北アで500人衝突、小学校に緊張走る   (NNA BUSINESS MAIL 2002.01.11)

北アイルランドのベルファストで9日、カトリック系とプロテスタント系住民およそ500人が衝突、出動した警察隊に火炎瓶やれんがなどを投げつける騒ぎがあった。
きっかけは、同日午後に市内のアードイン地域にあるカトリック系ホーリークロス女子小学校付近で、カトリック派とプロテスタント派の女性2人が始めた小競り合いとされる。同日夜には小学校近くで若者500人と出動した警官隊400人の衝突に発展。警官隊は火炎瓶やれんがを投げつけられ、少なくとも17人が負傷した。警察の車両にも火が放たれ、現場は騒然とした雰囲気に包まれた。
警察はプラスチック弾が入った銃で応戦し、カトリック系の若者3人が軽傷を負った。ホーリークロス小学校は翌日休校となっている。
騒ぎが起きたのは主にカトリック系の居住区域。その中にプロテスタント系住民が固まって住んでいる地域があり、4歳から11歳の児童が通うホーリークロス小学校はその近くにある。地域でのカトリック系とプロテスタント系は昨年6月にも数度にわたって衝突し、さらに7月にも同様の騒ぎが起きている。
同校は昨年9月、通学路が約200人のプロテスタント系住民によってふさがれ、警察や軍が排除する騒ぎが発生。その日の夜には両派の若者約150人が、警官隊に火炎瓶を投げるなどして衝突している。11月にはプロテスタント系の少年がカトリック系のギャング団と抗争中に死亡したことを受け、小学校の外に厳戒態勢が敷かれた。児童は保護者に付き添われ、おびえながら通学した。
プロテスタント系はカトリック教徒の攻撃に反発していたが、北ア自治政府が住居環境などを改善する方針を示したことから譲歩の構えを見せていた。しかし、双方の緊張は続くようだ。
政府や教会関係者らは、今回の暴動を強く非難し、児童を巻き込むべきではないとして自制を求めている。

サッカー北アイルランド代表主将、脅迫受け引退表明   (朝日新聞 2002/08/24)

英国・北アイルランドのサッカー代表チーム主将に指名されたカトリック教徒の選手が22日、プロテスタント系過激派の脅迫を理由に、引退を表明した。ニール・レノン選手(31)。家族までたびたび脅しを受け「嫌気がさした」と説明している。  
レノン選手は21日にベルファストで行われたキプロス代表の親善試合で、初めて主将を務める予定だった。ところが開始直前、非合法のプロテスタント組織「アルスター義勇軍(UVF)」を名乗る人物が放送局に電話し、レノン選手に危害を加える、と通告。同選手は急きょ、出場を取りやめた。UVFは脅迫の事実を否定している。  
サッカー場はベルファストのプロテスタント地区にある。レノン選手は2月に代表チームでプレーした際、観客からブーイングやヤジを浴びせられた。2年前、イングランドのクラブからカトリックのサポーターが多いスコットランドのチームへ移籍して以来、家族への脅迫電話などが続いているという。  
北アイルランドはイングランドやスコットランドと同じく、ナショナルチームを組織し、国際試合に出場する資格を有する。プロテスタント、カトリック双方のプレーヤーが選ばれている。


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