ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦からコソヴォ紛争まで      龍谷大学法学部講義録を参照させていただきました。

旧ユーゴスラビアを考えるとき、民族のアイデンティティは「宗教」だと言われる。民族紛争があるのは、宗教が介在しているかのように思われるのは心外である。決して宗教が戦争を引き起こしているのではなく、複雑な歴史に翻弄された多民族地域の悲劇がある。

バルカン半島の南スラブ人は、6世紀に北のロシア、東欧から南下してきた。14世紀に大セルビア王国が栄えるなど、南スラブ人の国家が作られては分裂し、崩壊する歴史を繰り返してきた。
11世紀のキリスト教世界の東西分裂で、バルカンが東(正教)と西(カトリック)の境界になった。
15世紀にオスマントルコ帝国が南部を征服。17世紀には、北部をオーストリア帝国が征服。両帝国の支配地域の境界になり、同時にキリスト教世界とイスラム教世界の境界にもなった。
そして、1945年11月チトーによる国家統一。

チトーが80年に死去、89年を中心とした東欧民主革命、自由選挙での共産党の敗北そしてソ連の崩壊によって、各民族を統一国家に結集させていた求心力が失われた。連邦国家の上からの締め付けがゆるみ、抑えつけられてきた各民族のナショナリズムが、噴出してきた。

過去の歴史の中で、強烈な民族主義を有する各民族が、各共和国に入り乱れて住む形になった。そうした中で、為政者が民族間の完全な平等を確保すれば問題は起きなかったと思われるが、現実はそうでなかった。ボスニアでは政治経済の枢軸に位置するムスリム人が権勢をほしいままにし、セルビア人の間には不満の種があった。このような事情が、紛争の下地として存在した。そして、最も大きな民族のセルビア人の間では、過激で偏狭なセルビア民族主義が高まった。ユーゴ連邦解体後、セルビア民族主義者は、ボスニアやクロアチアに住んでいるセルビア人を保護し、セルビア人主体の新ユーゴに統一して、大セルビア人統一国家を作ることを目指した。 その流れが、ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦に繋がり、コソヴォ紛争に繋がった。

旧ユーゴスラビアから現在の体制へ
共和国

独立宣言
年月

人口(万人) 人種 構成率(%) 主な宗教
セルビア 新ユーゴ連邦 92年 1月
971
セルビア人
セルビア正教
(コソヴォ自治州)
200
アルバニア人
90
イスラム教
セルビア人
7〜8
セルビア正教
モンテネグロ
63
セルビア人
セルビア正教
クロアチア クロアチア 91年 6月
467
クロアチア人
85〜90
カトリック
セルビア人
セルビア正教
ボスニア ボスニア・ヘルツェゴビナ 92年 3月
440
ムスリム人
44
イスラム教
セルビア人
31
セルビア正教
クロアチア人
17
カトリック
マケドニア マケドニア 91年 9月
206
マケドニア人
65
マケドニア正教
アルバニア人
21
イスラム教
スロベニア スロベニア 91年 6月
194
スロベニア人
88
カトリック
アルバニア人
イスラム教
セルビア人
セルビア正教

91年 3月 クロアチアでセルビア人とクロアチア人の警官隊同士が衝突。民族紛争に拡大した。
91年 6月 スロベニアの独立を阻止しようとセルビア人主体の連邦軍が進軍。内戦状態になった。

ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦

92年 4月 独立宣言直後のボスニアで、セルビア、クロアチア、ムスリムの3民族が衝突、内戦が始まった。ボスニアのセルビア人は旧ユーゴ連邦軍を引き継いだ新ユーゴ・セルビア共和国の支援を受け、優勢に紛争を進めた。国際社会はセルビアが、大セルビア作りのために紛争を拡大していると判断した。 ボスニア内戦は42ヶ月間続き、国連による新ユーゴへの経済制裁、紛争当事者への武器禁輸実施、NATOによるセルビア人勢力への爆撃によって、ようやくEC、米国の調停努力が実を結び、95年11月21日、ボスニア(ムスリム人)、クロアチア、セルビアの首脳による米国デイトンでの和平協定調印となった。
内容は
(1)ボスニアを単一の国家にする
(2)ムスリム・クロアチア人側の支配地域を51%、セルビア人側を49%にする
(3)NATOの平和実施部隊6万人が合意実施を監視 が主要点。

コソヴォ紛争

新たな紛争の始まり
新ユーゴ・セルビア共和国の内部では、全人口の17%を占めるアルバニア人が集まるコソヴォ自治州(岐阜県ほどの面積、人口約200万人、うちアルバニア人85%以上)で、東欧の民主化、民族運動の高まりに刺激され、アルバニア人の独立運動が高まった。中世にセルビア王国が建国された『セルビア』発祥の地で、歴史的な『聖地』であるコソヴォの分離・独立を拒否するセルビア政府は、治安部隊を派遣して独立勢力を武力弾圧。
89年 2月 セルビア議会は「迫害を受けている同胞を守るため」憲法を修正して自治州の自治権を事実上剥奪。
90年 7月 コソヴォ自治州議会は「コソヴォ共和国独立」を宣言。セルビア政府は自治州議会と自治州政府廃止を宣言。
96年    アルバニア人は、武力闘争でコソヴォ独立を目指す「コソヴォ解放軍」(KLA)を結成。97年末から治安部隊を攻撃。
98年 2月 ユーゴ治安部隊はKLA掃討作戦を大規模に開始。女性、子どもを含む何十人もの村民を殺害するKLAの拠点の村潰滅を拡大。「民族浄化作戦」として、国際的非難が高まった。 アルバニア人住民30万人以上が難民化し、隣国に流出。
98年 4月 欧米5ヶ国は、ユーゴに対する制裁強化を決定
98年 6月 EU首脳会議、ユーゴに対し、コソヴォでのアルバニア人迫害の中止、治安部隊撤収など4項目要求の決議
98年 9月 国連安保理、即時停戦と対話再開要求決議
99年 3月
フランス・ランブイエで開かれていた欧米とロシアの6ヶ国主催和平交渉が和平案まとめる。ユーゴの主権を認める一方で、コソヴォの高度な自治の復活、セルビア治安部隊の撤退、NATO軍の駐留などが内容。アルバニア人代表は受諾、ユーゴ・セルビア共和国のミロシェビッチ大統領は拒否。
99.3.24
NATO軍、ユーゴへの空爆開始。国連安保理の決議なし。NATOが安保理の決議なしに、域外に軍事介入したのは初めて。「人道介入」の正統性に疑問。国際的論議を起こす。
ユーゴの治安部隊はNATOの空爆への報復に、コソヴォでのアルバニア人に対する、虐殺、略奪、追いだし、民家破壊などの浄化作戦強化。少なくとも1万人を殺害(米政府発表)170万アルバニア人のうち100万人が難民化して隣国に流出。

99.6. 9 ユーゴ、治安部隊のコソヴォからの完全撤退受諾
   6.10 ユーゴ部隊撤退開始,NATO空爆停止
        国連安保理 コソヴォ和平に関する決議採択
   6.12
NATO軍はコソヴォの首都プリシュティナ入り。5万人規模。コソヴォ国連暫定統治機構がプリシュティナで発足。

 

コソヴォの最終的地位

コソヴォの最終的地位はまったく未定。国連安保理決議でもユーゴの主権は否定されていない。しかし、コソヴォ紛争の事実上の勝者であるアルバニア人はコソヴォ独立を100%目指している。住民投票をすれば独立派の圧勝は確実。しかし、安保理常任理事国のうちロシア、中国は独立を拒否、ほかの3国もいまのところ、ムスリムのアルバニア人独立国家樹立を支持してはいない。一方、現地ではセルビア人追い出し、民族浄化の動きが起こり、民族間の緊張が持続している。

マケドニア旧ユーゴースラヴィア共和国の紛争

マケドニア旧ユーゴースラヴィア共和国は旧ユーゴの東南に位置していた共和国。伝統的に農業国。 スラヴ系のマケドニア人を中心とする多民族国家。紀元前4世紀にアレク サンダー大王を輩出した古代マケドニア人とは関係がない。 14世紀末から20世紀初めまでトルコの支配下にあった。1918年、ユーゴ王国の一部となり、第二次大戦後はユーゴ連邦を構成する共和国となった。 1991年の独立後、民主化・市場経済化を開始。
政治的に安定した共和国であるとみなされていたが、 今年(2001年)に入ってから、マケドニア北西部でアルバニア系過激派武装勢力による銃撃事件が発生し、一挙に不穏な情勢に陥った。当初、すぐに収まるのではないかと見られていたが、5月に入ってもゲリラの散発的な攻撃が続いている。

外務省のWEBでは、次のように説明されている。

<基本データ>
人 口:198万人
面 積:約2万6千km2
   (九州の約2/3)
GDP:34億ドル
GDP/人:1,701ドル
政 体:共和制
民 族:マケドニア人、アルバニア人等  

内政
(1)マケドニアでは、91年の独立以来、社会民主同盟(旧共産党系)を中心とした連立政権下にあったが、98年11月の総選挙で敗北し、代わって、マケドニア民族主義を標榜する内部マケドニア革命組織・民族統一民主党(VMRO-DPMNE)及び中道の民主選択党(DA)にアルバニア人急進派であるアルバニア人民主党(DPA)を加えた連立政権が成立した。
(2)91年の独立以来、9年間にわたって大統領の職を務めたグリゴロフ大統領(社会民主同盟出身)の任期満了に伴い、99年10〜12月にかけて大統領選挙が実施された結果、与党第1党(VMRO-DPMNE)推薦のトライコフスキー候補が当選した。これにより政府と大統領における保革共存状態は解消された。
(3)2000年11月、民主選択党(DA)は内部マケドニア革命組織・民族統一民主党(VMRO-DPMNE)主導の民主化・改革政策に反発し、連立政権を離脱した。このため11月30日、VMRO-DPMNEとDAに新たに自由党(LP)が加わった新連立政権が内閣を発足させた。
(4)2001年2月、マケドニア北西部でアルバニア系過激派武装勢力による銃撃事件が発生し、3月にかけてマケドニア軍及び治安部隊との銃撃戦が続いた。4月に入って事態の鎮静化を機に、マケドニア政府はアルバニア系住民問題について議会内のアルバニア系政党との対話を開始した。(注:マケドニア西部を中心にアルバニア系少数住民(全人口の2〜4割を占める)が居住している。)

以下はCNNニュースから

旧コソボ解放軍指導者も「武器を置け」 マケドニア紛争  2001.03.24

ユーゴスラビア連邦コソボ自治州・プリシュティナ――マケドニアでアルバニア系武装組織が戦闘を行っていることについて、コソボの指導者たちは23日、武装組織に対して銃を置いて戦闘を止めるように求める声明を発表した。声明は、穏健派指導者だけでなく旧コソボ解放軍(KLA)系の幹部も加わっている。
声明は「われわれは、マケドニア領内で過激な行動を行っているグループに対し、銃を捨て、平和的に故郷へ帰るように求める」としている。
穏健派で非暴力を訴える「コソボ民主連盟」のルコバ党首のほか、武装闘争を行っていた旧KLAの2人の指導者によるものだ。
マケドニアで戦闘を行っている組織は「民族解放軍(NLA)」を名乗っている。NLAとの略称は、アルバニア語ではUCKとなり、コソボ解放軍(KLA)と同じ略称だった。今回、旧KLAの幹部が声明に加わったことで、現在、闘争を行っているのは、一部の強硬派であることがはっきりした形だ。
国連や欧州連合(EU)は、コソボの指導者に対し、武力闘争を行うなら国際援助を失うことになると警告。声明は警告に答えたものとみられる。

連邦制への移行を否定  マケドニア大統領  2001.04. 6

スコピエ――マケドニアのトライコフスキ大統領は5日、アルバニア系政党が求めていた憲法改正や連邦制への移行などについて消極的な姿勢を見せた。同国憲法はマケドニア人を同国の主要な民族と位置付けているため、人口の3分の1を占めるアルバニア系住民の不満がたまっていた。隣国ユーゴスラビアのコソボ自治州から侵入したとみられる武装組織の活動の際にも、アルバニア系住民の中には支持する動きがあった。
トライコフスキ大統領は「対話は重要だが、連邦制への移行は考えていない。独立以降10年間、連邦制への要求があったが、各民族を分断する願望にすぎないのではないか」と述べた。
同問題では、政府に参加しているアルバニア系政党が検討を求めており、大統領らの消極姿勢を批判している。さらに、欧州安保協力機構(OSCE)なども、マケドニア、アルバニアの両民族間の対話やアルバニア系住民の地位向上策の実行を求めている。

兵士2人が殺害され、ゲリラに掃討作戦 マケドニア   2001.05. 4

スコピエ――マケドニア北部の国境地帯で3日朝、政府軍兵士がアルバニア系ゲリラの襲撃に遭い、2人が殺害された。もう1人も拘束されたという。現場は、首都スコピエから35キロ北東のクマノボ近くのバクチンチェ村。この事件を受けて、政府軍は同村の住民を避難させたうえで、村に潜んでいるゲリラへの掃討作戦を行った。
朝の事件では、国境警備から帰る途中だった兵士が襲撃を受けた。ゲリラ側は村を「解放区」と呼んで拠点を設け活動しているという。
事件の後、マケドニア政府軍は村の住民に対し午後3時までに避難するように勧告。同時刻から村のゲリラの拠点とみられる民家に対してヘリコプターなどで攻撃を行った。
マケドニアでは、先月28日、アルバニア系とみられるゲリラの襲撃により、マケドニア軍兵士8人が死亡した。一時、沈静化していたゲリラ活動が再び活発化する兆しがみえている。マケドニア軍の攻撃は、ゲリラに対して強い態度で臨み、沈静化を図ることを目的としている。
さらに南部の町ビトラでもアルバニア系住民が商店を襲撃する事件があった。ビトラでは夜間外出禁止令が出されている。

以下は田中宇氏のニュースメイルから

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★国家存亡の危機に立つマケドニア
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  2001.7.30

 6月上旬、旧ユーゴスラビアの一国であるマケドニアが、台湾(中華民国) との国交を断絶し、中国(中華人民共和国)との国交を樹立した。
 マケドニアが台湾から中国に鞍替えしたのは、中国が国連安全保障理事会の 常任理事国であることと、たぶん関係している。マケドニアは、多数派である スラブ系の人々と、2割を成すアルバニア系からなる複合民族国家だが、北隣 にあるコソボでの独立紛争の影響で、今年初め以来、アルバニア系の人々が内 戦を引き起こしている。
 この内戦を鎮めるため、マケドニア政府は国連の治安維持部隊を呼んでくる 必要が高まっているが、マケドニアが中国と外交関係を持たずに台湾支持を続 けていると、中国が国連安保理で拒否権を発動して治安部隊のマケドニア進駐 に反対するおそれがある。そのため、マケドニア政府は台湾から中国に鞍替え したのだと思われる。
 マケドニアが台湾との外交関係を樹立したのは1999年初めのことだった。 マケドニアではその少し前に議会選挙があり、「民主的選択」という政党が 「10億ドルの投資を海外から呼び込む」という公約を掲げて勝ち、連立政権 に入った。彼らは公約を実行するために台湾との外交を結び、台湾から巨額の 経済支援を得た。その一部は同党の政治家のポケットにも入った、と地元では 報じられている。
 ところが、その1年後に行われた大統領選挙で「民主的選択」の候補者が破 れ、台湾より中国との関係を重視する人物が新大統領になった。それ以来、マ ケドニア政界で台湾を支持する勢力は弱くなり、今回の鞍替えに結びついた。

▼マケドニアが国家になる資格がないなら台湾も・・・

 マケドニアは古代、アジアと欧州をつなぐ大帝国を築いたアレクサンドロス 大王を輩出した王国だったが、現在のマケドニア人は古代の人々とはほとんど 関係がない。今のマケドニア人は、大王の時代より1000年ぐらい後、ロー マ時代の民族大移動でやってきた「南スラブ人」で、それはセルビア人やブル ガリア人と同じ人々である。
 そのため、19世紀にマケドニアの独立運動が起きた後も、周辺のセルビア やブルガリア、ギリシャなどの人々の中には「マケドニア人という民族は存在 せず、彼らはわが民族の一部である」と主張する人が多い。マケドニア語はブ ルガリア語に近いため、ブルガリアでは特にそうした主張が強い。
 だから、マケドニアが台湾と断交したとき、台湾の新聞には「マケドニアは、 もともと単独の国家になるべき存在ではなく、旧ユーゴスラビアが分解したの に伴って偶発的に生まれた国でしかない。そんな国との国交はもともと必要な かった」という主張が載った。
 強がりとも思えるこの主張は、中国からの独立を支持する傾向がある「タイ ペイタイムス」( http://www.taipeitimes.com/ )に載っていたのだが、こ れは台湾では自己矛盾であるとも感じられた。隣の国と言葉や民族性が同じだ と国家になれないとしたら、台湾が中国(中共)の一部ではないと主張するこ とも難しくなってしまうからだ。

▼大セルビアが下火となり大アルバニアが燃え出す

 マケドニア国民は、南スラブ人(スラブ系)が7割を占め、残りの多くはア ルバニア人(アルバニア系)である。スラブ系が多数派、アルバニア系が少数派という組み合わせは、北隣のセルビア共和国と同じ構図である。
 セルビアでは、共和国全体としてはスラブ系(セルビア人)が多数派だが、 アルバニア系が集まって住んでいるコソボ自治州ではアルバニア系が人口の9割近くを占める。同様にマケドニアも、全体ではスラブ系(マケドニア人)が多いが、北西部ではアルバニア系が多数派となる。
 アルバニア北西部とコソボ、そしてアルバニア本国という3つのアルバニア系地域は隣接している。この3つを合わせて「大アルバニア」と呼び、アルバ ニア人の中には、コソボがセルビアから独立し、マケドニア北西部がマケドニ アから独立して大アルバニアに合流すべきだという考えの人が多い。
 バルカン半島でもう一つ「大」になることを目指していたのがセルビアで、 周辺のボスニアやコソボなどに住むセルビア人を支援することを名目にして周辺地域に介入し、「大セルビア」を実現しようとしたのがミロシェビッチ前大統領だった。コソボへの介入はアメリカの横やりで失敗し、ミロシェビッチは 昨年の選挙に破れた後、今は犯罪者扱いされ「国際法廷」で裁きを待っている。 (裁判というより政治ショーとなる可能性が大きい)
 こうして「大セルビア主義」は下火となったが、次に燃え始めたのが「大アルバニア主義」である。外交得点を挙げるため、ユーゴ紛争に介入したアメリカのクリントン前政権は、ミロシェビッチを「悪玉」に仕立てる半面、コソボのアルバニア人を「味方」として支援した。
 だがこの策は「大アルバニア主義」に火をつける結果となった。コソボでは国連の治安部隊と、表向きは解散させられたコソボ解放軍(KLA)の残党である武装勢力とが対峙する事態となっている。
 アフガニスタンやレバノン、北アイルランドなど、紛争が長期化した地域によくある現象として、いったん「武装ゲリラ業界」に入ってしまった人々は、和平交渉が成功して戦闘が終わった後も、カタギの商売に戻ることができず、 武器を持った彼らの存在があるがゆえに、いったん成就した平和が崩れ、再び 内戦に戻ってしまうということがある。
 また紛争地域では、混乱状態を前提としたヤミのビジネスがはびこるため、 その利権にありついた人々(多くは武装勢力)は、内戦状態が長く続くことを 望むようになる。
 コソボでも、KLAは以前から麻薬や武器の運搬や違法移民の移動手引きなど、ヤミのビジネスを手がけて悪名が高かったが、もともとの敵だったセルビアのミロシェビッチも逮捕され、北隣との戦いが解決したため、「失業」しかかっている。
 そこで今度は「大アルバニア主義」の名のもとに、南隣のマケドニアで新たな紛争を仕掛けた可能性もある。マケドニアで内戦を起こしたアルバニア系武装組織「NLA」(民族解放軍)は、KLAから運営ノウハウを受け継いで作 られている。

▼アルバニア語を公用語にできないマケドニア政府

 とはいえ、戦争より平和を望む人々の方が多いのも確かだ。アルバニア系とスラブ系が混住しているマケドニア北西部の地方では、両民族のコミュニティ が連絡を密にすることで、対立を回避しようとする努力が続けられている。内戦が勃発すると、それまで政治を支配していた政治家などが力を失い、武装ゲ リラ組織に権力が移ってしまう。それを防ぐため、政治家の多くも平和的な解決を望んでいる。
 またNLAなど、マケドニアのアルバニア系住民がマケドニア政府に対して 求めていることは、分離独立そのものではない。マケドニア語だけでなくアルバニア語も公用語に加えるとか、これまでアルバニア系住民が公務員などにな りにくかったのを改めるといった、比較的穏健な要求だ。本音では「分離独立」 が目的なのかもしれないが、その要求は表には出てきていない。
 しかしマケドニア政府は、アルバニア語を公用語にするという要求を容れることもできず、交渉は暗礁に乗り上げた。マケドニアの国家としてのアイデン ティティが強くないため、アルバニア語を公用語として認めると国家が分解しかねない、と政府が考えたためだった。交渉が進展しにくい状況の中、マケドニアという国が存続するのかどうか、危ない状況が続いている。

この記事はウェブサイトにも載せました。 http://tanakanews.com/b0730macedonia.htm

 

 

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