|
・ 資料
PART1 聖都エルサレム 〜中東近現代史を見る一視点〜
* エルサレム前史
エルサレムの名前は紀元前3千年紀後半に記されたエブラ文書、紀元前14世紀に記されたエル・アマルナ文書などに見られるが、このときはそれほど重要性を持つ都市ではなかったと思われる。歴史的に重要な位置を占めるようになるのは紀元前1000年頃にイスラエルの王ダヴィデが都を置いてからである。
まず最初に、そこに至る経緯を概観することにする。
アブラハム、イサク、ヤコブなど、イスラエル人の祖先で族長と呼ばれた人々はパレスチナで半農半猟の生活を送っていたが、飢饉の際、そこを逃れてエジプトに行った。しかし、イスラエル人たちはそこで力をつけ過ぎたため、当時の王から弾圧を受けることになった。そのため彼らは紀元前13世紀半ば頃、再びパレスチナに戻ることを決意した。これが出エジプトであり、その指導者はモーセであった。途中で彼らはシナイ山で信仰の中心的規範となる『十戒』を神より授かる。『十戒』を納めた箱は『聖棺』(契約の箱・神の箱・The
Ark)と呼ばれイスラエル人の信仰において最も尊いものになった。『聖棺』はイスラエル人の手にあるときは敵を破るのに力を発揮し、また、敵の手に渡ってしまっても彼らに災いをもたらすという不思議な力があったと伝えられている。
『聖棺』は移動式聖所である『幕屋』に長年納められていた。非常時に現れ一代限りのカリスマ的指導者であった『士師』の時代を経て、イスラエル人たちはパレスチナを次第に再征服していき、12の部族に分かれてその地に住んだ。
しかし、一代限りの『士師』たちでは新たに現れた強敵ペリシテ人(「海の民」の一派と考えられている)に対抗することは難しかった。民衆は次第に常備軍の必要性を感じるようになり、そのリーダーとしての王を求めるようになっていった。サウルの時代を経て、ダヴィデの代にイスラエル(統一)王国(「ヘブライ統一王国」と世界史用語集(山川出版)では呼んでいる)は完全に統一され、新たな王朝が創始された。
ダヴィデは南方のユダ族の出身だったが、そこの中心ヘブロンは王国の南に偏っており、南北を統一する首都には不向きであった。そこで彼は山に囲まれた天然の要害であり、王国の中央に位置するエルサレムを攻略して新首都とした。当時のエルサレムにはエブス人と呼ばれる先住民がおり、彼らの激しい抵抗にあったが、ダヴィデは飲料水を汲み上げるため外に向かって伸びていたトンネルから城壁内に侵入しこれを攻め落とした。
エルサレムを征服したダヴィデは信仰の中心地として『聖棺』を納める神殿を建設することを提案した。しかし、それはもともと遊牧民であったイスラエル人の伝統に反するという部下たちの反対にあい、ダヴィデはその計画は断念した。ダヴィデの息子ソロモンの時代になってイスラエル王国は繁栄を極めた。そしてソロモンは神殿を建設し、自らその守護者となることでさらなる権威の高揚を狙った。もはやこのとき、その計画を止められるだけの力を持った人間はいなかった。ソロモンは神殿を建設した。これを便宜上、第1神殿と呼ぶ。ここから聖地エルサレムの歴史ははじまるのである。
・ ユダヤ教徒のエルサレム
〜至聖所『嘆きの壁』(西の壁)〜
ソロモン時代の国際交流は王国に繁栄をもたらしたが、同時に異教の文化の流入も招くことになり、ついには晩年になって彼の始めた異教崇拝はヤーヴェの神の怒りをかうことになった。旧約聖書にはソロモンに対する神の言葉がこう記されている。
『これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を引き離して、それをあなたの家来に与える。しかしあなたの父ダヴィデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを引き離す。ただし、わたしは国をことごとくは引き離さず、わたしのしもべダヴィデのために、またわたしが選んだエルサレムのために一つの部族をあなたの子に与えるであろう。』
(旧約聖書 列王記上 第11章11〜13節)
ソロモンの死後の紀元前 922年にその預言は現実のものとなった。ソロモンの後継者レハベアムの悪政に耐えかねた多くの民衆は、新たにソロモンの部下だったヤラベアムを王に立て、それに従った。これがイスラエル(北)王国である。一方、レハベアムの元にはユダ族だけが残った。エルサレムを含むかつての統一王国の南部を支配するこの国はユダ王国と呼ばれる。
分裂後の両王国については衰退の一途をたどったと言って差し支えない。アッシリア、エジプト、アラム・ダマスカスなどの周辺国の侵入に加え、常にイスラエル王国とユダ王国は対立しており内政も安定せず、支配地の反乱も相次いだ。
そして紀元前 722年にイスラエル王国はアッシリアのシャルマネセル5世によって、次いでユダ王国も紀元前 586年に新バビロニアのネブカドネザル2世によって滅ぼされた。アッシリアの異民族支配はその徹底した厳しさで知られる。イスラエル王国の住民たちはアッシリア国内各地に分散して送られた。そして周辺民族との融和を余儀なくされ、やがてイスラエル人としてのアイデンティティーを失っていった。ゆえにイスラエル王国の住民たちのことを「失われた十部族」と呼ぶことがある。(余談だが、これは俗説「日ユ同祖論」に論拠を与えている。しかし、あくまでも俗説である。)対して、新バビロニアの異民族支配は比較的寛容であったので、ユダ王国の住民は一部の強制連行程度で済み、民族意識は失わなかった。ゆえに彼らのことをユダヤ人と呼ぶようになったのである。
ユダ王国滅亡の際、第1神殿は破壊され、エルサレムは焼き払われた。(新バビロニアの戦利品リストの中に『聖棺』はない。ゆえにそれはこの時に失われたと考えられているが定かではない。)そして知識人を中心とするユダの住民の一部はバビロンに連行された。これが『バビロン捕囚』である。この民族的危機はユダヤ人たちの結束を固めることとなり、その拠り所としての宗教が求められるようになった。ここでヤーヴェの神を崇拝するユダヤ教が体系的な宗教として体を成すようになったのである。
紀元前 538年、アケメネス朝ペルシャのキュロス2世によって新バビロニアは滅ぼされ、ユダヤ人たちも彼の手によって解放された。宗教的に寛容なペルシャの支配下のもとでユダヤ人たちはエルサレムに帰還し、神殿を再建することが許された。こうして完成したのが第2神殿である。
そのペルシャもアレキサンダー大王によって滅ぼされ、以後、エルサレムはマケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアなどに支配された。セレウコス朝の支配下でハスモン王朝が一時的に独立を回復するに至ったが、長くは続かなかった。そして最終的にはローマの将軍ポンペイウスによって征服され、エルサレムはローマ帝国内に組み込まれた。
その後、ローマより認定された知事であるイドゥメア人(パレスチナ南方に住む民族)ヘロデは悪政と意欲的な建設事業でその名をエルサレム史にとどめることになった。ローマから「ユダヤの王」という称号が与えられ、『ヘロデ大王』と呼ばれた彼は新都市カイザリア(映画「ベン・ハー」の騎馬戦シーンの撮影に使用された。)をはじめ、マサダの冬宮などを新たに建設し、エルサレムの大改修工事を行った。さらに彼が建設した「ダヴィデの塔」と呼ばれる要塞はその後もローマ、ビザンツ、イスラム、十字軍、オスマン・トルコによっても防衛の拠点として使われた。この建設事業の裏にはユダヤ人の懐柔策と、いつ起こるか分からない反乱に備えるという2つの目的があったと考えられる。
ユダヤ人たちは反乱を繰りかえしたが、ローマ軍によって紀元70年にはエルサレムが陥落させられ、第2神殿も焼き払われた。73年には最後の砦であるマサダも落され、ここに乱の一応の終結を見た。
これ以後、今日に至るまでユダヤ人の神殿が再建されることはなかったが、唯一西側の城壁だけはローマ軍による破壊を逃れた。ここの壁をユダヤ人は『西の壁』と呼び、そこは最も聖なる場所として今日までその信仰を集めている。壁に向かって頭を押し付け祈る姿は神殿の破壊を悲しみ、嘆いているようにも見えた。それでいつしかこの壁のことを人々は『嘆きの壁』と呼ぶようになったのである。
紀元 130年にハドリアヌスがエルサレムを訪問した際、彼は未だにユダヤ人たちが信仰を捨てていないことを目にし、大弾圧を行った。それに対し、ユダヤ人はローマに対する2度目の反乱である「バル・コホバの乱」(132−135年)を起こしたが、圧倒的な兵力の差に敗れ去った。そして今度はユダヤ人がエルサレムに住むことを禁じられ、独立は完全に失われた。『ディアスポラ』(離散)はここに決定的になったのである。
・ キリスト教徒のエルサレム
〜至聖所『聖墳墓教会』〜
「バル・コホバの乱」を鎮圧したハドリアヌスは完全にユダヤ人とエルサレムの結び付きを断つため、 135年、エルサレムをアエリア・カピトリーナと改称した。そして第2神殿の跡地に彼らの神であるジュピターを祭る神殿を建てた。さらに、当時はキリスト教も弾圧の対象になっていたため、イエスが処刑されたゴルゴダの丘には同様の意味でヴィーナスの神殿を建設していた。
しかし 313年、コンスタンティヌスがミラノ勅令を出してキリスト教を公認すると事情は急変した。特に、 325年のニケーア会議に出席し、当時のアエリア・カピトリーナ(旧エルサレム)の実情を聞いたコンスタンティヌスの母、ヘレナはひどく心を痛めた。そして彼女はアエリア・カピトリーナの主教マカリオスと共に聖跡再発見の旅に出た。そして、彼女はイエスが十字架に掛けられた場所、埋葬された場所など、イエスにゆかりのあるところを次々に再発見し、そこを聖地とすることに決めた。聖跡再発見の際、皮肉なことにかつてハドリアヌスが建てたヴィーナス神殿が目印になったという。(この再発見の作業はその後も続けられ、16世紀半ばにはイエスが十字架を背負って歩いた道(ヴィア・ドロローサ…「悲しみの道」を意味する)などの位置も定められて多くの巡礼者がこれらの場所を訪れるようになった。)
そこでコンスタンティヌスはアエリア・カピトリーナを再びエルサレムと改称し、キリスト教生誕の地にふさわしくもはや異教となったローマの神々の神殿を排除し、イエスを祭る聖堂を建立した。この中心となったのが聖墳墓教会である。
こうして、キリスト教の聖地としてのエルサレムの歴史が始まったのである。
しかし、ビザンツ帝国とササン朝ペルシャの戦いによってエルサレムの支配者はめまぐるしく変わった。さらに、この間にアラビア半島ではムハンマド率いるイスラム教徒の勢力が拡大してきていた。そして第2代のカリフ・オマールの時代にエルサレムを占領するに至ったのである。(詳細は次章)
次にキリスト教徒がエルサレムを支配するのは1096年にはじまる第1回十字軍の結果として生まれたエルサレム王国が1099年に成立してからである。十字軍の総司令官ロレーヌ公ゴドフロワ・ドゥ・ブイヨンは「聖墳墓の守護者」という称号を持つ支配者となった。諸公同志の争いのため王位を持つことは難しかったが、ゴドフロワの弟バルドワンは1100年、バルドワン1世として初代の王となった。この王国はエジプトに起こったアイユーブ朝のサラディンによって滅ぼされる1187年まで続いたが、この間、ユダヤ教徒もイスラム教徒もエルサレム内に居住することを禁じられた。
しかし、サラディンの息子たちはシリアとエジプトに分れて抗争を繰り返した。1229年に自分の甥であるダマスカスのナースィルと戦っていたエジプトのスルタン・カーミルはドイツ皇帝フリードリヒ2世と同盟を結ぶとともに、その見返りとしてかれにエルサレムを与えた。こうして戦いではなく交渉によってキリスト教徒はエルサレムを手に入れたが、これを維持するだけの名君はその後現れず、1244年、マムルークによって再びこの地を奪われた。
以後、1917年にイギリス軍が占領するまで、エルサレムはイスラム教徒のものになるのである。
・ イスラム教徒のエルサレム
〜第3の聖地『岩のドーム』〜
ムハンマドは 632年に死に、アブー・バクルがその後継者となって2年後、イスラム教徒はアラビア半島全域に支配権を確立した。続く2代目カリフのオマールは
634年にビザンツ帝国とササン朝ペルシャに対する戦いを始め、その2年後にはパレスチナに侵入した。そして638年にはイスラム軍がエルサレムを包囲したが、今回は交渉によって、平和のうちにビザンツ支配下のエルサレムは降伏した。イスラム教徒はキリスト教徒が自由に礼拝を行うことを認め、さらにはキリスト教徒の反対を押し切ってユダヤ教徒にも同様の権利を認めた。こうしてイスラム教徒はエルサレムでの支配を固めていった。
エルサレムはまた、イスラム教徒にとっても特別な都であった。ムハンマドは実際にはメディナで死んでいた。しかし、彼は幻となってユダヤの神殿の上に現れ、伝説の駿馬エルブラクに乗って天に昇っていったのだとイスラム教徒たちには信じられていたからである。
『夜、侵すべからず礼拝所(メッカ)から、われらが祝福したもうた近隣のはるか彼方の礼拝所(エルサレム)へ、彼のしもべを導きたもうた方に栄光あれ……。』
(コーラン:イスラエルの子らに関する章の冒頭)
イスラム教徒がかつてユダヤの第2神殿があったところにやってきたとき、そこは荒れ果てており、キリスト教徒たちのごみ捨て場と使用されていたという。そこを清めたのち、オマールは木製のモスクを建てた。ゆえにこのモスクはオマール・モスクと呼ばれることもあるが、それはあまり適切ではない。現在そこにあるモスクは彼が建設したものではないからである。
正確には『岩のドーム』と呼ばれるこの建築物はウマイヤ朝のカリフ、アブド・エル・マリク(位 685-705年)がビザンツの建築家と、この地方の職人に建てさせたものである。そしてこのドームの下にはアラビア語で「アッサフラ」と呼ぶ岩がある。この岩はイスラエル人の始祖、アブラハムが神への疑いなき信仰心を示すため、息子のイサクを犠牲に捧げようとした祭壇であったと言われ、かつてユダヤの第2神殿が建っていたまさにその場所である。そしてイスラム教徒にとっては、ムハンマドが昇天したちょうどその真下にあたると信じられた場所だったのである。
しかし、イスラム教徒にとって、エルサレムはメッカ、メディナと同じほど重要だったわけではない。むしろ人為的に「聖地」にしたとも言えるのである。その目的は宗教的な目的のほかにも、メッカのカリフの権威に対抗するという政治的目的、さらに多くの巡礼者から得られる収入という経済的目的も絡んでいた。
どのような理由があるにせよ、アブド・エル・マリクが建てた『岩のドーム』によりエルサレムはイスラム教徒にとっても聖地のひとつとなったのである。
その後は十字軍の時代に一時期エルサレムはキリスト教徒の手に渡るものの、基本的には20世紀になるまでイスラム教徒がそこを支配した。マムルーク時代(1250-1517年)からオスマン・トルコ時代(1517-1917年)と経て、エルサレムはほぼ現在の形が出来上がった。特に1538年から1540年に行われたスレイマン大帝によって造られた城壁はほぼ今日までその姿をとどめている。
しかし、スレイマン大帝の死後、オスマン・トルコの支配地の辺境に位置するパレスチナはそれ程重要視されなくなり荒廃の一途をたどっていった。
・ シオニズムの台頭
「バル・コホバの乱」の失敗後、ユダヤ教徒たちは世界各地に離散(ディアスポラ)していった。国を失った民族はやがては自分たちの民族意識までもなくしてしまって周辺の民族に同化・融合していくのが歴史の常であり、実際に多くの民族が歴史上から消えていった。しかし、ユダヤ民族はそうならなかった。そのエネルギー源となったのは彼らの信仰していた宗教である。ユダヤ教特有の排他性は他民族との同化・融合を防ぎ、選民思想と結び付いたメシア信仰は彼らに生きる希望を与えた。
世界各地に流れていったユダヤ人たちはその排他性と特異な生活習慣ゆえに行く先々で迫害を受けた。また土地を持てなかった彼らがキリスト教徒が宗教的な理由から嫌っていた金融業に従事していたことも迫害に拍車をかけた。
中世以来の迫害に耐えてきた彼らにもやがて民族意識に目覚める機会がやってきた。1789年に起きたフランス革命がそれである。革命後のフランスではユダヤ人に初の参政権も与えられ、彼らの生存権が次第に認められるようになってきていた。しかし、一方ではユダヤ人に対する差別が続けられていた。それが実際に事件という形となって現れたのが1894年のドレフュス事件である。ユダヤ系将校ドレフュスにスパイ容疑のぬれぎぬを着せたこの出来事はユダヤ人の自由化が最も進んだフランスで起きただけあってそのショックは大きく、国の内外で大きな反響を巻き起こした。自然主義作家ゾラは「わたしは弾劾する」と論陣をはり国民を啓発し、ユダヤ人ジャーナリスト、テオドール・ヘルツルは1897年にバーゼルでシオニスト会議を開催した。この会議に始まるユダヤ人の「ナショナル・ホーム」を樹立しようという政治運動はエルサレムの「シオンの丘」に因んで『シオニズム』と呼ばれた。
ユダヤ人の「ナショナル・ホーム」建設の候補地として当初は東アフリカなどもあげられていたが、それでは宗教的なユダヤ人たちの支持を得ることは難しく、あくまでもパレスチナにこだわらざるを得なかった。それでもシオニストの運動にもかかわらず、第1次世界大戦前まではパレスチナのユダヤ人の人口は10パーセント程度であった。
第1次世界大戦において当時パレスチナを支配していたオスマン・トルコとイギリスは敵対することになった。そしてイギリスは戦争に勝利するためにアラブ人の兵力とユダヤ人の財力の双方に目をつけ、矛盾する2つの約束をした。ひとつめは大戦終了後にアラブ人の独立国家を認めると言うフサイン・マクマホン協定(1915年10月)であり、ふたつめはユダヤ人の「ナショナル・ホーム」建設を支持するというバルフォア宣言(1917年11月)である。このふたつに加えて、すでにイギリスはパレスチナの国際管理を約束したサイクス・ピコ協定(1916年5月)もフランス・ロシアとともに結んでいた。
19世紀末から20世紀初頭は民族主義の時代であるとともに帝国主義の時代でもあり、ヨーロッパの列強の間ではアジア・アフリカなど自分たちの意思でどうにでもなるという考えが強かった時期である。このような外交姿勢にその考え方が顕著に現れている。これらの協定は秘密のうちに結ばれていたが、思わぬところから情報が公開されることになった。1917年のロシア11月革命によって成立した新政府は「平和に関する布告」の中で旧政権の秘密外交文書を次々に暴露した。この情報はユダヤ・アラブの双方の怒りを買うことになった。
1930年代になるとドイツでナチスが台頭してユダヤ人に迫害を加えるようになり、この時期にパレスチナに向かうユダヤ人の数は激増した。(注意すべき点としてこの植民は土地を強奪するのではなく、合法的に土地を買い取ることによって進められたということである。また、ヨーロッパからの移民はパレスチナに先進地域の文化をもたらし、その水準向上に大きく貢献した。)移民の数が増加していくにつれてユダヤ人とパレスチナ=アラブ人との間の摩擦は大きくなり、当時この地域を委任統治という形で支配していたイギリスではもはや事態の収拾は不可能となった。
そしてイギリスはこの問題の解決を国連に委ねたのである。
・ イスラエル建国後のエルサレム
1947年11月29日、国連総会はパレスチナの分割決議案を可決した。賛成33、反対13、棄権10であった。棄権した国の中にはイギリスも含まれていた。
その内容はパレスチナをアラブ地区、ユダヤ地区、国際管理地区に分割することを勧告するものであった。それまでにシオニストが所有していた土地はパレスチナの7パーセントにすぎなかった。しかし、決議案はその地の57パーセントをユダヤ人に割り当てていた。 これではパレスチナ全土を自らの土地を考えるパレスチナ人が納得するはずはなかった。また、周辺のアラブ諸国もパレスチナ人に同調した。一方、シオニストはこの決議案を受け入れた。そして1948年5月、イギリス軍がパレスチナから撤退するとともにシオニストたちは新興都市テル・アヴィヴを首都としてユダヤ人国家イスラエルの成立を宣言した。しかし、イスラエルの成立を認めないアラブ諸国軍はただちにこの誕生したばかりの国家に進撃した。第1次中東戦争の始まりである。
大きな犠牲を出しながらもイスラエルは戦いに勝った。この戦いをイスラエル人は『独立戦争』と呼び、パレスチナ人は『ナクバ』(破局)と呼んだ。停戦が成立したとき、パレスチナの77パーセントはイスラエルの支配下に入っており、このときエルサレムの西半分(現新市街)もその中に含まれていた。(東半分はヨルダン領になっていた。)1949年には西エルサレムに首都が移され、以後その機能を保ち続けてはいる。しかし日本を含め、国際社会はこれを違法としている。そのため現在でもほとんどの国の大使館はテル・アヴィヴにある。
1967年の第3次中東戦争(6日間戦争)でイスラエルがエルサレムの東半分を制圧するまで、この分断状態は続くことになる。第3次中東戦争において、イスラエルは大きく占領地域を広げることになり、シナイ半島を除いてはこれが今日に至るまでイスラエルの占領地として実質的にその支配下に置かれることになった。
再統一されたエルサレムでは、イスラエル政府の管理下のもと、キリスト教徒もイスラム教徒も自由に聖跡に行くことが許された。
エルサレムが国際社会に認知された首都でないと言っても、1974年の第4次中東戦争(贖罪日戦争)の後にはアメリカ大統領ニクソンがそこを訪問し、1977年にはエジプトのサダト大統領が訪れるなど、実質的には首都としての機能が認められているのが現状である。
1991年からは中東和平国際会議が開かれ、かなり難航しつつもイスラエル人とパレスチナ人のあいだの話し合いによる合意作りが進められ、今日までにパレスチナ人に一部自治を認めるなど、それなりの成果は上がっており今後の進展が期待されてはいる。
しかし一方では、1995年11月4日、イスラエル側の和平推進の立て役者であり、ノーベル平和賞も受賞したラビン首相が暗殺されるという事件が起きている。犯人はラビン首相の政策に反対していたユダヤ人右翼過激派に属する青年だった。従来はユダヤ人VSパレスチナ人となっていた対決の構図は今や変化し、ユダヤ人内での対決になりつつある。同様のことはパレスチナ解放機構(PLO)にも言える。組織内での分派が進行し、アラファト議長はもはやPLO全体の代表ではないとの見方もある。このような内輪もめを見ていると、トップ同志の和平合意が必ずしも民衆レベルでの合意ではなかったと言わざるを得ない。
もはや対決の構図は非常に複雑になっている。1996年1月にはパレスチナ自治機構で初の選挙が行われ、アラファト議長は圧倒的な勝利を収めた。多くの問題を含みながらも、全体として現在のところはユダヤ人、パレスチナ人それぞれの国が共存していく方向に向かっていると言えるだろう。エルサレムは今後どうなっていくのか、正式には東エルサレムはイスラエルの領土ではないことになっているのだが…。パレスチナ人の自治権が確立されていくにつれて再びこの問題は浮上してくるであろう。
|