東ティモール

東西に分かれての植民地化
1512年、ティモール島はポルトガルの宣教師によってカトリックが宣教され、宣教と植民地化とが同時並行して進んだ。それからほぼ1世紀後の1513 年、オランダも来島し、ポルトガル、オランダ間の領地争いが始まった。1859年にリスボン条約が締結され、ティモール島の東をポルトガル領、西をオラン ダ領として分割することとなった(現在の国境が確定したのは1914年)。オ ランダは江戸時代の鎖国状態においても交易を許されていたように、宣教と交易とをセットでは行わなかった。従って、宗教的にはイスラム教のままだった。

日本の占領時期
1936年には、日本の南洋興発がティモールと貿易提携。ディリに事務所を設 置する。広大な農園を開き、コーヒー、ゴム、カカオ、ココヤシなどの植付けを 行う。このように日本との関わりができたが、太平洋戦争が勃発すると、日本軍は1942年2月に東西ティモールへ上陸し、1943年5月にはティモール全土を支配下に収めた。

日本の敗戦により元に戻るが、やがてインドネシア併合の動きの中に
1945年8月に日本が無条件降伏したことにより、日本の支配から、東ティ モールはポルトガル領へ、西ティモールはオランダ領へ、それぞれ復帰した。
1949年、インドネシアが独立し、西ティモールはインドネシア領となる。
1974年4月25日、ポルトガルで社会主義者の軍人らによってクーデターが起き、社会主義政権が誕生する。その後、ポルトガル新政権は、自国の主な植民地を独立させると発表した。これにより、東ティモールが独立国となる方向性が定められた。
以降、東ティモールにフレテリン(東ティモール独立革命戦線:現CNRT)、UDT(ティモール民主同盟)、アポデティ(ティ モール人民民主協会:インドネシア併合派)など、東ティモール人による政党が生まれる。
東チモールで当時、最も大きな勢力を持っていたのは、社会主義傾向の強い「フレテリン」(東ティモール独立革命戦線)という政党だった。東チモールには、フレテリン主導の社会主義政権ができる可能性が強まった。
 これに強い危機感を抱いたのが、隣国インドネシアのスハルト大統領だった。スハルト氏は1965年のクーデターで、社会主義傾向が強いスカルノ政権を倒し、反共政権を作った。国内に親中国派の共産主義者がたくさんいるとして、多くの中国系住民を弾圧した。そんなスハルト政権にとって、すぐとなりに社会主義の東ティモールが建国されることは、嫌悪すべきことであった。
1975年8月11日、UDTがクーデターを起こし、フレテリンと内戦状態と なる。8月28日にフレテリンが東ティモール全土を掌握。以降、インドネシア軍の侵攻が始まる。
1975年11月28日、インドネシア軍の侵攻が進む中、 フレテリンが独立宣言。国名「東ティモール民主共和国」。旧ポルトガル植民地 を中心に15ヶ国が承認。しかし、同時期にUDT、アポデティの幹部がインド ネシアと合併宣言に調印。
1975年12月7日に、インドネシア軍が東ティモールへ全面侵攻を開始。ア メリカ合衆国がインドネシア軍に大量の兵器を供与した。

インドネシアによる東ティモール併合
1976年7月17日、インドネシア、東ティモール併合を発表。その後もフレテリンの抵抗とインドネシア軍の掃討が繰り返され、悲劇が続く。
1988年 に、フレテリンはUDTと連合を組み、CNRMを結成。1998年4月にCNRT(ティモール民族抵抗評議会)に組織変更。1991年11月12日、サンタクルス虐殺事件(インドネシア軍の発砲による無差別大量虐殺)が世界中に報道され、インドネシアへの国際世論の風当たりが厳しくなる。
1996年10月11日、東ティモール問題の公正で平和的な解決を目指した働きが認められ、ベロ司教とCNRM国連代表のラモス・ホルタ氏がノーベル平和賞を受賞。 東ティモール問題が国際的認知を受ける。
1998年5月21日、強権を発揮しつづけたスハルト大統領辞任。6月9日にハビビ新大統領が、東ティモールに広範な自治権を持つ特別州の地位を与える用意があると発言。1999年1月27日には、インドネシア政府が東ティモールの独立を認める可能性について初めて言及。
1999年3月11日、インドネシアと東ティモールの旧宗主国ポルトガルの間で、東ティモールがインドネシアが提案する自治案を受入れるか拒否して独立に向かうかの是非を問う住民投票を行うことに合意。1999年8月30日、国連の監視下、インドネシア政府の自治案受入れ(インドネシア残留)か自治案拒否 (独立)を問う住民投票が実施される。(投票率98%)
1999年9月4日、 開票の結果、独立票が78.5%を占め、独立への道が開かれる。しかし、イン ドネシア残留派の民兵とそれを支援するインドネシア軍によって騒乱が発生し、 無政府状態に陥る。 その惨劇の様は、我々の記憶に新しいところ。
1999年10月25日、国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)設立。

 

ベロ司教と共に1996年度ノーベル平和賞を受賞したジョゼ・ラモス・ホルタ氏が、去る1997年1月に社会科学研究所が主催した講演会で行ったスピーチの一部です。

侵攻の大義名分
インドネシアによる東ティモール侵攻に関する議論の一つとして、「東ティモールは共産主義の飛び地になっていくであろう。あるいは、少なくともその可能性がある」という見解が、学者やジャーナリストたちから発せられていました。ベトナム戦争終結直後の冷戦構造の中にあっては、インドネシアは同国の島内に、新たに共産主義の飛び地ができることを許すことはできませんでした。
また、「東ティモールの独立が許されるとすれば、それは、インドネシア共和国の分割を促進することになろう」という議論も繰り返されました。
インドネシア政府は侵攻の理由についてさらに別の説明をしています。つまり、「東ティモールの人々の招きに応えて、東ティモールを侵攻した」というものです。
おそらく、東ティモールを代表する4つの党の人々がインドネシアを招く文書に調印し、フレテリン(東ティモール独立革命戦線)によるテロ支配に対する恐怖…これは共産主義組織を意味しているのでしょうが…から東ティモールを解放してくれるよう求めた、という説明です。
しかし、思い出してください。その2、3年後、旧ソビエト連邦がアフガニスタンに侵攻した時も、旧ソ連邦政府は「アフガニスタンの人々の招きによってカブールに入った」と言っています。サダム・フセイン大統領がクウェ−ト侵攻を行った時も、「クウェートの人々に招かれたため」と言っていました。ベトナムがカンボジアに侵攻した時も、「カンボジアの人々を解放するため」と言われていました。
侵攻する際に正直だった人物は唯一、ケ小平だけです。ベトナムに軍を侵攻させた時、ケ小平は「ベトナムの人々に招かれたから」とは言っていません。「ベトナム人には教訓が必要だ」と言ったのです。結果的には、逆にベトナム軍が中国軍に一つの教訓を与えることになり、中国軍はベトナムからの撤退を余儀なくされましたが。
軍事侵攻を行う際、政府はいつでも「人々の親切な招きに応えて、進出するのだ」というものなのです。

 

民族紛争・地域紛争へ

Back to Home Page