アフガニスタン

米同時テロ(2001年9月11日発生)を受け、イスラム原理主義テロ勢力に対する掃討作戦を準備していた米政府は10月7日午後(日本時間8日未明)、同時テロ首謀者とみなすウサマ・ビンラーディン一派と、一派をかくまうアフガニスタン実効支配勢力タリバンに対する攻撃を開始した。
渦中のアフガンにおける民族問題、イスラム原理主義とは何か 、時代背景等を調べてみる。

アフガニスタンの国情 … 外務省のWEBSITEから

一般事情
1.面積 652,225km2(日本の約1.7倍)
2.人口 1,880万人(出典:国連統計資料1998年央推計)
3.首都 カブール
4.人種 パシュトゥーン人、タジク人、ハザラ人、ウズベク人等
5.言語 パシュトゥー語、ダリー語
6.宗教 イスラム教(主にスンニー派のハナフイ学派であるが、ハザラ人はシーア派)
7.略史  長年の他民族による支配の後、1747年ドゥラーニー王朝成立。バラクザイ王朝(1826〜1973年)下の1880年、英国の保護領となるが、1919年独立を達成。73年7月共和制に移行後、78年4月軍部クーデターにより人民民主党政権成立。79年12月ソ連の軍事介入のもとカルマル政権成立。86年5月ナジブラが書記長就任。89年2月ジュネーブ合意に基づき、駐留ソ連軍の撤退完了。92年4月ムジャヒディーン・ゲリラ勢力の軍事攻勢によりナジブラ政権が崩壊し、ムジャヒディーン政権が成立するが、各派間の主導権争いにより内戦状態が継続。94年頃から、イスラムへの回帰を訴えるタリバーン(神学生の意)が勢力を伸ばし、96年9月に首都カブールを制圧した。
政治体制・内政

 (現在は、全土を実効的に支配する政府は存在しない。国名については、タリバーン政権は「アフガニスタン・イスラム首長国(Islamic Emirate of Afghanistan)]を、ラバニ政権は「アフガニスタン・イスラム国(Islamic State of Afghanistan)」)を称している。)
1.政体
2.元首 (注:ザーヒル元国王は73年以降、ローマに亡命)
3.議会
4.政府
5.内政 (1)1996年9月末、南部より勢力を拡大したタリバーンが、首都カブールを制圧し、暫定「政権」の樹立を宣言した後、1996年10月には、ラバニ派、ハリリ派、ドストム派等が、北部のマザリ・シャリフを中心とする反タバリーン派を結成。
(2)その後、1998年夏まで概ねタリバーンが国土の約2/3、反タリバーン各派が同約1/3を支配する状態が続いていたが、同夏にタリバーンが反タリバーン各派の支配地域に攻勢をかけ、支配地域を大幅に拡大。(現在タリバーンは、国土の約9割程度を支配していると見られる。)
(3)なお、99年3月、7月、2000年5月には、国連等の仲介によりタリバーンと反タリバーン各派との直接対話を含め、和平交渉が行われたが、いずれの際もその後戦闘が激化しており、和平への糸口とはなっていない。また、2000年12月に採択された対タリバーン制裁安保理決議以降、国連とタリバーンの関係は悪化している。
外交・国防
1.外交一般  現在、国連ではラバニ派(反タリバーン派)が議席を維持している。タリバーンを政府承認しているのはパキスタン、サウジアラビア、ア首連のみ。在ケニア、タンザニア米大使館爆発事件の首謀者とされるオサマ・ビン・ラーデンをタリバーンが庇護していると言われており、国際社会はタリバーン政府に対して厳しい姿勢で臨んでいる。また、タリバーンやビン・ラーデンはチェチェン反政府勢力を支援しているとも言われていることから、露も厳しい姿勢を採っている。99年10月にはタリバーンに経済制裁を課す安保理決議1267が採択され、その後タリバーンが決議に従う姿勢を見せなかったことから、2000年12月には追加制裁を課す安保理決議1333が採択された。
2.軍事力  現在紛争を継続している各派は、各々一定の軍事力を保有(詳細不明)。近隣、関係諸国が、タリバーン、反タリバーン派に対する軍事支援を行っているとも言われるが、実態は不明。なお、上記安保理決議1333とはタリバーンに対する武器禁輸、軍事関連の役務提供の禁止が定められている。
経済(単位 億米ドル)
1.主要産業 農業(小麦、大麦等)
2.GDP 不明
3.一人当たりGNP 不明
4.経済成長率 不明
5.物価上昇率 不明
6.失業率 不明
7.総貿易額 不明
8.主要貿易品目 不明
9.主要貿易相手国 パキスタン等
10.通貨 アフガニー
11.為替レート 4,726アフガニー/$(00年6月)
12.経済概要  長年の紛争による国土荒廃のため、経済基盤は壊滅状態にある。また、密輸が横行している他、ケシの一大生産地ともなっている。麻薬はアフガニスタン(特にタリバーン支配地域)の最大の収入源となっており、イラン、ウズベキスタン等を経由して輸出されている模様。なお、2000年6月、タリバーンの最高指導者オマル師はケシの栽培を禁止する布告を出した(因果関係は不明とあるが、2000年のケシ栽培は劇的に減少している模様)。上記安保理決議1333ではタリバーン支配地域への麻薬制成に使用される物質(無水酢酸)の輸出等が禁止された。
経済協力
1.我が国の援助実績 (1980年度以降は、下記の緊急無償援助以外は実施していない)
(1)有償資金協力   7.20億円
(2)無償資金協力  61.90億円(97年度緊急無償地震災害0.75億円)
(3)技術協力  22.96億円、研修員受入437人、専門家派遣121人等
2.主要援助国(1997年)(出典:1999年度ODA白書) (1)オランダ (2)ドイツ (3)カナダ (4)スウェーデン (5)英国
(我が国はアフガニスタンのいかなる勢力も政府承認していないことから二国間支援を行っておらず、主に国際機関を経由した援助を行っている。)
二国間関係
1.政治関係 (1)1930年11月19日、修好条約署名(1931年7月26日発効)。我が国は1979年12月以降アフガニスタンの累次政権を政府として承認していない。
(2)1934年11月、在カブール日本国公使館開設。(1955年12月、大使館に昇格)。1979年12月以降臨時代理大使レベルであったが、1989年2月より一時閉鎖中(現在館員不在)。
(3)1933年10月、在京アフガニスタン公使館開設。(1956年5月、大使館に昇格)。現在は事実上閉館状態。
2.経済関係 (1)対日貿易(1999年)(出典:平成12年版通商白書)
   (イ)我が国への輸出  91百万円
   (ロ)我が国からの輸入 7,559百万円
(2)我が国からの直接投資(1998年)(出典:大蔵省作成資料)
    なし
3.アフガニスタン難民援助(1998年以降)  我が国は、国際機関経由で約4,200万ドルの支援を難民帰還、地雷除去といった分野で実施。最近では従来の紛争に加え干魃、寒波により、困窮の増したアフガン難民及び国内避難民に対し、国際機関経由で700万ドル以上の緊急支援及び食糧援助を行うと共に、国際平和協力法の枠組でテント等の物質協力を行った。
4.文化関係  我が国では、平山郁男ユネスコ親善大使をはじめとしてバーミヤンの仏教遺跡保存等につき関心が高い。98年9月にタリバーンがバーミヤン遺跡の一部を砲撃した際には我が国国内で非難の声が高まった。また、2001年2月、タリバーンの最高指導者オマル師は、アフガニスタン国内の彫像が偶像崇拝につながり、非イスラーム的であるとして、破壊を命じる布告を出し、仏教国を始めとする国際社会から厳しい非難を受けた。同布告は実施に移され、カブール美術館所蔵の遺跡やバーミヤン遺跡もかなりの部分が破壊された。
5.在留邦人数 0人(2000年6月)
6.在日アフガン人数 217人(1997年12月)

アフガニスタン  … モザイク国家  (YOMIURI ONLINE のキーワード解説から)

米同時テロで注目されるアフガニスタンは、国境線と民族分布が一致しない多民族のモザイク国家だ。国内の民族が国境を超えて存在し、内戦の構図に微妙な影響を与えている。これに宗教的要因も重なってアフガン紛争を一段と複雑にしている。(前ヨハネスブルク特派員吉形祐司)

◆民族と宗教、内紛複雑化
20年以上も戦火にさらされているアフガニスタンは、正確な人口すら不明だ。本来の民族分布は旧ソ連侵攻前の1970年代の文献が最も信頼できると言われる。米中央情報局の推計(今年7月現在)によると、人口約2600万人のうちペルシャ系のパシュトゥン人が38%、タジク人が25%、モンゴル系のハザラ人が19%、トルコ系のウズベク人が6%などとなっている。 国民の84%はイスラム教スンニ派で、パキスタンや北隣の中央アジア3国と宗教的な共通点を持つ。ただ、ハザラ人のほとんどはシーア派で、同派が95%と圧倒的なイランは過去、軍事的に支援した経緯がある。 シルクロード上に位置するアフガンは歴史的に戦略的要衝だった。19世紀初頭以降は、インドを支配下に置く英国と、不凍港を求めて南下政策を取ったロシアの緩衝地帯になり、1893年にはパシュトゥン人の王国を分断して、現在のアフガン=パキスタン国境線が引かれた。 秀明大学の桶舎典男教授(南アジア政治経済)によると、パキスタン4州のうち3州は47年の独立時に民族名を冠してパンジャブ州、シンド州、バルチスタン州とした。パシュトゥン系住民は自治区「パシュトゥニスタン」建設を求め、アフガンもこの構想を支持したが認められず、北西辺境州になった。

◆元首は伝統的にパシュトゥン人
アフガンの実効支配勢力タリバンはパシュトゥン人の集団で、パキスタン・北西辺境州のパシュトゥン系(現地ではパクトゥン)の人々と同じだ。アフガンでは93年就任のラバニ大統領がタジク人だったのを唯一の例外に、王朝時代を通じて伝統的にパシュトゥン人が元首に就いてきた。元駐日アフガン臨時代理大使でハザラ人のムハマド・ハサニさん(51)(埼玉県在住)は「アフガンでアフガン人と言えばパシュトゥン人を指す。私は母国ではハザラ人。アフガン人とは呼ばれない」と説明する。伝統を重んじるパシュトゥン人は、アフガン内で独特の位置を占めている。パシュトゥン人の間ではパシュトゥー語が、カブールなど北部ではダリ語(ペルシャ語)が主に話されている。 アフガン北部に集中するタジク人、ウズベク人、トルクメン人は、隣接する中央アジアのタジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンの主要民族と同じ。旧ソ連軍の撤退後に始まった内戦では、タジキスタンがタジク人のラバニ大統領や故マスード司令官を、ウズベキスタンがウズベク人のドスタム将軍を支援するなど民族的つながりが関係していた。 しかし、拓殖大海外事情研究所の遠藤義雄教授(南西アジア)は宗教的側面の重要性も強調し、「中央アジア諸国の政府は原理主義の流入を恐れており、国内でも原理主義の抑え込みを図った」と語る。

◆現在の内戦タリバン・パシュトゥン人×北部同盟・他の民族
現在の内戦はパシュトゥン人のタリバンに対し、他民族が「北部同盟」に結集して戦う構図。今回、アフガンと国境を接する3か国を含む中央アジア5か国が対米協力の姿勢を示しているのは、タリバン打倒が原理主義勢力の排除に結びつくと考えているからだ。 北部同盟はタリバン以降の新政権樹立をにらみ、73年のクーデター後、イタリアに亡命中のパシュトゥン人のザヒル・シャー元国王(86)に接近。米国の軍事行動や新政権の行方は流動的で、アフガニスタンの民族的、宗教的条件を念頭に事態の打開を模索している。 遠藤教授は「パシュトゥン人中心のタリバン政権が崩壊すれば、パシュトゥン人と他の民族をどう束ねるかが課題になる。国王が政権に復帰するかどうかは別として、国民和解のためには重要な人物になろう」としている。 (2001年10月2日)

アフガン支配するタリバンの「原理」   (YOMIURI ONLINE のキーワード解説から)

◆昔からの「掟」を指導者が解釈
バーミヤンの大仏立像破壊や国際テロの黒幕オサマ・ビンラーデン氏を保護して国際社会に波紋を広げるアフガニスタンのイスラム原理主義勢力タリバン。1990年代半ばに登場し、わずか2年間で実効支配を達成した急進勢力が掲げる「原理」とは一体何か。(国際部加藤朋央) タリバンはアフガニスタンの人口約2600万の約40%を占める最大民族パシュトゥン人の勢力。アフガンは79年末、旧ソ連に侵攻され、親ソ共産政権が誕生した。イスラム武装勢力がこれに抵抗して内戦に突入、戦士はムジャヒディン(イスラム聖戦士)と呼ばれ、若者たちは十分な教育も受けないまま戦いに明け暮れた。 92年に共産政権が崩壊、パシュトゥン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人の主要4民族の中で、ラバニ大統領率いるタジク人勢力がウズベク人勢力と共闘して首都カブールを奪取した。その後カブールはタジク人が支配、共闘を解消したウズベク人は北部マザリ・シャリフ、ハザラ人は中部バーミヤンなどの拠点を押さえた。 山間部ではムジャヒディンの一部が山賊と化し、物資を略奪するなど国内は荒廃した。南部一帯にいたパシュトゥン人勢力は有力な指導者が不在で、内部抗争が絶えない中で登場したのがタリバンだった。アラビア語で「神の道を学ぶ者たち」を意味するタリバンは最高指導者ムハンマド・オマル師の下にパキスタン・アフガン難民キャンプのマドラサ(神学校)の学生が集まり、パシュトゥン人の多い南部カンダハルで94年9月に結成された。 当初は秩序回復や世直しを目指して立ち上がり、カンダハルに軍幹部やイスラム法学者、部族の長老ら数十人で構成する最高評議会(国会)を置いた。同評議会はその後、有名無実化し、意思決定は原則的にオマル師に一任されている。 タリバンのイスラム原理主義運動の根拠は「パシュトゥンワーリ」と呼ばれるパシュトゥン人に昔から伝わる掟(おきて)だ。明文化されていないが、
〈1〉民族の名誉を守るための勇気を重視
〈2〉女性を保護し安全を守る
〈3〉客人を大切にする
――が特徴だ。 拓殖大海外事情研究所の遠藤義雄教授(南西アジア)は「パシュトゥンワーリは土着的な風習。タリバンはそこにイスラムの理念が反映されていると主張するが、伝統的イスラム法と重なる点はあるものの、あくまでも別物。掟を極端に解釈した部分もある」と指摘する。 オマル師は同掟に基づいて行動を決める「布告」を出す。タリバンが今年3月、バーミヤンで世界的仏教遺跡の大仏立像2体を破壊した際、同師は「偶像崇拝を禁じるイスラムの教えに反する」として破壊を命じる布告を出した。 タリバンは96年9月にカブールを攻略。パキスタンから武器供与など軍事支援を受けていたため、98年秋までに国内主要拠点を押さえた。現在約6万人と推定される兵力で、国土の約90%を支配している。 「パキスタンは人口の約15%を占めるパシュトゥン人(推定約2000万人)を国内に抱えており、アフガンにパキスタン寄り政権ができることを願っている。宿敵インドと交戦した場合を想定し、アフガンを後背地にしようという意図もあるはず」と遠藤教授は語る。 国連は昨年12月、ビンラーデン氏をかくまっているタリバンに対し、武器禁輸や対外資産の凍結など経済制裁の強化を決議、今年1月に発効した。大仏立像破壊には国連の制裁継続への反発もあった。 国際社会は反タリバン勢力を支援し始めた。「北部同盟」を名乗りタリバンと内戦を続けるタジク人勢力のアハマド・シャー・マスード司令官は、今年4月に欧州議会の招きで初訪欧し、反タリバン勢力への支持を訴えた。タリバン政権を承認しているのは現在、パキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の3か国だけだ。 松永泰行・日大講師(中東・国際政治)は「タリバンは対外的に影響力を拡大する余力はない。国連の経済制裁が続けば内戦の長期化や干ばつによる貧困で苦しむアフガン国民にさらなる苦しみをもたらす」と語っている。 (2001年8月21日)

イスラム原理主義とは   (YOMIURI ONLINE のキーワード解説から)

米同時テロ事件で関心が集まる「イスラム原理主義」。歴史や現状について、Q&A形式で解説する。(カイロ 久保 健一)

◆イスラム法国家建設が理念
原理主義思想とは?
イスラム教の創始者、預言者ムハンマドによる622年のヒジュラ(メッカからメディナへの移住)以降、その後継者、正統カリフの治世(632―661)まで実現していた「イスラム共同体(ウンマ)」を理想とし、腐敗した社会を是正して「シャリーア(イスラム法)」に基づいたイスラム国家を建設することを基本理念とする。 ただ、本来イスラムの「再生」「覚醒(かくせい)」とも言うべき考え方であるのに、西欧が「ファンダメンタリズム(原理主義)」とキリスト教用語を転用、「復古」などの否定的意味あいを込めたことから、「イスラム復興主義」「イスラム政治運動」と呼ぶ研究者も多い。 現代のイスラム国家の例としては、革命によりパーレビ王朝を打倒、「イスラム法学者による支配」を統治理念としたイラン・イスラム共和国(1979年樹立)がある。サウド王家と18世紀半ばにアラビア半島で起こったイスラム改革運動(ワッハーブ派)が結び付いたサウジアラビアも原理主義国家と言える。
過激派と穏健派の違いは?
1928年にエジプトで設立され、多数派であるスンニ派世界で現在も根強い支持を受ける「ムスリム同胞団」は穏健派の代表格。選挙などの平和的手段でイスラム国家樹立を目指してきた。その一方で同胞団から出た思想家サイード・クトゥブ(1966年処刑)は、武力で腐敗政権を打ち倒す「力による聖戦」は信徒の義務であるという考え方を打ち出し、のちの過激派に強い影響を与えた。81年にサダト大統領を暗殺した「ジハード団」(エジプト)がその代表例だ。

◆アラブ民族主義衰退で活発化
現代における原理主義活発化の原因は?
1950―60年代は、アラブ民族主義全盛の時代。エジプトのナセル大統領に代表される世俗主義的な政権は、アラブが団結することで西欧植民地主義に対抗する路線を歩んだ。だが、第3次中東戦争(1967年)でアラブがイスラエルに大敗したことなどにより、アラブ民族主義は急速に勢いを失った。さらにソ連崩壊で唯一の超大国となった米国の中東への影響力が強まり、欧米式生活様式が流入、伝統的価値観が崩れていく中で危機感を抱いた民衆は、民族主義に代わりイスラムによりどころを求めるようになった。 こうした流れを受け、過激派の活動も活発化、腐敗政権としての現行アラブ世俗政権に牙をむいた。90年代には、エジプトで「イスラム集団」が外国人観光客テロを繰り返し、アルジェリアでは、武装イスラム集団(GIA)が、住民を巻き込んだ国軍との抗争を続け、約10万人が犠牲者となっている。 この原理主義高揚の背後には、貧困や失業など深刻な社会問題が横たわる。弾圧だけでは、絶望した若者が武力闘争に走る構図は変わらないとの指摘もある。
過激派に対する一般イスラム教徒の感情は?
“アラブの敵”イスラエルの後ろ盾である米国への反感といった民衆感情が、過激派テロの底流にあることは否めない。だが、イスラム教徒の大多数は、テロに矛盾を感じ、社会の不安定化を懸念している。97年11月にエジプト・ルクソールで日本人など観光客ら62人を殺害した「イスラム集団」が99年3月、停戦宣言に追い込まれたのも、民衆の支持を失ったからだ。だが、アフガン戦争からの帰還兵も含め、こうした国内に居場所を失った過激派の「残党」を吸収する形で「反米」スローガンのもと「国際テロ集団」を作り上げていったのがビンラーディンだった。 (2001年10月2日)

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