小論文 栗原彬のサブシステンス論を平和学する

〜「水俣病という思想」をめぐって〜

はじめに
水俣病者をめぐる政治の推移
グレイゾーンの内破と自力更生
新しい公共圏とサブシステンス
おわりに
参考文献

はじめに

200378日、国連開発計画(UNDP)は2003年版『人間開発報告書〜ミレニアム開発目標―貧困撲滅のための国家間契約〜』を発表した。HDI低位国の多くには昨年と比べさらなる指数の低下が見られ、OECD諸国などとの地球的格差、また同一地域内での国家間格差、さらに同一国内での地域間格差の拡大は続いている[1]

筆者が博士前期課程以来、脱「開発」コミュニケーションをテーマとして研究を続けてきたのは、このような格差の拡大が、一つには現在の市場経済の不平等・不公正な構造に起因するものであって、この不公正な市場経済を推進し、人々の命や健康を奪っている開発主義から脱却する道を見出すためである。修士論文においては、開発とは暴力であるとするイヴァン・イリッチの「開発」論を平和学[2]の視点から捉え直した。

修論で取り上げたイリッチの ‘Peace is a Way of Life’ が講演として発表されたのが1980年末であるが、既に1972年にはローマ・クラブによる『成長の限界』が、1973年にはシューマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』が発表され、地球環境や資源の有限性という観点から経済成長=発展至上主義の持続不能性が指摘されていた。さらに90年代に入ってから、イリッチの思想を継承する(と筆者が認識する)C・ダグラス・ラミスも開発主義を批判する一方、現在のわれわれの政治経済システムにおいて「災難はもうすでに始まっていて、いわば次から次へと氷山にぶつかり始めているわけです[3]」と述べている。しかし現実の世の中では30年経っても、だれもタイタニック号のエンジンを止めようとしない。皆が「止めなければ沈没」と分っていながら、一方でその構造を知れば知るほど強固に立ちはだかっているように見える世界資本主義システムのエンジン(成長、開発)を止めることは可能か。コミュニケーションの理論を考える前に、まず脱「開発」(もしくは平和パラダイム)をコミュニケートできる理論の確立が必要なのか。その難題にはまった時に栗原彬[4]教授の講演を聴く機会[5]を得た。イリッチの主要著作『シャドウ・ワーク』の共訳者としても知られる栗原彬は、「人間の営みを日常生活から国家に至るまで考え抜く学問で、自我や家族や教育や文化の中にも政治を読み取る[6]」政治社会学者であり、70年代後半から水俣病を学び、水俣病を伝える活動を続け、「『近代とは何か』、『人間とは何か』あらためて問い直し[7]」ている。

この講演で水俣という過酷な現実と、被害者とともに進める運動に基づくビビッドな論に接し、人間のアイデンティティの現れや共生をキイワードとする栗原教授の論を、「水俣病という思想」など最近の著作をめぐってあらためて検討し、その平和学的意義を見極めたい。

 

水俣病者をめぐる政治の推移

 栗原は、論文「生命政治と平和[8]」において、「生命政治」を生命そのものの場への権力の操作・介入をめぐって展開する政治のダイナミクスとして、権力によって「剥き出しの生(死)」の淵に連れていかれる人々を描き出す。さらに「近代市民社会」が、幸福な生の営みをデザインする政治と同じ判断基準に即して「社会的不適者」とされた人々を「絶滅」させる政治を不可分のものとして展開する[9]

この「生命政治」が、「市民」の間にもともとあった下層民への差別を利用して水俣病を政治病・社会病(仮想現実)として作り出した。ここに作り出された表象の政治は、生―権力の一部としての専門家(医者、科学者)だけでなく、社会に微分化された「下からの権力」(共同体、一般市民)が行なう熾烈を極めた差別と排除によって展開された。「豊かな社会の持続」という仮想現実の上で、「市民」による「民族浄化」の嵐が吹き荒れたのである[10]

これこそまさに「非市民に対する差別をその存在の前提[11]」とする特権層としての「市民」の姿そのものである。病者を差別(差別のあるところに病者が作られる)することで自らを「豊かさ」の側に置いたと考える「市民」も表象の政治に支配され、従属させられていたので、病者はさらに重層的な構造的暴力の頚木に囚われていたのである。

栗原は「水俣病という思想(立教大学最終講義)[12]」でも、石牟礼道子の『苦海浄土』[13]の一節を引用し、19599月、水俣市民による安保反対デモが通りかかった漁民のデモを吸収した描写から、「市民政治」が「人々の政治」をむしろ圧殺する構図が見えた[14]と述べている。漁民は水俣病がチッソの排水の所為であることをよく知っていてデモをしていたのに、高度成長による豊かさを享受する(という意味ではチッソ水俣工場と同じ)市民たちは、その豊かさを支える「民主主義を守れ」と立ち上がりながら、自分らがその「豊かさ」を守るために殺されようとしている身近な漁民の存在にまったく気がついていない。「多数派の快楽量を最大化する」市民の政治でしかなかった、と栗原は批判している。市井三郎の言葉によるなら「快の増大」のみを志向し、「不条理な苦痛」の存在に気付かない、開発主義の陥穽にはまった「市民」と言える。

栗原は「水俣病は一つの政治思想です」という。水俣病者の政治に照らして、差別し、水俣病を作り出し、そして水俣病を無視してきた「市民の政治」とは何なのかが見えてくる。そのために、水俣病の兆候が現れた1953年から50年間の「水俣病をめぐる重層的な政治の推移」を見る必要があるという[15]

第一期=1953年からの「自己決定の政治」、第二期=1973年からの熊本県相手の政治(水俣病認定)、第三期=1978年からの「代行政治」(国、裁判所相手の)、第四期=1988年からの「和解の政治」、そして第五期=1996年からの「もう水俣病は終わったと強弁する政治」。さらにその間に現れた「存在の現れの政治」。

「死んだ子を返せ、金は要らん」と水俣病者は人間の尊厳の回復をかけ、加害者と直接対決すべく立ち上がったが、チッソ・国家・専門家の「システムの政治」の包囲網の中で「市民」に関心も払われない中、裁判を通しての「代行政治」が展開する一方で、1977年の新認定方針のため、圧倒的な未認定者が「にせ患者」と差別され、自らのアイデンティティを得る道を断たれた。和解による解決という社会的圧力の中、水俣病者は水俣病問題の本質から遠ざけられるばかりか、「金の分配の政治」の代理人にされる被害者が加害者と被害者のグレイゾーンへと入っていった。そこで現れたのが、緒方正人の著書『チッソは私であった』[16]と認定申請取り下げである。

代行政治は結局「カネによる補償ということに帰着して、『産業の発展』と『近代化』、それを支える人間の欲望とシステムの装置に踏み込もうとしない・・・M(緒方)は市民社会の仕組みに囲い込まれて、人間のことといえなくなった『システムの中の水俣病問題』からの離脱を決意する[17]」。それからテレビや車3台など身の回りの近代的なものを壊すという象徴的な行為に出る。近代をとことん問い、行き逢ったのが「人間の業に届くグレイゾーン」であり「チッソは私であったという地平」であった。漁師である自分が、市民に代って自然を収奪(魚を殺す)代行者であるように、近代と市民社会の枠の中では、仮に自分がチッソの社員であったら同じことをしたのではないかという、底知れず深い闇(業)。

大阪府立大学の森岡正博は、「たしかに人間の『生命』には、他のあらゆる生命と共存し、生きとし生けるもの全体の循環のなかで静止を全うしようという本性があります。しかしこれと同時に、人間の『生命』には、自分たちが生き延びるためには他の生命を貪欲に利用し、犠牲にし、搾取してゆく本性があるのです[18]」と生命の本性がはらむ二面性を指摘している。しかし、緒方が「狂い」ながら見出したグレイゾーンの本質は、例えばアウシュヴィッツ強制収容所で死体処理をするユダヤ人(ゾンダーコマンド=SK)ように「代行して殺す、代行して支配する、抑圧する」ことだ[19]と栗原は言う。

「ユダヤ人を焼却炉に入れるのはユダヤ人でなければならなかった。・・・自分自身さえも破壊してしまうことを示[20]」すことを強制され、「犠牲者は自分が無実だという自覚さえ持てなくなって[21]」、SS(ナチの親衛隊)にとってSKは「もはや自分たちと同様に非人間的で、同じ馬車に縛りつけられており、押し付けの共犯関係の汚れた絆で結ばれていると感じていた」。そこで行なわれたSSSKの間のサッカーの試合。「おまえたちもまた、我々と同じように、カインと同じように、兄弟を殺した。さあ、来るがいい、一緒に試合をしよう」[22]

プリーモ・レーヴィは「だれも彼らを裁く権利はない」という。SKの「だれ一人として、生き延びたものはなかった」のだ。しかし現在のグレイゾーンの中にいる「市民」、あるいは私たち自身は、そこから突破することができるのだろうか。

 

グレイゾーンの内破と自力更生

栗原は、グレイゾーンを内破するためには「代行しない」、あるいは「他者を支配したり領有しない」ことであるとし、「そこに別の政治が浮かび上がる一つの突破口があり得る」という。そして緒方が「水俣病を生きて誇りに思う」三つのこととして、(1) 魚が汚染されているとわかっていても食べ続けた。(2) 胎児性水俣病者を育て、胎児性出生後も子どもを産み続けた。(3) チッソに復讐しなかった。水俣病者はたくさん殺されたが、水俣病者はチッソのだれをも殺さなかった[23]、をあげる。

栗原はそれぞれを、(1) 生命圏、共に命を授かっている限り、グレイゾーンの中に生きざるを得ないという人間の業の深さ、(2) 命を選別しない、(3) なかった、と言う。自分が生き残るために他者を犠牲にすることの対極に、他者を生かし自分も生きるサブシステンスの営みを置くならば、それは栗原がこれら三つのことを言う「すべての命への、『あなたが存在して欲しい』という呼び掛け[24]」と同じなのだろうか。

一方で緒方自身「加害者チッソとは『仕組みとしてのチッソ』『構造としてのチッソ』のことなのではないか。ですから株式会社チッソとしては、判決で負ければ、責任もいやいや認めるし補償もしてきたわけですが、人としての責任は四十数年たっても認めていない。つまり的のはずの人間には突き刺さっていなかった・・・水俣病患者と一口にいうけれども…長い間、制度の中で闘い、制度を要求する闘いの中で、…それぞれの『個』がなかなか見えなくなってきた[25]」としている。

では産業公害の被害者が、その構造的暴力に対して始めるたたかい=自力更生営為は、グレイゾーンの内破と同義であるのだろうか。水俣病者のたたかいはそもそも、被害者が加害者と相対して謝罪を求め、「水俣病者の正しさを求める政治」「自己決定の政治」から始まり、「患者集団」ではなく一人一人の病者の断たれたアイデンティティを(人間として相対して謝れ、死んだ命は戻らなくとも開発優先を止め、新しい命を奪わないでくれということによって)回復する「存在の現れの政治」に展開した。自力更生の目的は自立であり、被害者が原状を回復し真に自立する(と同時に構造的暴力が克服される)ことにより、断たれたアイデンティティを回復し、癒しに至る必要条件(潜在的実現可能性)は整えられる。しかし平和学的なアプローチは構造やシステムを対象としているので、緒方の「金によって水俣病問題は終ったことにする、というシステムの連関を断ち切るために認定申請を取り下げるという行為(〜内破)」に到達するかどうか、法的な救済を超えて人間の業、心の暗闇、「的」に届き、魂を救済できるかは疑問である。

一方このグレイゾーンは被害者の中だけにあるのではなく、「市民」の内部あるいは「加害者」と「市民」、また被害者と「市民」の間にも存在する。栗原は再度 (1) 市民が豊かな社会を望むという、そのことだけで、玉突き状態になって、公害の引き起こしに加担してしまう。(2) 企業と行政が「終ったことにする」という現実を容認することでむしろ創り出す。(3) 公害病者への差別のまなざしを指摘、「公害病者は三度殺される。そこに実は市民が関わっている」[26]という。「生身の人間が日々殺されている現実を見物させられている」というグレイゾーンに気がついても、多くの「市民」はさまざまな言説(内部処理)をあげて思考停止し、何もしないことを正当化する。

では、人を自縄自縛に追い込むことでシステムの欲望を代行してしまうこれらの言説を超え、グレイゾーンを内破することは、自力更生と同じか、違うならどう違うのか。

 

新しい公共圏とサブシステンス

緒方は水俣病のたたかいの中で、「開発本位の、供犠を伴なう暴力的な公共性」と「生命を尊重し、人間の尊厳を救い出す生存の次元の人々の公共性(人と自然、人と人の相対ないし共生としての公共性)[27]」の二つの公共性がすれ違ったように感じた。認定申請を取り下げた「緒方が従来の運動の側から裏切り者と呼ばれたりしながら、野仏を建立するようなふるまいが、市場的で権力的な編制(快楽計算を伴う最大多数の最大幸福。エコノミーや稀少性をめぐるゼロサムゲーム[28])の鎖列を断ち切り、存在の現れの系列を生み出していく[29]という政治である。

栗原は、いまや難民状態が普遍化したグローバリズム下の日本のさまざまな互酬的な活動の基底に歓待(hospitality)やサブシステンス(存在の現れ、生命の別の形式の現れ)があり、新しい公共圏(本来の市民政治の可能性)を作っていくとする。419日の講演会においては、生命圏から遠離してゆく政治(自己決定権)・経済(快楽量の最大化)・社会(秩序)・文化(異質なものを同化する、同コード内のコミュニケーション、Global standard)とは逆に生命圏へ漸近するNPS(贈与・非所有)・NGS(自律―ケア―非支配)・NSS(歓待、home―共同性―非領有)・NNCS(異交通―非我有化)の中で、今まで書かれてきた政治・経済・社会・文化の剥き出しの生とは異なる新しい生の形式(サブシステンス)が書かれる場が生命圏であり、生命圏から遠離するところに公共圏は作れないとされた。その意味では「自然生態系の中で人間社会を維持し、再生産していく仕組み[30]」という環境・平和研究会のサブシステンス理解につながるものである。

栗原は「平和で豊かな暮らしを享受して生きる」ことで加害者と被害者のグレイゾーンにいる「市民」が、「戦争を止めたい、公害に反対したい、子どもを救済したいという生き方」とどうつながりをつけるのか、生き方をどう変えざるを得ないのかを5点述べている。[31]

(1)          痛みを持った他者のまなざしに見られること。彼我のまなざしの差(パララックス)からヴァルネラビリティが働き、「チッソは私である」というような「まなざしのグレイゾーン」に入る。

(2)          聞こえない他者の声の代行にならず、他者の声によって(構造に加担している)自分の方が変わる。

(3)          市場的で権力的な編制(希少性による金儲け)を、たとえば非営利な市庭(いちば、サブシステンス維持のための交換の場)によって内破する。

(4)          「水俣病の患者さん」のような表象(運動の中で人間を集団で捉えること)から「固有名を持つ一人ひとりの人間の存在」へ。

(5)          サブシステンスの構築―生命圏に近づく新しい公共圏(現れた存在が誰にも領有されることなく生きていける場)の創造。

「市民」と被害者の間のグレイゾーンは結局、市民が自分自身で変化して新しい公共圏に存在の現れの政治を確立していく以外にないということである。これは、自らを規定している自己概念からの解放を意味し、「何者かになろうと懸命に励んで、知識や技術という服を幾重にも着こんでいくのではなく、逆に着膨れしている服を一枚一枚脱いでいき、自分の生命力の源に触れること[32]」、つまりエクスポージャーによるエンパワメントそのものではないだろうか。森田ゆりは「エンパワメントとは『力をつけること』ではない。・・・それは人と人との関係のあり方だ。人と人との生き生きした出会いの持ち方なのである[33]」と言い、また「エンパワメントとは、私たち一人ひとりが誰でも潜在的にもっているパワーや個性をふたたび生き生きと息吹かせること」とも言う。グレイゾーンの内破を換言すれば、それぞれが(エクスポージャーを通した)サブシステンス志向の自力更生営為により自立(エンパワメント)することで、それぞれのあり方と相互の関係性を変え、開発主義から脱却しようという脱「開発」コミュニケーションそのものであると言える。自力更生と市民連帯によってサブシステンス志向の新しいシステムを創ることを栗原は、生命圏に近づこうとする運動によって「新しい別の公共圏を創造する」と述べたのではないだろうか。

 

おわりに

栗原彬はアイデンティティと共にグレイゾーンのような心の闇、人間の深い業に着目し、「市民」の闇を抉る。今回の検討によって、氏のサブシステンス理解は環境・平和研究会の共通理解と大きく隔たるものではないことが確認できた。また市民と開発の被害者の間のグレイゾーンを内破することは、それぞれの自力更生から自立という市民連帯の道と等しく、栗原の言う「○○の政治」は「○○の関係性」、「○○のコミュニケーション」とも言えるのである。しかし、一人の人間が内部のグレイゾーン(底知れず深い業)を内破して存在の現れの政治を展開するのに、本来性、サブシステンスという視点からアプローチする自力更生の考え方では、闇から外に出て魂の救済に至るには困難が伴なうと考える。

水俣病という重い現実に立脚した栗原の論によって、脱「開発」、さらに脱「開発」コミュニケーションに至る道はさらに開けたが、市場圏・公共圏・親密圏・自然の関係性などの分析は今後の課題として残された。また、栗原自身の研究範囲には、人間の消費や欲望に深く関わり、「開発」の要因でもある科学技術のあり方が含まれていない。これも今後の筆者に残された課題である。



[1] “Human Development Report 2003”, UNDP, July 8, 2003発表, http://www.undp.org/hdr2003/ Human Development Indicatorsデータより

[2] ここで言う平和学とは、構造的暴力の克服による積極的平和を提唱し、平和概念を押し広げたヨハン・ガルトゥングの論に基づく。さらに「国際貢献のあり方とODAの実像―開発パラダイムから平和パラダイムへ」『平和研究24号』(日本平和学会、199911月)においてそのガルトゥングも開発主義の罠に陥っていると批判し、「『不条理な苦痛(市井三郎)』を減らし、構造的暴力を含んだあらゆる暴力の克服をめざす『平和パラダイム』を選び取」ることを主張する横山正樹の論による

[3] C・ダグラス・ラミス『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』平凡社、2000年、19

[4] くりはら・あきら、明治大学教授。政治社会学、臨床社会学を研究。近著(共著)『内破する知』(東京大学出版会、2000年)、編著『証言 水俣病』(岩波書店、2000年)など

[5] 「サブシステンス(生命・環境)への暴力と平和」日本平和学会関東地区研究会、環境・平和研究会、PP研サブシステンス研究部会共催、2003419日、於明治大学

[6] 栗原の前任校、立教大学法学部案内http://law.rikkyo.ac.jp/rikkyo_annai/020.htmより。

[7] 「水俣をつたえつづけるために」(水俣フォーラム<栗原彬理事長>趣意書)http://village.infoweb.ne.jp/~minafo/main.htmlより。(200379日アクセス)

[8] 『平和研究26号』(日本平和学会、200111月)49-64頁に所収。

[9] 同論文、49-52頁の要約。

[10] 同論文、53-56頁の要約。

[11] 横山正樹「構造的暴力と積極的平和」『平和学の現在』法律文化社、1999年、69

[12] 『立教法学61号』(立教大学法学部、20022月)1-33頁に所収

[13] 石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』講談社、1969

[14] 「水俣病という思想」3-5

[15] 前掲「水俣病という思想」6

[16] 緒方正人『チッソは私であった』葦書房、2001

[17] 栗原彬「水俣病という身体―風景のざわめきの政治学」、栗原彬・小森陽一・佐藤学・吉見俊哉『内破する知―身体・言葉・権力を編みなおす』東京大学出版会、2000年、73

[18] 森岡正博『生命観を問いなおす―エコロジーから脳死まで』筑摩書房、1994年、191

[19] 前掲「水俣病という思想」18

[20] プリーモ・レーヴィ著、竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞社、2000年、52

[21] 同上、54

[22] 同上、56

[23] 前掲「水俣病という思想」18頁要約

[24] 同上、19

[25] 緒方正人「人としての生命の記憶を願う」水俣フォーラム・ウエブサイトより要約http://village.infoweb.ne.jp/~minafo/kinen/000429(ogata).html

[26] 前掲「水俣病という思想」27頁を要約

[27] 前掲「水俣病という身体」71

[28] イヴァン・イリッチの「パックス・エコノミカ(経済平和)」と同じである

[29] 前掲「水俣病という思想」23

[30] 横山正樹「暴力は本来性(サブシステンス)を奪う」戸崎純・横山正樹編『環境を平和学する!』法律文化社、2002年、15

[31] この部分は前掲「水俣病という思想」29-30頁の要約

[32] 森田ゆり『エンパワメントと人権』解放出版社、1998年、178

[33] 同上、14

参考文献一覧

邦文文献

 

-          石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』講談社、1969

-          緒方正人『チッソは私であった』葦書房、2001

-          緒方正人「人としての生命の記憶を願う」水俣フォーラム・ウエブサイトhttp://village.infoweb.ne.jp/~minafo/kinen/000429(ogata).html

-          栗原彬『立教大学法学部案内』http://law.rikkyo.ac.jp/rikkyo_annai/020.htm

-          栗原彬「水俣をつたえつづけるために」(水俣フォーラム趣意書)http://village.infoweb.ne.jp/~minafo/main.htmlより。(200379日アクセス)

-          栗原彬「生命政治と平和」『平和研究26号』(日本平和学会、200111月)4

-          栗原彬「水俣病という思想」『立教法学61号』(立教大学法学部、20022月)

-          栗原彬「水俣病という身体―風景のざわめきの政治学」、栗原彬・小森陽一・佐藤学・吉見俊哉『内破する知―身体・言葉・権力を編みなおす』東京大学出版会、2000

-          森岡正博『生命観を問いなおす―エコロジーから脳死まで』筑摩書房、1994

-          森田ゆり『エンパワメントと人権―こころの力のみなもとへ』解放出版社、1998

-          横山正樹「構造的暴力と積極的平和」『平和学の現在』法律文化社、1999

-          横山正樹「暴力は本来性(サブシステンス)を奪う」戸崎純・横山正樹編『環境を平和学する!』法律文化社、2002

-          ラミス,C・ダグラス『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』平凡社、2000

-          レーヴィ,プリーモ著、竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞社、2000

 

英文文献

-          UNDP, “Human Development Report 2003”, UNDP, July 8, 2003発表, http://www.undp.org/hdr2003/ Human Development Indicators