本論文の目的

 

1.    緒言

21世紀を迎え経済不況下の日本では、ODAOfficial Development Assistance=政府開発援助)がマスコミの批判を浴びるという形で注目され、2年連続の予算大幅削減、外務省によるODA大綱見直しが行われようとしている。90年代初めには米国とイラクの戦争を背景に「国際貢献」の必要性が叫ばれたことは記憶に新しいが、いまふたたび9.11以後の米・イの軍事的緊張の中で、「戦略的援助」や「国益を目的とした援助」が主張されている。

外務省経済協力局はODA大綱見直しの背景として第一に、「テロの温床となる貧困」解決のためのODAの役割を謳い、第二に「持続可能な開発」をはじめとする開発援助の新潮流[1]を述べている。しかし、そもそも貧困とは何なのか。世界銀行の定めるラインの現金収入に達しない人々はみな貧困なのか。貧困を救済するという「開発」が新たな貧困を作り出すことは本当にないのだろうか。また未来世代の永続的生存を目的としていたはずの「持続可能な開発」が「開発そのものを持続させる」という意味になってはいないだろうか。

産業革命以来の多くの「開発」、さらにこの半世紀たらずの間の第三世界「開発」が経済「発展」と引き換えに、そこに生きる人々や文化、その周囲の環境ばかりか地球環境にまで大きな厄災を与えてきた事実にいま異論を唱える人は少ないだろう。しかし「それは開発のやり方が悪かったので、適切な方法をとれば良いはず」、あるいは「それは正しい(あるべき)開発ではなかった。正しい(本来の)開発をすれば良いのだ」と考え、「オルタナティブな開発」や「内発的発展」を唱える人はいても「開発という考え方のフレームワークそのものを問い直そう」と主張するのはまだまだ少数派である。

一方「開発コミュニケーション」は、195060年代初期の近代化論的「開発」を背景として、第三世界諸国の伝統的価値観を「開発」の障害として「伝統的大衆」を変容させる道具、マスメディアの拡大と消費として登場した。当時の主流の「近代化論」的「開発」から「『開発』の概念自体が時代とともに変わったのに伴い、『開発コミュニケーション』の概念もそれに合わせて変化し[2]」、最近では「オルタナティブな開発コミュニケーション」も主張されている。しかしながら脱「開発」コミュニケーション、すなわち従前の「開発パラダイム[3]」、「開発主義[4]の罠に囚われること」から脱却するコミュニケーションは、殆んど(或いはまったく)知られていない新しい概念である。周辺化された世界に「開発」のしわ寄せという暴力ばかりか、戦争までが集中的に押し付けられているいま、この脱「開発」コミュニケーションが平和実現の方法の一つとなりうるのではないか。これを平和学の視点から考えていきたい。

 

2.    脱「開発」コミュニケーションの背景と概念

2-1   コミュニケーションとは何か

コミュニケーションの概念は非常に多義的で複雑であり、一般的には(熱の)伝達、(病気の)感染、交通・通信およびそれらの手段・機関といった概念まで含まれている。本論で対象とする人間の社会的コミュニケーションは、情報の伝達にかかわる活動であり、複数の人々の間の意味的相互作用である。

「あらゆる社会的相互作用はかならずコミュニケーションを伴うものであり、いかなる社会過程もコミュニケーション過程である[5]」ので「社会的コミュニケーションは、人間と人間とを結び付け、そして協力、分業あるいは競合、支配などさまざまな社会関係を存立させているが、同時にその関係を変え、新しい社会関係を作り出してもいる[6]」のである。社会変化とコミュニケーションには相関関係があり、社会の拡大や複雑化が新しいコミュニケーション手段の発展を求める、またメディアの革新によるコミュニケーションの変化が社会の変化を推し進めるともいえる。本論では、社会変化の主な過程はコミュニケーション過程であるという視点を入り口に、コミュニケーションと暴力の関係を考察する。

 

2-2   開発コミュニケーションの領域

「開発コミュニケーションとは、第三世界のプロジェクトで見られるコミュニケーションに関わるさまざまな取り組みの総称である[7]」という。第三世界のプロジェクトとは、「開発」プロジェクトを意味する。したがって「開発」という社会変化の主な過程は「開発コミュニケーション」の過程である。具体的には第一に、筆者がJICA(国際協力事業団)において携わってきた母子保健/家族計画プロジェクト、エイズ予防対策プロジェクト、マカデミアナッツ栽培普及のように一般民衆、地域住民を対象に、マスメディア、小規模メディアを利用、また普及員・フィールドワーカー・保健ボランティアといった人々の活動、或いは対象者の直接トレーニングなどによって、知識の普及〜態度変容〜実践をはかる活動で、JICA等でIEC (Information, Education and Communication)と呼ばれる普及型のコミュニケーションである。第二に、やはり筆者が携わったサンゴ礁保全管理計画におけるコミュニティ基盤沿岸管理(Community-based Coastal Management)のように、地域住民のプロジェクトへの参加を促し、また住民自らマネジメントする能力を高める参加型コミュニケーションがあり、第三に、「開発」プロジェクトを運営する、異なる文化背景や国籍を持った人々の間の異文化コミュニケーションがある。JICAのような二国間援助機関やUNDPのような国際援助機関、さらに多くの「開発」NGOが現在実施している「開発」プロジェクトが、社会を「開発」する(企画・計画・実施・評価)という変化の全過程で必要とされるコミュニケーションのすべてが「開発コミュニケーション」の領域であるが、筆者が数々のJICAプロジェクトで「IEC専門家」としてアサインされていたように、多くの場合、専門家によって司られ、カテゴライズされる領域として捉えられている。

第三世界で開発コミュニケーションが実践されている分野は、前述のように公衆衛生・母子保健・家族計画など国際地域保健学の関連分野をはじめ、農業普及・環境管理・識字教育などの社会開発と呼ばれる多岐の分野にわたっており、普及学[8]やソーシャル・マーケティング、社会学、教育学、人類学などさまざまな社会科学的アプローチから調査研究されている。

 

2-3   開発コミュニケーションという言説

1950年代中頃から問題化した水俣病被害に対して1959年、漁民が操業中止を求めて工場に突入し、患者家庭互助会は補償を要求するなど、チッソ犯罪への本格的な闘いが始まった[9]。また1962年にはレイチェル・カーソンが『沈黙の春』を発表。1960年代には世界各地で経済発展に伴う環境破壊が激化し、「発展」や「進歩」を促すものとして捉えられてきた「開発」概念にもかげりが見え始めた。さらに1972年、ローマ・クラブ『成長の限界』、1973年、シューマッハー『スモール・イズ・ビューティフル』の発表に見るように、開発主義が人間の生存や、人間もその一部である生態系・環境の持続を脅かすという根源的な警告・批判が行われるようになった。

一方の第三世界の「開発」も、地域住民を居住地から強制的に追い出し、文化や環境を破壊した上に貧困が一層拡大したことから、「人間開発」や「内発的発展」と称する新たな尺度・目標が「オルタナティブな開発[10]」という方向性として登場した。

このような開発概念の変化によって開発コミュニケーションのアプローチも、マスメディアを使って人びとに「近代化」を大々的に上意下達するコミュニケーションに依存する従前のものから、より限定された地域、より具体的な目標、より小規模で伝統文化に基づく「適正な(つまり安価な)」メディアによって、人びと(地域住民)の参加を動員する方向への変化の流れが起った。即ち「主流の開発」から「オルタナティブな開発」への変化に対応し、「主流の開発コミュニケーション」とは異なり、参加やエンパワメントを目指すという「オルタナティブな開発コミュニケーション」といわれるものの登場である。

 

2-4   脱「開発」コミュニケーション

脱「開発」コミュニケーションは、「開発」という社会変化の過程に対する根底的な疑問、問い直しに根ざしたコミュニケーションである。したがって「開発」の過程のコミュニケーションである「開発コミュニケーション」を問い直すと同時に、「開発」そのものを問い直し「開発パラダイム」からの脱却を目指すコミュニケーションである。即ち、脱「開発」コミュニケーションとは、脱「開発コミュニケーション」であり、かつ「脱開発」コミュニケーションでもあるのだ。

本論では、1950年代から60年代初頭にかけての「主流の開発コミュニケーション」の失敗の上に登場した「オルタナティブな開発コミュニケーション」も、「開発パラダイム」の枠の外ではありえず、「開発主義の罠」から逃れられないことを仮説とし、それを検証してゆく。第1章では「開発」から平和へのパラダイムシフトを説明し、第2章では母子保健/家族計画などのJICA技術協力プロジェクトやバングラデシュの農村開発NGOであるBangladesh POUSHの活動などの事例を通して仮説を検討する。さらに、第3章ではフィリピン、ネグロス島でのエクスポージャーとそのドキュメンタリー制作の事例から、「開発パラダイム」を脱却する、平和学の方法としての脱「開発」コミュニケーションとその可能性を探る。

「開発」の一つの過程がグローバリゼーションであるならば、「開発コミュニケーション」は情報のグローバリゼーション、コミュニケーションのグローバリゼーションともいえよう。しかし、大量の情報が瞬時に世界の電脳空間を流通する一方で、過労死、自殺、蒸発、孤独死に見るように、人と人とのコミュニケーション、人と人との関係性はむしろ希薄になっているのではないか。人と自然生態系の間の共生関係が共有地(コモンズ)の囲い込みの開始によって資源化・稀少化され、一方的な収奪へと関係性を破壊されていったように、人間が経済化され、生産者、消費者、賃金労働者といった機能的存在に分断されてきた過程で、人と人との互酬的・互恵的・相互扶助関係も分断され、経済関係へと変質、破壊されていった。片や、地縁的共同体から個人を自立した存在として「解放」した近代化は、人間を経済的存在として解体すると同時に、コミュニティを破壊して単なる住居の集合体へと解体した。その過程で、そのような関係性、コミュニケーションの破壊を促進してきたのが「開発コミュニケーション」ではなかったのだろうか。

本論文は脱「開発」コミュニケーションを、単なる経済的機能に分解された人間存在を人間として再統合し、それぞれの人間(諸個人)間の関係性を復権する、あるいは新たな共同性を構築する実践として検討するものである。



[1] 外務省経済協力局「政府開発援助大綱の見直しについて」20021210日。

[2] 久保田賢一『開発コミュニケーション』明石書店、1999年、13-14頁。

[3] 「開発は国策どころか、あたかも『国教』と化した。…(中略)…日本社会を含む人類社会の『メインストリーム』がこれを信ずるところとなり、考え方の前提となる枠組み、つまり『開発パラダイム』としてこれが定着するにいたった」横山正樹「国際貢献のあり方とODAの実像−開発パラダイムから平和パラダイムへ」日本平和学会『平和研究』24号、199911月、55-56頁。

[4] 開発パラダイムを前提に「開発を諸政策の最優先目標に掲げて国家的動員をはかるイデオロギー」(横山正樹「第三世界と開発・環境問題」、横山正樹・涌井秀行共編『ポスト冷戦とアジア−アジアの開発主義と環境・平和』、中央経済社、199642-43頁)であると同時に、人びとに稀少性の支配を押し付け、市場や計画といった経済の囚われ人にする論理、信仰もしくは幻想。

[5] デニス・マクウェール『コミュニケーションの社会学』川島書店、19791頁。

[6] 林進「コミュニケーションと人間社会」『コミュニケーション論』有斐閣、19887頁。

[7] 前掲書『開発コミュニケーション』14頁。

[8] 普及学とはE.M.ロジャーズによって提唱された、イノベーションの普及に関する研究領域で、コミュニケーション学、社会心理学、文化人類学、教育学からの学際的・文化横断的アプローチである。

[9] 『水俣病の歴史年表』水俣市立水俣病資料館ウェブサイトによる。http://www7.ocn.ne.jp/~mimuseum/2003121日アクセス。

[10] 経済成長を進めれば貧困層も物質的な富の一部を享受できるという、ハーシュマンのトリックルダウン仮説は、さらなる貧富の差の拡大という現実によって打ちのめされた。その主流の開発の流れに対するさまざまな批判を統合したものが「オルタナティブな開発」であるとされ、その唱道者たちは「開発パラダイム」からの「パラダイム転換」であると主張している。