<2001年6月9日(土)放送分>
 
 

藤原京と万葉集


藤原京は、西暦694 年、日本で初めての本格的な首都として、今の奈良県橿原市に誕生しました。今回は、藤原京を歌った万葉集の歌に焦点を当てます。
「藤原京」という言葉は、明治以降に使われた言葉であり、万葉の時代には、新益京(あらましのみやこ)と呼ばれていました。今でいう藤原京を歌ったものとしては、藤原宮を歌ったもの、大和三山を歌ったもの、飛鳥川を歌ったもの、などがあります。
万葉集は、およそ350 年間の歌およそ4500首を集めたものですが、藤原京時代はわずか16年間。しかし、、その間にも、いくつかの歌が作られました。藤原京は、宮廷歌人である柿本人麻呂をはじめとした万葉の歌人たちにとって、まさに活躍の場であったのです。

 
春過ぎて 夏来るらし 白栲(しろたえ)の
 衣乾したり 天の香久山
<持統天皇>

春が過ぎて夏が来たらしい。真っ白な衣が香久山に干してある香久山だ


 
上記は最もよく知られた万葉歌の1つ。
まさに藤原京を歌ったものです。
藤原宮跡にある醍醐池のほとりには、
上記の歌が刻まれた万葉歌碑があります。
なお、下記のように改作されたものが、
百人一首に採用されています。

「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」

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ここで、奈良文化財研究所・考古第一調査室・室長の安田龍太郎さんに、考古学的な立場から、興味深い藤原京に関する万葉歌をご紹介いただきます。  

 
藤原宮役民(えだち)作歌
   (藤原宮の造営に従事した人々が詠んだ長歌)
やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 荒妙(あらたえ)の 藤原がうへに 食す国を めし賜はむと みあからは 高知らさむと 神ながら 念ほすなへに 天地も よりてあれこそ 磐(はわ)ばしる 淡海(あうみ)の国の 衣手(ころもで)の 田上山(たなかみやま)の 真木さく 檜(ひ)のつまでを もののふの 八十氏河(やそうちがわ)に 玉藻なす 浮かべ流せれ そを取ると さわぐ御民も 家忘れ 身もたなしらしず 鴨じもの 水に浮きゐて わが作る 日の御門に 知らぬ国 よし巨勢道(こせぢ)より わが国は 常世にならむ 図負(ふ みお)へる くすしき亀も 新た代と 泉の河に 持ちこせる 真木のつまでを 百足らず いかだに作り のぼすらむ いそはく見れば 神ながらならし
   
天下を治めている天皇が藤原のほとりで治める国をご覧なさろうとして、宮殿を高く建てて治めなさろうと、神なるままにお考えになると同時に、天と地とよりそうてあるからこそ、近江の国の田上山の檜の角材を宇治川に美しい藻のように浮かべ流した。それを取ろうとどよめいている御民も家の事も忘れ、身もかまわず、鴨のように水に浮かんでいて、(われらの作る宮殿に外国がよって来るよう に、巨勢地<南葛城郡の地名>から、わが国が永遠になろうと予言した文を背につけた霊験のある亀も新たな世であるとして出てくる)泉の川に持って来た檜の角材をいかだに作り、川に流してのぼすのであろう。働いているのを見ると、神の思し召しのままであるようである。

 
柿本人麿が香久山の屍を見て、悲しんだ歌
 草枕 旅の宿(やどり)に 誰が夫(つま)か 
国忘れたる 家待たまくに
   
草を枕とする旅のやどりに、一体、誰の夫が国を忘れているのか。
家の者は待っているであろうに…

   
  *このように、華やかな藤原京の陰で、違った面も歌われていました。
万葉集の解説本を片手に、大和三山や藤原宮跡などの散策はいかがですか?
ぜひこの週末は橿原市へ万葉の散策にお出かけください!