<2002年2月16日(土)放送分>

 
 
ミステリアス藤原京

藤原京の発掘調査について

今回は、藤原京の発掘調査の歴史について調べてみました。街にあたる藤原京の中心部分に、藤原宮という宮殿がありましたが、メインの宮殿である大極殿が、今も残る橿原市高殿町の大宮土壇にあったことは、以前にお伝えしました。しかし、この説が定着するまでには、いろいろと論争があったようです。藤原宮の研究は、江戸時代にまで遡るそうです。そのあたりを、奈良文化財研究所考古第一調査室の安田龍太郎さんにお伺いしてきました。
Q:藤原宮があった場所は、いつ頃から研究が始まったのでしょうか?
   
・江戸時代に始まり、江戸中期の賀茂真淵(かものまぶち)や本居宣長といった
 有名な学者も現地に足を運んで研究した
・その他には、飛鳥寺の東の方の明日香村大原説、大宮土壇のある高殿説、
 橿原市四分町にある鷺栖(さぎす)神社の北およそ1キロにある長谷田土壇が
 大極殿だとする醍醐説、があった
・都が平城京に移った時に、藤原宮のあった所が田んぼとなって、どこにあったか
 分からなくなっていた   
  
Q:それが大宮土壇のある高殿説として決着したのは、どうしてですか?
   
・1934年、昭和9年、12月1日、民間の研究機関“日本古文化研究所”が、
 発掘の鍬を入れた
・場所は、大宮土壇の西の地点(前年にそこから瓦などが出ていたため)
・そして数日後、大きな建物の跡を発見、新聞が「藤原宮大殿堂発見」と報じた
・以後10年間に、大極殿や朝堂院の建物跡を次々と発掘して、藤原宮の中心
 部分を明らかにするという成果をあげた
・しかし、1943年、昭和18年に、戦局が悪化して発掘は中断した
 
Q:戦後は、いつ発掘が再開したのですか?
   
・23年後の1966年、昭和41年に、国道165 号線のバイパス工事に先立って、
 奈良県教育委員会が調査を行った
・1969年まで、6回に渡って発掘が行われたが、宮のエリアを確定する大きな
 成果をおさめた
・また、始めて木簡を発見。宮を区切る北と東西の大垣を見つけたため、
 宮の大きさが確定した
・1969年、京都大学の岸俊男氏が、京域を設定して藤原京を復元。
 有名な岸説が出された
・世論の強い後押しもあって、バイパスは路線を宮のエリアの外の西に変更。
 宮跡は保存されることになった
   

Q:その後の発掘調査は?
   
・1969年以降は、当時の奈良国立文化財研究所、今の奈良文化財研究所に
 引き継がれ、今では、藤原宮の調査は奈良文化財研究所が行い、
 藤原京の調査は、橿原市と明日香村が中心になり、奈良県と奈良文化財
 研究所が協力して行っている
・今、藤原宮跡で発掘したのは、まだ、全体の10 %にしか過ぎない
   
Q:これから何が見つかることが期待されますか?
   
・藤原京のエリアが、発掘が進むことで、大きくなってきている。今後もさらに
 大きくなることもあり得る
・まちの様子が、まだまだ今から分かってくる部分があるだろう。例えば、
 記録では、官営の市場があったが、実際の跡はまだ見つかっていない
・藤原宮に、まだまだどういう状況で役所が建っていたのか分からない点
 も多いので、それが明らかになっていく