20042月14日(土)オンエア
高取町が生んだ俳人
阿波野青畝(あわのせいほ)の句碑めぐり
part 1


 


「たかむち俳句会」の皆さん


ポケットパークにある句碑


略年譜もありました

高取町出身の有名な俳人の阿波野青畝は、明治32年生まれで、平成4年まで生きておられました。どんな方だったのか、詳しいお話を、高取町の俳句の会である「たかむち俳句会」の皆さんに、高取町の観光案内所の夢創館でお伺いしてきました。
お伺いしたのは、河合和子さん、辻慶子さん、増田なづなさん、永野永久(とわ)さんの4人です。木村:阿波野青畝さんって、どんな方ですか?

河合:高取町が生んだ立派な俳人でございまして、高浜虚子の高弟のお一人でいらしゃいます。もちろん、皆さんのご存じの「4S」のお一人でもいらっしゃいます。
木村:4Sといいますと?
河合:虚子のお弟子さんで、水原秋桜子(しおうおうし)、山口誓子(せいし)、高野案十(すじゅう)、そして阿波野青畝です。
木村:高取町に生まれたとのことですが、生まれてからどのように俳句を始めていかれたんですか?
河合:明治32(1899)年、高取町上子島に生まれられました。土佐小学校に入学されましたが、難聴という持病を持っておられました。16才の時に奈良県立畝傍中学校に入学されまして、そこで「ホトトギス」という俳誌を求められ、それによって俳句に興味を持たれたわけでございます。
木村:実際に勉強されたのは、いつごろからなんですか?
河合:その俳誌の中の原田浜人(ひんじん)という方を師とされて、18才の時にその原田浜人宅で虚子の俳句会が催されました時に、浜人の紹介によりまして、初めて虚子と青畝とがあったわけでございます。
木村:運命の出会いですね。では、その後はどんな人生を歩まれたんでしょうか?
辻:銀行へ勤務しながら俳句を続けていらっしゃったそうなんです。そして、24才の時に、大阪の商家、阿波野家へ婿入りされまして、貞さんと結婚なさいました。そのころからホトトギスでの成績がよくなっていって、25才の時に若くしてホトトギスの課題選者ともなられたそうです。そして、昭和4(1929)年、八木にある久米寺において、「かつらぎ」という俳誌を発刊されてその主宰者になられました。
        * * * * *
木村:夢創館の隣にありますポケットパークにやってきました。こちらの阿波野青畝さんの句碑があるということですが、こちらですね。さっそく読んでみます。
「飯にせむ 梅お亭午(ていご)と なりにけり」
これは、どういう風に解釈をしたらいいんですか?
増田:青畝先生が梅林に行かれ、正午の光がだんだん強くなってきて、白梅もきれいに光ってきて、生け垣の下の道もきれいになってきて、自分も気だるさを感じてきたから、どこかでご飯にしようじゃないかって言った句なんですけど、その梅の雰囲気を出しておられると思います。
木村:このほかにも、句碑はいくつかあるそうですが?
増田:そうですね。青畝先生の生家にもいい句碑がありますので、行けたらと思いますが。
木村:じゃあ、皆さんもその句碑を見に行きましょうか。