<2002年1月12日(土)放送分>

 
ミステリアス藤原京

藤原京と遣唐使

西暦630 年に始まった遣唐使は、669 年に6回目の派遣があってから、33年間、中断しました。これは、白村江の戦いで、唐との関係が悪化したためですが、藤原京時代に復活をしています。大宝律令を制定したあくる年の702 年のことです。つまり、今年は、遣唐使復活1300年ということになります。どうしてこの年、遣唐使が復活したのか、またそれによって何がもたらされたのかを、奈良文化財研究所・考古第一調査室の室長、安田龍太郎さんにお伺いしてきました。

 
Q:なぜ遣唐使は再開したのですか?
   
白村江の戦いに破れて唐と関係が悪化して、遣唐使を中断している間に、日本の体制を整えた。その上で、唐との関係を修復して、日本の国際的な地位を確立するために再開した。
   
Q:藤原京時代には、何回、遣唐使は派遣されたのですか?

702 年(第7回)だけ。次は平城京時代の717 年になる。なお、平安時代の894 年に廃止になった。
   
Q:遣唐使って、どんな人たちが何人ぐらい行ったんですか?
   
遣唐使を乗せる遣唐船は、藤原京の頃は4隻。行った人数は、1回に250 人〜500 人ぐらいで、優秀な貴族や、国費による留学が認められた優秀な留学生、留学層。歴史上有名な人も行っており、山上憶良といった貴族、そして、後の時代には、最澄や空海も留学僧として渡った。   

Q:遣唐使はどんなルートを通ったのですか?
   
まず、大阪の難波津から船で九州方面に行く。そこから、最初の内は、壱岐〜対馬〜朝鮮半島〜山東半島へというルート。しかし、後半は、五島列島〜東シナ海〜揚子江へというルート(およそ5ヶ月かけて渡った)。
   
Q:再開した遣唐使によって、何がもたらされたのでしょうか?
   
実際に唐の都の長安を使節団が直接見て、その体制を日本に伝えることができた。これが、平城京遷都をするための大変な参考になった。藤原京時代の遣唐使は、以後の日本の都づくり、国づくりにとって意義が大きい。
遣唐使は、平城京時代が一番多く、それで知識や文化を得て、奈良時代が反映した。しかし、平安時代になって、律令体制が緩んで独自の文化が芽生えてきて、唐も危うくなってきたので、遣唐使は廃止となった。