<2001年10月13日(土)放送分>


ミステリアス藤原京

今飛鳥から藤原京へ、そして平城京へと移っていった都の流れというのは、それ以後の日本の都造りや国造りにとって大きな意味を持っていますが、今回は、その中でもとくに、藤原京の持つ意味がとても大きかったということが、調査研究が進むにつれて分かってきたという話題について、奈良文化財研究所考古第一調査室室長の安田龍太郎さんにお伺いしました。

 
Q:飛鳥から藤原京、そして平城京という都の移動の中で、藤原京がとくに大きな意味を持っているというのは、どういうことですか?
   
・日本で最初の計画的な本格首都である点
・藤原京の造営を決めた天武天皇は(実際に造営したのは天武天皇の死後、その妻の持持天皇)、中国に倣って都造りをし、本格的な律令国家を作り上げようとした(当時、世界最大の都市であった中国・唐の長安に倣って都造りを行い、日本を列強国家にしていこうと思った)
・そのため、飛鳥とひっつくような場所にあるすぐ北の藤原京が適所だと考えた
   
Q:そうすると、規模の点でも藤原京は大きいのでしょうか?
   
・飛鳥京と藤原京とは、比較にならないほど違う。藤原京の方が何十倍も広い
・一方、藤原京と平城京は、当初は、藤原京は平城京の半分以下だと思われていたが、調査研究が進むにつれて、藤原京の範囲がもっと大きかったということが分かってきて、平城京とほぼ同じ大きさだということが明らかになってきた
・実は、平城京より大きかったかも知れないという考えもある
   
Q:どうしてそういうことが分かってきたのですか?
   
・1960年代に、故・京都大学の岸俊男が出した説では、藤原京は、縦が3.2 キロ、横が2.1 キロの長方形で、大和三山の内側に納まる範囲だった。この岸俊男説が、長い間、藤原京の範囲だと思われていたが…
・1980年に、その範囲の外から、藤原京の道路が見つかり、その後も次々と見つかった
・その結果、東西4.2 キロ、南北4.8 キロ、総面積20・の都だったと分かってきた。大和三山に囲まれたエリアの外、一部は桜井市までかかっている。それからは、大藤原京説が言われはじめた
・さらに研究が進んで、東西がおよそ5.3 キロ、南北もそれより少し小さいぐらいという、ほぼ正方形の範囲である可能性が出てきた
   
Q:そんな藤原京が、16年で平城京へ都の座を譲った理由は?
   
・都の中心部となる宮の部分を比較すると、藤原宮の場合、天皇の住居や役所がほぼ宮のエリアの真ん中にあるのに対して、平城京やそれ以降の平安京はエリアの北側にある
・中国の都も、やはり北側にある
・中国の記録では、中央にあるのを理想の形というものがあるが、実際に中国で作られた宮は北側のものばかり
・藤原京造営の前まで、遣唐使が途絶えていたので、情報が不足していて、中央部に造ったが、大宝律令後に遣唐使を派遣して実際に見ると、北側にあることがわかって、それをまた倣って都を造ろうということで、平城京へ移したということも考えられる