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深川写真館>>深川佐賀町界隈(豊島伸郎氏より寄稿)
(昭和62年5月1日陽岳寺便り7号〜昭和63年1月31日9号連載)

佐賀町界隈(元佐賀新聞東京支社長 故 豊島伸郎氏より)

その一(〜江戸〜)
その二(江戸中期〜)
その三(明治・大正・昭和〜)

その一(〜江戸〜)

 

 日本橋方面から、隅田川を永代端で渡ると、左手に佐賀一丁目とある。第二次大戦後、町名変更で、東京から古い由緒ある町名が消えていった現在、都心に近く、ひっそりと三百年近い歴史をもった古い町・佐賀町が、どんな歴史を秘めているのか、興味深いので調べてみた。
 かつて、東京は十五区で、第二次大戦後に深川区と城東区が合併して、現在の江東区となったが、今も深川地区の人々は、深川の地名を懐かしむ。
 川口松太郎の名作「風流深川唄」をはじめ数多くの作品の舞台となり「粋で」「いなせ」で「いさみ」な深川気質が、下町を代表していた。
 都心から東南の方向、つまり昔流にいえば「辰巳」での方角にあるところから、「辰巳」で、辰巳芸者は、南側がすぐ海で、汐風に身を晒されるため、羽織りを着て宴席に出たという。
俚謡、俗曲、小唄などにも多く唄われ、深川即木場のイメージとともに、江戸を代表する地区であった。

 この地区の玄関口が「深川佐賀町」である。
 時は溯って、明暦三年(一六五七年)一月十八日江戸は本郷の妙法寺より出た火は、折からの北西の強い季節風に煽られ、翌十九日に亘って江戸市中の六十%を焼きつくす大惨事となった。明暦の大火、後に「振袖火事」とも呼ばれ、歴史に残る大火である。江戸城本丸、三ノ丸をはじめ焼失しだ諸侯邸五百、神社仏閣三百、倉庫九千余、橋梁六十、市井五百余町、死者十万人とも伝えられる。
 幕府はこの惨事に鑑み、隅田川の東岸及び小名木川の南北両岸、多くの神社仏閣諸侯邸を移転せしめた、と記録にある。
 当時、この一帯は沖積土の淋しい漁師の集落で、文政二年の推定で戸数三百二十、人口一千百九十二名、名主の相川新兵衛支配の無年貢地であったという。大火後、次第に開け、元禄八年の検地により深川佐賀町が誕生した。
 降る雪に遠くなった明治を偲んだ朔太郎の句ではないが、戦後もすでに遠くなってしまった現在、昔を偲ぶよすがもないが、去る日、佐賀町をたずねてみた。

 中央区の新川より永代橋を渡ると、すぐ左手に交番がある。左手に曲がると、商社、雑穀、肥料、油問屋などが軒を並べてい。今でも肥料や油類を扱う店が多いのは、当時、唯一の金肥であっだ干鰯の集散地であった名残りであろうか。
 隅田川沿いに北に歩を進めれば、高速九号線が高架で東西に走っている。かっては油堀川であった跡である。この川を埋め立て、高遠九号線は日本橋箱崎町から隅田川を渡り、湾岸道路へと伸びている。不粋なマンモス道路が、油堀川と更には佐賀町一、二丁目を分断してしまったのだ。佐賀町二丁目は、かって倉庫の町であった。油堀川によって南側が一丁目、北側が二丁目と分けられ、この地区を縦横に走る運河とともに、水運の便から倉庫が多く存在した。
 江戸の華といわれた火事も、隅田川で喰い止められ。仙台藩の蔵屋敷があった仙台堀川、大横川など、堀割りによる輸送が便利だったからだろうか、免れた。

 明治以降この倉庫群は、米や雑穀等を扱って繁栄し、明治十九年には正米市場が開設され、東京の米の売買は、第二次大戦前までは殆どここで行なわれていたという。現在の古ぼけだ食糧ビルは、正米取引場跡である。
 江戸末期、富岡八幡の門前町として、まだ、岡場所として深川が栄えた頃「猪牙でゆくのは深川がよい、あがる桟橋いそいそと〜」と唄われたのは、佐賀町一丁目とニ丁目を分けた油堀川でったことはいうまでもない。花街へゆく粋人たちの猪牙船の航路、佐賀町を通ったのは楽しいが、その後、度重なる風水害、関東大震災、戦災が町の歴史を変えてきた。
 深川佐賀町は、現在東京に残る数少ない由緒ある町の一つである。
 幕府は、江戸防衛上の理由から、隅田川のの架橋を禁じていたが、対岸の地理的発展に併なって、両国端を架設、ついで新大橋を架橋した。とくに寛永年間から元禄にかけての対岸の発展は著しく、現在の地下鉄東西線の開通で、葛西や浦安地区の急開発に似て面白い。
 在来、渡船によっていた佐賀町一帯は漁師町より寛永元年建立された富岡八幡の門前町の入口として栄え、花町を形成していき、元禄十一年(一六九八年)には永代橋が架設された。

 「江戸前」という言葉がある。「前」の語源、江戸前のすしなどというが、これは言葉として、三つの意味をもつという。
 その一つ、処や場所を表しているという解釈は、文字どおり江戸でなかった隅田川の対岸・佐賀町を含めて、江戸の前であった訳だ。例えば、蔵前、八幡前などがある。
 そのニ、能力や姿を表している場合、一人まえ、椀まえなどである。
 その三は、如や然を意味するものとしては、あたりまえ、何々のような、何々らしい、という意味があると聞く。「江戸前で、いなせなおにいさん」と、いかにも聞こえは良いが、あくまで江戸の前であり当時は或る程度ヤボな代名詞だったかも知れない。
 当時の辰巳芸者を表徴する言葉に「おきゃん」というのがあ。これは「お侠ん」が漁師言葉で訛ったもので、土地言葉として使われた。「粋で、伝法で、おきゃん」などという表現は、決して上品な意味を持たず、生意気で侠気だつたのが美化されてしまったのが、本当らしい。イキは決して粋ではなく、江戸っ子の心意気から来たもので、体育系大学生が使う「オッス」という言葉が、葉がくれの「押忍」が語源であるという解釈をしてみれば、逆説的にうなづける。
 話は脱線したが、度重なる火事や風水害で、永代橋は何度か消失し、そのつど改修され、北新堀と佐賀町の両岸に橋番所を置いて、通行料をとったと記録にある。当時は、永代端は現在より百メートル程上流にあった。新川から、佐賀一丁目の中央部に架設されていたという。

 文化四年(一七〇〇年)八月十九日、故あって十二年間中止されていた深川八幡の祭礼が復活し、通常十五日が祭礼のピークだが、雨のため四日順延され江戸っ子の祭り好きに加え、日のべが人気を呼び、祭りは爆発した。霊岸島の「山車ねり舟」が、昼四つ時に永代端近くにさしかかった時に、両岸から数千人の人が橋に殺到し、ひと目見んものと鈴なりになった。この時、永代橋は佐賀町寄りの三間ばかりが倒壊、大惨事となった。つぎつぎに押し寄せる群衆は橋の欠落を知らず、後より押されて川に転落、死者すべて千五百余名に達した。この時、橋番所の侍某が抜刀し、大音声に押し寄せる群衆を制したので被害が最小限で止められたことは、落語にもある有名な話だ。後日、佐賀町、蛤町一帯は死体を探す身内や縁者で混雑を極めたことは「夢の浮橋」という講談のなかでも有名である。

 幕府は、度重なる台風による流出や、江戸名物の火事によっては焼け落ちる永代橋を廃橋にしようとしたが、佐賀町をはじぬ深川商人の橋に対する愛着は強く、橋銭を出してこの橋を修復し続けたというこれは、深川商人たちの心意気かも知れない。
 元禄十五年(一七〇二年)十二月十四日、本所松坂町の吉良邸に討入った赤穂浪士は、みごと主君の仇を果たし、主君の墓所のある芝高輪の泉岳寺に向かった。一行は、両国橋、新大橋を渡らず、隅田川沿いに南下、幕府の御船蔵のある安宅を経て、小名木川を万年橋で渡り、黒江町、佐賀町を通り、永代橋を経て、泉岳寺に向かったと史実にある,朝露の中、火消装束に身を固ぬた浪士の隊列を、どんな思いで深川佐賀町のん々はみたのであろうか。
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その二(江戸中期〜)

 

時は移って江戸中期、佐賀町を玄関口とする深川一帯は、その水運の便とともに、木場を形成してゆく。
 両国橋を渡った“川向こう"は、名実ともに江戸の町となった。
 特に両国橋の対岸は見世物小屋が立ち並び、繁栄を極めたと史実にもある。
隅田川を渡って一つ目、二つ目、三つ目と、名付けた通りがあり、現在も“三つ目通り"が残っている。一つ目、二つ目は、度重なる水害や津波による民家の倒壊とともに消滅したが、三つ目通りが現在も残っていて、北上すれば向島の小梅の里を経由、水戸街道に繋っている。
 一つ目通りが現存するとすれば、多分佐賀町を南北に通じていたことは当然のことだ。
当時、佐賀町南側はすぐ漁師の集落を隔てて海で、現在の越中島や佃島など沖積土の島であった。
 前にも触れたが、赤穂浪士が吉良邸討入りのあと、永代橋経由で高輪泉岳寺に向かったのは、歴史上一番信頼の高い説である。両国橋渡河説、新大橋経由説などあるが、文献を調べてみると、やはり永代橋が最も有力である。
 この朝、大高子葉と宝井其角との両国橋出会いの話が、堀部安兵衛と細井広沢との永代橋上のわかれと訛伝されたことは、後年「堀部覚書」とか「武庸(たけつね)筆記」に残されている。
 堀部安兵衛と細井広沢は、神田紺屋町に道場を開いていた堀部源太左衛門の相弟子で、その後、広沢は老中柳沢吉保に仕え、武芸、書画、天文、算数を良くし、一方、堀部安兵衛は、高田馬場の仇討をすませ、堀部弥兵衛の養子となった。その後、細井広沢は淡白な性格のため、讒言(ざんげん)のため職を辞したが、柳沢吉保はその豊かな人間性を惜しんだが、広沢は再び仕官せず悠々の隠居生活を送ったとある。

 浪士の討ち入りが極秘のうちに計画され、妻子や親しい人々にも打ちあけず実行されたとは、後年、巷談に尾鰭(おひれ)がつけられたもので、細井広沢は、この日の義挙を知っていた。万一、吉良上野介殿を討ち損じた折は、吉良邸に火を放ち、この日の全員自害と聞いていたので、深川門前仲町の寓居で寝もやらず北の方角を眺めては、火の手のあがらないのを祈っていた。夜明け、細井広沢は佐賀町を経て、永代橋上で義士の一行に追いつき、大石良雄や堀部安兵衛と出合い、涙してその本懐を祝ったことは、前述の「武庸筆記」「堀部覚書」に詳しい。永代橋渡河説を筆者があえて押すのは、この本のためだ。
 話は横道にそれたが、水運の便とともに次第に開けてゆくこの界隈では、油堀川の北の仙台堀川は現在も残っているが、仙台藩の蔵屋敷が岸に沿ってあり、この川の名が付けられた。

 江戸の華といわれた火事も、隅田川によって止められ、次第に独自なこの地域の文化を形成してゆく。
 佐賀町付近には史跡が多いのも、これを表徴している。近くには幕府の御舟蔵総監であった向井将監の開基になる陽岳寺、伏見義民を匿まって有名な高僧八代目照道和尚で、現在も史跡として残っている。北へ向かえば霊岸寺、名君松平定信の墓があり、その末寺には紀之国屋文左衛門の墓がある。
 その頃、材木商として栄えた奈良茂と紀文大尽が、吉原で贅(ぜい)を極めた遊びくらべは有名すぎる話なので省略するが、奈良茂が存命中のれんの傾むいたことを知らず天寿を全うしたのに、紀文は晩年没落して深川佐賀町近くの寓居で世を去った。
 後年、紀文の家を手に入れた某が、ふすま、障子、天井などを詳べてみると、全国各地から集めた和紙や木で作られ、一つとして同じ地方のものが無く、さすがは紀文大尽とその贅沢さに舌を巻いたという。

 江戸っ子は宵越しの銭(ぜに)は使わないなどという伝説は、多分、紀文と奈良茂の馬鹿げた遊びくらべにその源を発し、後に大工職人をはじめ全国から集まった町民たちの、腕さえあれば新興都市江戸では仕事があったからであろう。
 生意気が粋となり、貧乏はしても贅沢が死ぬほど好きな町人気質が、形成されていったに違いない。贅沢とは無駄の集積であり、野暮より通(つう)を好んだ町民文化が、徳川三百年太平の世に次第に花開いて行ったのだろう。
 時は移り、幕末ともなると、深川佐賀町界隈は大きく変貌してゆく。
 嘉永六年(一八五三)浦賀にアメリカのインド艦隊ペリーの来航、この黒船の渡来は、まさに当時としては大きな驚きであったろう。
 三百年近い徳川の安定政権も、にわかに緊張の度を加え、内憂外患その慌しさの中に、幕閣はその統治にピリオドが打たれようとしていた。

 天保の改革も、財政上の赤字の解消には至らず、加えて諸国の大名の動きも活発になつてきた。
 さらには安政二年(一八五五)十月二日の夜十時ごろ、江戸川下流を震源地とする直下型の大地震が江戸を襲い、江戸は壊滅的な打撃を受けることになる。江戸城の石垣がくずれ、大名屋敷や町家など殆どが倒壊し、市中五十余ケ所より出火、死者十三万人とも伝えられる。安政の大地震である。これが幕府の財政上の大きな負担となったことはいうまでもない。
 さらに五年後の万延元年、桜田門外の変が起こり、つづいて二年後には坂下門外の変につながり、幕閣は虫の息となってゆく。
 この頃、伊東甲子太郎は、深川佐賀町の道場で、移りゆく時勢を静かにみていた。道場跡が現在の佐賀町のどのあたりか、調べるすべはないが、史実によればつねに五、六十名の門弟が出入りし、内弟子も十余人あり、師範代を勤めていた中西登(上州)、内海次郎(上州)らが、朝から夕方まで稽古着を脱ぐ暇がなかったとあるから、当時としては比較的大きな道場であったろう。

 伊東甲子太郎は、常陸の国新治郡志筑の出身である。現在の茨城県石岡市で、天保六年志筑藩の御目付鈴木専右衛門忠明の長男として生まれた。幼名を大蔵といった。その後水戸へ出だ甲子太郎は、金子健四郎の門に入るが、父の死後は江戸へ出て、玄武館の千葉周作の高弟で、北辰一刀流伊東誠一郎の門人となる。伊東誠一郎は深川佐賀町に道場を開いていた。
 甲子太郎はこの道場に学ぶこと数年、やがて師範代として頭角を出し、誠一郎の死後、その遺言によって娘うめを妻とし、伊東姓を嗣ぐことになる。道場の経営も順調であっだが、所詮、甲子太郎は一生を市井の剣客ですごす人物ではなかった。
 元治元年(一八六四)京では近藤勇、土方歳三らの池田屋事件が六月におき、新選組の旋風が吹き荒れていた。単に浪士集団であった警察隊が、日本中にその名を知られたのは、この池田屋襲撃であった。
 近藤らの思想は敬慕であり、あくまでも公武合体によつて攘夷を実行しようという考えだったろう。だが新選組という集団にとって、池田屋事変は決定的であった。この事変で単なる佐幕派でなく、世間の評価は尊皇攘夷論者に敵対するものとして位置づけられてしまう。人間や集団の評価は「何をしたかったか」では下してはくれない。「何をしたか」で決められてしまうのだ。
 その新選組に、伊東甲子太郎がなぜ入ったかは諸説の別れるところだ。甲子太郎は水戸学にも造詣が深く、のちに国学に傾倒したことは、彼の思想が尊皇攘夷論者であったことは、和歌もよく詠んだことにも推察される。新選組草創者のひとり藤堂平助のすすめで新選組に入ることとなる。

 甲子太郎は佐賀町の道場をたたみ、芝三田に家を求めて妻うめを住まわせ、元治元年十月十五日江戸を発ち、京へ向かった。
 同行は実弟の三樹三郎、道場の内弟子で師範代の中西登、内海次郎、それに篠原泰之進、服部武雄ら七名、ゆっくりと東海道をのぼり十五日後に壬生村の新選組屯所に着く。
 屯所に入るに先立ち、一行は皇居を遥拝し
「ちりひぢの身はいかにせむ今日よりは皇宮居の守ともがな」と詠んでいる。
 近藤は、伊東甲子太郎を新選組参謀というトップの職に据えたが、所詮は思想の相異如何ともし難かった。やがて総長山南敬助の脱走失敗、隊規による切腹、近藤、土方の血盟団のごときラインアップに、彼は脱隊を考えるが果たさず、慶応三年十一月十八日近藤の妾宅に招かれ、帰途刺客の手により七条油小路で謀殺された。「油小路事件」である。文字どおり維新前夜であった。
 彼が白刃のなかでみた夢は、来るべき新しい時代と、平穏だった深川佐賀町の日々であったかも知れない。
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その三(明治・大正・昭和〜)

 在来、世界の大都市は河川に沿って成長発展してきた。ロンドンのテームズ河、パリのセーヌ川、ニューヨークのハドソン川とイーストリヴァーなど。歴史的にみても、河川に沿って形成されていった。

 水運の便利さ、防衛上の理由だけでなく、都市のもつ機能性からも、河川または河口が必要とされたのだろう。いわば人と水の関係が、都市と河川となって行ったのだろう。
江戸も例外ではなかった。関東平野を流れ下った利根川や多摩川などが、肥沃な土砂を運び、数千年に亘ってこの平野を形成して行ったに違いない。台風や豪雨のたびに、大量の土砂や流木が地形をも変え、時には豊かさと恵みを、時には災害による悲惨さと荒廃を、幾度も繰り返して来たのだろう。
 大川(江戸の人々は隅田川をこう呼んだ)、荒川、中川、江戸川など、風水害のたびに、その流れを変えて、平地を形成して行った。太田道潅が現在の皇居、江戸城を築いた折は、まだその石垣近くまで、東京湾の波が迫っていたと史実にある。勿論、現在の銀座や日本橋は海の中だった訳だ。

 家康が幕府を江戸に移して以降、急速にこの都市は発展してゆく。隅田川をはじめ、前述の各河川が水運に利用され、その広大な平野と立地が、全国を統治する条件が揃っていたと思われる。駿府はあまりにも狭く、先人の鎌倉はあくまでも古都でしかなかった。大阪や京都は、家康にとっては忌まわしい思い出しかなかったのかも知れない。
 現在、隅田川には、千住大橋から、最も下手の勝どき橋まで十三の架橋がある。前項で述べた油堀川を埋め立て、箱崎から湾岸道路へ伸びている首都高速九号線の下の隅田川大橋と浅草にかかる桜橋、水神橋が数年前開通、これを加えれば十六橋にもなる。
 昭和十年代の前半までは、永代橋が東京湾の文字どおりの河口の橋であった。第二次大戦後、隅田川が汚染され、河川のもつ機能が失われ、その悪臭に迷惑がられた時代があったが、現在、汚水処理についての当局の指導や住民の意識の変化から、川も少しずつ美しくなり、昨今は釣り糸を垂れる人もみかけられる。近年、永代橋上流より向島の言問橋までの早慶ボートレースも復活し、隅田川開き花火大会も行なわれるようになった。
 川はそのもつ機能の水運や生活給排水などを必要とせず、都市形成の機能的な美しさの点景の役割りを果たしているのかも知れない。

 現在の隅田川に架かる橋では、永代橋と一つ上手の清澄橋が、最も美しい橋といわれている。
 さて、再び話をもどして、深川佐賀町の玄関に架かる永代橋について触れてみたい。永代橋は五代将軍綱吉の五十の賀として架橋されたとある。元禄九年工事に着手、同十一年落成した。家康が江戸入国記念日の八月一日から一般の通行を認めた。記録によれば長さ百二十間、幅は三間一尺五寸、海に近く大船が通過、そのため太鼓に作られ、中央部からは富士も箱根も、筑波山や房総の山々まで、良く見えたとある。空気の澄んだ当時、しかも高層建築の無かったことを思えばうなづける。
 その後、台風や火災で幾たびか流出または消滅したが、記録にはない。享保年間に、幕府は財政上の理由で、上流の新大橋か永代橋のどちらかを廃橋に決めたが、付近五十町ほどの町民が存置を嘆願して、橋の修復料を住民の十年間負担とし、通行料をとってこれに充当したと記録にある。

 明治八年四月に本格的な木橋を架橋、工費六万八百三十八円九十銭と記録にある。その後、明治三十年には鉄橋に架け替え、長さ六〇一.二尺、幅四六.八尺とあるから、現在に直せば長さが百八十メートル、幅は十五メートル位であろう。但し、この時代までは、鉄橋といっても床は木造で、大正十二年の関東大震災では焼失し、多数の死者を出した。
 そこで大正十五年十二月、現在に近い橋が落成、長さ百八十五.二メートル、幅二十二メートル、工費二百八十四万壱千円と記録にある。
 昭和初期から太平洋戦後まで市電が走り、下町への動脈として活躍したが、老朽がしたため大改築を行い、幅を広げて補修し、現在に至っている。今、地下鉄東西線がこの橋の下を通過、文字どおり隅田川の下をくぐって佐賀町を東西にぬけて、千葉県西船橋でJR総武線につながっている。地域住民の熱烈な誘致にもかかわらず佐賀町駅はない。地下の轟音が、この街をとおり抜けてゆくのだ。

 夜明けと共に明治がやって来た。
 たぶん深川佐賀町界隈は、大きな変革であったろう。江戸から東京へ、武家社会から町民社会へ、チョンマゲからザンギリ頭へ、目まぐるしい変化を、住民たちはどう受けとめたのだろう。“ザンギリあたまを叩いてみれば、文明開化の音がする"と俗謡にも唄われたのも、この頃だ。
 押し寄せる近代化の波を、文明開化で片づけるには、あまりにも激しい変化であったろう。佐賀町から隅田川沿いに北へゆくと、仙台堀川沿いに日本のセメント工業の発祥の地、アサノセメント工場跡がある。現在も碑が残っていて、当時を偲ばせる。立ち並ぶ倉庫群、縦横に走る運河、セメント工場、木場の貯木場など、この地区は文字どおり近代化の中心であった。
 南側一帯が次第に干拓され、越中島も地続きとなってゆく、東京商船学校、水産講習所などが越中島に開校し、海も次第に遠くなって行った。だが、この時代までは水運が主流で、近くの小名木川はまだ、関宿、利根川を経由する銚子への重要な水路で、家康が江戸入府とともに掘削された運河で、明治の中期までは市民の食糧や物資を銚子から運ぶ動脈であった。
 隅田川も東京市民の足として利用され川蒸気船が永代橋の近くから北へ運航されていた。だが、やがて鉄道の発達とともに、運河の水運としての利用は衰退してゆく。

 明治三十七年五月、日本橋―深川間の電車がはじめて永代橋を渡る。この当時は、終点は佐賀町の南側を抜けて左へ曲がり、陽岳寺付近が終点であった。東京市街鉄道会社の経営で、住民たちは「街鉄」(がいてつ)と呼んで、親しまれていたらしい。
 明治の末期、永代橋のたもとに永代亭という西洋料理屋があった。当時としてはモダン造りで、大正の初期にかけては北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、石川啄木、高村光太郎、石井柏亭、谷崎潤一郎などの文士が、月一回永代亭で会合し、“パンの会"と名づけ、古い江戸情緒を楽しみながら、近代文学論に花開かせていたであろう。谷崎潤一郎は、隅田川の対岸、日本橋蛎殻町の生まれで、少年時代を現在の人形町近くで送ったが、彼の出世作“刺青"の主人公は、深川佐賀町付近に住んでいた設定になっている。後年、彼は関東大震災のあと、東京を捨てて、関西に居を移すが、彼の作品に共通した、妖しくも美しい耽美的な情感は、彼の育った東京下町の、美しくもの悲しい庶民の生活と、その織りなす人情が、底流にあったことはいうまでもない。
 大正から昭和へ、時は静かに流れてゆく、佐賀町の界隈も、倉庫の町として次第に変わってゆく。下町の人々には、深川地区の玄関口とのみ記憶される街戸なってしまった。

 とくに深川地区、城東地区の人口の増加は激しく、やがて街鉄が東京市電となり、この地区を市電が東西南北に走り、第二次大戦までは、深川区、本所区、向島区、日本橋区など、東京の過密地帯であった。
 昭和二十年三月九日夜、東京下町一帯は米軍の大空襲を受ける。来襲したB二型爆撃機の焼夷弾により、当夜、この地区の死者十余万人のすべてが、焼死と運河に飛び込んでの溺死であった。大正十二年の関東大震災についでの大災害であった。
 当然、この地域一帯は灰燼に帰したが、何故か佐賀町の一部とそれに隣接する福住町の一角のほか陽岳寺も焼け残った。やはり西側に隅田川を控えている、歴史の因縁かもしれない。佐賀町界隈も、隅田川の流れとともに、時は移り人は変わる。
 今、この地域も御多分に漏れず、急速にインテリジェンスビル、オフィスビルの高層街へと変貌し、もはや、昔日の面影は取り戻せない。

 この町の歴史を調べてみて、最後に筆者が知り得たことは、元禄八年の沖積土の淋しい漁師町から、名主相川次兵衛と藤左兵衛が検地の折、地形が肥前の国の佐賀湊(現在の佐賀市)に似ているのでつけた町名であった。この人達がたぶん肥前の出身であったことは、三百年の歴史を隔てた想像で、記録にはない。

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