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【陽岳寺について】・・・以下、陽岳寺についての長ーい文章です。

陽岳寺の由来
東京都旧跡
本尊 十一面観世音菩薩、三尊像
逓代伝法
二世 錐翁慧勤
明治小学校と陽岳寺
平林寺と陽岳寺

陽岳寺の由来

 東京都江東区深川の陽岳寺は、臨済宗妙心寺派に帰属する、禅寺です。
 寛永十四年の創立にて、 開基は向井左近衛将監源忠勝、 創建は文室祖郁、開山は江厳祖吸です。
 今川家、武田家、徳川家と戦国時代に三家に仕え、彼ら大名を海上から支援したのです。
 徳川家康は、江戸湾の奥に、敵水軍を迎え撃つ海賊衆による、ガイドラインを引きました。そのラインは、伊豆、三浦三崎から葛西、江戸に到ります。
 歴史は、各地に散った紀州海賊衆の足跡を、紀州より相模湾、東京湾に残しています。

 深川の大火、大震災(共に大正年間)により陽岳寺の本堂、庫裡は焼失し、惠心僧都作観世音、出山釈迦像、文殊九助の自書及画像、木像、石標並びに伏見義民の碑も共に焼失してしまいました。
 現在の本尊は震災後、京都花園(妙心寺)実相院という寺の本尊様を当寺にそのまま移したもので、昆溟再興と書かれております。仏師の名はわかりませんが、最近の区の調査で室町時代末期の十一面観世音菩薩座像であると判明しました。


 2世錐翁慧勤は、貞享4(1687)年2月20日没。妙心寺開山の、関山無相大師は、元徳2(1330)年、京都を去り、伊深に庵を結んだ。その後、錐翁は、寛永元(1624)年、正眼寺山に草庵を結ぶの記録がある。そして後、雪潭紹僕が禅堂を建立した。妙法山正眼寺は、始め初祖山円成寺と言い、寛文9(1669)年に改称したのです。
 また、錐翁は、深川にあって、芭蕉の師匠の仏頂禅師が参禅したと伝えられる。 中興大室祖昌とす。 惠心僧都の作観世音を安置す。其の胎内仏は武田信玄の向井将監に与えたる木仏なりという。其の他坪内大隅守作出山釈迦像、文殊九助の自書及画像木像を蔵す。門前に山城伏見義民文殊九助霊所の石標並に伏見義民之碑(内大臣三條実美題額)を建つ。明治三十年五月設くる所なり。 当寺には向井将監忠勝及び画家二代目英一蝶、観嵩月の墓あり。
(明治四十二年二月二十日発行 大日本名所図絵新撰東京名所第六十三編深川区之部より)

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東京都旧跡

向井将監忠勝墓
伏見義民墓
観嵩月墓
英信勝墓

伏見義民について

全国にわたる天明の大飢饉(一七八三~八七年)の頃、山城国伏見奉行小堀政方は幾多の悪政を重ねた。このため伏見住民は塗炭の苦しみにあえいだ。文珠九助、丸屋九兵衛および麹伝兵衛らは幕府に直訴を企てひそかに江戸に入ったが、伝兵衛は小堀が放った捕吏に殺され、ようやく逃れた九助と九兵衛は直訴に成功して小堀は罷免されたが、両名は天明八年(一七八八)獄死した。 三名の遺体はそれぞれ陽岳寺に引き取られ、厚く葬られたが、これはかれら三名が江戸にあって直訴をうかがっている間、当寺に庇護され、多大の援助を受けたからである。
(昭和四十三年三月一日 建設 東京都教育委員会)

京都伏見 御香宮神社ホームページ
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/gokounomiya/

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本尊 十一面観世音菩薩、三尊像

 陽岳寺の本尊は、千手千眼観音から、千手千眼をのぞいた姿の十一面観世音菩薩です。また脇侍(わきじ)といいまして、本尊の前に立って本尊を支え表現する仏像は、お地蔵さまと毘沙門天です。お地蔵さまが慈悲を表現し、毘沙門天が智慧を表しています。
 この本尊の底には、墨でもって、「花園実相院昆溟(こんめい)再建」と記されています。現在、花園には実相院というお寺は存在しないことから、関東大震災にて陽岳寺が燃えて、現在の本堂が再建されたときに、迎えられた十一面観世音菩薩だと思っています。通算すると500年以上という年月にわたって、じっと、京都と深川の世の中を見つめています。

 深川に迎えられたこの十一面観世音菩薩三尊像は、近江の琵琶湖周辺だけにまつられる様式であることから、東京の深川にまつられて、どんな意味があるのだろうかと、住職になってから考えたものです。
 近江という場所は、交通の要衝であり、多くの戦災に巻き込まれた場所でもあり、絶景に恵まれた地でもあるのでしょう。この地域の民衆によって、支持され、形作られたこの様式の十一面観世音菩薩は、また観音霊場の道であります。
 そこで考えたことが、毘沙門天の智慧を、深川の歴史を考えて、勇みとしてみたのです。そして慈悲を、情けと考えてみると、実に深川とピッタリと合うから不思議です。その勇みと情けを合わせて、『意気地(いくじ)』という言葉を引き出してみたのですが。深川の古老の言葉に、「意気地が無くなった」と、これこそ自己を見つめて問う言葉です。もう一つ若い人に『お侠(きゃん)』という言葉があったのですが、今は死語になっています。

 そして、ここから、「人に智慧と慈悲を、諦めと意気地を、勇みと情けの花を咲かすため、地蔵菩薩と毘沙門天を引き連れて創造されたその化身だからこそ、気がつけば、欲すれば、呼びかけに応じてすぐ傍に、佇み、包み、人を覆います。それは、自分自身に自由であることの全てを、思い出させるためにです」と。
 観音菩薩には、多くの姿がありその数は、108とか、88とか、33とかあり、実際には数限りない姿があり、さまざまな名前を持っているといえるでしょう。千手千眼観音、十一面観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音菩薩、不空羂索観音菩薩、白衣観音菩薩、平和観音、……、とさまざまです。また、ダライ・ラマは観音さまの化身であるとチベット民族は思っていることも知られています。
 観音さまは、智慧と寛容の菩薩であり、そのはたらきは、「観音妙智の力、よく世間の苦を救う。神通力を具足し、広く智慧の方便を修して、人々を救うというものである。それは、嫉妬、欲、無知などの状態に陥っている人を救済し、生・老・病・死といったあらゆる人生苦を除いてくれる」という。

 さて、中国や日本の禅の和尚が、日々にどう過ごし、会話をしるしたものは語録といわれています。多くの語録があり、その中に、碧巌録(へきがんろく)という語録があり、千手千眼観世音菩薩のお話しがあります。
 その内容は、「慈悲深く、衆生を大悲でもって見つめる観世音菩薩は、千の手のひらに、千の眼があるが、そんな手で、そして眼で、いったい何をするのですか」と、この語録を読む人に問いかけています。
 自分自身の中の観音菩薩の働きを見いだせと。それは、全身が眼となり、全身が手となり、全身が口となってはたらくとは、見るものと見られるもの、聞くもの(耳)と聞かれるもの(口)、手でものを造れば、造る手と造られるものが二つでないということで、一つになったとき、そこに観音菩薩のはたらきがあるということになります。今ここのはたらきを見いだせと、問いかけています。
 この問いに対して、「夜中に寝相が悪く枕がどこかにいってしまったとき、暗闇の中で、手が枕を探すようなものだ」と、禅者は答えています。

 また、趙州録(じょうしゅうろく)という語録があります。趙州という和尚のお弟子さんたちが書きとどめたものです。
 この趙州和尚は、言葉がたくみで、機微にとんで、その問答を読んでみると、その一つ一つの言葉は、すがすがしさをおぼえます。
 役所の長官が、趙州和尚にたずねますた。「りっぱな先生でも、やはり地獄に行きますか」と。その問いに対して、趙州は、「私が行かなければ、どうして貴方に会うことができるだろうか」と答えました。
 禅宗の和尚は、こうした過去問を読みながら、現実の足もとに置き換え、照らして実践することを修行といたします。そのことによって、過去問は今の問いと変化いたします。
 老婆が趙州和尚にたずねた。「私は、五つのさまたげをもって、この年になるまで生きてまいりました。そんな私がどのようにしたら、まぬがれることができるでしょうか」と。
趙州は、「お前さん以外の誰もが天国に生まれるように!お前さんは苦海に沈むように!」と答えたのです。
 この五つのさまたげとは、人の死後に通じている五つの場所です。その場所に、いくら善いことをしても、必死に子ども育てても、女性は行けない場所と思われていたことをさします。8世紀頃の中国でのことです。自分以外の原因によって、どんなに努力しようとも、堪えようが、梵天や帝釈天、仏天に行けないということに対して、趙州は、「願わくは、子ども達やすべての人たちが、行けるようにと」と、そして貴方こそ、「苦海に沈むように」と、厳しく説いたのです。
 多分、この老婆は、五つのさまたげがあるといわれた時代に、釈尊が涅槃経で説いた、「生きとし生けるものすべてに、仏性(ぶっしょう)がある」という言葉を知っていたのでしょう。その仏性のままに、「苦海に沈め」と、趙州とはそういう方でした。

 その苦海に沈む姿を表した仏さまが、観世音菩薩といえます。碧巌録の問答は、無心のはたらき、そして趙州録の問答は、他者に対して無心となることで、苦海に活き活きと生きる生き方を示してくれたものと理解いたします。
 十一面観世音菩薩の頭には、十一のお顔があります。その顔は、正面は慈悲の3面、左には怒る瞋面(しんめん)が3面、右には菩薩の面にして牙や角をした3面、後には大きく笑う面、頭の頂上には阿弥陀仏をいただいています。それは、母の顔や父の顔、先生や子ども、親切にしてくれた顔、怒ってくれた顔、励ましてくれた顔、心配してくれた顔でもあります。

 幼かった頃、知らずに人の心に傷をつけたり、悪戯をしたことを隠していたりと、そんな時、両親が、しかるのではなく、悲しんで、寂しい、悲しみの顔を見せたようにです。 このことは、父や母は、父であるや母としてという思いを無くして、本当に傷みそのものとなって、目前にさらしていくれたのだと思います。
 趙州和尚が、地獄に行くと言ったのは、このことを言うのではないかと。心を空っぽにすること、「それは死んでどこに行く」という問いの答えそのものと考えることができます。だから、今、死ねと!
 ここに下町の情けをたたえた意気地があると思うのですが。
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逓代伝法

向井将監源忠勝 開基 寛永18(1641)年10月14日没
60歳にて死去、本叡山本覚院に葬られる。その際の法号、眞珠院殿月峯宗心居士。
大正元(1912)年、本覚院より、改葬された。その際の縫合、陽岳寺殿天海玄祐大居士。
江巖祖吸 開山 宝永2(1705)年閏4月8日没
日暮里、南泉寺より、拝請。
文室祖郁 創建 正徳3(1713)年10月19日没
三浦三崎の見桃寺和尚にて、妙心寺はの僧籍を持っていなかったが、忠勝が信仰していた。
錐翁慧勤 二世 貞享4(1687)年2月20日没
妙心寺開山の、関山無相大師は、元徳2(1330)年、京都を去り、伊深に庵を結んだ。妙法山正眼寺は、始め初祖山円成寺と言い、寛文9(1669)年に改称した。陽岳寺錐翁は、寛永元(1624)年、正眼寺山に草庵を結ぶの記録がある。そして後、雪潭紹僕が禅堂を建立した。
また、錐翁は、芭蕉の師匠の仏頂禅師が参禅したと伝えられる。
大室祖昌 中興三世 元禄16(1703)年11月15日没
華山要印 四世 享保9(1724)年11月2日没
方充祖丈 五世 元文2(1737)年6月7日没
乾梁祖廉 六世 宝暦2(1752)年2月18日没
屠龍宗牙 七世 安永(1772)元年5月13日没
照道惠靜 八世 寛政4(1792)年9月15日没
天明年間、伏見義民の直訴があった。
雪傳文可 九世 文化9(1812)年11月23日没
莔田惠蒭 十世 明治23(1890)年10月22日没
圓瑞宗玖 十一世 明治4(1871)年4月4日没
雪川惟整 十二世 明治20(1887)年3月8日没
臥龍庵
戒州恵錠
(代務) 明治44(1912)年11月26日没
清川惠廉 中興
十三世
昭和29(1954)年2月7日没
元峰鍈一 十四世 昭和58(1983)年10月16日没
雅山宗直 十五世 昭和61(1986)年8月13日没
聰川眞幸 十六世
素山真人 十七世


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二世 錐翁慧勤

 「請う其の本を努めよ」この言葉は、臨済宗妙心寺派の寺々にあっては、仏像や掛け軸、境内や建物に勝るものです。この言葉に変わって努めなければならないことは、「慧玄が這裏(しゃり)に生死なし」「柏樹子(はくじゅし)の話に賊機あり」という言葉の意味を理解し、実参し、究める努力をすることといえます。

 何故なら、全国に散らばる妙心寺派寺院をたばねる、妙心寺開山和尚関山(かんざん)慧玄禅師の、唯一残された言葉だからです。不思議なことです。これしかないのです。もっとも花園上皇の記されたものは現存していますが。そして、足跡として残る寺は、本山の妙心寺と京都大徳寺、そして、伊深の正眼寺(しょうげんじ)です。
 関山慧玄禅師は、歴代の天皇から諡(おくりな)を頂いております。「本有円成国師」「仏心覚照国師」「大定聖応国師」「光徳勝妙国師」「自性天真国師」「放無量光国師」、そして明治42年に、明治天皇より「無相大師」の大師号を賜りました。
 その名は「本有円成仏心覚照大定聖応光徳勝妙自性天真放無量光無相大師」と言います。

 慧玄の名は本師である、大徳寺宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう:大燈国師)から改名して頂いたものです。ちなみに、妙心寺派では、この宗という呼び名を、“しゅうほう”をはばかり、“そう”と呼ぶことにしています。この年が、嘉歴4年(1329年)で、無相大師が大悟したときと、歴史は伝えています。

 その翌年5月、今の岐阜県、当時の美濃伊深の山里に、それは都から見れば隠れ住むかのように見えますが、無相大師にとっては、山里では名前を隠すもなく、旅の途中の僧侶として住み着き、夜は坐禅石で坐禅をし、昼は、木こりの伐採の手伝やら、牛の手綱を取っての畑の耕し、種まきや収穫の手伝い、道路の普請を手伝うことで、山里の人々から慕われて日々を過ごしていたと思われます。これは、よくいう悟後の修行に習って、修行臭さを払っていたともいえます。
 伊深の里の風や雪の冬、庵には、雨雪をしのぐ蓑がさに、割れ鍋、水桶しかなかったといいます。

 思うに、破れ衣で僧の姿をしていても、風評が伝わらなければ、山里の人々は理解しないものです。今の時代でも、自分で自分を宣伝しなければ、他人は人を認めないに似ています。もっとも自分を宣伝しても、後がついてゆかなければ、名前倒れになることは世の常でしょうが。悟後の修行とは、口で言うほど易しいことではなく、徹底した寡黙の修練と言えるかもしれません。

 この頃、後醍醐天皇と花園上皇に親しく法を説いていた大燈国師が、延元2年(1337年)に病気で亡くなりました。国師に代わる者として、無相大師が推挙されました。上皇の使いは、歴応元年(1338年)伊深の里に隠れ住んでいる無相大師を探し、辞退する大師を説得して、改装した花園の離宮を正法山妙心寺開山禅師として迎えたのでした。
 しかし、無相大師は、再び行脚することになります。何年間妙心寺に住持としていたのか、いつ頃行脚に出たのか消息はわかりませんが、貞和3年(1347年)7月22日に花園上皇は、大師に手紙をしたためます。これが妙心寺に現存する花園法皇御宸翰です。この間に行脚する消息を、五条の橋にて蓑(みの)を覆って乞食する墨跡が象徴として表されています。

 そして、観応2年(1351年)妙心寺再住の院宣が降りて、妙心寺に再び戻ったのでした。これ以降、9年間は、妙心寺にて後輩の指導を、質素そのもので専念したのでした。「請う其の本を努めよ」と、身を引き締めて生涯にわたって通した大師の発した言葉が。「慧玄が這裏(しゃり)に生死なし」「柏樹子(はくじゅし)の話に賊機あり」です。
 延文5年(1360)12月12日、妙心寺境内にある風水泉(ふうすいせん)の前で弟子の授翁宗弼(じゅおうそうひつ)に最後の法を説いた後、行脚姿で立ったまま亡くなったと伝えられています。世寿84歳でした。

 さて、延元2年(1337年)5月に伊深の里を去って、この山里はどうなったのでしょうか。
 寛永元年(1624)、それは、無相大師がこの地を去ってから、286年の月日がたっています。錐翁慧勤(すいおうえぎん)和尚が亡くなる、63年前のことです。亡くなった場所と日にちは、江戸は深川の陽岳寺、貞享4(1687)年2月20日のことでした。しかし、63年前に、現正眼寺の山里に草庵を結んだことに、世代につながる者としては詳しく知りたく思うのです。錐翁も無相大師を慕って、この山里に一人、請う其の本を努めよと、質素にして大師と同じような暮らしをしたのではないか、そんな想像をしてみたくなるのです。やがて、錐翁は、多分、三崎を通って、深川に行脚し、陽岳寺に逗留するのだと思います。この錐翁には、芭蕉の師匠の仏頂禅師が参禅したと伝えられています。

 陽岳寺の開基は、向井左近将監源忠勝です。忠勝は、寛永14年(1637年)に三浦三崎の見桃寺和尚、文室祖郁を住職に迎えて陽岳寺の建立をいたしました。そして、次の住持に、錐翁を押したのです。文室が亡くなった日は、正徳3年(1713年)年10月19日で、錐翁は貞享4(1687)年2月20日です。
 しかし、妙心寺に届けられた陽岳寺の法脈の源は、日暮里の南泉寺にあります。その流れは、大愚宗築(寛文9年(1669年没)-江巌祖吸(宝永2年【1705年】閏4月8日没)と連なるもので、文室と錐翁が妙心寺派の僧籍がなかったことから、文室を創建和尚、江巌を開山和尚、錐翁を二世としたのでしょう。
 正眼寺は、その後、万治元年(1658年)関山牧牛の霊跡に大極和尚が領主佐藤駿河守吉次の外護を得て芽屋を建て、寛文11年(1671年)6月12日、国師の御彫像を塔中に奉安して妙法山正眼寺とし、弘化四年(1847年)には真如明覚禅師雪潭大和尚が本山の命により当寺を妙心寺派の専門道場として開単したのでした。
 平成17年、妙法山正眼寺は開創650年を迎えました。
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明治小学校と陽岳寺

 江戸時代における.般庶民の教育は、幕府のこれといってなす機関はなくただ所在の有識者の間に家業として私塾・寺小屋を営み 近在の予供達を教えていた程度のものが有ったに過ぎなく、そこで教えられているものも「往米物一と呼ばれる教訓・社会・消息・地理・歴史などでありました。誰でもが教育を受けたかというとやはり貧富の違いにより、誰でもというわけにはいかなかったようです。

 慶長十七年江戸で不良少年逸兵衛組などが徒党を結んで時人を悩まし、承応二年旗本の少年達が風呂屋に出入りして、湯女どもを集めて淫行はなはだしく市人と争論を構える(社会事業研究所編 社会事業大年表)等、いつの時代も変わらぬもので、それにたいして「子を養つて教えざるは親のあやまり」(歌麿 教訓親の目鑑)と大人達は警笛をならすのです。

 それでは子供達がどのような遊びをしていたかというと、シャボン玉、いろはかるた、天神様の細道、芋虫ゴロゴロ、「向かいのおばさん茶を飲みにちょつとおいでー鬼がこわくてゆかれません」などと節をつけて歌う鬼ごっこ、独楽・ベイゴマまわし花火、あぶり出し、双六などで今では懐かしい遊びでした。そしてこの時代の子供達の仕事と言えば、子守か奉公だったのでしょう。
 明治維新はそんな東の小さな島国を、大きな世界へとひっぱりだすことになりました。たくさんの新しい改革がなされたわけですが、その中でも初等教育への力の入れようは大きかったようです。明治五年学制の頒布があり、はじめて一般庶民に教育の道が開かれたのです。

 「身を立て産を治めその生を遂ぐるには、智を修め技に長ぜねばならぬ。而もそれが為に学校を設けられたのは年久しいことではあるが、而もその方法宜しきを得ざる為、孤り士人のみの専有物となり農、工、商の子弟は全くこれから除外されるの状態を続けて来た。そこで今改めて学制を頒つのは、これを以て郷に不学の戸なく、家に不学のへなからしむると同時に、従米の学事を官に託して顧みざるの弊を改め、皆この事に従事せんことを期す』学制(主旨)

 これより二年前の明治三年十二月陽岳寺内に儒者村松為渓が当時深川の名望家高部文右衛門、竹尾新助、鹿島清左衛門、鹿島清四郎、宮島儀右衛問、橋本喜助各氏の後援をえて明々堂(明治校沿革史には、村松為渓・深川閻校とある)と称す寺小屋をはじめました。
 これが明治小学校の起源であり、当時教師四人児童男七十人・女五十人を収容していたといわれています。そして学制頒布の五年、江東区(当時深川区)最初の公立小学校となりました。明治九年陽岳寺より現在地に、明治十年十月(明治校沿革史には、明治十五年とある)明治尋常小学校と名を改めました。
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平林寺と陽岳寺-臥龍庵戒州恵錠禪者

 埼玉県新座市野火止3-1-1に、約十三万坪の境内地を有する金鳳山平林寺がある。直指見性禪師石室善玖和尚の開山にて、臨済宗妙心寺派の末寺である。禪師は京都の天龍寺、鎌倉の円覚寺、建長寺の各大本山にも住山し、日本最初の禅の道場である博多の聖福寺等多数の寺の住職をも歴任されました。平林寺はもと武蔵国騎西郡渋江郷金重村に開創されたが、寛文三年に川越城主松平信綱の本願によって、寺基を現在地に移して今日に及んだもので、草創以来現今まで六百余年の星霜を経過した名刹である。
 寺域は、武蔵野の面影が深く残る唯一の所でもあり、野火止用水(別名伊豆殿堀)は平林寺移転に際し、信綱公が武蔵広野十六里の間に玉川用水の分水を引用した潅漑事業にて、石室禪師、大田家、松平家菩提のため、日々の供膳の用水とされ、又一方では古来より焼畑と降雨に依存した武蔵野の旱土を、豊饒の沃土とするための里民救済の大計でした。

 堰を開くと寺内にサラサラと清水が流れ、訪れた人々の目を潤します。また全国各地より雲水が参集して、坐禅修行に励む専門道場の姿は、足を一歩境内に踏み入れた人々の身を引き締め、武蔵野の広葉樹林は来る者の心を和らげる。いつまでも残していたい、そんな場所でもある。

 戒州、諱は恵錠、安政三年に武蔵国豊島郡小日向水道町の商人、島村利兵衛の二男として生まれた。十歳となた慶応元年の十月五日に、戒州より二歳若い月澗道契と共に、平林寺の圭巌元徹の室に入って剃髪受戒した。翌年に圭巌は席を藍溪玄密に譲って退去隠栖したので、以後は藍溪の撫育を受け成長した。禅寺での行事進退にも慣れた頃の明治八年に、戒州は月澗・周庸と共に諸国遍参の旅に出た。

 明治九年四月十四日には名古屋徳源寺僧堂に赴き、滞りなく掛錫を許された旨を藍溪に伝え、月澗・周庸も同錫であることを申し添えた。同年八月には教導職試補となり、藍溪は試補状降下の子細を戒州・月澗の両弟子に書き送っている。翌年六月の制中、配役のことであろうか、戒州は堂内に、月澗は隠侍に配役されたとし、当解の大衆は五十人程で、老師の提唱は碧巖録であるなど、徳源僧堂の模様を本師藍溪に知らせ旁々無異を伝えて安心を請うた。
 明治十一年の正月現在でも戒州は徳源僧堂にあり、五日より臘八の接心に入ることを伝え、月澗・周庸は錫を移して天竜寺僧堂に掛錫したことも申し添えた。その後明治十四年頃には瑞應寺の僧堂にあった。この頃か、健康を害して病臥に伏したりした が、各地を巡り雲水の行脚生活に明け暮れ、再び徳源僧堂に帰錫した。

 戒州は極めて几帳面な性格で、時には藍溪の用命を忠実に果たし、年頭・季節の変わり目には問候の書状を差し出して師恩に酬いるなど、繊細な神経の持ち主と見える。僧堂での修行が一段落すると、南条文雄の大谷教校に赴いて英語・梵語などを学んだが、明治二十年十一月には妙心寺に登って転位した。のち東京深川の陽岳寺の住職となった。 その頃、陽岳寺に近いS寺(現在隅田区)は紛争がつづき、とうとう公売に処せらるることになっていた。妙心寺はこれを重視して、前任の住職を罷免し、後任は法類の評定によって決定することにした。法類は挙げて戒州を推薦したので、戒州はS寺の難題を引き受けざるを得ず、好むと好まざるとに拘わらず火中の栗を拾う羽目となり、S寺の兼務住職を引き受けることとなった。このために普通学校(陽岳寺史よりみれば、当時の明治小学校前身深川閭校と関係があるか不明)を経営して八十余名を超える生徒を抱えていたが、止むを得ず廃校とし、裁判所に通うこと通算六年、不眠不休の奔走の結果、示談が成立してこの問題は落着した。裁判費用は千四百五十円余となり、檀家に負担させることも出来ず、戒州名義の借用証書だけが残った。

 この頃の平林寺史は、明治二十四年一月に藍溪が示寂し、金銭問題のこじれで住持が決まらぬままになっていたが、後住の推挙を受けた玉円が明治二十六年十月初め住職となた。しかしながら明治二十八年十二月末頃に風を煩って平臥し、容体は日増しに悪化し、明治二十九年一月二十七日に、平林寺現住の玉円楚璞が示寂した。藍溪の門弟達は急遽集会して後住の人選をなしたが定まらず、互いに譲りあって決定することはなかった。
 このように他薦を繰り返して決定しない理由には、平林寺内部に大きな問題を含んでいたからに外ならない。玉円臥床中の金銭問題のこじれからの乱脈経理問題・小作農問題が重荷となっていた。玉円の密葬・本葬の日取りも決まらない状態に焦った法眷達は、ついに選挙によって決定することにし、開票の結果、戒州恵錠が当選した。
 ところが世話人達の中に、法類達のみで後住を決定するのは納得しないと反対する者がでて、世話人達の間で、戒州にとって法兄である法雲寺令易派と陽岳寺戒州派の真二つに分かれ、本山の裁許を仰ぐことになった。妙心寺の内意は令易の後任なら許容しがたいといい、特命を以て別人を任命する構えを見せた。平林寺徒弟の間でも、令易の後住なら分散願いたいとの希望であった。

戒州は神経濃やかで潔癖なまでの性格から、平林寺の現状と今後の問題、自坊の後任、S寺の残金返済等を考え合わせると、神経は高ぶり極度の衰弱となり、S寺にて臥床した。埼玉入間郡T寺和尚、東駒形T寺和尚が訪れ、懇々と平林寺晋住を説諭し切望した。これとは別に平林寺檀徒の某氏は妙心寺に事の有り様を注進したので、特使として静岡臨濟寺の今川貞山が派遣された。戒州の履歴等を調査し、適任であれば復興の新綱目に対する誓約書の提出を求められた。戒州は再び火中の栗を拾わされる運命を負わされた。かくして玉円の寂後、一年二ケ月経過した明治三十年三月、陽岳寺の後任に幼い清川恵廉を修行円熟の暁には正式に住職とすることを条件に、一方S寺の不適当ながら栄信据え借財は戒州の責任において完済することを条件に、平林寺の正常化を目指して晋住した。

 晋住した戒州の功績は現在の平林寺の基礎を作ると云っても過言ではない。諸寮規則を定めて寺努勉励を説き、什物の管理、小僧等の溜め夜学校を設け佛祖三経を講義して僧徒の本分を説き。加えて住職名義の動産・不動産の平林寺名義書き換え断行。
 この問題に関しては、平林寺財産が藍溪から玉円えと住職による売買相続の形で行われていたことに加え、玉円名義の不動産が臥床中に窪田義泰が後見人になって、弟子祖髄=俗名江崎栄重郎の名義に書き改められていて、戒州の買い取りを要求していたことによる。明治三一年から翌年にかけて義泰と折衝したと記録にある。

 法眷衆の無協力に戒州は一時什物法衣等を整理封印し平林寺住職の辞退書を送付して、東京日生館に滞在、以後平林寺問題で意見を求めることはしなかった。この間、法眷の或者は他の老師に名義蚤の兼務を願い、内事は法眷の手で維持運営したが、反ってその不得策を戒められて途方に暮れた。この頃になると大檀那大河内三屋敷の知る所となり慰留して改革を断行することを戒州に懇願した。
 戒州は一旦辞退を決意し口外した以上、現職に止どまることをせず、後住が決定され次第、補佐役として改革に力を尽くすことを約し、 そのためには、是非栄重郎名義を平林寺名義に改めることを第一条件とした。

 久し振りに戒州は平林寺に帰単する。本師藍溪和尚の時代に、無学老師や伽山老師に、境内に僧堂の開単を進められていたことを思い、適当な後任が決定され次第、戒州は引退し、会計を本坊と僧堂に分けて運営することを決意した。しばらくして湯島麟松院和尚より人選の返事が到来した。岡山曹源寺儀山善来を剃髪の師とし、京都相国寺越溪守謙の法嗣鉄牛祖印である。明治三二年三月のことである。
 住職交代の手続きを終え、鉄牛は四月頃平林寺に居を移す。ところが五月十五日を境にして鉄牛は病臥に付してしまった。七月一日後事を託し二日示寂してしまった。鉄牛の遺言は曹源寺暘谷老師だったが、暘谷より不可能との返書に再び平林寺は自薦他薦の混乱へ突入する。

戒州は鉄牛を拜請し、そして帰寂至らしめたことを反省し、また法眷衆が戒州が平林寺にいる以上寄り付かないことを思い、山内を封印し、療養と称して野火止よりの退去を決意した。退去隠棲の場所は定かではない。戒州のもとに入間郡T寺和尚が来訪し、平常かを目指すには法眷衆と和解して加担を願う外なしと説諭。法眷衆は、大檀那大河内家の依頼なき時は加担できないとの返答に、やむなく大河内氏が加担依頼状を発信した。無為に一年が過ぎた。

 明治三十三年になって、谷中の頤神和尚・是照和尚が戒州の庵室を訪れ、鎌倉円覚寺釈宗演老師法嗣大休宗悦を後住に拜請する旨の会合をもった。戒州は意義なく歓迎し、万事取り計らいを両和尚依頼した。明治三十四年四月、大休は期待されて野火止に居を移した。戒州は寺努引き渡しのため両三度平林寺に登山し、引継事務の完了と共に戒州の役目は終了した。
 時に四十六才であったという。以後平林寺史から戒州の名は消え示寂の場所・年月などは不詳とある。
 以来戒州は、還俗し、今自坊であった陽岳寺の墓処に眠っている。
法名 臥龍庵戒州恵錠禪者 没年明治四十四年十一月二十六日

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