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陽岳寺の歴史は、紀州の水軍たちの歴史上の足跡と言ってもよいでしょうか。その足跡は、日本の大阪から中部・関東・東北の海の歴史とえます。東北までもは、遣欧使節の船を造り水夫たちを乗船させたりしたからでもあります。三浦岬の見桃寺・横須賀の貞昌寺等、その記録は、中世史研究家鈴木かほる氏の功績を見て欲しいと思います。![]() 自分が生まれる遥か以前の彼方より、今、この地に、この身と心を受け、自分が生きていることこそ、不可思議なことはない。 ふとそのことに思いいたれば、世界のあらゆるものの、いちいちが、皆同じように、この時とその場所に命を輝かしていることに気づきます。 地水火風の、土と水と炎と風の中で、空や山、河や海は、わたし自身の眼から生まれ、固さや柔らかさ、寒さや暑さは、わたし自身の肉体の生んだもの、のどごしの心地よさや、甘い香りいやな匂いもまた、わたし自身の口や鼻の産んだものです。 また、土と水と炎と風の中で、わたしの歓喜や感動、失意や動揺は、私自身のものではなく、世界の豊かさや実り、悲しみや寂しさを表現するものでもあります。 ![]() わたしは世界の時間そのもの、心そのもの、出会いそのものと自覚したとき、私達は、生まれてより死を迎えるまで、何ひとつかけていないことを知り、かたちなき限りなきものとなることえの旅路を歩む、足元を見つめることができるのでしょう。 それゆえに、世界はつねに私自身と一緒にあるならば、一粒の砂も、一輪の花も、わたしも、世界全体を背景にもたなければ、存在しなくなることに気がつきます。 そして、一粒の砂も、一輪の花も、私も、今ここにあることは、その背景の、住みなれた家、通いなれた道、その道の続く先の、今もいるだろう懐かしい人たち、先に旅立った親しいもの、そして、生活の中の一々が、かけがえのないものとして、じぶん自身に意味を与える歴史であり、それは、世界にたった一人の私が、常に私であることを現してくれているものでもあります。 このことは、また、歴史とはじぶん自身ともいえるものでもあり、それは自己の内面にひそむ鏡であるともいえるでしょう。それゆえ、背景の意味や思いを変えてみれば、尽きない豊かさを含んで、人は、いつも実りある途中に有るともいえます。 人の尊厳とはこのことを言うのではないかと、だからこそ、何人も、この尊厳を傷つけてはいけないことなのです。 禅の説く教えとは、人間の尊さ、おのれなき尊さ、人になごむことを、なによりもすぐれて尊ぶことです。 そして禅の説く仏道とは、つくられたるもの移り行くこと、この世にあるものひとりあらずこと、おのれなきものに安らいがあることのうちに、自分がいることを気づくことです。 このことの表現として、蓮のつぼみのよう合掌があります。 そして、仏の心と書き、「仏心のなかに生まれ、仏心のなかに生き、仏心のなかに息を引き取ること」の意味を、仏心を尊さにかえ、命や家族、慈しみの心にかえ、智慧や自然・世界にかえて違和感なく思い描くことができるとき、釈尊や無数の祖師たちに出逢うといえます。 |
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