ぐるぐる模様ぐるぐる模様


ていおうせっかい【帝王切開】

帝王切開の語源の間違いを正すというのは
わが国の雑学本(雑学サイト)が好んで取り上げる話題だ



■ラテン語で「切る」は「caesarea」ですが
これをドイツ語に訳す時「caeser」と
ローマの帝王ジュリアス・シーザーと間違えてしまったのです
日本の医学はカルテに代表されるように
ドイツ医学を基本に発達してきたため
その翻訳がそのまま日本にも定着したのです

■帝王切開の帝王はシーザーに由来します
(ただし誤解ですけど)
ラテン語で帝王切開のことを sectio caesarea といいました
この caesarea は「切る」という意味なのですが
カエサル(皇帝)の意味と間違えて
ドイツ語に Kaisershinitt と翻訳され
それが世界中に広がったのです



だいたいにおいて そんなようなことを記載している
・・・が
これをドイツの医学史専門家あたりが読んだら
ぷんぷん怒り出すだろうなあ

ドイツ語の‘Kaiser’はたしかに「皇帝(の)」なのだが
同時に「分離する・切りわける」という意味もある
‘shinitt’というのは「切開する」ことだから
‘Kaisershinitt’で「切開分離(切開分娩と訳したほうがいいだろうね)」という意味になる

つまり上記例にも出てくるラテン語‘sectio caesarea’
それを素直にドイツ語に移しかえているだけなのだ
誤訳なんてこれっぽっちもしていない
(ラテン語‘sectio’はドイツ語‘shinitt’とほぼ同義)

ラテン語をドイツ語に訳したときの間違いではなくて
‘Kaisershinitt’を日本語に訳したときのミスなのは明白だ

それを なんでドイツ人のせいだといいはってるかなあ?

この「帝王切開」に関する間違った間違い訂正
えらく普及してしまっている知識のようで
サーチ・エンジンでざっと検索をかけただけで
出るわ出るわ200個以上のサイトがこの話を掲載していた

「感染源」がありそうでしょ? そうなってくると
あるんだ あるんだ それもじつに強力な感染源が



中世の俗説に惑わされて
ラテン語 sectio caesarea の caesarea を
「切る」の意でなくカエサル(帝王)の意と誤解し
それを Kaiserschnitt(ドイツ) と直訳したものという

『広辞苑』(第四版)




なんと日本語の一大権威『広辞苑』が感染源なのである

どうして『広辞苑』ともあろうものが
こんな間違いをずっと掲載していることになってしまったのか?

いちばん根っこのところから話を進めてみよう

Gaius Julius Caesar(西暦紀元前100〜44)

ガイウス・ユリウス・カエサルがフルネーム
(ちなみに彼の父親もまったくの同名)
前のガイウスが名前で後ろのカエサルが苗字
じゃあ中間のユリウスは?

カエサル家はローマ市中の名門氏族ユリウス家の分家だった

カエサル‘Caesar’という語が
動詞‘caedere’の名詞形だということに疑問の余地はない

‘caedere’は「切りわける」という意味である
その分詞のひとつ‘caesura’から‘Caesar’の名が派生している

そして家名としてのカエサル‘Caesar’は
そのものずばり「分家」という意味になる

若いころの(売りだし中の政治家)ガイウス君は
「カエサルさん」と呼ばれるとむっとして
「ユリウス・カエサルさん」と呼ばれると機嫌がよかったそうだ

ユリウス・カエサル(ユリウスの分家)を自称することで
由緒正しい名門家系と縁続きであることを
周囲にせいいっぱい宣伝していたらしいのだ

ガイウス・ユリウス・カエサルが
ただの野心的な政治家のままで生涯を終えていれば
後のような用語混乱は発生しなかったろう

しかしながら(ご存知のとおり)
彼自身は志半ばにして暗殺により非業の死をとげてしまうものの
遺志を継いだ養子のオクタウィアヌスは
(Gaius Julius Caesar Octavianus:ちなみに姪の息子)
ついにローマ帝国の初代皇帝位までのぼりつめることに成功する

この結果 ただの「分家」を意味していたカエサル‘Caesar’は
「本家」のユリウスなどかすれて消えてしまうほどの
特別な名前として強烈に輝きはじめることになる

古代ローマ皇帝の正式名称は
インペラトール=カエサル=アウグストゥス
=プリンケプス=ロマーナ(長いので2行に分割)
という

意味は
「軍団最高司令官にして
 崇高なるカエサル家に連なるローマの筆頭市民」
・・・ぐらいの感じかなあ

アウグストゥス=崇高なる者の意だが
即位した後のオクタウィアヌスの皇帝名でもある {補遺1}

この長ったらしいローマ皇帝の正式名称の一部が
後のヨーロッパ諸語で「皇帝」を意味する単語になる

‘emperor’(英)‘empereur’(仏)などは
インペラトール(軍司令官)部分を抽出したもので
ドイツ語の‘Kaisar’は ずばりカエサルに由来している
(このあたりの話はかなり有名だね)

要するに「カエサル家」というのは
「ローマ皇家」を意味するようになっていったのだ
カエサルということばを耳にしたものは
自動的に「皇室(または皇帝)」を連想するようになった

それと反比例して(当然のように)
ガイウス君が無名時代に本家の威光を利用しようとして
ユリウス・カエサル ユリウス・カエサルと連呼していたときの
カエサルのもともとの意味である「分家」は
時間の経過とともにきれいさっぱり忘れ去られていった

新約聖書「マタイ福音書」は
西暦80〜90年ごろの成立だと推定されているものだが

カエサルのものはカエサルに返しなさい
そして神のものは神に返しなさい(22:21)

カエサルは完全に「ローマ皇帝」を意味する語として使われている

プリニウス(Gaius P. Caecilius Secundus:通称小プリニウス)
ガイウスの死後100年ちょっとして生まれたひとだが
彼もすでにしてカエサル家の由来を知らない

ガイウスが“切開分娩”=‘sectio caesarea’で産まれたものだから
カエサルなんてあだ名がついて
やがてそれが定着しちゃったんじゃないか?
“切開分娩”で産まれてきたんだとすれば
なんだか変人っぽい性格もいろいろと説明がつくしな・・・

という みごとに誤った推測を書きのこしているのだ

さてここで“切開分娩”=‘sectio caesarea’について触れておこう

“切開分娩”という外科技術自体は
ガイウス・カエサルの時代にはすでに広く知られていた
(もっとも当時は‘sectio caesura’という
 「ラテン語として正しい形」の単語だったはずだ
 「彼」の威光が
 後に単語の形を自分の家名に引き寄せてしまったようなのである)

ただし この場合のそれは
今日われわれがイメージするものとはだいぶ違う
麻酔も消毒もちゃんとした縫合法も知られてない時代に
腹部を切開して新生児を取り出すなんて荒業を実行すれば
母親は100%死亡したのである

“切開分娩”は
出産間際になって母親が死にかけてしまったとき
(または 急に死亡してしまったとき)
新生児だけは助けようという緊急避難的手法だったのである

プリニウスが

“切開分娩”で産まれてきたのなら
ガイウス・ユリウス・カエサルの変人ぶりも説明がつく

などと書いているのは

“切開分娩”のような極端な方法で出産された人物は
頭のネジがどこかゆるんだまま成長する

という考えかたが当時の通説だったからなのだ

ちなみに ガイウスの母アウレリアが
彼が中年に達するまでちゃんと生存していたことは
母に宛てた書簡の記録が残っていることで証明されているから
じつはほんとに“帝王切開”で産まれていたということはあり得ない

このあたりで流れを整理しよう

そもそも冒頭でドイツ語‘Kaisar’には
「皇帝(の)」と「分離する・切りわける」
その両方の意味があることはすでに述べた

両方の意味があって当たり前で
そのもとになっているラテン語‘caesar’には
「切る」と「皇帝(皇室)」の両義があったのだから

ただし順序としては
もともと「切断・分離」という意味があって
そこから「分家」という意味が派生
(‘caedere’→‘caesura’→‘Caesar’)
たまたま「分家」を家名にしていた一族が
ローマ皇帝の一族になってしまったことから
最後に「皇帝」の意味が発生したのである

「分離する」という意味と「皇帝」の意味をつないでいた
「分家」という輪は
カエサル家の威光の高まりとともに意味を失い忘れさられ
やがてミッシング・リンクと化してしまったのである {補遺2}

さて ドイツ語ではちゃんと‘Kaisar’に意味が2つあったが
他のヨーロッパ諸語 たとえば英語ではどうだろう

英語で“切開分娩”は‘Caesarean section’
これまたラテン語‘sectio caesarea’を英語表記にしただけ

英語の‘Caesarean’も(ドイツ語‘Kaisar’と同様に)
「皇帝の」と「切りわける」の両方の意味を持っていたはずなのだが
手近な英語の辞書を引いてみても
「シーザーの」「ローマ皇帝の」という意味は出てくるものの
「切りわける」のほうの意味は出てこないのである

おやおやぁ? あやしい気配が漂ってきたぞ

そう思って英語の『広辞苑』に相当するところの
『オクスフォード英語辞典』を参照してみると・・・

‘Caesarean section'の語源は
ユリウス・カエサルがこの方法で産まれたと信じられていたため

・・・おいおい それ間違ってるだろ!

なんとなんと『広辞苑』だけではなくて
『オクスフォード英語辞典』まで
この件に関して間違いを記載していたのである

先のプリニウスの珍説
「カエサルの家名の由来は
 ガイウス・カエサルが切開分娩で産まれたからじゃないか?」

じつはプリニウスは冗談半分で書いているようなのだが
これを読んだ中世ヨーロッパ人は
すっかりこれを鵜のみにして広めてしまっていた

『オクスフォード英語辞典』はそれを受けているわけだ

さすがに『オクスフォード英語辞典』の編纂者も
ガイウスの母が出産で死ななかったことは知っていたようで
「この方法で産まれたと信じられていたため」
と それが事実ではないとわかる書きかたをしている

と・・・ここで『広辞苑』の記述

中世の俗説に惑わされて
ラテン語 sectio caesarea の caesarea を
「切りわける」の意でなくカエサル(帝王)の意と誤解し
それを Kaiserschnitt(ドイツ) と直訳したものという

最後の1行を

英語の‘Caesarean section'の語源そのものが
俗説に由来すると考えてしまったものだろう

こう書き換えてやると
『オクスフォード英語辞典』が間違いを記載している理由
を説明している文章になることに気がつく

おそらく真相はこうだ・・・

『広辞苑』の記述は

1:ドイツ語の‘Kaisershinitt’が日本語に翻訳されたとき
 「帝王切開」というふうに誤訳されてしまったこと

2:『オクスフォード英語辞典』が
 ‘Caesarean section’の語源を誤って推定していること

――この2つを混合記述してしまったものなのだ

なぜこのような混交が発生したか?
(以下の文章は関係者一同またはその親族
 今日も生存していることを鑑みて
 固有名詞や人物関係をあいまいなままにしておく)

それは編纂者が
『オクスフォード英語辞典』をお手本にしているためだと推測される

「帝王切開」の項目を書こうとしたとき
いつもお手本にしている『オクスフォード英語辞典』を参照した

編纂者はあらかじめ
カエサルがこの方法で産まれたから「帝王切開」と訳したのだ
ドイツ語の‘Kaisershinitt’を「帝王切開」と訳した本人
(またはその弟子か? いずれにしろ医学関係者なのは間違いない)
から そう取材していたのだろう

ところが『オクスフォード英語辞典』には
カエサルがこの方法で産まれたという俗説があったせいだ
と書いてある

権威ある『オクスフォード英語辞典』が
「俗説」だと書いているんだから「俗説」であるにちがいない
だれかがどこかの時点で「俗説」を信じ込んでしまったから
「帝王切開」という訳になったんだな

そこで
「権威ある英語の辞書には俗説だって書いてあるんですけど?」
と「帝王切開」と訳したひとに問い合わせる

問い合わせを受けた「帝王切開」と訳したご本人は
カエサルがその方法で産まれたという説は誤り
という新たな視点でドイツ語辞書を詳細に引いてみると
‘kaisar’の意味として
「切りわける」がちゃんとあることを発見してしまう

「あちゃあ 医学校時代に聞いた説はただの俗信だったのか」

そうなのである
あのカエサルが“切開分娩”で産まれたという俗説は
明治時代の日本の医学校に飛び火していたのである
(これがどこから来たのか 現在調査中)

だいたいあのカエサルは皇帝位についていない
そこを勘違いしたまま「帝王」と誤訳してしまうというのは
カエサルと「帝王」が同じ‘Kaiser’であるドイツ語が必修で
なおかつ世界史に詳しくない医学生あたりじゃないと
そうそうやれる間違いではないだろう
(当時 日本語では「皇帝」という表現は一般的ではなかった)

しかし 素直に自分が間違ったとは認めたくない
誤訳しちゃった当のご本人はそう思った
(医者という人種にありがちなんだ・・・こういうの)

それはドイツ人がそう間違って翻訳していたからだな
ラテン語の「切る」を「カエサルの意味」だと誤解して
‘Kaisershinitt’と「直訳」しちゃったんだよ ドイツ人

直訳して間違えているのは「自分」なのだが
ちゃっかりと・・・ドイツ人のせいにしてしまった

「ああ そういうことだったんですか」
そのまま信じた編纂者は例の間違った記述をしてしまう

しつこいようだが もう一度引用

中世の俗説に惑わされて
ラテン語 sectio caesarea の caesarea を
「切る」の意でなくカエサル(帝王)の意と誤解し
それを Kaiserschnitt(ドイツ) と直訳したものという

1行目を外して後ろの行を

ドイツ語‘Kaisershinitt’の‘Kaiser’を
「切る」の意でなくカエサル(帝王)の意と誤解し
それを『帝王切開』(日本語) と拙語訳したものという

こう変えてやったときだけ全体の整合性が保たれる
なにしろドイツ人は「誤解」など最初からしてないんだから
(ただし直訳はしている ドイツ語訳ならそれでいいのだ)

1行目の「中世の俗信が・・・」はどこから入ったのか?

それはドイツ語⇔日本語ならわかる医者が
自分の間違いをドイツ人に押し付けるために
ラテン語を持ち出してきたせいなのだろう

英語⇔日本語ならわかる編纂者は
ラテン語の‘caesarea’に「切ってわける」という意味もあったなら
英語の‘Caesarean’にだって
もともとは「切る」という意味もあったはずだ
そこに気がついたんだと思う

・・・となると

『オクスフォード英語辞典』の語源の話は間違いだ
おそらくそれはドイツ人が誤訳したのと同じころだろう
中世ごろだろうか
しかし英語の‘Caesarean section’は「誤訳」ではない
たぶん俗信にでも惑わされたんだろう

あれ? だけど『オクスフォード英語辞典』では
「この方法で産まれたと信じられていたため」
と ちゃんと書いてあったぞ?

結局だれがどこで間違ったんだぁ?


いま これを読んでいる「あなた」と同じように
あまりにわけのわからない間違いのからみ合いに
すっかり嫌気がさした編纂者は

1:「帝王切開」の誤訳のわけ
2:‘Caesarean section’の語源まちがい

この2つをちゃんと分離しないまま原稿を書いてしまった

辞書の編纂なんて作業では
ひとつひとつの項目に
そんなにそんなに時間を費やしているわけにはいかないのだ

わたしの結論・・・
「帝王切開」という日本語訳を作った医者が
自分の間違いを素直に認めていれば
こんなややこしい事態にならなかったのに・・・

なんだか おまえの推論ばかりじゃないかって?
わはははは

わたしはちゃんと
推論は推論だとわかるように書いてるでしょ?
わたし以外の辞書編纂者なら
そんな親切な書きかた絶対にしないよ
 《図版》 ⇒ 
{補遺1} 皇帝の肩書き

アウグストゥス帝の肩書きは
彼の臨終時には上述の「ローマ皇帝正式名称」よりも
さらに もっともっと長いものになっていたのだが
あ〜んまり長いからここでは触れない

興味の向きは類書をめくってみて
・・・バカみたいに長いぞ


{補遺2} ことばの意味の消失

注意すべきは 日本人のような漢字使用民族だと
こういうことばのミッシング・リンクの発生現象が
感覚的にわかりにくいということだろう

たとえば「分家」ということばだって
カタカナでブンケと書かれてしまったら
なんのことやら意味がわからなくなるでしょ?
漢字で表記されるからぱっと意味が判別できるわけだ

表音文字しか用いない言語の使用者は
つねにその状態にあることをイメージしてほしい

じつはインド・ヨーロッパ語族に属する言語というのは
(単語だけなら)目で見るより耳で発音を聞いたほうが
意味が判別しやすいという特徴を持っているのだ

実際にやってみせようか?

英語ではカエサルじゃなくてシーザーだよね?
じゃあ・・・シザーズってなに?
(わからない君は もう一度中学生に戻る!)


{補遺3} 広辞苑

第五版からの『広辞苑』はこの誤りが修正されている