文章論1  中身か文体か。

その時ちょっと彼女は眉を上げ、首をかしげながらこう言ったのだった。

「文体じゃなくて中身でしょ。」と。


僕と同じく、文章を読むと言う行為を相当に愛し、
また実際、継続的にかなりの量の文章を読んできたらしいその彼女と、
ひょんな事から文学談義になった時の話だ。

70年代じゃぁあるまいし。
三島は当に死んだし安田講堂の陥落はもはや歴史の一部だ。
大体なんでチャパツでロンゲの兄ちゃんと
セシル・マクビーを身に纏った姉ちゃんがこんな会話をしているのか。
しかもその出会いは3日前の渋谷駅だ。

、とまぁいろいろと不明確で腑に落ちない点が多々あるにせよ、
とにかく今の僕らはスターバックス・コーヒーの中でアツイ文学談義を戦わせているのだった。


彼女はこう言うのだった。
「どんな流麗で華麗な文章を書くにせよ、
 結局問題になるのは、その流麗かつ華麗なペンが原稿用紙に綴ったその中身でしょ。」と。

そりゃそうかもしれない。
だけど僕はこうも思うのだ。

あのふわふわと心に漂うような美しい比喩表現なくして、
村上春樹は村上春樹足り得るのかと。

あの朴訥で実直な文体無くして
沢木耕太郎は沢木耕太郎足り得るのかと。

もちろんそれらの文体のベースには
彼らの考えが有る。哲学が有る。生き方が有る。
それが「中身」だ。

しかし、彼らの有している「中身」は実は決してそんな特別なものではないのかもしれない。
一見特別でことさら優れた彼ら特有の才能に見えるそれらの「中身」に似たようなものを、
多かれ少なかれ、人々はその心の中の泉にふわふわと漂わせているのかもしれない。
意識的にせよ、無意識的にせよ。
方向性の違いはあるにせよ。

ただ、その「中身」を人々の前に華麗に示すに充分な「文体」を有していないだけかもしれないのだ。

もちろん、この場合には文学について話しているため「文体」となるわけで、
一般的には「表現方法」と言い換えても良いのかもしれないが。

例えば、かつて(といっても相当「かつて」だが)パスカルはこう言った。

「人間は考える葦である」 と。

考える、思考する、という事こそが人間を真に人間たらしめているのであり、
又、人間の存在意義、レゾン・デートルは「考える」というその行為にこそ有るのではないか。
必死に考えた結果が表面的にはなんの意味すら生み出さなかったとしても
考えている、思考するその過程にこそ人間の「生」の価値が滲み出てくるものなのではないか。

、とまぁ、パスカルは多分こんな感じのことを言っているのだと思うのだけれど、
パスカルをかの有名な「パスカル」足らしめているのは、
彼がこんな長ったらしい言葉を


「人間は考える葦である」


との一言に集約し得るに充分な「文体」を有しているからであって、

多分、パスカルが

「考える、思考する、という事こそが人間を真に人間たらしめているのであり、
又、人間の存在意義、レゾン・デートルは「考える」というその行為にこそ有るのではないか。
必死に考えた結果が表面的にはなんの意味すら生み出さなかったとしても
考えている、思考するその過程にこそ人間の「生」の価値が滲み出てくるものなのではないか。」

と言ったとしても、
パスカルはそれほど有名にならなかったのではないかと僕は思うのだ。
これくらいのこと、現代の日本における、つぼ八で呑んだくれてるおっさんでも似たような事は言っているし、
当時のフランスのパブで呑んだくれてるおっさんもやっぱりこれくらいのことは言っていたと思うし、
第一、こんな長ったらしい格言は誰も覚えられない。


そもそもこの文章だってそうだ。

僕は決して華麗で流麗な文章は書けないし、
パスカルのように複雑な観念を一言に集約する術も有していない。
そもそもこの文章も今の時点ですでに充分長ったらしい。

だけれども、決して充分な「文体」は有していないにしろ、
それなりの「文体」は有している、と思うのだ。(いやそう信じさせてください。)

せやから、たまに数人くらいは感動してくれたり、感銘を受けてくれたりする文章を書けたりもするわけで、
(いやそう信じさせてください)

もし僕がそれなりの「文体」を有していなかったとしたら、
この文章だってこうなって↓しまうだろう。



彼女は僕の意見に対してこう言い返してきた。

「文体じゃなくて中身でしょ。」

僕と同じように彼女も読書が大好きで、
子供の頃から現在までたくさんの本を読んできたらしいのだけど、
その彼女と僕は今、文学というものについて討論をしているのだった。

昔だったらこういう事(文学について討論すること)は日常的に良く有ったことなのかもしれない。
でも、今はもう2002年なのだ。
その2002年に、3日前にナンパで知り合った僕と彼女が文学について話をしているなんて、
実は凄く珍しいことなんじゃないかなぁと思う。
大体僕はチャパツでロンゲだし、
彼女もセシル・マクビーなんか着ちゃってるコで、
二人ともとてもそういう話をするようには見えない気がするのだが。

話がそれてしまいました。
とにかく、僕と彼女は、スターバックス・コーヒーの店の中で文学についての討論をしていたのだった。

彼女は
「どんなにうまい文章を書けたとしても、
 その文章の中身がたいしたことなかったら全然意味ないじゃない。」
と言うのだ。



・・・・・・・・キリがないのでここらへんで止めとくが。
・・・・・・・・しかもあんまり変わらないような気もするが。

とにかくこうなるのだ。(うわ、説得力ねー)


結局、だ。
文学というものにおいて
「中身」はもちろん大事なのであろう。
奇想天外な発想、ユニークな視点、深遠な思想。
それらが「文学」をおもしろいものにするベースになっている点は否めまい。

だが、その発想は決して特別なものではない。
その視点は決して固有のものではない。
その思想は決して特異なものではない。

多かれ少なかれ、それくらいの事、みーんな考えてる。
つぼ八のおっちゃんも考えてる。
センター街の高校生も考えてる。
不倫に疲れた人妻も考えてる。

彼らと作家との相違は、
その思考を伝える「文体」を有しているか否か、だ。

心の泉にふわふわと漂う(意識的あるいは無意識的に、表層部分にあるいは深層部分に)
それらの「中身」を絶妙なタモの動きですくいあげ、
ぴかぴかに光った柳包丁で見事な刺身に仕立て上げる、その術を持たないだけだ。
「文体」を持たないだけだ。
そうじゃないのか?


と、スターバックス・コーヒーのテーブルで、僕はここまで考えては見たのだけれど、
あいにくその時の僕の手元にはこれらを雄弁に語ってくれ得るペンはなく、
かといって、ペンが生み出す「文体」に変わり得るような
豊かな表現方法=口先を僕は残念ながら有しておらず、
結局の所、当面上、僕は彼女にこれらのことを伝える術を持たないわけで、

そんなわけで僕は微笑みながら彼女にこう言ったのだった。


「つか話変わるけどそのセシル・マクビー似合ってるよね。」





追記1:一部フィクションです。


追記2:セシルの袋持ってるコ多すぎです。
     さながら、かつてのCKのTシャツの如く。


追記3:あるいはLeeのTシャツとか。


追記4:ごめん。俺も持ってたや。



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