人生の終わり

17日振りの更新。
最近、嫌な事+悪い事が多くて、とても更新する気になれなかった。
おかしい。ちゃんと初詣、行ったのに。

まぁ、良いや。
こんな時はクラプトンのtears in heavenでも聞いてほっと一息。

・・あかん、ますますブルーになる。
ハイスタかけよ。

閑話休題。

さて、”悪い事”のうちの一つについて話しておこうと思う。
(って、誰も聞いてへんがな。)

数日前、うちのじいちゃんが死んだ。
2年前から、いつか、いつか、と言う話であったし、
正直言って、頭をぶん殴られるほどの衝撃は受けなかった。
どうやろう。かるい眩暈くらいの感じ。
なんか、一孫(いち、まご)としては
彼の死に際して、
すさまじくいろんな事を考えてしまいそうで、
また、すさまじくいろんな事を考えないといけないような気がしているのだけれど、
実際、葬式から数日たった今、
彼の事というのは、
他の”悪い事”や、日常の出来事の中に埋もれているわけで。
忙しい日々の合間に、ふっと”あぁ、そういえば、じいちゃん、死んだんやな・・”としか思い出さない自分がいるわけで。

そして、彼の死に際して、改めて感じた事が3つ。

1つ目。
泣かないようにしようと思っていたのに、
葬式で、案の定僕は泣いた。
普段、革ジャン着てチャパツでいきがっていても
”やっぱりあの子はやさしい子”
そんな風に感じているのであろう家族の視線が嫌だった。

涙もろいという事と、やさしいという事は違う。
涙もろいのは必要以上に旺盛な感受性のせいだ。
涙を流すのは悲しみに耐えうるたくましさを持たないからだ。

そんな事を思いながら、僕は葬式で泣いていた。

2つ目。
自分が自らに対して与える愛情と
他人が自分に対して与えてくれる愛情の間にある
どうしても埋めようがない格差。
(親が子に対して与えるそれは、もしかしたら例外なのかもしれないが)

3つ目。
人生の哀しさ。
自分が死んで100年後。
自分の孫すら世の中にいない。
たとえ教科書に載ろうが、伝記に書かれようが、
自分の事を本当に知る人間はこの地球上に存在しなくなる。

地球上から
人々の記憶から
消えゆく人生の哀しさ。



そして、彼の事を知る地球上の最後の一人になるのは、
多分、一人っ子だったうちの親の末っ子である僕だろう。

僕が死ぬ、その日まで、”彼”という人間の人生を決して忘れない事を誓いつつ。



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