「街道をゆく」を尋ねて

文と写真:志田晃一郎
2001 年 5 月 6 日 Version 0.8
2001 年 5 月 23 日 Version 0.83 写真追加
2001 年 6 月 20 日 Version 1.0
2003 年 5 月 11 日 Version 1.11 「ここにも行ってみた」,写真追加

【はじめに】

百聞は一見にしかず,という. 司馬遼太郎(しばりょうたろう)の 「街道をゆく」全43巻(朝日文庫) こそ,現代紀行文学の巨峰である. 読めば,出かけたくなること請け合いである.

僕自身,「街道をゆく」に触発されて出かけたことが 何回もあるし,それは今も続いている. そして思うのは,当たり前のことだが, やはり,自分の目で見なければ分からない, ということである. 小説を書かなくなった司馬は, しかし小説的手法を封印したわけではなく, むしろ,小説の手法で紀行文学を書いたがゆえに, これほど美しい作品ができたのだ, ということが,自分の目で尋ねてみて初めてわかる. この文章では,そのことについて,まとめたい.

1997 年から 2000 年にかけて NHK のテレビ番組化 されたのも,読者の,たずねてみたくなる気持ちをとらえたものだろうし, 確かに,評判もよかった. その結果,今では,司馬が足跡を残した場所に, 逆に影響を与えるまでになった.すなわち,

  1. 山口の 瑠璃光寺(るりこうじ)の五重の塔 (2001 年 3 月撮影) のすぐ脇には,
    (長州はいい塔をもっている)
    と,惚れぼれする思いであった.
    で始まる一節が,石碑になって建っている (第一巻「長州路」).

  2. 土佐山中の梼原村(ゆすはらむら)の 千枚田を望む展望台 (1999 年 7 月撮影)には,「文豪司馬遼太郎先生」がここを 訪れたことが記され,万里の長城より素晴らしいといった, と書かれている. (第二十七巻「梼原街道(脱藩のみち)」).

  3. 越前の 宝慶寺 (2001 年 5 月撮影) (ほうきょうじ)で売っている, 寺を紹介する本の後半は,第十八巻「越前の諸道」から, 司馬が宝慶寺を訪問するくだりが数十頁にわたって, 引用されている.
たしかに,これらのくだりは,シリーズ中でも美しい部分である. 1996 年に亡くなってから,司馬自身が, 徐々に文学史上の人物になっていく過程が, すでに始まったともいえる.

司馬遼太郎記念館(2002 年 1 月 5 日)第3巻「河内みち」参照.

「街道をゆく」は,1971 年から 1996 年まで 25 年にわたる 週間朝日誌への連載をまとめたものである. この作品を始めたことによって, それまでの歴史小説家司馬遼太郎が, 文明評論家司馬遼太郎に変わっていったといえる.


【「街道をゆく」の旅】

「街道をゆく」の旅は,僕らがイメージとしてもっている, ルポルタージュという範疇に入るかどうか.

まず,交通手段が安易である. 駅あるいは空港からは,前期は大抵タクシーであり, 後期は,マイクロバスである. 文章からは,挿絵の須田画伯以外の人は,時々あらわれるだけなので, 同行するのは,せいぜい三,四人かという印象がある. 実際には,大抵の場合編集者,奥様も同行し, マイクロバスを仕立てるほどのちょっとした一座であったらしい. すると,第十四巻「南伊予・西土佐の道」でいう,

私はこの旅ばかりは,卒然と決めてあとはゆきあたりばったりで 行くことにしている.
というのは,一体何なのか.

しかしその矛盾は,上の千枚田の看板の写真を眺めていて, 卒然として解けた. この連載が始まったとき,司馬はすでに「国民作家」であった. 「司馬遼太郎がそっちへ行く」となれば,郷土史家, 町長などの地元の実力者が「俺が司馬先生を迎えねば」と 待ちかまえるのである. そのような村風子,どこにでもいる小ボスにありがちな, 不必要なほどの自負心の発散を,司馬は,煩わしい, と感じたのではないか. 旅の方針として,

その土地にくわしい人に会うと知識ばかりふえて外来者としての 新鮮な感覚が曇ってしまう.
(同上)というのは,そういう文脈で理解しなければならないのだろう.

さらに,坂道が苦手で,神社やお寺にきても,上の方までは行かず 引き返してしまうことが,何回もある. 例えば,第二十七巻「因幡・伯耆のみち」(いなば・ほうきのみち) では,三徳山三仏寺を訪れるが,石段に辟易して,

途中,一宇があったのを幸い,
「須田さん,これ以上は,怠けましょう」
(中略)
懸崖に,ひっかけるように舞台造りで建てられているのが, この山の象徴ともいうべき投げ入れ堂である. 平安末期の建立だという.
「登りますか」
脚のつよい藤谷氏がおどした.
「遥拝します」
というわけで,行かずじまいだった.

倉吉銀座商店街, 後方は打吹山(うつぶきやま) (1999 年 3 月 31 日)

確かに,沢木耕太郎の「深夜特急」のような, 旅そのものが目的のルポルタージュではない. 名所逃がすまじ,というどん欲さもない. むしろ,混雑するほどの名所は意識的に避けている. その土地に立つ,ということは触媒であって, 流れ出てくるものは,司馬の歴史談義であったり, 国ぼめであったり,控え目ながら痛烈な 批判であったりする.


【国ぼめ】

上に挙げた,瑠璃光寺や梼原の千枚田の描写などは, 土地に敬意を表する「国ぼめ」といってよく,シリーズ随所に見られる.
私は道路の左側まで歩いた. 足もとはふかく切れこんで,向うは空まで吸い込みそうなほどに 谷が落ちこんでいる. その谷のむこう斜面は大きく盛りあがって,しかも段状に刻まれていた. 千枚田だった.

「須田さん,千枚田です」
私に言われたとき,須田こく太画伯は背を反らせてしまった. こんな雄大な造形は見たことがない,と大声をあげ, やがて画板をかかえこんで,黒鉛を走らせはじめた.

陽が,落ちようとしている. このため,無数の横縞にきざみこまれた千枚田の斜面は, 薄墨をかけたように全体が暗くなっていた. そのくせ,田の頂きばかりは,残りの陽の光が滴って, 秋の黄金に輝いている. 目の前に,プラチナ色に光るものがあり,おどろいて目を近景に移すと, 路肩ですすきがゆれているだけだった.

すべては黄昏の光と翳がつくっている色調なのだが, 光悦の金蒔絵を見るように豪華だった.

「この田,見ました」
私は,たれにお礼を言うという相手がないまま, 町長さんに頭を下げた. 千年来,梼原の山々に刻みつけてきた先人の営みは, この田が証している.

「梼原街道」のクライマックスである. しかし,現在この場所は,段々は残っているが水田耕作されておらず, 草地である. 司馬遼太郎が梼原を尋ねた 1985 年には,未だ田んぼだったのか. この巻の冒頭近くに,県庁の農業担当だった沢田常則氏との会話として,
「大遺産ですか」
沢田氏は,丁寧な口調で言ってくれる. 罪のないゲームのようなものである.
「それは惜しいことをしました. 私はそんな遺産とも知らずに」
とこれは沢田氏のユーモアである.
「耕地整理でだいぶつぶしてしまいました. いまはほとんどが杉林です」
とあるから,当時すでに田んぼでなかった可能性は大きいのである. 司馬が描いたのは,心で見た千枚田だったのか. そう思って読み返してみると,「田」とはあるが, そこに稲が植えられているのかどうか,なんとも微妙な表現ではある.

千枚田が万里の長城に匹敵するほどの土木作業量だ, というのは,本文では「全国のそういう構造を総和すると」, という前提がついている. しかし,町長か誰かが書いた梼原の看板には,それが抜けてしまって, 梼原の千枚田ひと山で万里の長城に匹敵するが如き表現になっている. それはさすがに無理である. 司馬の国ぼめが,国の人に快く響くとき, むしろ滑稽な結果をうむこともある.

このことについては,「司馬さんとの三十七年」 (中公文庫「司馬遼太郎の跫音(あしおと)」)のなかで, 奥様の福田みどりさんはこういっている.

司馬さんという人は不思議に,最後だとか,一番だとか, そういう極端な言葉を平気で使うんです. 向うは何気なく言っている言葉でも, こちらとしては,どうしても深くとってしまうでしょう.
つまり,くどき上手なのである. もう一つ例を挙げよう. 第一巻の「長州路」では,
「武士は商人のまねをするな. むしろ百姓のまねをせよ」 ということが,徳川家の譜代大名のいくつかの家の家訓にあり, たとえそういう家訓のない家でも,倫理としてそれが厳然として 存在していた.
という説明のあとに,
長州の伊藤博文などは志士時代,自分の女房に小間物屋を 下関の田中町の黒門というところでひらかせていた. こういういわばふざけた武士は,長州以外に日本で絶無であったに ちがいなく,たとえ他藩の武士がそれをきいても, そういうことはありえようはずがない,として信じなかったに違いない.
(中略)
むろん,長州藩でも,個人で商売をする武士は伊藤しかいなかったに ちがいない.

が,藩そのものが,一個の貿易会社であったような印象がある.

と続くから,幕末,武士の商法は長州の専売特許であったかのような 印象を濃厚に受ける. しかし,江戸時代,どこの藩でも,大阪に藩邸をもち, 余った米や特産物を大阪の市場で売っていたこと, 薩摩が琉球経由で大陸と密貿易していたことは, ずっと初期の作品「竜馬がいく」にも書かれているから, 厳密には間違いではないとしても,誤解を招きやすい形での 国ぼめであるといわざるを得ない.

越前大野藩は土居家であるから,たしか譜代だと思うが, この藩は幕末から明治にかけて六代藩主土居利忠により, 藩営の商店,その名も「大野屋」,を設立し, 大阪や江戸など日本各地に支店をおいて,武士階級を店主とし, 藩の交易に当たった,という. このことは福井県大野市の誇りとして 資料館 (2001 年 5 月撮影)や観光案内パンフレットに現れている. しかし,第十八巻「越前の諸道」では,宝慶寺にいく途中, 大野市は,城山を遠見するだけで,素通してしまったため, このことには,気づかずにしまったかと思われる.


【ルポルタージュから紀行文学へ】

福田みどりさんは前出のインタビューで, 司馬遼太郎についてこんなことも言っている.
おしゃべりが好きだけれども,これも全部フィクションにしてしまうでしょう. 私なんかが聞いていて,うそ,うそ,うそと思うことが始終でしたけれども(笑), 長くても短くても,全部一つのフィクションにしちゃいますから, ああこの人は本当に生まれながらにして作家で,フィクションの人だなあ, ということをよく思いましたね.
「街道をゆく」の原型になったと思われる,より早い時期の作品, 「歴史を紀行する」(文春文庫)や「歴史の中の日本」(中公文庫)を 読むと,「街道をゆく」と共通する題材が多いのに, まったく文章から受ける印象が違う. より硬質で,潤いがすくない. ある一つのエピソードが,文学に変わっていく過程を 見てみよう. 「歴史の中の日本」には,「山伏の里」という話がある.
昭和二十三年の夏だったか,京都の丸山公園に異様な装束の人物が あつまってきた.

むろん,この集会は,当時の進駐軍司令部の許可はえられているが, 末端の外出兵たちは,かれらが何者であるかをしらず, その集団を目撃したどのアメリカ兵の表情にも, きみわるげな恐怖の色があった.

ある兵は,この異様な服装の男のひとりにカメラを向けようとしたが, その男が不意にふりかえったために, カメラをとりおとして逃げ出したりした.

たまたま居あわせた私に,ひとりのアメリカ兵がツバをのみながら,
「あれは,サムライか」
「ちがう.ヤマブシという連中だ」

これが 1961 年である. 1972 年の「洛北街道」(第四巻)ではこうなる.
右の年の初夏,丸山公園にあつまった山伏は数百人もいたような記憶がある.

法螺貝を吹き鳴らす者もいた. 手に手に金剛杖をついているが, なかには野太刀を佩いている者もいた. むろん,武器の携帯は許されないために,中身は竹光である.

GIたちもこの光景をよろこび,写真機を持ちだしてしきりに撮っていたが, そのうち一人が山伏の後ろ姿をとろうとしてカメラを構えたとたん, その山伏がゆっくりとふりむいたため, GIはよほど恐怖を感じたらしく,カメラをとりおとしてしまった. 私は芝生の柵のそばで腹を空かして腰をおろしていたのだが, この光景があまりにも滑稽だったため,声をあげて笑ってしまった. そのあとGIが私のほうをふりかえり,赤ン坊のような顔で片目をつぶった. 怕かった,といいたかったのかもしれない.


【悪口】

人が,怒りの感情をむき出しにしているのを見るのは,愉快ではない. 「街道をゆく」に,そのような不愉快さを感じることは まずないから,朝日文庫「司馬遼太郎の遺産街道をゆく」所載の みどり夫人のインタビューが,
いつも私と,人の悪口ばかり言ってたのに,もう一緒に言えないもの.
という言葉で終っているのは,意外な感がする.

そこでよくよく読んでみると,悪口や批判,というものが ないわけではなく,むしろありふれていることに気づく. 例外といえるほど,もっとも感情が現れているところは, 第四十三巻「濃尾参州記」の一節であろう.

高月院までのぼってみて,仰天した. 清らかどころではなかった.

(中略)

この変貌は,おそらく寺の責任ではなく, ちかごろ妖怪のように日本の津々浦々を俗化させている ”町おこし”という自治体の”正義”の仕業に相違なかった.

私の脳裏にある清らかな日本がまた一つ消えた.

山を葱々(そうそう)に降りつつ,こんな日本にこれからもながく 住んでゆかなければならない若い人達に同情した.

このあと,わずか二十頁先で作者急逝のため未完となる. 自分の体調について何らかの感覚があったために, 引用最後の一文のような直接的な表現になったかとも思われる.

それ以外の場所では,さまざまは不愉快な体験を, 臨場感をもって書きつつ,しかも読者にはその不愉快さ をじかに伝えない,という技が冴えているのである.

さがせば,まだまだ出てくるだろう. で,その「技」とは,風景に裏切られた場合でも, 人に裏切られた場合でも,同じで,二つの段階からなる.
  1. はじめに,その瞬間の怒りや緊張を, きょとんとした気持ちや,ぼんやりした気持ち, に置き換えて描く.
  2. 次に,それを象徴的なエピソードとみて一つ外側から客観化し, そこから何かを引き出そうとする.
例えば,第十二巻「十津川街道」では, 依怙地に間違った道を取ろうとする運転手にあって, 説得に難渋しつつも,旧陸軍の高級軍人を連想したりして, 結局は,
人間の風景としては,愉しいかぎりだった.
と結ぶことによって,不快を愉快に転化してしまうのである.

以上 1998 年 1 月


【訪れるべし】

1. 網走・常呂

「司馬遼太郎の遺産「街道をゆく」」(朝日新聞社編)という 司馬の追悼のためのシリーズの別巻で, 考古学者の森浩一が,
「街道をゆく」最大の傑作は「オホーツク街道」とみている.
と書いているが,その通りかも知れない. 他の巻が歴史を論じるとき文献資料中心なのに対して, この巻は考古学に基づく点で異色であり, 図版が挿入されているのはこの巻しかない. モヨロ貝塚を発掘した米村喜男衛の生き方が鮮やかだし, 何より,道東の厳しいが雄大な気候風土が, 訪れるものに鮮烈な印象を与え, 文庫本を携えた旅行者を失望させない(第三十八巻).

僕が行った 1999 年には,宇田川教授は満開のエゾザクラの下で バーベキューをなさっていたし,北川アイ子さんと思しき人物は, ジャッカ・ドフニの事務室でソファに横たわって休んでおられた.

2. 大徳寺

第三十四巻「大徳寺散歩」は,対照的に, 一つの寺だけを訪れた,もっとも小品であるが, 珠のように快い. 一休,利休,細川幽斉など, 大徳寺 (2000 年 6 月 10 日) に関係する歴史上の人物の厚みがただごとでないだけでなく, 司馬と大徳寺との関わりも,「散歩」の時期から四十年もまえの, 終戦直後に始まるのである. 京都の宗教担当の記者であった,という経歴からしても, 司馬の仏教に対する並々ならぬ知識が分かるが, それがこの巻にも十分発揮されている. 文庫本をもって,この寺を初めて訪れたときの衝撃を, 何と表したらよいか.
塔頭の高桐院にいる.
書院や茶室,あるいは庭など,いずれにいても, この塔頭には濃密ななにかが感じられる.
あるいは,
孤篷庵が,ついそこにある.
この塔頭こそ,一木一草まで宝石のようである.
とあるとおり,空間の密度がただごとではないのである. 日本各地に,さまざまな寺や名園があるが, このような空間は,他にはない. 金沢の兼六園,水戸の皆楽園,熊本の水前寺公園などの 有名な庭園にしても,規模が大きく, しかも宗教施設ではないから,大徳寺の緻密さと精神性はない.

素手で磨きあげたような大徳寺に対比させるには, むしろ荒れ果てた庭,例えば,第一巻「湖西のみち」で尋ねた, 朽木谷の興宗寺にある 旧秀隣院庭園 (1992 年 5 月) がよいだろう.

以前,ここへきたとき,この寺の境内につづく一角に 五百坪ほどの草っ原があり,そこに一群の岩石がちらばっているのを みて奇異におもい,
(ひょっとすると,ここは足利義晴の流寓地だったのではないか)
と,突きとばされるような衝撃を感じたことがある.
「庭」という言葉の意味を,大徳寺にきて初めて知ったような気がした.

3. 宇和島

第十四巻「南伊予・西土佐の道」もいいが, まず「花神」を読むといい.

例えば, 萩のよさ (2001 年 3 月撮影) が萩市内という一点に集中しているのに対して, 南伊予のよさは,松山から次第に南下していくにつれて, 内子,長浜, 佐田岬 (2000 年 7 月撮影), 大洲(2001年 7 月撮影),保内, 八幡浜 (同), 宇和町,宇和島…と,それぞれ違ったたたずまいを もつ町が展開していくことである. 四国は,観光地としてはもっとも人気がなく, 宇和島の 和霊大祭 (1999 年 7 月 24 日) 当日でさえ,飛び込みでホテルに泊まれるほどなのだが, この,静かで落ち着いた町並みの良さと,瀬戸内海の多島美, さらに料理が安くてうまいことなどを勘案すれば, 日本でもっとも魅力的な地域の一つ,ではないか.

伊予長浜商店街(2001年7月24日). この写真を見て,行きたくならないような奴は,もう知らん.

ところで,城山への武道館建設計画については, 紀行ではもめている最中であり,後に作られた NHK ビデオでも, どうなったかは触れられていない. 結果として,城山は護られ,宇和島市総合体育館は 宇和島湾の埋立地に建てらた. 現在,宇和島市の前面は大きく埋め立てられ, かつて石垣のそばまで波が打ち寄せていたという宇和島城も, 村田蔵六の作った樺崎砲台も,もはや埋立地の奥に後退している. また,和霊大祭のみこしも,河口が遠ざかったため, 漁船で港についた後,一旦上陸し,埋立地を移動し, 和霊神社のわずかに下流で川に入ることになる.


【司馬遼太郎が行かなかったところ】

日本国内に絞っても,司馬遼太郎が行かずにしまったところで, 惜しいところは,まだある. 第43巻付録の全足跡地図を見ると,足を踏み入れていないのは, 宮崎県,静岡県,山梨県,埼玉県,群馬県,千葉県,茨城県,栃木県である. 東京を除く関東がほとんどだが,関東平野は最後の旅で行く予定だったのだが, 果たされなかったのだという (朝日新聞社編,司馬遼太郎の遺産「街道をゆく」).

1. 日向のくに

宮崎は,神話の国である. 高千穂町の天岩戸神社あり,西都原の古墳あり. 椎葉は,柳田國男が「後狩詞記(のちかりことばのき)」で 民俗学を始めたところだし, 高千穂,椎葉,西米良には夜通し舞う夜神楽がある. 古事記,日本書紀の時代は,ごく初期の「竹内みち」や「葛城みち」 (どちらも第一巻)のころには取り上げたが,後にはあまり現れなくなる. いろいろな事情で,あまり自由に扱えない,ということが あるのかもしれない. 代わりに,梅原猛が「天皇家の”ふるさと”日向をゆく」(新潮社) という本を書いてくれた.

椎葉神楽(2001 年 12 月 23 日)

2. 豊後・国東半島

大分県は第八巻「豊後・日田街道」と 第三十四巻「中津・宇佐の道」で訪れているのだが, このときは,
ここ十数年,私の中で国東半島にいってみたいという思いが持続している.
と迷った挙げ句,ついには,
私は,国東はやめようと決めた. 国東というのはそれのみを対象に何日もかけて見るべき相手で, あわただしく見るべきでない.
と思い切って,由布院に向かった. 結局,この旅では,ツノムレ城という掘り出しものはあったものの, 古国府の国府跡も見逃し,由布院のらちもない宿を褒めたりして, 文士旅行に終った. そのため,僕は長いこと国東半島のよい案内を見出せないでいたのだが, さいきん,みうらじゅん+いとうせいこうの「見仏記」の存在を知った.

3. 庄内(酒田・鶴岡・出羽三山)

第十巻「羽州街道」では,山形市あたりを上下したのだが, 山を越えて海へは出なかった. 第二十九巻「秋田県散歩」には,
この「街道をゆく」を書き始めたときから, 庄内へゆくことを考えていた. が,自分の不勉強におびえて,いまだに果たせずにいる.
とある. 羽黒山 (2000 年 6 月 5 日) の夜の雪の国宝五重の塔は, 2000 年大晦日の NHK 「行く年来る年」で写った.

4. 静岡

静岡を取り上げるとしたら,どんな素材があるだろうか. まずは,家康の墓がある 久能山東照宮 (2001 年 1 月 10 日) は,海に向かう山上にある印象的な場所. 牧野原の茶畑は,維新後旧幕臣の牧野原開拓士族団が開墾したもの. 幕末つながりでは,伊豆に反射炉を築いた韮山代官江川太郎左衛門 にも触れることになろうし,下田港にやってきた米国軍艦も 見逃せない. 登呂遺跡は,歴史時代にぎりぎりまで接近した水準をもつ弥生遺跡. 一巻分には十分な分量はあり,そこそこのものにはなるだろうが, 緊張感のある上等の作になるかどうかは,保証しかねる.

【ここにも行ってみた】

第3巻「肥薩のみち」より

熊本は装飾古墳の本場.トンカラリンや江田船山古墳も見逃せませんね.

第6巻「沖縄・先島への道」より

宮本亜門や細川くんの 宣伝でブレークした(?)沖縄.いいですよ. リゾートだけでなく,料理,基地問題,歴史,民俗,自然…,と切り口が たくさんあります. 家並みからして違います.木造住宅はほとんどなく,鉄筋コンクリートか ブロック積みモルタル塗り.曲線のない輪郭で,かならずテラスがあります. 木造しないのは,シロアリが盛んだからだそうです.
  1. 那覇国際通り脇の 牧志第一公設市場(2002年6月2日 Canon S30).
  2. 嘉手納基地敷地に隣接する 安保の見える丘(6月3日).
  3. 慶佐次マングローブ(6月2日).

第7巻「砂鉄のみち」より

島根県吉田村の村内には,鉄の博物館が三つもあり, 旅人を迎え入れようというやさしい心根に胸が痛くなる. この高殿にも,博物館の世話役がわざわざスーパーカブで 先導してくれ,中も説明してくださったのだ. しかし,これほど観光客に忘れられた村もないだろう. 博物館の受付のお姉さんに聞いたところ,一年間の入場者数は 七千人だという.三館共通券を千円で売ったところで, 一年間の入場料収入は七百万円.人件費も出まい.

菅谷高殿 (2000 年 1 月 6 日). ここは「のけもの姫」のたたらのモデルといいます.

第11巻「肥前の諸街道」より

(2003 年 5 月 2 日)Canon S30.

第17巻「島原・天草の諸道」より

(2003 年 4 月 30 日,5 月 )Canon S30.

第21巻「芸備の道」より

広島県はワンダーランドだ. JR広島駅のホームに到着したときから,いきなり「電車のりば→」という 看板に出迎えられて脳天くらくら. じゃ自分が今まで乗ってきたものは何だったんだろう. 広島県民にとって電車とは市電のことなのだ. 女子高生のスカートも東京よりまだ短い. ロマンティックに描かれる霧の街三次市も, いって見ると幻滅するところが多い. せっかく素質はいいのに,地元が大切にする気がないのだ. 街中に廃屋が目立つし,大石内蔵介手植えという伝説をもつ柳が 境内にある鳳源寺は,山門のまん前に規格型コンクリートアパート (警察の寮)が建っている. よりによって何故ここに?しかも行政が! 以前三次は小京都の一つに数えられていたが, 古い町並みが失われたために,小京都連合会から脱退したというのだ. こういうところも珍しいだろう. 僕も町についてまずホテルをとり,駅前まできてびっくりし, このまま夜行バスで帰ってしまおうかと一瞬考えた. お隣山口県の秩序美とは実に対照的である.

第26巻「嵯峨散歩」より

虚空蔵法輪寺(1987 年 11 月)Rollei35.

桂川のほとり,渡月橋のたもとにある「電気の神様」です. レリーフ左側は,電波の存在を実証したヘルツ,右側は発明王エジソンです. 昭和31年に建てられ,電話会社,放送局,電機メーカーなどメジャーな会社が たくさん寄進しています.

第28巻「耽羅紀行」より

韓国・済州島 三姓穴(2001 年 10 月 18 日)SANYO DSC-SX550.

第40巻「台湾紀行」より

第41巻「北のまほろば」より

松前・江差など,まだあるが, フィルムをスキャンできたら順次載せます.


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