西郷 隆盛

さいごう たかもり (幼名 吉之助)
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、 始末に困るもの也。 此の始末に困る人ならでは、かん難を共にして国家の大業は 成し得られぬなり。

                                          「西郷南洲翁遺訓」より
このような言葉は、 名声も地位も金も手に入れた後に言うから価値が ある。 西郷隆盛は薩摩の青年に巨人のごとく仰がれ、 倒幕運動中は確かに「命もいらぬ」活躍をしたが、 明治政府の筆頭参議、陸軍大将となり、永世禄二千石を授けられ、 一度はすべてを手にしたのである。 しかし明治6年参議を辞して鹿児島に帰り、 禄を私学校に費やし、 明治10年西南戦争中に陸軍大将も剥奪され、 命とすべてを捨てた。

もっとも「西郷どんの声望好き」といわれたように、 子分たちから慕われることは好きであった。 西南戦争は桐野利秋(きりのとしあき)ら子分が暴発したもので、 押え切れないとを見るや、子分を見捨てる代わりに、 子分たちの棟領として命を捨てる覚悟を決めたのである。 西郷は自分の声望に殉じたといえる。

もし持たざるものがこの言葉を採用したら、 果たして仕事をなし得るだろうか。 よしんば4つのものが詮ないとしても、 一度身につけなければそれも分からぬではないか。 西郷の偉さは、欲しがらなかったことでなく、 惜しまなかったことにあるように思われる。 まずは、仕事が出来るだけの名利を求むべし。

勝 海舟

かつ かいしゅう
(海舟は号、称号は安房守(あわのかみ)、 名は義邦(よしくに)のちに安芳(やすよし)、幼名 麟太郎)
行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与(あず)からず我に関せずと存候。 各人え御示御座候(おしめしござそうろう)とも毛頭異存これ無く候。

                            福沢諭吉「痩我慢の説」に対する海舟の答え
勝 海舟はもっとも興味のある人物なのだが、 海舟を主人公にした物語は意外と少ない。 子母澤寛(しもさわ ひろし)の「勝海舟」、「父子鷹」と NHKの大河ドラマを数えるのみ。 海舟の書いたものは全集になるほどあるが、 「海軍歴史」、「吹塵録」(すいじんろく)など資料的なものが多く、 直接人柄を伝えるのは、 「氷川清話」(ひかわせいわ:角川文庫)、 岩本善治(いわもと よしはる)の聞き書き「海舟座談」(新潮文庫) がある。 伝記としては勝部真長(かつべ みたけ)がまとめた 「勝海舟」上下(PHP)がある。

同じ幕末の偉人で、江戸城無血開城の談判で 海舟と渡りあった薩摩の西郷隆盛は、 銅像が上野と鹿児島にあり、地元でも大切にされているので、 今日でも十分顕彰されているといえる。 暗殺するつもりで勝の屋敷に行き、 話を聞いてたちまち弟子入りしたという伝説のある 土佐の坂本竜馬(さかもと りょうま)は高知桂浜に、 竜馬の盟友中岡慎太郎(なかおか しんたろう) も室戸岬に銅像が建っている。 同じ感臨丸で渡米し後に海舟と仲が悪かった福沢諭吉(ふくざわ ゆきち) には、慶應義塾という忘れ形見があるし、一万円札の肖像にもなった。 海舟には記念館も銅像もないし、 東京の千束池畔にある墓も人に忘れられている。 海舟は幕臣であったが、 今では顕彰する主体である幕府がない、という理由ではない。 海舟は幕臣にも15代将軍徳川慶喜(とくがわ よしのぶ・けいき)にも 嫌われていたから、幕府が続いていても同じだったろう。 むしろ、海舟を顕彰したのは明治政府であり、 海舟の葬儀には勅使が遣わされている。 海舟は非業に死なず、晩年何人も妾をおいた殿様ぶりで、 日常生活は質素であったが陰然たる勢力があったようだ。 天寿を全うしなかったものは感傷も加わりより大切に扱われる。 しかし僕は殺されるのは嫌だから、 仕事をなしてしかも天寿を全うした例が知りたいと思う。 また、志士たちの多くが30以前の若さだったのに対して、 幕末における勝の年令はようやく円熟しつつある40台 だったのも興味深い。

小普請組と呼ばれる無役の最下級の幕臣の家に生まれる。 父親小吉(こきち)は後に「夢酔独言」(むすいどくげん)を著して 世に残った乱暴者だったが、麟太郎の教育には気を使ったらしい。 少年期は幕末の剣客島田虎之助(しまだ とらのすけ)について剣術に、 青年期は筑前の永井青涯(ながい せいがい)について洋学に努力した。 30過ぎに諸藩の注文により大砲鋳造を行なったことから 大久保忠寛(おおくぼ ただひろ、後一翁)に見い出され、 やがて召し出されて海軍長崎操練所で軍艦をやることになる。 年限は2年のところ塾頭格となって6年在籍し、 お雇い外人や上役に対して交渉力の片燐を見せる。 感臨丸の日本人による初の太平洋横断航海で艦長を勤めた。 これだけでも技術者としての経歴は十分以上といえるし、 海軍創設スタッフとして職業軍人の道を歩むこともできたであろう。

勝の経歴が政治家の色彩を帯びはじめるのは、 軍艦奉行並となり、病弱な青年将軍14代家茂(いえもち)の信頼を得、 その直接の援助で、 神戸に私塾海軍操練所を開いたことに始まるように思われる。 長崎、築地の操練所は純然たる幕府の機関であり、 原則として幕臣しか入れなかった。 これに対し神戸は諸藩の士を受け入れるもので、 幕府・藩の立場を越えて、 日本として力を蓄えなければという政治思想によるものであった。 このころ、英仏蘭の連合艦隊が長州征伐に行くのを止めよと命じられるなど、 外交における交渉力が買われるようになる。 禁門の変の後不穏な浪人を操練所にかくまっていると告げ口され、 操練所は解散させられ、勝は江戸に呼び戻されて謹慎の身となる。 1864年から'66年にかけ一年半謹慎し罪を待っていたが、 幕府は勝の処分を決めるどころではなく長州征伐に負けて行きづまり、 将軍の直命で再び呼び出される。 一橋慶喜の命で長州との停戦交渉のため宮島に行き、 広沢兵助(ひろさわ ひょうすけ)らと交渉する。 交渉はまとめたものの、慶喜が勝への全権委任をほごにしたため、 勝は辞任し築地の操練所で再び技術職につく。

鳥羽伏見の戦いには勝は江戸にいて関係していないが、 錦旗がでたことで意気消沈した慶喜が軍艦で江戸に逃げ戻るや 直ちに三度軍艦奉行に登用され、敗戦処理を任される。 京都で成立した明治新政府の武力/資金力は弱く、 軍事的には徳川家に粉砕されるチャンスは何度もあったらしい。 しかし、徳川幕府の体制としての寿命がもはや尽きたことを 見通していた勝 海舟は、反撃力を分散して、 わざと「大負けの大仕事をやった」。 西郷率いる新政府軍が江戸城に迫るに当たっては、

  1. 榎本武揚(えのもと たけあき)の率いる幕府艦隊が問題であり、 これが留守になっている鹿児島や下関を攻めたら 新政府軍は大打撃を受けていただろう。 その榎本を北海道へ行くように仕向けたのは勝だという噂だった。
  2. 江戸城無血開城は言うまでもなく勝の功績であり、 幕府の交戦派を押えて、西郷と会談した。 会談に当たっては開戦も想定して、 城下の人々を千葉に避難させる準備も密かにしていたらしい。
  3. 土方歳三(ひじかた としぞう)ら新撰組の生き残りに 甲揚鎮撫隊を組織させ、板垣退助(いたがき たいすけ) 率いる官軍に粉砕させてしまう。
国の近代化のためには幕府を倒さなくては、 という理念やベキ論だけだったわけではない。 新政府だけでなく、幕府にもお金がなく新政府と戦うためには フランスから借金をする必要があったという。 これは小栗 上野介 忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ) らが推進していた案である。 一方新政府はイギリスに援助されていたから、 この戦いは英仏の代理戦争という側面もあった。 お金を借りて戦っても国が荒廃すれば返すことはできず、 代わりに北海道や長崎が租借地にされたり、 国土を分割されたりということになりかねない。 それを防がなくてはならなかった。

その事情が分からぬ幕臣には幕府を売ったといわれ、 後世の歴史家には、脱藩ならぬ脱幕して志士となるべきを、 幕臣の立場を捨て切れなかったと批判された。 しかし、勝は自分のやっていることが分かっていた。 勝は幕府を愛していた。 自分の身分のため闇雲に幕府を守ろうとした 人々よりずっとその愛は純粋だったのだろう。 明治政府の創立者たちは自分たちが勝に勝たせて もらったことが分かっていたらしい。 勝にとって明治維新は仕事の終りではなかった。 自己を秘かに「徳川家清算人」と規定し、 16代徳川家達(とくがわ いえさと)と、 慶喜が見捨てた旧徳川武士団の身が立つように心を砕いた。 徳川武士団の処置が完成するまでは隠棲するわけには いかなかった。 それが勝の幕府への愛と責任の形であったのだろう。 その財力と政治力を得るためには、 明治政府に食い込むとが必要であり、 海軍卿、枢密顧問官などを歴任した。

それを二君に仕える行為だとして 非難したのは福沢諭吉であった。 明治24年に「痩我慢の説」を送られた 海舟の答えは上の一言だけだったという。 福沢も大きな仕事をした人物で、その最たるものは 慶應義塾を残したことであろう。 しかし思想家としての福沢はあちこちにぼろがでていると思う。 自分は戦争が大嫌いで逃げ回っていたのに、 「痩我慢の説」では幕臣は徹底的に抗戦すべきだった といっているのだからおかしい。 もっとも、福沢も経済の重要性を説きかつ慶應義塾の財政に 苦労したため、三田の拝金宗と陰口を利かれていたから批判に 堂々としていたことは変わらない。

勝の「大負けの大仕事」については当時から議論があった。 当時中国が欧米の植民地主義に切りとり放題になっていた ことに対する危機感は、当時の知識人の間には共通のものであった。 一方福沢諭吉は「痩我慢の説に対する評論に就て」 を通じて外国には日本を切りとる意思はなく、 勝がその危機を絶叫したのは私欲によるものだと述べている。

幕末、 外国の技術を採り入れたり身分の低いものでも取り上げたりして、 日本の近代化に熱心だったのは倒幕派の諸藩よりむしろ幕府の方だった。 であるから、無理に幕府を倒さずとも開明派幕府官僚、 例えば小栗上野介などの手により日本の近代化はできたはずだ、 という議論もある。 小栗は藩を廃し、将軍を中心とする郡県制を敷く構想を 持っていたという。 しかしこの構想が滅ぼされる側の藩に洩れたため、 藩の方でも倒幕に意を決せざるを得なかったのだと。 門閥制度の元では、曲げて有能な人材を登用することはできても、 無能な門閥を無能であるという理由で放逐することはできない。 八万騎といわれた江戸の旗元も太平の後すっかり腰が抜けていて、 官軍が来ると聞いて慌てて隠居届をだすものが多かったという ていたらくであったから、 幕府首脳は一切頼りにしていなかった。 慶喜が頼りにしたのは、農民町民身分から募った洋式幕府歩兵であった。 洋式装備には金が掛かる。 それでも旗元の禄を整理することはできず、 何万という無為の人々を養い続けなければならなかったのだから、 幕府の破綻は必然であったのだ。

福沢の勝と榎本武揚(たけあき)批判を、 純粋な戦略論争と見るのは正しくない。 むしろ明治の薩長藩閥政府への批判が、 こういう形で出てきたとみられる。

明治維新は徳川氏の代わりに薩長が天下を取っただけではないか。 自由民権運動を新政府は煙たがったし、 人事や産業振興で東北人は露骨に不遇な立場におかれた。 勝がそのような新政府の高官に収まっているのは 納得がいかないという気持ちがあったのだろう。

勝は、維新前新撰組の動きに迷惑していたこともあるのか、 会津を始めとする東北諸藩連合に反対であったし、 明治政府内にあっては藩閥とは一線を画していた。 明治維新の怨みは、西洋自由思想の導入が間に合わなかった ことであろう。 しかし、幕府がもっと頑張って維新の時期が後にずれていれば その間に自由思想が浸透する望みがあったともいえない。 明治の自由民権運動が後に国権運動に変質していったことから、 真に自由思想を理解してのものではなかったことが分かる。

明治31年に、永く静岡に謹慎していた慶喜が明治帝に会い、 和解した時に海舟は始めて自分の仕事は終ったと感慨した。

鎌倉にもとい開きしその末をまろかにむすぶ今日にもあるかな
戦って美しく死ぬことでなく、 国を消耗せず負けることを自分の仕事と定めたのである。

読書案内 (Feb/17/1999)

まずはお勧めは、司馬遼太郎「竜馬がゆく」である。 海舟は主人公坂本竜馬の師匠格の得な役回りで、 僕はこれで海舟に興味を持った。 詳しく知りたくなったら勝部真長の「勝海舟」上下(PHP)である。 これは、小吉の「平子竜先生のこと」、「夢酔独言」にも 誌面を多く割いていて、面白い。 また、明治後の勝の仕事について詳しく述べている点で これ以上のものはない。 時代背景についてもある程度説明がある。 「氷川清話」の伏せ字にイライラしたら、 海舟全集の「清譚と逸話」を読んでみよう。 全集収録の「海舟日記」は多少難しいが、 予備知識があれば海舟自身の文章に触れられる。 岩本善治「海舟座談」(新潮文庫)は、読みやすいが やはり予備知識がないと、登場人物や意味が分からないところがある。 子母澤寛(しもさわ ひろし)の「勝海舟」は 太平洋戦争中から戦後に掛けて書かれたため、 世相が反映されている。 だんだん戦況が悪化してきたな、ああ、この章で敗戦かと はっきり分かるので妙な心持ちになるが、 江戸の風俗人情気分について教えられる点がある。