私が見た有名人

有名人を見物するチャンスを逃してはならない。 これは確かなことである。 「あの××に会ったことがある」というより他に、お金もいらず 自分を磨く努力もせずに友達を悔しがらせる方法があろうか。 もし、その人が亡くなられたりでもしたら、自分より後の世代に 絶対に追い付かれない優位点を持つことになるのだ。 ところで「会った」でなくて「見た」っていうのはどういうことかって? もちろん!そんな有名人と話ができるわけないじゃないか。

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2003年1月29日 みうらじゅん,ソニン追加
2003年1月1日 梅原猛追加
1999年8月6日 宇田川洋追加
1998年11月25日 有馬朗人追加
1997年7月30日 Don Knuth追加
1997年4月25日 RMS追加
1996年12月26日


ソニン

僕がソニンちゃんに初めて会ったのは,年下の男の子二人と三人組を つくってデビュー準備を始めたものの,まだグループ名も決まっていない 頃だった.夏まゆみ先生のダンスレッスンを,一般クラスで受けて いたのである. 最初は変わった構成の三人組だなと思っただけである. Kさんというマネージャーが毎週付き添って, 芸能界のマナーをいろいろ教えていた. 「EE Jump」という名前がついたとき Kマネージャーは「いい名前だ」ととても喜んでいた. やがて「笑う犬の冒険」に三人で出るようになり, 一般クラスにこなくなる. これはうまくいくかも…と思った矢先,Kマネージャーの 苦難が始まる. 男の子の一人が芸能からサッカーに興味を移し脱退,二人組となる. 一度は気を取り直したものの,ユウキの仕事放棄事件,休業, 復帰,キャバクラ見学発覚,芸能界強制引退. 結局ソニンちゃんは事務所を移ってソロになった. 夏先生から聞いたところでは, Kさんは,自分の責任でないことで上から責められ 精神的に大きな打撃を受けて退社,連絡も取れなくなったそうである. ソニンちゃんは素直で根性のあるいい子だが, それより僕は一度だけ飲みにいったとき,椎名林檎が好きで 「うちの事務所もマネジメント契約を争ったが取れなくて残念だった」 と話していたKさんが忘れられない.

みうらじゅん

僕が初めて日本青年館に行ったのは1991年8月,東京パフォーマンスドールの ダンスサミット at 日本青年館だった(このページの最後を見よ). 二度目の梅原猛まで11年経っている. だが三度目は意外と早くやってきた. 2003年1月25日土曜日.JR東海主催の第67回奈良学文化講座 「なら仏像巡歴2」である. 僕が今「マイみうらじゅんブーム」なのは ここに書いたとおりだが, わずか三ヵ月後に,梅原猛と同じ舞台にたつみうらじゅんを見られるとは, 素晴らしい. そのうえ,現れた司会者があこがれの黒田あゆみアナウンサーだった というだけで入場料千円はもと取ったも同然である.

みうらじゅんのスライド&トークは実に良質な講義だった. どうせなら黒田アナと掛け合いでやってくれればもっと良かった. みうらじゅんも引っ込む黒田アナをみて「勝手にやるのね」と つぶやいたから,同じことを感じたに違いない. 隣の席のメガネお姉さんは,浄瑠璃寺住職佐伯快勝師のお話のときは, マフラーだけおいてどっか行ってて,みうらじゅんの番にもどってきて, スライドを観て大喜び.僕の耳に鼻息が掛かるくらい. 僕としては,子供のみうらじゅんを手引きしたおじさんの話, 仏教中高に学んだ話を改めて聞いて, みうらじゅんの仏像好きが子供のころの体験に根ざしたもので, ビジュアルだけから入ったものではないこと, 後継ぎのいない寺の住職になって仏像ごと全ゲット! という野望が,まんざら冗談だけでもないことを感じた. それを阻むのは,「修行はしたくない」ことと 「今の仕事はどうする」という二点だが, これはいずれ解決するであろう.

最後に有料駐車場の「空あり」看板のスライドを見せて, 「これが仏教でいう空です.ないんだけどある.」と いったときには,思わずあっと叫びそうになった. なぜなら,僕も 中村元選集 22 「空の論理」 を読んで以来,「空あり」の表示を見るたびに可笑しく感じていたからだ. みうらじゅんより先に自分のウエブページに写真を掲げておけば, オリジナルを主張できたのに… この瞬間,僕はみうらじゅんに嫉妬した. まけるもんか.

梅原猛(うめはらたけし)

経歴は こちらをみていただきたい. 志田は,昭和後期の三大文筆人は中村元,司馬遼太郎,梅原猛の三人だと思っている. 前の二人は会う機会を逃した.存命なのは梅原猛だけで, 今会っておかなければ一生後悔するであろう. その機会がやってきたのは,2002年10月19日土曜日.場所は神宮外苑の日本青年館. 財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構が主催する「アイヌ文化フェスティバル2002」 であった.

実物の梅原猛は写真よりさらに歳を取った老人であって, 声も手も震え気味であったけれども,梅原節は健在であった. 何しろ,京都市立芸術大学学長,日本ペンクラブ会長をつとめ, 文化勲章までもらっておきながら,いまだに学会の保守性をきつく批判 しつづけるところは実にえらい.

岡本太郎が国立博物館で火炎土器を「発見」した話で笑いを取ったあと, 遮光器土器がすべて女性であることから,それが亡くなった妊婦であり, 腹部中央に垂直に入った点線は腹を裂いた跡, 胎児を腕に抱かせてから葬ったのだという説に展開していくあたりは 聞きほれてしまった. 岡本太郎は,縄文土器から芸術の爆発を読み取ったけれども, 本当は悲しい悲しい芸術なのだと. 一時間の講演を堪能した.

宇田川洋 (うたがわひろし)

東京大学文学部教授. 司馬遼太郎の「街道をゆく」第 38 巻「オホーツク街道」に登場する. 僕は '99 年 5 月この文庫を片手に網走に旅に出た. 日曜日,網走からバスで一時間,サロマ湖畔の常呂遺跡と展示館を見て, 公道に戻ろうとすると,ちょうど満開のエゾザクラの下でバーベキューを やっている人達がいる. 「たべていきませんか」と声を掛けて下さったのが, 宇田川先生であった.なんという幸運.遠慮なく呼ばれて,ホタテ,ニシン, ジンギスカンとその日サロマ湖から上がった海の幸をたらふく ご馳走になったのであった. 先生はすらりとした長身にひげが何ともカッコいい, アウトドアライフが身についた人. ずっと常呂町に住み文学部常呂研究室に常駐して発掘研究の指揮を 取っておられる.講義は集中講義だそうだ. 仲間は,その食材を取ってくれた漁師さん,町の教育委員長兼住職さん, 先生の奥様と,息子さん夫婦など,常呂町が大好きな人ばかり. いろいろお話を伺ったが,常呂高校に他町から通学する場合には 学費はただだそうだ.

僕も佐賀の吉野ノ里,青森の三内丸山遺跡などといった有名どころにはいったが, 常呂遺跡はその規模の雄大さにおいて圧倒的というほかない. 現存するオホーツク文化の縦穴住居跡が三千,潰してしまったもの, 未発見のものを合わせると一万はあるだろうというのだから, 全町遺跡そのものといって過言ではない. その場を辞したあと,夕方一人で川の蛇行しているあたりの発掘現場に 行ってみた.河道をまっすぐに付け変える工事を待たせての発掘なのだという. このような工事でもなければ,大きな発掘の予算はつかないのだというが, 工事によって遺跡は破壊されてしまうわけで,どうも釈然としない.

豊かな自然の中に美しい奥様と住み,遺跡を掘り,学問をする. フーバー先生のようにカリフォルニアにいなくても, こんな生活をしている人が日本にもいるのだ. なんて理想的な人生.

William Graham Hoover

UC Davis/Livermore の名誉教授. 詳しくは,森北出版「計算統計力学」(1999) の 訳者あいさつ を読んで下さい.

有馬朗人 (ありまあきと)

文部大臣、参議院議員(自民党比例代表一位)、元東大総長. 東大物理で僕の恩師川合敏雄先生の二年先輩にあたるから、 政治家としての肩書が先に来るというのはどうもぴんとこない. 1998 年の三田祭に弁論部主催の弁論大会に呼ばれたので、 友達に誘われて、見物に出かけた. 小柄な老人で、弁論部のスピーチの時には眠るがごとく目を閉じて (いるように後方からは見え)、二度と目を覚まさないのではないかと 思われたが、とんでもない。 講評者として一時間精力的な様子で喋っていった。 その論旨はさすがに明解かつ説得力のあるもので、 伝統を誇る慶應義塾弁論部を顔色なからしめるものであったと いわねばならない。 ところでこの人の物理の業績は何なのだろうか? 僕も知らなければ、同行の友人も知らないのであった。

満足して外へ出ると、今年の福引の特賞は TOYOTA ALTEZZA であった。 ううむ、やるな。

Donald E. Knuth (高徳納)

ついに、有名人を見物するため Stanford まで出かけてしまった。 Knuth と Henessy が SIAM 45th meeting で話すと聞いたからである。 Knuth はごく最近第一巻の第三版が出た "The Art of Computer Programming"(TAOCP) の著者で、Stanford 大学名誉教授、文書整形システム TeX の作者。 TAOCP は計算機アルゴリズムの集大成を目指した彼のライフワークである。 TeX を開発したきっかけも、TAOCP の出版のため自分で納得がいく 製版システムを自分で作ろうと思い立ったというのだから、 徹底した性格が伺える。 計算機の分野は、数学、物理学からの転身が多いが、 Kunth は、数学に基礎をおくものの、世界でもっとも偉大な 計算機プロパーな計算機科学者といわれる。 Knuth のホームページ の写真を見ると、ガッチリとした将軍のような印象だが、 これは実物と違う。 ひょろりとしていて、TAOCP の新版のカバー(そう、新版には カバーがついたのだ)についている写真の方が近い。 不思議な模様のついたスモッグを着た、いかにも超俗した学者に 相応しい格好で現れた。

話の内容は、「Linear Probing の35年」という題で、 データベースのハッシング技法の解析を例にとり、 自分の研究史を振り返るという、 どちらかといえばこじんまりした内容だったけれども、 公式には引退している Knuth 教授に直接接せられるこの機会を逃すまい と詰めかけた観衆の、満足そうな表情が印象的だった。

Henessy は RISC アーキテクチャの提唱者の一人で、 MIPS R CPU を作り、 "Computer Architecuture: A Quantitative Approach"、という 計算機アーキテクチャ教科書の決定版を Berkeley の Patterson と共著した 計算機アーキテクチャの第一人者。 こちらは現役らしくエネルギッシュな印象だったけれども、 特に目新しい見解は何も話さなかった。

Stanford のキャンパスを歩くと、スガスガしくて、 これが大学というものだ、と目から鱗が落ちる思いである。 日本の並の大学とは、同じ言葉で表されても全く別のものだ。 大学の近郊には、Sun、XEROX PARC、Apple、3com などが散在しており、 卒業生が大学のそばで旗上げするにつれ、それが Silicon Valley となって世界の計算機の中心地になっている。 自分たちは世界の真中にいるんだ、ということが体で分かる 羨ましい構造になっているのである。

森本雅樹(もりもとまさき)

日本の電波天文学の第一人者で、野辺山の45m電波望遠鏡を作られた方。 僕は専ら岩波書店の「望遠鏡をつくる」とか、講談社ブルーバックスの 「電波天文学への招待」とかの一般向け解説書でしか存じ上げなかったのだが、 ある研究会で三鷹の国立天文台へいったとき、たまたま食堂で相席に なったのである。 すると、男でもぼーっとなるようないい声で、 「おじさんはね、今九州で一人暮らしをしているんだけど、 お客さんを呼んで手料理を御馳走してお酒を飲むのが大好きなんだよ。 料理を作るのはね、女の人を愛するときとおんなじでね、」 と一しきりお話下さり、呆然として何も言えない僕らを後目に、 さっさと席を立たれたのだった。

Richard P. Fynmann

「ファインマン物理学」の日本語訳は岩波書店から出ていて、 その裏カバーにファインマンの写真が載っている。 この写真は1985年に来日した際、8月9日に学習院大学で行なわれた 仁科記念講演会のときのものである。 この記念すべき講演会に渋谷からバスに乗ってノコノコ出かけて いったことは、僕としては実に上出来な行動だった。 その頃の僕はファインマンが何者なのかも良く知らなかったし、 講演会は日本物理学会主催だったので通訳はつかず、 ファインマンが何を喋ったのかは良く分からなかったのだが、 どうも、量子コンピュータとか、計算に必要なエネルギに下限は あるかというような話をしていたような気がする。 当時はまだ「御冗談でしょうファインマンさん」も出ていなかったから (このとき日本旅館に泊まったエピソードが載っている)、 一介の学部生がただ雷名を聞くのみだったとしても無理はあるまい。 ファインマンは最後までクオークの実在性を認めるのに抵抗していた とあとで知ったが、このときの話にはクオークは出てきたから、 既に納得した後だったのだろう。

ところで、ファインマン物理学の原著は3巻本だが、日本語版は 5巻になっている。アメリカ人にはこれが不思議らしい。 しかし原著には並装と布張り箱入りの豪華版があるが、 この豪華版の箱が中身の本に対して大き過ぎ、すき間にボール紙を 詰めて売られているのはもっと変だ。

村井純(むらいじゅん)

この頃はTVでも雑誌でも、どこからか自然発生してきた 「インターネットの専門家」が、サイバースペースの未来をもっとも らしく論じている。 しかし、日本の「ミスターインターネット」村井純さんは、 学者らしく節度ある露出に控えておられる。 大学の在学期間において、村井純さんと志田は何年も 重なっている。その期間はちょうど純さんがuucp接続によるjunetの 立ち上げに努力し、さらに次のステップである組織間ip接続に進む時期と 重なるのである。 しかし、僕の在学していた物理学科が棟違いのため学部卒業まで 学内ネットワークに接続されなかったこともあって、未だに御縁が 薄いのは残念なことである。一方的とはいえ、唯一近くでお目に かかったのは純さんの学位請求論文公聴会のときである。

このときのテーマはおおむね次のようなものであった。 パケットがプロトコルスタックを通過するとき、素直に実装したの では各階層間でデータのコピーが発生するが、これはオーバヘッドが 大きい。そこでコピーなしで処理する方法を実装評価した。 これは現在では標準的に用いられている技術であり、研究として 評価されることは無論であるが、そのときの僕は 「日本の計算機ネットワークを立ち上げた男、それで十分じゃないか」 と思ったし、多分審査に当たられた教員も含め、その場にいた全員の 気持ちだったと思う。

噂を書き留めておくと、 (1) junetという名前の起源については幾つか説があるが、 junetはjunetであって何かの略ではない、というのが公式見解である。 "Japan University NETwork"だとしている文献もあるが、 これとて俗説の一つに過ぎない。 学内で囁かれていたもっともらしい説は「純ネット」だというものである。 これには、長い間他の人と違ってドメイン名なしのjun@junetで 電子メイルが届いたではないか、という根拠がついている。 (2) 体重の多い計算機屋の体型を「業界標準体型」というが、 純さんがその標準原器だった。 学内でのあだなは「怪獣君」といったらしい。 しかし、その後痩せたという。

久保亮吾(くぼりょうご)

数年前僕が銀座の電光ニュースで「日本人にノーベル文学賞」という 知らせを目にしたとき、てっきり「そうか、筒井康隆がついにやったか」 と勘違いした。今だに大江健三郎の授賞には納得できない。 さて、統計物理学の久保亮吾先生は、国内で「いずれ…」と期待されつつ、 そのまま逝ってしまわれた方である。 久保先生は東大を退官された後僕の大学の物理学科にこられた。 物理学科は当時立ち上げ時期にあり(志田が三期生になる)、 東大から高橋秀俊先生、久保先生、霜田光一先生、近角総信先生を 呼んで若手の成長を待っていた。 志田の御縁は、量子力学の講義を受けたこと、卒論発表のポスター セッションで審査員の一人をやって頂いたことの二つである。 しかし、久保先生の講義は、いかにも東大の大家らしく凡才には さっぱり分からないものであった。 '95年春に神奈川大学で日本物理学会が行なわれていたとき、 昼過ぎ会場内を「亡くなった」との囁きが流れた。 葬儀では、お好きだったというモーツアルトやバッハが流れ、 趣味の水彩画を絵はがきにしたものが会葬者に配られた。

日本の計算機の草分け高橋秀俊先生は、志田が在学中に亡くなったが、 講義を聞く機会がなかったことは未だに残念である。

A. D. Sakharov

サハロフ博士の記憶は日本ではあるいはもう薄れ始めているかも知れない。 旧ソビエト連邦の反体制物理学者でノーベル平和賞授賞者である。 それを受けて僕の出身大学が名誉教授号を差し上げたことから、 三田の講堂で講演会が行なわれた。 その3ヶ月後に博士は急死してしまわれたが、もしや忙しい中を無理に 日本に呼んだことも疲れの一因になったのではないかと思うと、 名誉教授など余計なことだったのかと心配になるのである。 サハロフ博士がミューオン触媒核融合の研究をしていたことに因んだのか、 アーサー・C・クラークの「2010年」では、博士が宇宙船のための 「ミューオン駆動」推進装置を発明したことになっているが、 それも果たされなかった。 論文へのポインタ:1989年のMuon Catalyzed Fusion誌4巻235頁。

Steven P. Jobs

ジョブスがアップルに帰ってきた、というのは1996年の師走に 飛び込んできた大ニュースだった。 志田はApple IIの時代は知らないので、1986年に新宿の01ショップで 初めてMac512Kに触れて「これがパソコンというものだ!」と感動したのが 最初である。 志田がジョブスを見たのはその4年後、1990年に東京ベイNKホールで NeXTの日本発表会をやったときノコノコ出かけていったのである。 マグネシウム合金製の黒い立方体はあまりにもかっこ良く、 ジョブス自身によるインターフェースビルダーの実演に 「これが次世代のユーザインターフェースか!」と再び感動したので ありました。舞台にはシステムダウンに備えてか2台のNeXTが並び、 そのうちの一台だけを使ってデモが行なわれた。 しかし、その時の値段は300万円と高く、何時かは必ず手に入れたい と思ったものの未だに果たされない。

NeXT Station turboが120万円まで下がった時には、SPARCstationの方が 性能が良かったし、NEXTSTEP for Intelが売り出された頃には、 free unixが実用期に達しつつあり、ついに買えぬまま、安さに引かれて NeXTよりちょっとづつダサイものを使いつつ今まで来てしまった。 NeXTのコストパフォーマンスが良かったことは今まで一度もないのである。 今度MacがRapsodyになったら、今度こそ手元に来るのだろうか。 しかし、リバモアの床屋の親父はAppleが好きで、ジョブスにもスカリー にも会ったことがある言っているから、案外誰でも会えるのかも知れない。

Richard M. Stallman

簡単に会える有名人といえばこの人、 Emacsエディタの開発者にしてFree Software Foundation主宰。 毎年UNIX Fairにやってきて(海彦山彦パシヒコ横浜、なんちゃって)、 GNUのコーナーで売子をしているから、CD-ROMか本を買えば サインと握手もしてくれる。 竹内郁雄さん(NTT武蔵野通研でサッカーをやってた人、 今は電気通信大学教授,「bit」にも連載している)には、 ストールマンはキリストに似ていると聞いていたのだが、 実物は相当太め。 体は大きいが、手は軟らかい。 1996年には、Linuxオペレーティングシステムの開発者 Linus Torvaldsも来ていたそうだが、見損ねてしまった。 このページも、LinuxサブノートでMuleを使って書いてます。 ストールマンさん、リヌスさんありがとう。二人仲良くしてね。

竹内郁雄さんと一緒にストールマンの「GNU Emacsマニュアル」を訳した 天海良治さんも、プログラムを書くのが早いらしい。 TAO/ELIS開発たけなわの頃NTTを見学にいったとき竹内さんが 褒めていうには、一晩でソースプログラムの入ったディレクトリが モコモコとできるのだそうだ。 そこでプログラミング能力の単位として1アマガイというのを定義するのだが、 単位が大き過ぎて、大抵はマイクロアマガイかミリアマガイを使うことになると。

昭和天皇

1964年の東京オリンピックと1970年の大阪万国博覧会は、 日本中の興奮を掻き立てた年だった。 道路と呼ぶに値するような道もない貧しい国、 それが戦争に負けてさらに焼け野原になり、 しかし20年以上の努力でついに世界的行事を呼べるようになった、 という興奮だったと思う。 オリンピックの年に生まれた僕は、7歳のとき父親と二人でかぶと虫で 東名を走り、万博見物に連れていって貰ったのである。 小雨の一日、会場内の道路にロープが張られて通行が遮断され、 周囲の興奮が高まっていくとやがて、黒塗りの車が通り過ぎていった。 その車は日産プリンスロイヤルというのだと、何年か後にこども 自動車図鑑で知った。

それ以来、商売としての万博は幾つも企画されたが、 これはもう駄目だと思ったのは'90年の横浜博である。 3000円以上の入場料を取って、40分待ち60分待ち、それでも 入場者が目標を下回って赤字の危機というのを聞いて実に腹が立った。 行列させないと採算が取れない企画など、そもそも間違っている。 もはや日本は万博、オリンピックの類はもう卒業したということだ。 都市博中止は健全な判断であった。 今度の冬期オリンピックも西武の力だか知らないが、 長野などという雪質の悪いところに強引に引っ張り込んで、 迷惑を掛けることにならなければ良いが。

僕が思うに韓国は今その道を辿っているところで、ソウルオリンピック、 ワールドカップサッカーとやればおおよそ気が済むであろう。 そういう国とワールドカップの開催を争うなど実に無駄なことだ。 そちらでどうぞとさっさと譲ってしまえば良かったのに。

池田大作

ある年八王子からバスに乗って創価大学の文化祭に出かけた。 目当ては演劇部の公演だったので、詳細は そちらにもう書いた。

Marvin Minsky

こちら参照。

坂村健(さかむらけん)

こちら参照。

篠原涼子・市井由理(東京パフォーマンスドール)

写真はこちら