出発までのエピソード

イタリア初体験

 僕のイタリア初体験は大学の卒業旅行まで遡る。男3人連れで、ローマ、パリ10日間という終日フリーのツアーでイタリアに行ったのが初めてのイタリア、初めてのヨーロッパだった。当時は、医師として働き始める前で、将来に何が待っているのか正確には想像がつかなかったけど、ただ漠然と、医師になったら時間がなくてヨーロッパになんかもう来られないんじゃないかと考えていた。だから、大袈裟じゃなく、これで最後のヨーロッパと思っていた。今でもよく覚えている旅行のエピソードは、旅行中、ホテルなどでパンの追加をお願いするために、ウンポ・ディ・パーネ、ペルファボーレ(パンをもっとくれませんか?)というフレーズを覚え、それが通じて嬉しかったことだ。せっかくの海外旅行、現地の言葉を挨拶以外にひとつでもいいから覚えたかったのだ。
 当時、イタリアという国は僕にとってローマ帝国のローマ人たちの末裔、歴史に裏取られた、誇り高い人々が住んでいる国であった。ローマからポンペイ観光に行った時には、その遺跡の素晴らしさに息を飲み、紀元0年頃にここまで進んだ文明をもっていたなんてすごいとため息が出たものだ。ローマの数々の遺跡もすばらしかった。イタリアの総合的な印象はどうだったかというと、強い印象はポンペイの遺跡のそれに代表される遺跡であり、現地人との交流はほとんどなかったので、イタリア人に対してどんな印象を持ったのかはよく覚えていない。ただ、その後行ったパリのあまりに美しい街並みと美しい人々、特に女性達に心を奪われてしまい、それと比較すると、やや原始的な、街並みもややがさつで、人々もやや洗練度に欠ける国という印象を持った。その時点で、僕にとってのヨーロッパナンバーワンはフランスであり、イタリアはその次のレベルと序列が出来ていた。
 その後、就職し、研修医となりまったく時間のない生活となった。そんな中僕の仕事の合間の慰めは塩野七美の「ローマ人の物語」であった。ローマ人の自由奔放な生き方に憧れた。だから、ヨーロッパでの序列はフランスの下だったけど、イタリアに対する畏敬の念と、またイタリアの他の場所にも行ってみたいという気持ちは徐々に大きくなっていた。



アメリカ体験

 研修医も終わり収入が安定してくると、海外の国際学会に参加したいと思うようになった。医師になったら海外に行く暇はないとてっきり思っていたけど、海外に行くにはなにも旅行だけが手段ではなかったのだ。自分の休みを使う他に国際学会に参加するという手があることを知ったのだ。自分の研究なんかを発表できれば尚結構だけれど、いかんせん若い医師にはなかなか機会がない。発表はなくても、見学で勉強してくるということは意義深いし、有益であることに間違いはない。幸い上司がアメリカで5年の臨床経験を持っていてその手の国際的なミーティングに関する情報は十分にあった。そこでどこかの国での国際学会見学に行こうと探しだした。そこで出てくる国はアメリカであり、ヨーロッパに学会発表ではなく見学にいくという発想は僕にはなかった。世界の医療をリードしているのはアメリカであり、わざわざ遠いヨーロッパに何を学びに行くのか?という思いが強かったのだ。
 アメリカへの漠然とした憧れは高校生の時からあった。姉がアメリカの大学に行っていたからだ。豊かな国アメリカ、医療先進国アメリカという認識は強く、学生の時の夢はアメリカに渡って成功することだった。大学が東北の山の中だったため、その思いは特に強くなり、アメリカに行くための準備をたった一人でやっていた。学生の時、基礎研究と病院見学で、セントルイス大学とウエストバージニア大学に夏休みの間だけ行く計画があったが、短期間のアメリカ行きの意義を問うたのと経済的な問題で行かずじまいに終わってしまっていた。結局一人で勉強をして卒業後アメリカに旅立つという夢もアメリカの医師国家試験の合格が間に合わなかったため、日本の病院への勤務を余儀なくされた。そんな中、1年目の研修医仲間が2年目からアメリカで研修をするために渡米し、とてもうらやましかった。いつかアメリカに臨床留学したいという思いは依然としてあった。ただ、研修医が終わってしまうと、また初めから研修医で行くのは嫌だった。日本でのキャリアが一段落したらアメリカにclinical fellowとして来たいなと思っていた。数年間の夢の先送りである。
 そんな中、長期ではなくても、1週間ほどの短期でNew York Eye, Ear, and Throat Hospital主催の美容外科講習に教授と行ったのは貴重なアメリカ体験だった。日頃の忙しい仕事から解放されて一週間だけの自由な時間、しかも世界の中心地ニューヨーク!!実際には参加費の元を取ろうと、1日中みっちりと口演を聞き、夜は疲れてほとんど外出は出来ないような状態だった。それでもマンハッタンにいる自分を幸せに思ったし、今後もこのようにして海外に来ることが出来る、チャンスがあれば短期間でもいいからどんどん海外に出ようと強く思った。その先に長期間の留学があれば尚いいと考えるようになっていた。
 その後乳房再建への興味が大きくなり、半年後ニューヨークを訪ねた。今回は日本人医師A医師の元を訪ねたのだ。彼はアメリカンドリームを地でいくような人で、若いときにアメリカに渡り、成功し、現在は5件の家を所有。のんびりとニューヨーク大学関連病院で診療を続けているような人であった。そんなサクセスストーリーに刺激を受け、ますます海外嗜好が強くなっていった。ただ、その頃には、ただ、行くというのではなく、自分の興味のある分野でしかも日本が遅れをとっているようなことを吸収に行けたら尚いいなと思うようになっていた。一から始めるのではなく、自分が得意な分野の研鑽にいきたいと思っていた。そんなニューヨークからの帰りの飛行機の中で、ある論文に出会った。フランスのK.Crough医師のかいたOncoplastic surgeryというものの紹介論文であった。帰りの機内の中で「これだ!」と思った。この分野こそ僕がこれから学ぶにふさわしい新しい分野だと思ったのだ。形成外科と乳腺外科の間のような新しい発想、そんな柔軟さに惹かれた。それに、アメリカではまだ普及していないというのも興味をそそった。常にアメリカに後塵を拝している日本の医療の現状を知っていたからだ。K.Crough医師がフランス人であることも大きなインパクトだった。アメリカ以外でも世界に先駆けることができる、、、。そんな思いでその時の病院見学体験レポートを当時の同僚に勇んで発表した。もちろん締めくくりはその論文についてであった。



再びイタリア体験

 それからほぼ1年後、ひょんなことから同僚I医師が海外の学会からミラノの乳房再建講習に関するパンフレットを持ち帰ってきた。その頃僕は、常にOncoplastic Surgery、Oncoplastic Surgeryと連呼していたのだが、同僚がその文字をパンフレットに発見し、専門外であるにもかかわらず持ち帰ってきてくれたのだ。そのパンフレットにはあのK.Crough医師の名前があった。場所はイタリアのミラノ。以前もう来ることはないと思っていたイタリアである。万難を廃し、早速その講習会に参加することにした。更に、せっかくヨーロッパくんだりまでいくのだから、K.Crough医師の病院、パリのキュリー研究所病院も是非見学したいと思い、彼に手紙を書いた。講習参加の後であるために多くの日数を僕が裂けなかったため、結局2日だけであったが、快諾をもらった。
 ミラノにつくと、いつものごとく片言のイタリア語を試してみた。通じた!!タクシーのボッタクリを避けるために、ミラノまでの料金を確認したのだ。講習当日、タクシーの運転手に病院名のInstituto Europeo di Oncologiaを告げると、どんどん街中を走っていき、ある大きな病院のようなところで止まった。どうやら着いたらしいのだが、なんか変である。講習会の看板ひとつない。そこで確認のため聞き返してみると、どうやらミラノには癌センターが二つあるらしいこと、今ついたところはもうひとつの国立がんセンターであることが判明した。幸い講習会のパンフレットを持っていたのでそこに住所が書いてあり、再出発が出来た。はじめからそれを見せればよかったのだが、僕の悪い癖で言葉だけで通じさせてみたかったのだ。それからタクシーは一旦町の外の高速道路へ出て、なんとか目的地に着くことが出来た。その病院はひとつの大きな建物ではあったものの、場所は町の中心部を外れた畑の真ん中にあった。想像とはまったく違っていた、、、。
 ヨーロッパ癌センター、大それた名前である。日本にアジア癌センターと名のつくものがあるだろうか?いったいどれくらいのレベルの病院なのだろうか?いろいろな国籍のひとがいるのだろうか?そんなことを考えていた。いずれにしても、講習会のプレゼンターは、フランス、ドイツ、イギリス、ベルギーなどヨーロッパ中からきており、アメリカからも来ていた。これはすばらしい講習会なのではという予感がした。ただ、ヨーロッパ人の話す英語を聞きとる自身がなかった。そのためビデオに録画することとした。朝一番で会場に着き、一番前の席を陣取り、発表はすべて録画した。ちなみに出席者のネームリストが配られ、日本からは僕唯一人であった。アジアからはインドか香港から1,2人いたような気がするが、とにかく日本人一人だけというのが僕のやる気を大きくくすぐった。日本代表になった気がした。
 講習会はとてもはすばらしかった。全ての発表をビデオで今でも持っているが、当時の僕にとってすばらしく洗練された手術であり、日本にも是非広まって欲しいと心からそう思った。お目当てのK.Crough医師は40台半ば、どこなくトム・クルーズ似で、格好もいいし、英語も堪能で聞きやすく、すぐにファンになってしまった。講習会を実質仕切っていた。その講習会の座長がPetit教授であった。彼にあってはじめて挨拶をしたとき、ニコッと笑いかけてくれ、日本からわざわざ来た僕のことを優しく歓迎してくれた。その後K.Crough医師が予定を変更して早く帰国することとなり、僕も予定を変更して一早めにパリ入りすることとなった。予定の便をキャンセルし、まったく直前にパリ行きの片道チケットを現地購入した。あいにくビジネスしか空いてなく、仕方なくビジネスを購入。生まれて初めてのビジネスクラスだった。しかし、実際にはシートの間隔がエコノミー3人のところを2人で座る程度の差であり、通路の反対側はエコノミーであった。日本発の飛行機ほどの格差がなく期待はずれだった。



フランス体験

 パリのキュリー研究所はパリの5区にある。街中にひっそりとたたずんでいて、ある意味、日本の東京の病院のような感じであった。生まれて初めてのフランスの病院、しかも華のパリ。観光では絶対に出来ない体験だと思い、自分の幸運をうれしく思った。内装は日本には絶対ないような色使い、デザインで、興味深かかった。そこで手術を見学。手術そのものにも興味はあったが、なにしろ始めてのパリの病院、院内の構造や、そこで働くほかの医師や看護士に関心がいった。K.Crough医師といっしょに働いていた研修医やfellowのような海外からの医師に注目した。彼等は何をしているのか?どんなことができているのか?特にロンドンから来ていた女医さん(見た目はアジア人風)と気があい、いろいろ話しを伺った。2人の子供をロンドンの夫に預け、パリに来ていた。週末は電車でロンドンに帰っているとの事。そこで驚いたのは、まったくの無給であるということ。無給でパリにアパートを借り、週末はロンドンに帰る生活は相当出費がかさむことだろうと他人事ながら思った。それに見合ったメリットがあるのも事実であると思った。他にアフリカから、やはり丸3年無給でキュリー研究所で働いている医師がいた。今思えばおそらく彼は自分の国かどこかからお金をもらっていたのではないかと思う。いずれにしても、病院からはまったくお金をもらわずに彼等がやっているのをみてこれは大変だなと正直思った。そのとき内心ではパリに留学するぞ!と僕は決めていたからである。貴重な病院見学を終え、以前来たことのあるサクレクールの丘を登った。もうくることははないと本気で思ったあの卒業旅行の思い出がよみがえった。今回は小澤征二指揮のオペラまで見ることが出来た。リラックスしたものである。この時心は決まっていた。何とかして近いうちにまたパリに来る!
 パリ留学を内心決心したのも良かったが、僕には妻と生まれたばかりの0歳の子供がいた。家族連れでの留学は一人でのそれと違い、いっそう困難だ。特に妻も医師をしているので、お互いの職場のアレンジは必須であり、考えれば考えるほどいっそう難しいような気がした。海外留学には基礎研究留学と、臨床留学があり、後者の場合は、医師の免許の問題もあり、アメリカが圧倒的に多く、さらに若いとき(研修医)からむこうのシステムに組み込まれないとなかなかいい経験が出来ないということも分かっていた。かといって基礎研究で留学をするような気は毛頭なかった。外科医には旬というものがある。どうせ年をとったら手術をやりたくてもやれなくなるのだ。腕前を磨けかなくてはいけない若い大事な時期に机にかじりついていたくはなかったのだ。こうなると、申し訳ないが、フランス留学には妻子の存在は重荷になると思われた。そうはいっても大切な僕の家族、優先順位をつけるとしたらなんといっても第一に考えるべき時柄だ。とにかく、遅かれ早かれパリに行こうと心は決まっていたので、出来ることから始めようと思った。いくつかのフランス語学校をあたった後、吉祥寺のフランス語学校を探し出し、通い出した。近所の本屋のフランス語の学習本は全て買った。なにはともあれ語学力が必要だと思ったのだ。この頃、車の中もフランス語、家の中もフランス語であった。それから妻とよく話し、家族揃っての留学の青写真は出来ていた。キュリーに留学したいという意思の手紙を出したら、来るのはまったくかまわないがまったくの無給であるとの返事。予想はしていたが、1年ないし2年くらいの期間を考えていたので、お金が足りないこととなった。パリに家族連れで住むとなると相当の出費が必要なのだ。まったくの無給でも手術に参加できればそれでいい!!そんな気持ちだった。そこで、生活費を捻出するために週末の救命救急病院のアルバイトを始めた。早くても出発までまだ半年以上あったので、まだある程度お金を貯められる期間があった。ただ、気がかりだったのは、フランス人研修医の無愛想ぶりだった。彼等にしてみれば外国人は自分たちの働く機会を奪う存在でしかなく、はっきりいってじゃまな存在なのだ。大事なことは手術をすること。見学レベルでは行かないほうがいいと強く考えていた。だから、そんな彼等ともうまくやらなければならない。うまくやっていけるだろうか?フランス語も難しい。そんな不安が僕を襲った。そんな思いをめぐらせていたとき、ふとK.Crough医師からの手紙にあるアドバイスに目が行った。ミラノのヨーロッパ癌センターであればお金をくれるかもしれないという。さらにPetit教授は旧知の友人であるなどとの紹介があった。そうPetit教授はフランス人なのだ。フランスに心は100%傾いていたが、「お金」の二文字に魅かれた。Petit教授であればK.Crough医師と同じようなことをやっているだろう。この間の講習会でのやさしい笑顔が目に浮かんだ。早速キュリーにおくったのと同様の手紙を送ったところ、驚くべき返事が返ってきた。なんと、イタリアの銀行員程度の給料付きでclinical fellowとして雇ってくれるという。それに、2年という希望期間に関してもOKであった。それにしてもこんなに簡単にオファーを出してもいいのだろうか?正式には見学と同じレベルのキュリーに対し、ちゃんとした正式採用のオファーに心は傾いた。向こうからの給料と貯金を合わせれば、イタリアでの家族揃っての生活は可能であるように思われた。そこで、フランスに一度傾いた心をイタリア持って行くのはとても大変であったが、金銭面がクリアされると分かると気が軽かった。そこからは妻の説得である。フランスに行くことにすっかり浮かれていた妻をイタリアに行こうと誘うのは心苦しかったし、実際自分自身がフランスに行きたい気持ちを捨てきれずにいたのでる。



イタリア留学決定

 フランス語も結構覚え始めていたし、今更、それをイタリア語に変えるなんて、それにイタリア語はフランス語より響きが「ダサい」感じがしていた。勉強期間もどんどん減っていく。早く結論を出さなくてはと焦った。それでも金銭面だけでなく、ヨーロッパ癌センターという大胆なネーミングから、きっと世界中から医師が集まってきていて、キュリーと同格か、それ以上のプレステージがあるかもしれないと思い、それであればイタリアも悪くないと思い直した。それからイタリア語の本を本屋で全て買いあさり、勉強を開始した。2001年10月のことである。11月に同じミラノで、乳房再建講習が今度は、国立癌センターのほうであり、それにも是非参加し、ついでにヨーロッパ癌センターを1日見学し、それで留学をしようかどうかの最終決定をしようと思った。結局好印象を持ち、行くことと決めた。妻の説得にはかなりの時間を要した。結局、子供が小さいこと、イタリア自身の魅力が妻にとってはあまり大きくなかったらしく、はじめは一人で行くこととなった。まったくの初めての環境、初めての海外滞在。いきなり家族全員でいっても大変なことは目に見えていた。そこで、初め3ヶ月間有効の航空券を買い、その期間内でその先も滞在したいと思うようだったら家族を秋ぐらいから呼び寄せることとしたのである。いわばお試し期間である。Petit教授にはそのような我々のお試しの考えなどいわず、2002年4月より2年間お世話になることをお願いする旨の手紙を送り、快諾をいただいた。12月のことである。 
 イタリア語の独学はエスカレートしていった。車の中、家の中、あらゆるところで勉強した。仕事が忙しくなかなかはかどらなかったが、4月出発という目前に迫った期限があるために集中力は続いたと思う。
  年が明けてからは本当に大変だった。退職の手続き、健康保険の手続き、ビザの手続き、引越しの手続きなどなど、やることは山済みであった。それらを仕事の合間に片付けていった。まさに毎日毎日なにかやるべき手続きがあった。僕は「To Do」リストをつくりそれを実行していった。今回の留学で一番気になったのは、小さい子供を東京に置いていくことへの罪悪感であった。例えお試し期間とはいえ、妻がやさしく「一人でいってきていいよ」言ってくれたとき、本当になんていい女性と結婚したんだと思った。妻にアメリカ留学経験があり、僕の海外留学願望をよく理解してくれた。また、それまでの自分は働いていながらも、いつも満足感が得られなかった。イタリアからのオファーを得てからの僕のうれしがりようがあまりに大きく、その変わりざまが妻にそういわせたのかもしれない。



ビザ取得

  Petit教授から、ビザは労働ビザではなく、学生ビザでいいとの連絡がきた。お金をもらうのに学生でいいとはどういうことかと思ったが、奨学金という名目でもらえるお金だから問題ないと解釈した。それに労働ビザはものすごく取得が困難であることを聞いていたので、学生でもなんでもいいからイタリアに行ければそれでいいと考えていた。そのビザ取得がこんなにも面倒なこととは知らなかった。昨今のイタリアブームで留学生が急増し、窓口が大混雑。旅行会社の添乗員さんも定期的にビザを取得しなくてはいけないのでそれに輪をかけていた。おまけに留学に必要な書類がとにかく一度行かなくては手にはいらない。窓口は午前中だけ開いているという不便さ。初めてイタリア大使館に訪れたとき、既に午後になっていて閉まっていた。午前中だけ開いていることを僕は知らなかった。それでも仕事を早退してきたからには引き下がれない。なんとか食い下がって必要書類が明記してあるパンフレットを持ち帰った。大使館自体も事態を改善しようと試行錯誤を繰り返していて、予約制になったり、FAXだけはOKになったり、あるいはもとの早いもの順に戻ったりところころ形態を変えた。最後にPetit教授からの採用通知書が送ってこない。2月中に書類をまとめて大使館にもっていかないと間に合わない可能性があった。そこから毎日毎日催促の電話をした。「ハロー、アイアム コーリング フロム ジャパン。」こんな感じの電話を毎晩夜中にした。日本の夜中がイタリアの労働時間なのだ。毎日のように送ったか送ったかと確認の電話をした。今思えば秘書のマヌエラにとってはさぞかし厄介者だったことだろう。イタリア語を話さず英語で毎日国際電話をかけてくるへんな日本人と思われていたに違いない。最終的にDHLでなんとか採用通知書を送ってもらい目標日時ぎりぎりでビザを取得できた。結局大使館には4回行った。ビザを受け取っときは本当に嬉しかった。イタリア留学経験者はみんな同じ思いをしているに違いない。
注:診療レポート、「僕の身分」参照



出発

 今回のイタリア行きの最大の難点は、出発の日の直前に妻の実家に妻が引っ越すこととなったことだった。高額の家賃を妻と子供だけのために払い続けるのはもったいなかったし、小さい子供の面倒のため実際誰かの手助けも必要だったため、妻が実家に戻ることとしたのである。引越しというものは大変である。何から何かまでまとめ直し、家財道具の分配を決め、結局荷物が多いために妻の実家と僕の実家に分散して送ることとした。それにしても出発間際の忙しさは今思い出しても壮絶であった。あらゆる手続きを行い、同時に膨大な荷物の梱包。1歳児の面倒を見ながらである。本当にイタリア出発が果てしなく遠いことのように思われた。
 引越しの日、小雨がぱらついていた。最後の荷物を運び終わって、妻いた。始めてみる大粒の涙だった。結婚して2年。毎日のように2人で通ったいつもの道。子供が出来てからも保育園にあずけるために同じ道を通った。本当に規則ただしい日々だった。「とーたんとその道を通ることがもうないと思うと涙が溢れてきて、、、。」妻は言った。僕まで泣けてきた。出発の1週間ほど前からひどい風邪を僕はひいていたのだが、鼻水が余計に多くなった。
 なんとか全ての準備が住み、部屋を引き払ってから2日で出発であった。1日は妻の実家にお世話になり、最後の夜は恵比寿のウエスティインホテルに泊まった。実は妻が取ってくれた粋な計らいであった。最後の夜は今までの出発準備のぐちゃぐちゃを払拭し、落ち着いてゴージャスにできた。ホテルで最後のEメールを送受信した時、僕のコンピューターのインターネット接続が自宅の光ファイバーから普通の電話回線用に設定を変えなくてはいけなかった。これで本当に旅立つのだなと実感した。
 成田では僕の親や姉夫妻、妻の親など家族総出で送ってくれた。とにかく、やってやる。そう思った。出国ゲートをくぐると今までの多くの苦労が思い出されて、涙が止まらなかった。自分でもびっくりするほど本当に大泣きをして出国となった。妻も泣いているように見えたが涙で家族を見ることが出来なかった。





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