T いま,なぜ,世界史か

序にかえて

1.変わる世界認識と変わらぬ世界認識

1997年の話である。8月14日〜15日,日韓歴史教育東京シンポジウムが,東京は駿河台の明治大学で開催された。
この集会をひらくのに中心となって動いたのは,日本側では,「日韓歴史教育研究会」だ。
国側では,晋州(チンジュ)「歴史教師協議会」の教師たちである。
「日韓歴史教育研究会」は,1993年に結成された。こころある小学校,中学,高校,大学の教師たちや教師でない人たちが,かってに集まってつくったささやかな会である。
本の教師たちは,韓国を訪問して,日本と韓国の歴史教師たちが,互いにどんな授業をやっているかを報告しあって,論議する交流をすすめてきた。

今回は,第5回日韓歴史教師交流会だった
国からは,中学・高校の教師11人が来た。
れだけでも画期的なことで,たぶんはじめてだろう。文部省から派遣されたのでもない。民間どうしの自発的な交流である。費用は,自分持ちとカンパだ。
のとき,日本からの報告者のひとり,目良誠二郎(海城中高校)は,「日韓関係の近代史を問い直す」というテーマでおこなった授業の報告をした。高校1年生の授業である。
(めら)は,『世界と日本の歴史』(大月書店)の「読者のみなさんへ」という編集委員会の文章を読むことから授業をはじめたという。

この会に参加していた私は,おどろいた。「読者のみなさんへ」は,私が元原稿を書いてまとめたものだ。てれくさくもあり,うれしことでもあった。
をいえば,これは私が書いたというより,それまでに,多くの人から学んだことを,まとめたものだ。ことばじたい,ひとさまのことばをつかっている。読む人がみたら,盗作といわれるかもしれない。
もあれ,それは,世界史の学習というのは,こういうことではないか,と私が考えていたことなのである。こう書いた。



生まれてみたら,そこは,日本であった。
気がつくと,いまは,20世紀がおわろうとする時代だった。
見わたせば,世界のいたるところで,人びとは,いっしょうけんめいに生きている。
この地球のあらゆるところで,それぞれの時代の,おとなや子ども,男や女が,よろこび,かなしみ,愛し,憎み,楽しみ,耐え,怒りながら,毎日を生きてきた。
そのつみかさなりが,歴史となった。
人びとは歴史のなかに生き,歴史にむかって働きかけ,歴史をつくることに参加する。
ある人は無意識のうちに,ある人は意識して。
長い歴史を歩いて,いまわたしたちは,どこまできたのであろうか。
日本の歴史は,日本だけの歴史で成立しているのではない。
日本史はつねに世界史のなかで動いてきた。同時に,日本史は世界史をささえている。
世界史が日本史をつくり,日本史が世界史をつくる。
世界史と日本史は,別々のものではない。
世界史を離れて日本史はなく,日本史をのぞいて世界史はなりたたない。
この本は,日本史のなかに世界史を発見し,世界史のなかに日本史をみつけようとするこころみである。
わたしたちは,いつか,どこかで身につけてしまっている,あまり確かでない知識や,ものの見かた・考えかたをもっている。
大事なことで見おとしているできごとがある。
反対に,たいしたことではないのに,後生大事にしている知識もある。
知っていても,そのことの意味をきちんとつかんでいないことがある。
手にした知識と知識,さまざまなできごとを,どう結びつけるのか,そのくみた
てかたによって,いままで見えていなかったことが見えてくることがある。
じぶんの見かた・考えかたをもういちどうたがい,つくりなおしてみようとする。
いまはどんな時代なのか。いまわたしたちは,世界とどのようなつきあいかたをすればよいのか,どんなつきあいかたをしてはならないのかを考える。
そんなとき,この本にえがきだされた日本史・世界史のこころみを,ひとつの見本として,21世紀を生きるみなさんが,それぞれの世界史・日本史をえがきだしてくださることをねがっている。




というものである。
<ここで 鈴木亮の「まえがき」集をみてください>

そのあと目良は,生徒たちに,世界各国のあいさつことばを言ってもらう。
予想通り,英語,フランス語,ドイツ語などはすぐ出てきたが,それ以外は中国語以外出てこない。やっと一人だけ,"アンニョンハシムニカ”をうろ覚えで言った。
そこで,好きな国を聞いてみる。
倒的に多かったのは,アメリカ。韓国は?と聞くと,一人だけ手をあげた。北朝鮮はゼロ。
嫌いな国も聞いた。アメリカに2人手があがった。韓国には10人以上の手が挙がる。北朝鮮はもう聞かなかった。
韓感情”が若い世代にも広がっていると聞いていたが,やはりそうなのかと目良はどきりとする。 韓国に対する考えを書かせる。
君の意見はこうだ。
「韓国に対し日本は経済援助や技術の伝達を行ってきた。それなのに韓国人はさも当たり前のようにして,礼も言わない。日本人は結局何をしても許されないのだ。日本人が謝っても謝っても,償いをしても,韓国人は許そうとしない。そこがむかつく!テメー何様のつもりだ,という感じだ」
君はこう書いてきた。
「確かに日本は加害者である。しかし敗者が勝者に支配されるのは自然の摂理であり,当たり前のことだ。それを自分たちが負けたことを考えずに,責任を取れなどと騷ぐのはバカのすることである。そんな国の歴史を勉強する必要など全くない」
これらを読んだ目良先生は,
「A君の答は,最近の“嫌韓”論調の代表的なタイプでしょう。B君のはさらに居丈高な“居直り”の論理です。
読み進めるうちにA君のような答が次々に現れ,これは容易なことではないとの思いが体の中からザワザワと立ち昇ってきました。
この予想以上の生徒たちの中の“嫌韓”感情の高まりを前に私はたじろぎを覚えました」
と書いている。目良は,この生徒たちとの授業にとりくむのである。

さんの意見を聞こう。
「朝鮮または朝鮮人という言葉に対して,正直なところ,良いイメ一ジはもっていなかった。否むしろ嫌悪感がはしるといった方が適切かもしれぬ。朝鮮民族は愚劣であり,暴力的であるから,従って嫌いであるというのが私の理論であり,何のギモンもなかった。
なぜなら,多くの人々が昔からそういっているし,特にそれが誤りであるというような教育も受けなかったからである。中学・高校の授業において,朝鮮に関しての授業はほとんど取り上げられていないようだし,自分も憶えていない」
こう過去形で書いているCさんは,教職課程の私の「外国史」を受講していた大学生。
A,B君より11年前,1985年に,このように目分の中学・高校時代をふりかえった。
さんは,小・中・高時代に目良のような先生に出会うこともなく大学生になり,大学ではじめて考えたのだ。
10年前,20年前,30年前の高校生や大学生の韓国・朝鮮認識が,表現のしかたが時期により多少のちがいはあっても,およそこのようであったことは,たくさんの人が言っているし,私もなんども書いた。
藤岡信勝教授や奥野誠亮議員や藤尾正行元文相らが登場するまでもなく,日本に育っただけで,このような朝鮮観をもって大学生になる。
というより,問題の妄言をくりかえす人たちは,国民のこのような感情につけこんでくるのだ。
日韓国人の作家,柳美里の芥川賞受賞記念サイン会が,脅迫によって中止されるというありさまが20世紀も終わろうとするいま,日本にはある(97年2月)。
もっともこれらの事件や閣僚らの妄言は,この問題をみんなで考える機会にもなっている。それもこんにちのだいじな状況である。

東京の小学校教師,山本典人は,「朝鮮の国や朝鮮人について知っていること」を小学生に書かせた。『歴史地埋教育』の122号,1966年の7月号に載っている。
90年代の小学生と比較するために,1960年代の小学5年生の朝鮮像を紹介してみよう。
「朝鮮人と中国人は清潔でない。」
「朝鮮は科学の発達してない国で家もわらでできている。川でせんたくしたりする。おので木をきりたおしたり,そまつな服をきたり,あまり金もちの国ではない。」
「朝鮮人は生きた虫を食べるときいたことがある。なんだか,原始的で,へんな気持ちだ。」
「朝鮮人はとなりの家のお手洗いをつかうそうだ。それはくみ取り代が高いからだそうだ。」
「朝鮮人は人が死ぬとふえをふいて祝う」
等々,思わず耳をおおいたくなるようなことが書かれていて山本先生はぎょっとさせられる。
予想はしていたが,あらためて「これはひどい」と声をあげたと書いている。

山本がこう報告してから30年ちかくたった1994年,干葉の小学校教師,三橋ひさ子は,子どもがほんとうにわかる朝鮮・韓国の授業をと,とりくんだ。
のとき,子どもたちの朝鮮・韓国に対する認識をとらえてみると,無知,混乱,偏見の三つが入り交じり,大きくゆがんでいることを三橋は知る。小学校6年生である。
「まず,『無知』についてであるが,子どもたちは,日本が朝鮮を植民地にしたことを知らない。朝鮮の位置を示すことができる子はほんのわずかである。
知っていることは,ソウルオリンピックとキムチくらいであろう。
二つめの『混乱』は,中国と朝鮮の区別がまずつかない。キムチは知っているが,話しているうちに 中国の食べ物になってしまう。
私たち大人も中国人と朝鮮人・韓国人を混同するきらいがある。
三つめは『偏見』である。
子どもたちは,朝鮮・韓国のことを,『何となく嫌いだけれど』とか,『あんな文字で文が書けるのですか』とか,『あんな辛いものを食べて馬鹿になりませんか』とか,『朝鮮人は執念深い』とか言う」
ここから三橋の授業ははじまるのだが,三橋の同僚の中にも『創氏改名』など知らないという人が何人もいる」と書いている(『とうがらしと創氏改名』)。
いちどでも,生徒たちの朝鮮観,韓国像についてさぐってみた人は,山本や目良のように,ぎょっとしたり,耳をおおいたくなったり,これはひどいと声をあげ,容易なことではないぞ、と思ったり,たじろいだりするにちがいない。
第二次世界大戦後50年たったいまもである。問題は韓国・朝鮮にかぎらない。
それは,アジア認識であり,アフリカ認識であり,ヨーロッパ・アメリカ認識のうらがえしであり,日本認識,世界認識の問題なのである。

この子どもたちをまえにして,いま世界の,世界史の学習をやらなくてよいなどということはできない。
どもたちはこの世界像をしらずしらずのうちに身につけた。それも小学校1年生あるいはそれ以前からつみかさねられて定着したものだ。
中学,高校と成長するなかで,授業で先生がとりあげることもなく,自覚されることも,批判され反省されることもなく固定化されていった。しらぬまに身につけたものは,こびりついて離れない。
れらは深くこころに沈んで感覚となり,ときに応じてものごとの判断のものさしとなって顔を出す。
とおりいっぺんのつけやきば的な知識やお説教などでは,容易に消し去ったり,変更したりできるような,なまやさしい感覚ではない。

小学校低学年から世界学習を,と以前から実践をつづけている北海道の,川村実は書いている。
「子どもたちが小学校6年の時期に,すでに出来上がりつつある世界観,アフリカ観は,そう簡単にきりくずせるものではない。
アフリカ蔑視,開発援助史観,同情史観などは,一つや二つの授業で正しいものにはとってかわれない」と。
(「世界学習の意義と課題」『北海道歴史教室』150号,1986.7)。

学校で教えなくても教えても,子どもたちが一定の世界像をもっているということは,何を語っているのか。
どもたちの世界像を,かいまみただけでも,子どもたちが必死になって自分の世界像を,よくもわるくも自分でつくろうとしていることがわかる。
おとな・教師が子どもたちに手をさしのべずに,なすにまかせていていいなどということはないだろう。
いってみれば子どもたちは,被害者なのだ。
の子どもたちといっしょに,あらゆる機会をとらえて,いつでもどこでも,おりにふれ,ときにのぞんで,せめて挟い世界像をつくらないようにつとめねばなるまい。
子どもたちは求めているのである。

2,世界とはどこのことか


たちは,戦後50年のあいだ,子どもたちといっしょに,いま必要な歴史認識,朝鮮認識,アジア認識,世界認識をつくることに,ずいぶんとりくんできたつもりだが,残念なことにまだまだたりない。
ここにはあえて生徒・学生たちの認識の否定的な面をとりあげた。
しかし現在は,10年前とも30年前ともちがう。
定的な子どもたちの状況,日本の状況があることをつかみ,それをのばしていくことは,もっと重要なことである。
子どもたちの世界像は,先に生まれたおとなたちのつくった社会のなかで身につけていったものだ。その社会,子どもたちのまわりには,世界がいっぱいである。
楽ひとつとってみても,歌でも芸能でもスポーツでも,服装,ファッション,流行はもちろん,食べ物からコトバ,文学,映画,おもちゃ,文房具,さまざまな機器,車,乗り物……,世界なしでは暮らせない世の中に住んでいる。
どもたちを世界から切りはなすわけにはいかない。いまにかぎらず,昔からそうなのだが,いまの子どもたちは,昔よりはるかに,世界にとりかこまれて暮らしている。
それが“いま”である。
テレビでみるのはもちろんだが,外国人の姿を直接見ることだって,日本のどこにいてもそれはど難しいことではないだろう。
ま日本に定住している外国人は,数えてみると163か国から来ていることがわかった(私のてもとにある1993年版の『在留外国人統計』入管協会発行,による)。
日本に定住している人がいない外国をさがすのがむずかしいという時代である。
そういうなかで子どもは大きくなるのだから,世界のことを感じないわけにはいかないだろう。子どもだから,まだ世界をとりあげないでいいなどということはない。
庭や学校,友だちや世間,毎日毎日の生活のなかに,世界はあふれている。
子どもたちは,これら目に見える世界,耳に聞こえる世界のなかに暮らして,そこから自分の世界像をつくっていくだけではなく,おとな・教師の世界像をひきついでか,影響をうけてみずからの世界像を形成していく。
れは,たまたま知った事件であったり,おとなの不用意な発言であったり,教師が無意識に,あるいは意識して発した一言であったり,読んだ本や見た慢画やアニメだったりする。
知ることによってつくられる世界像もあるし,知らないことによってできていく世界像もある。知るといってもその知り方が問題なのである。
人・教師の世界像の形成が問題となる。おとな・教師は,この日本にあふれている世界をどんなものとしてつかんでいるのか。どのようなものとして把握すればよいのだろうか。
教えるより学ぶである。
われわれの世界像が,ヨーロッパ中心にかたむいているということの問題は,もう1950年代からいわれつづけてきた。
米をひとつの模範として,それにすこしでも近づくことをねがい,欧米の目で世界を見る。欧米=大国の意識。大国の方から,アジアやアフリカ=弱小国を見るという世界観である。
多くの教師たちがそれを克服しようととりくんできた。
れでも,自分たちが学んで身につけてきた世界像がヨーロッパ中心の世界像だったということを自覚して大学生になるものは,いまも多くはない。
目良先生や三橋先生のような先生の数はだんだん増えてきている。それは最近の,
『歴史地理教育』 をみてもわかる。
子どもたちは,発見するのが大好きなのに,私たちは,それをじゅうぶんに引き出していない。
大学生になるまでに何度も機会があるのに,子どもといっしょに世界像について考える機会をやりすごしてしまっている先生は少なくないのである。

大学での「世界史概説」を受講したあと,ある学生はつぎのように書いた。
初にこの授業で『朝鮮問題』を扱ったことにおどろいた。
そして『加害者としての日本』の事実を否応なしに学ばされた。私は自分の無知にいつもはずかしくなると同時に,新しく知った歴史の事実に対して何とか自分のものにしようと懸命になって先生の話をきいた。
私は今まで朝鮮の国をしっかり見つめ学ぶ機会が全くなかった。
鮮はいつも西欧のおまけとして私の世界史像はえがかれていた。大平洋世界史についてもそうだ。大平洋の島がかつて日本の侵略下にあったこと,また核実験の問題があったことなど,私は20年間考えたこともなかった。
アフリカ=土人,非社会的,飢餓…物がなく原始的な生活のアフリカ,として私は見て,勝手に自分の作った物差しで『アフリカは遅れた国』などと判断してしまう。
つから私は勝手に,『遅れた国』『弱い国』などと差別的な目でみるようになったのか。いつから私は自分の国と相手の国とを優劣をつけるようになったのか」
これが大学生になるまでのこの学生の世界認識であった。それが大学での学習によっていくらか自覚され,ひっくりかえされる。
こうして振り返ってみると,今までの私の歴史のとらえ方,そして今の日常生活にしても,アジアが,大平洋諸島が,アフリカが『見えていない』なと思う。
私の世界史像は隙間風だらけであったといまさらになって気づく。
この前父と一緒にニュースを見ていた。ちょうど韓国人の女性が,元従軍慰安婦として,戦後補償について裁判に訴えるという内容が画面に流れていた。
Vをみた後父は,『何でいまごろになって戦後補償しろ,償いの金をよこせなんていうのだろう』と,かなり怒った口調で私に言った。
その時私は何も返答できなかった。何も言えない自分がとても悲しかった。そしてもしあの慰安婦が,西欧人だったら,父は何といっただろうと考えたりもした。
しかに『今頃になって』かもしれない。しかし,『今だから』こういう問題が私たちの生活の中に浮かび上がってきた事柄だともいえる。
かつて私と同じ年頃の女性が戦争中何人もの男性の相手をさせられ,子どもがうめなくなってボロボロの体のまま,世間から見えないようにと身をひそめて暮らしていた元従軍患安婦。
女たちはやっと今になって,自分が過去にうけた体験を語れるようになったのだ,どんなに苦しみ,悩みぬいたことだろう。……
世界史とは現在を考えるための人間の財産だ。自分の外の国の事実をしっかりと認識し,そして自分の国とどのようなつながりがあるのかと,理論へと高める作業をし,そして自分の思想をつくる。
それが世界史を学習することではないだろうか。
は自分の世界史が西欧中心の世界史を再確認するものであったと気づく。これから私は,私の誤った世界史像をもう一度あらためて考え直し,それを少しづつほぐしながら今度は新しい,ほんとうに自分の力,考えでつくる世界史像をつくっていきたいと思う。
やっと私はいま,自分なりの世界史をつくり始めたばかりである」
(1992年,法学部2年)

この学生の言うことにつけくわえることはない。まけずに私も自分の世界像をつくっていかねばならない。

97年の8月,新聞に「バナバ民族舞踏団」が来日したという小さな記事が載っているのを読んで,ぎょっとし,またまた私の世界像の補修をせまられた。
バナバ民族は,現在のナウル共和国とキリバス共和国の中間にある,周囲約60キロのバナバ島で,長く自給自足の生活をしてきた。

ここで,太平洋の地図を開いて,ナウル共和国とキリバス共和国を確認してみよう。
高校用の世界地図なら,バナバ島がのっているだろう。フィジーのランビ(またはラビ島)は,のってない。

大平洋戦争がはじまって間もない1942年,約500人の日本軍がリン鉱石を狙って上陸。自転車やカヌ一などを奪い,敵を防ぐ高圧電線の人体実験で少なくとも数十人を殺害した。

の後,数百キロ離れた三つの島へ強制移住させられた。戦後はイギリスが,バナバ島から2000キロ南のランビ島(フィジー)に移住させた。
いまも民族のほとんどの約8000人が故郷に戻ることができないままである。
この夏,東京の市民グループの招きで民族舞踏団が来日した。
劇には旧日本軍の戦闘機に銃撃されて逃げまどったり,目隠しされて銃殺される場面もある。
“撃て”という日本語がそのままのこっているというのだ(『朝日新聞』97.8.7夕刊と,たまたま旅先の富山県の宿で読んだ『北日本新聞』97.8.21)。

世界にはこういう所があって,こういう人びとがいて,こういう事実があり,この人びとを日本に招くという活動をしている日本の人びとがいる。
まは,大国だけを見ていればよい時代ではなく,地球的世界を相手にしなければならない時代であり地球的世界が見える時代なのである。
そういう目をもたねばならない時代なのである。
たち教師自身が,みずからの世界像をつくることをこころみ,世界像の創造につとめていくならば,おのずから,社会科といわず,生活科といわず,音楽でも,国語でも体育,理科,算数でもクラブ活動,行事,休み時間,いつでもどこでも,それぞれの授業に,生活に,教師の世界像がしみだしていき,それをとりあげる方法も生まれ,子どもたちといっしょに世界像をあらたにしていくことができるにちがいない。

3,自分と日本と世界と


部省の人も書いている。「正しい国際理解には,相手国の人々の生活やものの考え方を理解し,尊重する態度を育てることが必要である」
「また,外国にも,各々の国に優れた文化がある。例えば,衣食住などの生活にかかわる文化や芸術などには我が国と異なった文化があることに気付かせ,異質の文化にも関心をもつことができるようにすることは相手国の人々の生活やものの考え方を理解し,尊重させることができるであろう」と。
界の平和は世界中の願いであり,日本人にとっても大切なことである」
「我が国や日本人が過去の戦争や原爆による人類最初の災禍などの経験を生かし,国際社会の平和と進展のため,今後,果たさなければならない責任と義務が重いものであることに気付かせることが大切である」
とも書いてある。
(文部省『小学校指導書 社会編』1989年)。
世界を教えることが必要だということを,文部省の人が強調している。これは,6年生の内容のところに書かれている。
会科全体の目標のひとつには,「国際社会に生きる民主的,平和的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う」とある。しかもこれは,「小学校及び中学校の社会科の共通のねらい」だという。
それなら,小学校社会科のなかに,世界を扱う場を置けばよいのに,どういうわけか,これははぶいてしまった。
私たちは,いろいろな機会をとらえて,すべての学年で,工夫をこらして,積極的に世界の学習をつみかさねていく必要がある。そうでないと国際理解はできない。

加藤周一が書いていた。「日本語で『国際的』というときには,しばしば対米関係を意味する。
の用法に従えば『国際的責任を果たす』というのは,実は米国の要求に応じるということであり,『国際的孤立』を避けるとは,日米関係のマサツを避けるということなのである」(『朝日新聞』90.10.16)と。
日本国政府に主体性・自立性が欠けている,従属的だなあと感じさせられることはよくある。これでは国際理解にほどとおい。
対等なつきあいではないからである。
だ<仲良くしましょう>というのではなく,日本国民の主体性の意識,独立・自立の意識にささえられた,国際理解が必要なのだと思う。
主体性・自立性の自覚にささえられた平和学習でないと,大国の政策にのせられてしまうことにもなる。
たしかなアジア認識・世界認識にささえられた平和学習でなければ,平和学習をやったことにならない。
西ヨーロッパ中心の世界像,大国中心の世界像をひきずったままの平和学習は平和のためにならない。
アジア認識・世界認識,日本国民の主体性・自立性をきたえるには,日本・世界の学習が必要なのである。
そして,平和や自立,民主主義と無関係な世界学習は,国際理解に役立たないだろう。
界のなかの日本というとき,世界の動きに規制されている日本としてのみとらえがちである。
それと同時に,われわれは,世界を動かすものの一員であるはずだ。わたしたちも,世界の動きに向かって働きかける主体なのである。
とはいうもののこの実感をもつのはむずかしい。なぜ,なかなかこの実感がもてないのか,どうしたらもてるようになるのかも私の宿題だ。
わたしたちは,それぞれ家族の一員であり,学校の一員である。学校に生徒がいなけれぱ,学校は成り立たない。
は地域の一員であり,日本の一員である。同時にアジアの構成メンバーであり,世界のなかの一人のメンバーとして世界を構成している。
私たちは,世界のなかに生き,世界とともに,世界に向かって,世界に働きかけるものとして生きている。
世界のなかの日本であるとともに,その世界を日本がささえている。日本も世界をつくっているのである。
界に向かってどう働きかけることが意味のあることなのか。自分の問題,地域の問題,日本の問題,アジアの問題,そして世界の問題をひとつにつらぬくものとして把握することはできないだろうか。

自分の問題を日本・世界の問題として考えていくこと,それが国際理解というものだろう。
そのためには,他国,他民族,他文化を理解するすることが必要であり,他の文化,他の民族の理解の手がかりは,自分たちの文化,自国の理解が必要である。

阪の小学校の教師,川崎かよ子は,4年生の「各地のくらし」の授業で,自分の暮らしている地域を通して他地域をみるという授業実践をおこなって,つぎのように言っている。
「他地域認識の土台は,自分の地域であり,他地域についての理解を深めるということは,自分の地域をより深く認識するということである。
まずは全国には自分たちの住む地域とは違ったいろいろな土地があり,それぞれの地域の人々は,その地域の気候や土地の条件を生かして,自分たちとは違った暮らしをしていることを理解させる。
第二に,いつも自分の地域に立ち戻って比較しながら想像させていく。
第三に,地域の姿をいろいろな側面からさぐらせ,その全体像にせまりたい」
と。
これは日本国内の地域についての授業だが,この観点は世界の学習に広げることができる。

はじめに紹介した千葉県の教師,三橋ひさ子は,生徒たちは韓国に対しては,偏見はあっても知識や親近感はあまり持っていない。
ういう子どもたちのいまもっている歴史認識を無視して,ただ単に侵略の歴史を教えても,彼らの歴史認識はかわらない。
歴史授業の前提として,韓国の文化に接してみたり,親近感を持たせたりすることが必要だと感じた。
かくて三橋は,トウガラシを栽培し,家庭科でキムチをつくってみんなで食べた。
国語の「和語,漢語,外来語」の単元で,日本語,韓国語,中国語で,数字の読み方を教える。
国の音楽を聞いて,韓国の文化にふれさせながら,韓国併合,三・一独立運動,創氏改名の授業へとすすんでいくのである。
事実を教えさえすれば,望ましい歴史認識や世界認識が自然に育っていき,国際理解ができていくというものではない。
子どものもっている世界像や歴史像をときほぐし,自覚化をよびさましながら,事実を見ていくことが必要だというのである。
ま,世界学習が必要なことが,多くの人びとによって確かめられつつあり,いま,世界学習の方法が,各地でさまざまに深められている。
いまは,そういう時代なのである。
(1997.10.5)


この文章は,近く出版されるはずの『小学校の世界学習』(あゆみ出版)のために書いたものに,多少手をくわえたものです。
「世界史教育のあゆみ」を書きはじめるにあたって,「序」として,おかせてもらいました。
「序」にしては,すこしながすぎたかもしれません。
世界史というものを,だれでもが,こんなふうに考えているのではありませんが,これから,「世界史のあゆみ」を書いていこうというわたしは,こんなことをいま,考えているのだということを,いいたくて,こんなにながながと,「はじめに」を書かせて,もらいました。
それでは,客観的な「世界史教育史」にならないではないか,といわれそうですが,そのおそれは,じゅうぶんあります。
自分の「世界史教育のあゆみ」だけを,語るつもりはありませんが,「どうして,どのような経過をたどって,私は世界史教育をこのように考えるようになったのか」という話になりそうです。
「私の,世界史教育のあゆみ・ノート」
というのが,これから語ろうとしているものの,正確な題名のようであります。

では,これより,「世界史教育のあゆみ」の,はじまりです。(ここまで98.10.1記
ご意見をどうぞおねがいしますk_suzuki@cba.att.ne.jp

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