7.世界史教育の胎動

『歴史評論』bT94、1999年10月号に、私のホームページが紹介された。
これは、ますます、なまけているわけにいかなくなってきた。

(3)世界史の発展法則への懐疑

なんのために世界史をやるのかということが、おぼろげながらでもみえてくれば、では何をどうやればよいのかが気になってくる。

むりやりにとにかく「世界史」という授業をやりだした教師たちにしてみれば、その結果、生徒たちに何が残ったのかが問題になる。これでよいのか、それはなぜかと考えざるをえない。

「いままでの大概の世界史概説は、かいつまんでいえば、西欧中心であり近代主義であるか、または無原理で戦前の東洋史・西洋史の編年風な折衷・混合かであったようだ。そこでいままでたかだか伝達するにとどまっていた世界史知識は、けっしてどんな歴史意識も歴史的自覚も育てなかったわけではなくて、かえって、欧米中心、近代市民社会至上、西欧文明・西欧民主主義絶対視の歴史意識を強め、今日を卑俗に『二つの世界』の対立の時代だとし、日本は西欧陣営の一翼に加わり、封建制を克服し、欧米なみの近代化をおこなうことが唯一の課題であるかのような歴史的自覚をうえつける役割を果たしたところに、さらに考えるべき問題があった。(発展段階的考え方や社会経済史的説明がいかにあたらしくとり入れられようと、この特徴は本質的に変っていない)

と吉田悟郎は指摘した(「ものの見方、考え方を深めるために」前掲)。何も育てなかったのではない、悪しき世界史像をみごとに育てているというのだ。

“西欧中心・近代主義からの脱却”は52年に東京で世界史研究会が発足した当初からいわれてはいたが、当時考えられていた「科学的世界史」とは、発展法則をいかに見失わないかという点に重点があった。ヨーロッパの歴史の中から生れた発展法則でアジアを押しはかるという状態がつづいていた。

そういうなかで登場してきたのが、

上原専祿監修『高校世界史』(実教出版、1956年)であり、
上原専祿他監修の『世界史講座』(東洋経済新報社、1954〜56年)であり、
歴史教育者協議会編『教師のための世界歴史』(河出書房、1955年)である。
この3種ともに、上原専祿の理論が深く関係しているのだが、その経過と内容については、成瀬治の『世界史の意識と理論』(岩波書店、1977年)の第3章「民族独立と世界史」の5「新たな世界史像の探求」によく整理されている。

成瀬が引用しているように、1950年代前半ごろまでは、「教育面での折衷的全体像への志向と、研究面での民主化必然論の客観的裏づけとしての法則定立の志向とが、ゆるい隊伍を組んで前進していた」
(田中陽児「世界史断層」『図書』237号、69.5)

安易な世界史の「発展法則」の適用に、はやくから疑いの目を向けてきたのは吉田悟郎だ。

「それまで私たちは、世界史の法則性というものを、非常に安易に固定した形で把握していた。また世界史を一国民・一民族の国民史・民族史に分解したり、従来常識的にある時代に指導的な役割を果たしたと考えられる大国を中心に、その国民史・民族史をなぞり、どの国民史、どの民族史にも同じ発展があるという『先験的』公式のもとにそれらの内容を規定していくのが常であった。
そういうやり方のなかでは、歴史の動き・世界史の動きは、とかく大国中心にとらえられ、しかも、その少数の大国の内側からのみとらえられ、その上、単純にその大国の『内』『外』というわくで、それ以外の動きはさばかれていき、それと関係して、『国際関係』とか『国際環境』といった言葉がしばしば安易に用いられていた。このような状態をできるだけ疑い、できるだけ否定して、『世界史の法則』を未定型のかたちで、リアルにダイナミックにさぐっていこう」とした。(「歴史意識の自立を求めて」)

こうも言っている。
「いままでのような機械的・公式的な『発展段階』の亡霊から解放され、将来全世界史のうえでとらえられる、生きた『発展段階』への第一歩がふみだす」

当時「世界史発展の法則」の存在を疑わない多くの人びとにとって、「『世界史の法則』を未定型のかたちで、リアルにダイナミックにさぐっていく」ということは、なかなか理解困難なことであり、反発すべきことであった。

上原専祿は、「物の見方 考え方」で、日本人のものの見方、考え方にある三つの弱点をあげる。
第一は、自分独りで考える傾向。孤立して考えずに仲間なり、同僚なり、もっとおおぜいの人といっしょに行動しながら考えるということがなかった。
第二に、一つの事物を関係ある他の諸事物から切りはなし、孤立化して考える傾
向。
事物を相互関連的にみたり、全体の一部分としてみたりしない。つまり社会的に物をみたり歴史的に物を考えたりしないこと。物をつねに動くものとして考えることがすくなかった。
第三に、個性あるものとして物を見たり、考えたりする傾向が弱かった。物を総体的なものとして評価することを知らず、いつも絶対的な価値尺度で評価する傾向があった。
国とか民族とかについて考える場合にも、ひとつびとつの国や民族にはそれぞれ歴史と伝統に築かれた個性があり、またそれぞれに独特のむずかしい問題をになっているのだ、とは考えず、自分の寸法で簡単によい国だの、悪い国だのと、品定めをやってのける。歴史について考える場合にも、個性のある時代という考え方で、歴史を見ることができず、ダラダラつづいている漠然たる流れだけが眼につく。
(『アジア人のこころ』理論社、1955年)

吉田悟郎は、この「物の見方 考え方」を生徒と読み、わきにおいて、生徒とともに世界史を学んでいく。
1学期の授業がおわったところで、生徒は感想を書いてきた。
「歴史というものはつながっているものであることを知っておどろいた」
「いかにいままでの自分の考えが狭かったか。縦にも横にも」
「なにか重要なことがあると、それと関連して個々の事件が起るとは、ほとんど考えていなかった」
「世界史というものは、一つの日本国と同じく、世界国といってもよいくらい、おたがいに関係が深く、世界の一部で起ったことが他の地域にちゃんと影響するものだということが印象深かった」
「それぞれの国や地域にちゃんと伝統があるものだということがわかった」
「どんな小さな国でも私の目は重要視するようになった」
「諸民族の歴史を平等に見る目がすこしできた」

不思議なことに、私は私の授業をきいた生徒たちから、この吉田の生徒たちの感想とほとんど同じ感想を受け取ったことがある。
それは、吉田の生徒たちがこの感想を書いてからおよそ20年ものち、70年代なかごろである。それは、70年代になって、私に吉田のいっていることがようやくわかりはじめてきたということによるものだろう。
教育というものはまことに効率のわるいもので、先人が到達したところから後続者が歩き出すというぐあいにはなかなかいかないのである。
先人の発見したことを理解するためには、自分もまた先人のあるいた道を歩いてみなければならない。同じ苦労を重ねないと、表面だけをまねても結果はでないのである。

「先に見た世界史教育の目標、またこのようなものの見方・考え方をつちかう役割を世界史教育がになっているとすれば、そのための世界史の内容・構成はどうあるべきか。
そこに登場したのが、「同時代的・全地域的把握」の方法であった。(後述)

三木亘は、『世界史講座』構成方法に関して、
「社会構成史という戦後学界の主流的な考え方がここでは暗黙のうちに否定されている」と書いている(「世界史のつくり方」)。

上原専祿監修の『高校世界史』(実教出版)もまた、その序章「この世界史はどうかかれているか」のなかで、
「またわれわれはマルクスのように、世界史の中から、とくに、社会と経済の発展についての法則を発見することを、この世界史の当面の課題とはしていない」
「現代日本の生活現実とそれを構成している実際問題――なかんずく社会の民主化の問題とともに第二次世界大戦後とくに重要になってきた、世界の平和と東洋の独立との問題――を、その発生過程と歴史的特性との両面において明かにしようとしている」
と書いている。

この教科書はのちに文部省検定で不合格になり、『日本国民の世界史』(岩波書店、1960年)として刊行されたとき、その「まえがき」で、

「われわれは最初から、たとえば人類一般の歴史を叙述することを意図したのではなかったのである。それゆえにまた、人間社会の発展の普遍的な法則性を追求することも当面の課題ではなかったのである。またそれとともに、人類が過去に形成したあらゆる文明を普遍的に叙述することもまた、当面の課題ではなかったのである。
われわれが主として意図したものは、われわれ日本国民自身の生活意識・歴史意識の形象化であり、世界の諸文明がいかにして日本文明の成長に寄与したか、また現在の日本の直面している歴史的な諸問題が、それら諸文明の動きによってどう規定されているか、、それらの点を特殊具体的なものとして主体的に追求することであった」
と述べた。

それならば、その構成と内容はどのようなものだろうか。(99/10/12)