7.世界史教育の胎動・その2

1953年の第5回歴教協京都大会の案内をみると、
会場 立命館大学。
宿泊は、南禅寺 一泊(二食付)400円 米不要

とある。南禅寺だから、米を持参しなくても宿泊できたのである。まだそんな時代だった。

歴史学研究会は、年報(『歴史学の成果と課題』岩波書店)を出し、その51,52,53,54年度には「歴史教育」の項をもうけて、大江匡輝、川崎新三郎、大森良治、大江一道がそれぞれ執筆している。

52年度版では、「世界史教育は非常に立ちおくれており、現場においても問題になってきた」「世界史教育の問題は高校だけにとどまるのではなく、世界史的立場に立
つ、小、中、高を通ずる世界史的教育がとりあげられなければならぬ。これに関してはまだほとんど実践報告がなされていない」
と書いている。

53年度版には、歴史教育に関してこの年もっとも注目すべきものは、前述した上原専祿の「歴史研究と歴史教育」だと指摘し、
「氏は、歴史学の発展と歴史教育との密接な関係を述べた後、歴史教育の目的・方法・内容にふれて、教育全般が歴史教育的におこなわれなければならないのではないか、一貫的知識を与えるとは、どういう意味と内容をもつものなのか、歴史教育を日本人の教育だけの問題として考えていいのか、アジアを中心とした世界との関連で把えねばならないのではないか、と歴史と歴史教育の原則にふれる重要な問題を提起した」
とまとめている。
さらに、「重要なのは、教師自身の主体性の確立である」といい、
これについては、上原専祿の「平和と独立のための教育」(『平和の友』53.1・2)の一読をすすめる。
上原は、現在のような民族の危急存亡のときにあたって、教師にとって、「@一層深い問題意識、A一層固い決意、B一層行き届いた工夫」が必要な条件だと教師たちに訴えていることを紹介している。
この年度の歴研の年報も、直接「世界史教育」にはふれていないが、アジアが意識され、平和が強調され、独立の問題が自覚された時期であった。

上原はこの年、『上水内教育』に、「『国際理解』一つの実践」(53年12月号)を載せている。
「この夏、野尻湖畔で夏季大学が開かれて、私も出席させてもらった時、教育の問題として『国際理解』というものがとりあげられようとしている、という話を先生方から聞いた」
と書き出し、世界史教育が、当時もとめられていたことを示している。

「国際理解教育」ということは、民間においても、文部省側からも、以後なんどもとりあげられる問題だが、このとき、
「その問題のついてどう思うか」
とたずねられた上原の答は、つぎのようであった。

「それは簡単なものではないでしょうね。目的の点にも、方法の点にも、いろいろ問題があるのではないでしょうか。お互いに仲よくしましょう、という程度の話では、無意味であるばかりではなく、時には弊害さえ起りかねないのではないでしょうか。
永続する世界平和や、断乎たる民族の独立という問題と切りはなした仕方で、国際理解や国際親善の問題をとり上げることは、教育上むしろ有害でさえあると思うのですが、どんなものでしょうか」

ここにすでに、のちに「民族の課題」ということばで表現され、民族の独立・自立の問題を中核においた、世界史教育の在り方が出されていた。

これが、最初かどうかはわからないが、高校世界史の「実践報告」といってよいものが、
『新しい歴史教育』の創刊号(53.11)に登場したのもこの時期である。
久坂三郎の「高校の歴史教育におけるうぬぼれと反省」(都立領国高校定時制)がそれである。
久坂は、自分の授業に対して生徒に書かせた感想文の分析をおこなった。
いまでは、珍しい報告ではないが、教師たちにとって、みずからの授業を生徒および他の教師たちの前にさらし、批判を受ける行為であった。
これをいわば皮切りにして、どう教えるか、どう教えたかの交流・検討がはじまるといってよいだろう(「世界史部会一年間の動き」5号、54.12)。
[号数のみは『歴史地理教育』以下同じ]

こうして、1953年は、世界史教育が具体的内容をもって動き出した時期であり、53年から54年にかけて、今日問題にされている世界史教育の問題点がほぼ出そろってきた。
以上「(1)アジアのくさむらの中から」の補足であり、前回までの復習である。

(2)世界史教育はなんのために

世界史とは何か。
世界史教育とは何をすることなのか。
何のために世界史を教えるのか。

「なぜ“東洋史”や“西洋史”、あるいは“イギリス史”や“中国史”でなく、“世界史”でなければならないのか」
三木亘は、『世界史講座』[「世界史の理論」のまえがきにこう書いて、「私たちは
(こういう)初歩的な問題から出発せざるをえなかった」
といっているが、実はこれが、初歩的どころか、根本的な問題なのだった。

それは、“とりあえず”世界史・世界史教育をはじめたもののなやみであった。

「53年12月から54年いっぱい、私たち世界史部会は、日本・アジアの主体的なありかたを求めて、世界史をどうとらえていったらよいかを考え進めた。
そしていままでの歴史が日本は日本、東洋は東洋、西洋は西洋とお互いにそっぽを向いていたこと、世界史は西ヨーロッパ中心になり、日本史は日本中心になっていること、つまり世界史も日本史も、激動する今日の世界に生きる日本人の学ぶ歴史、日本人の世界史になっていないことに気づいていった。
動いている現実の中に生きている生徒の意識、それに働きかけていくのが私たちの歴史教育である。
私たち歴史教師は生徒から突き上げられた結果、言いかえれば、実態から押し上げられた結果、古いアジアの動き・新しいアジアの動きと有機的・構造的に関連づけたかたちで自分たちの足場・日本をとらえていないことがおぼろげながらわかりはじめた。
日本をアジアの中に、日本を世界の中に、歴史的・社会的に位置づけぬ限り、いかにアジアの目覚めを説こうと、観念的な一人よがりにすぎぬのではないか」

吉田はこう整理している。(吉田悟郎「歴史意識の自立を求めて」『歴史地理教育』29号、57.11)
1954年8月、『歴史地理教育』が創刊され、巻頭に上原専祿「歴史教育の目標」が載った。

歴史教育とは、「世界と日本にわたる歴史像の自主的構成への態度を育て上げるという方法を通じて、子どもたちに歴史意識と歴史的自覚を備えさせる」ことであり、
歴史学習とは、「教科書や参考書にかかれていることをいわば一つの見本として、生徒自身が歴史像を創造的に描き出そうと試みることだ」

また「生徒たちに、今の日本が現実に直面している政治・経済・社会・文化の歴史的課題への問題意識をあるいは付与し、あるい生徒たちのもっているそうした問題意識をいっそう深めること、また生徒自身を含んだ日本民族の置かれている問題状況への歴史的自覚をあるいは促し、あるいは確立すること」である。

と述べ、いままでの社会科で教えられてきたものは、「民主主義の一般的または類型的あり方に過ぎず、第二次世界大戦後の世界における敗戦日本という歴史的問題状況における民主主義の具体的在り方というものではなかった」
と批判した。

『世界史講座』(東洋経済新報社、以下『講座』という)編纂の中心となった三木亘
は、この世界史の目的を次のように言う。
「この『講座』は、現在の日本人の眼と立場で現在の世界をどう見るかということから出発する。そうして見た現在の世界がどのように形成されてきたかという観点で過去を構成する。それが世界史である。言葉をかえれば現在の世界に生きて動いているもの(日本もそのなかに緊密に組みこまれている)を歴史的に解明するという立場をとる」(「世界史のつくり方」『歴史学研究』172号、54.6)

1956年7月、『講座』は、「世界史像形成のために」と題して共同討議をおこなった。
メンバーは、上原専祿、尾鍋輝彦、江口朴郎、山本達郎、野原四郎、前島信次、三木亘である。

「われわれが新しくこの講座で扱うような世界史像というものを考えるときには、19世紀ころにヨーロッパ世界のひとたちが、他のアジア・アフリカの民族を、いちおうネグレクトしてある程度のものが書けたというのとは事情がちがうので、ヨーロッパなりアメリカなりの動きというものを、ネグレクトできないという現実から出発しなければならない。
そして本式な世界史の構成ということになると、アジア側から見たヨーロッパ世界も含まれるような科学的な概念を構成しなければならないというのが、現実にわれわれの直面している問題です。
むずかしいことばかりわかって、どうしていいかわからないのですが……」

という山本達郎の発言をうけて、上原専祿はつぎのように述べる。
「アジア人の世界認識と申しますけれども、実際は日本人の世界認識ですね。
……日本人は今までヨーロッパというものをモデルとして、政治から、経済から、外交から、文化から、やってきた。
ところが、戦後、ヨーロッパ以外の世界からいろいろ影響や刺激を受けるようになってきた。アメリカ世界というものがそれでしょう。それから、ソヴェト世界というものがあ
る。そのほかにアジアというものがある。
そういう多面的な一口でいえば刺激ですね。……
いろいろな世界からの多面的な刺激あるいは作用のなかに埋没してしまわないで、どうしたら主体性を確立していくことが可能だろうか……、
つまり、ヨーロッパ中心の世界史に代わるアジア中心の世界史を書くということが問題なのではなくて、われわれ日本人の主体的意識を確立していくことが問題なのである。
日本人が多面的な働きかけのなかで、自己を見失わないでやっていくには、どうすればよいのか、それが問題なのです」

これにたいして江口朴郎は、「最近の世界の新しい条件があるように思う」として、
例えば、インドのネールなどのことばにあるように、「集団安全保障でなくて、集団平和でなければならぬ」という主張、「他を排して独立」ではなく、「民族的共存というようなことは従来世界史においては考えられなかったかと思う」
「われわれの問題として、たしかに日本人としての自覚ということが一つの問題であるはあるけれども、私はやはり、客観的にも世界史というものが、国際的な問題として新しく考えなおさなければならない時期に当たっていたんじゃないかという気がする」
と主張する。

上原はこれも受けてこう整理した。
「戦後日本人の自覚の構造として、世界史的認識というものを要求しているという、そういういわば主観的要求というものと、それから、客観的に、ヨーロッパ中心ではない、地球的世界史というものがはじまりつつあるという客観的な歴史現実への洞察というもの。この二つが結びついたかたちで、われわれの世界史研究への要請の根底に存在していることを意識すると、世界史構成の方法というものも立ってくるんじゃないか」

ここには、「世界史」をなぜやるのか、ということが、明確にのべられている。
当時これを読んだはずの私に、どれだけこれを理解して、世界史教育にとりくんでいたか、となるとまことに心細い状況であった。

吉田悟郎は書いている。
「世界史という教科が、高校社会科のなかにおかれてから6年目である(1955年現在)。主として教育の問題から触発されてではあるが、自分たちの問題として、世界史の目標・構成・時代区分などを考え直さねばならない、自分たちで新しい世界像を創造しなければならないという課題が、私たち歴史研究者、歴史教育者のあいだ
で、ようやく問題になりはじめている」
このあとに、吉田は、上原専祿の「歴史教育の目標」を引き、上原のいうことを、

「いまなお身にしみて自覚していないところにいちばんの問題がある」
と指摘している。(「世界史というものの見方・考え方への出発」1955年、『講座』[東洋経済、『歴史認識と世界史の論理』勁草書房)

ことの意味を多少なりとも私が理解したと思われるのは、70年代にはいってからであった。
へつづく。E−mail:k_suzuki@cba.att.ne.jp