6.世界史教育の模索
(1)歴教協世界史部会の誕生
高校に世界史がおかれた年,1949年7月14日に歴史教育者協議会がうまれた。
歴史教育者協議会は,1945年11月15日に開かれた「国史教育再検討座談会」からはじまる,といってよいだろう。(→2)
歴史学研究会は,1946年3月に再建され,『歴史学研究』が復刊される(122号
1946年6月)。
その歴研のなかに「歴史教育分科会」がおかれ,暫定責任者に松島栄一がなる。
研究会・準備会をなんども開いたのち,1948年12月,歴史教育者会議(仮称)を提唱する。
「戦争中,歴史教育者の多くは科学としての歴史学にけ殆ど無関心であり,真理に忠実ならんとする歴史学研究者は,その学問的良心を自己内心に守るにとどまり,かれらの学問を現実の中におしすすめることをしなかった。
歴史教育は天皇制的支配の精神的手段に供され歴史学と歴史教育とは全く分裂していたのである。
戦後,このような事実に対する反省が深められるに伴って,歴史学が現実に力をもちえなかった第一の理由が歴史教育を歴史学から放置していた点にあることがあきらかになった。歴史学がたんに過去を解釈する学問でなく現実を変革する学問たりうるためには,歴史教育を正しい歴史理論の上に再建しなければならない。
このような要望は優れた歴史家,歴史教育家の中に熱心な声として起ってきた。わが歴史学研究会をはじめ,都歴研・日教組文化部というような歴史教育者の諸団体の中にもこうした事がきかれるようになった」
「今回わが歴研は歴史教育者の全国的組織結成を提唱することにした」(『歴研ニュース』(bP,48.12)と呼びかけた。
おりりしも48年11月,戦争中学問の良心を守りつづけ戦後いち早く活動を開始した
『歴史学研究』に,毎日出版文化賞として3万円が授与された。歴研の委員会はこれを有意義に使う道を討論し,いま生まれようとしている歴史教育の組織に提供したのである。
くわしい経過は,『歴史教育50年のあゆみと課題』(未来社,1997年)にゆずるが,49年2月5日(土),歴史教育者協議会設立準備会主催公開討論会が,明治大学でひらかれた。
「社会科における歴史教育はいかにあるべきか」
講師 羽仁五郎,和歌森太郎,菅野二郎,司会・高橋F一
参会者は,約250名。活発な意見の交換と討論が行われた結果,予定の時刻をはるかにこえ,会場の都合で6時を過ぎるころ,討論なかばで残念ながら散会した,とある(『歴史学研究』139号,49.5)。
歴史学研究会の再建と,ほぼ同じころ民主主義科学者協会が創立された。その歴史教育部会と歴史学研究会の歴史教育分科会から歴史教育者協議会はうまれるのである。
1949年7月14日,木曜日午後2時から,東京文京区の東京都立文京高校の音楽室で,その創立総会がひらかれた。参加者はおよそ40名。
委員長に三島一,高橋F一が事務局長(当時は書記長といった)になる。設立趣意書が承認された。
設立趣意書起草のいきさつ
歴史教育者協議会,略称歴教協の成立は,世界史教育にとっても重要な出発となった。
歴教協の創立時1949年から2回大会,3回大会あたりまでの活動については,当時だされていた「ハガキ通信」(1949.11〜53.7)と1950.12〜53.10に発行されていたガリ版刷りの『歴史教育月報』で,なんとか知ることができる。(『歴史地理教育』の復刻版,みずうみ書房,1984年,1987年)
これらのなかから,世界史にかかわるものを取り出しておく。(と書いて,おまえの
「世界史」とは,「日本史」を除いているのかという声が聞こえてきそうだが,ということを考えるようになるのはもうすこしあとである。)
当時,歴教協事務所では,毎週のように研究会(例会)が開かれていた。
1950年6月30日には,国立教育研究所の鈴木朝英がアメリカの世界史の学習指導法を紹介している。このあと鈴木朝英は北海道大学にいく。
1950年10月8日,歴教協第2回大会が,「平和と愛国の自由のために」をテーマに,東京文理科大学(のちの教育大→筑波大)でひらかれた。参加者約50名。
上原専祿が「歴史教育者諸君のために」という講演をおこなった。
この記録はないが,のちに羽生敦が
「(上原が)小学校の1年生でも運動会の万国旗をみることによって,子供たちの視野は世界の地理や歴史につながり得るのではないかと,経験領域は同心円的に拡大していくものだという文部省の社会科に対する考え方を批判されたことを記憶している」と書いている(「歴史教育十年の歩み」『歴史地理教育』14,16,22号,55.11,56.2,10)。
小学生のころから視野を世界にひろげることの必要性とそれが可能なことが指摘されている。
『歴史教育月報』bQ(51.1.27)には,「講和と琉球・小笠原諸島」と題して
『日本週報』の記事の紹介が載る。歴教協がこの時点で,沖縄・小笠原に眼を向けていたことを示している。以下その全文である。
1月15日発行『日本週報』には元首里市長仲吉良光氏の「アメリカの再興を望む」と題する論文がのっている。アメリカの対日講和条約草案七ヶ条の中で「琉球・小笠原諸島を国連の信託統治下に,アメリカが管理云々」とあり,さらにこれに対し,カイロ宣言,ポツダム宣言を引いてのソ連の質問に答えたアメリカ政府の回答書に「信託統治は領土的拡張と同一視すべきでない」としているのについて,仲吉氏は「腑に落ちない」とし,「実際は領土拡大のカムフラージュとして国連領の名を冠するものであるとの疑念」を提出している。
さらに氏は「信託統治は自治不能力な地域に施行されるのを原則としているが,小笠原は都下であって,沖縄は日本四十三県の一県として」自治運行を慣行してきたこと,かつ「信託統治は該地域住民に将来の独立を保障後援するのを眼目とする」
が,「小笠原・沖縄は日本から離れて独立せんとする希望や野心はいささかも持っていない」として「アメリカの案に連合国が賛成し,それが講和の案となれば,無条件降伏の日本としては服従せざるを得なくなるであろう。しかし,それはわれわれにとって一大恨事となるであろう」と結んでいる。
『歴史教育月報』bR(51.3.18)には,51年2月23日の研究会で,朝鮮人学校の教師だった朴慶植を囲んで朝鮮史の学習を行っている。
朴慶植氏『朝鮮民族の歴史』
「朝鮮史は今まで,我々にとって未知のものであり,同時に歪められているからという理由から,会員の多くの希望により,表記の研究会を開催,盛会であった。始めに,朝鮮史のあらましと,問題点の指摘があって後,詳細な資料を以って要旨次の如き近代・現代史の報告がおこなわれた」
とある。近代・現代史の要旨のメモは省略するが,当時朝鮮史に関する日本語の本は,戦前の本を別にすれば,林光K『朝鮮歴史読本』(白揚社,1949年)しかなかった。
旗田巍『朝鮮史』(岩波全書)が出版されるのは,51年の12月で,この研究会の時点ではまだ出ていない。朝鮮民主主義共和国の朝鮮歴史編纂委員会編の『朝鮮民族解放闘争史』の翻訳(三一書房)が出たのも1952年12月である。
この研究会は,歴教協の朝鮮史教育とりくみのはじめだったろう。
『月報』bT(51.6.4)には,勝田守一の,ベルギーのブラッセルでおこなわれたユネスコの「国際的理解を深めるための教科書会議」(50年7月12日)の報告が載っている。
@歴史教育の在り方。二つの意見が激しく対立した。
aフランス=科学的・客観的歴史を教えよ。それを身につけることだけで既に高い市民的教養となる。
bアメリカ=実用主義的立場から当面の現実的課題の解決との連関ににおいて歴史を学ばせる。
A世界史教科書の在り方。民族的偏見,誤解を取り除くために,万国共通の世界史の教科書がつくられねばならぬという意見に対しては,多くの反対論が,とくにアジア各地の代表から強くだされた。
それは欧米ではアジアの被圧迫民族の歴史と文化を歪曲しており,現に圧迫しておりこういう事態が解決されない以上,「国際的理解」といっても浮き上がった偽善的なものになろうという意見であった。
これも,今日なお,問題にされていることに通ずることである。
そのほか,例会のテーマと人をみると,
江口朴郎「世界史と民族問題」
野原四郎「中国における新愛国主義」などが行われている(『月報』bU,51.7.10)。
50年6月にはじまった朝鮮戦争,講和条約の問題が,全面講和か単独講和かというかたちで論議されていた。
文部省は,「国旗の掲揚・君が代の斉唱」の通達(50.10)をだし,天野文相は,修身科のの復活・国民実践要領の必要を教育長会議で表明した(50.11)。
サンフランシスコ講和条約調印後の,1951年10月28日(日)に第3回歴教協大会が東京文理大で開かれる。参加者144名。
テーマには,「平和と愛国の問題を歴史教育はどのようにとりあげるか」をかかげた。
「私たちは,本大会ほど切実な思いで迎えたことはない。それは,平和と独立を達成するかどうかという決定的なときに当たって,日本人がいま当面しているこの問題が教育の根本問題であることを考える。
あれほどさわがれたのに,今日までの教育では民族の誇りと独立心をもった日本人がつくられているだろうか。平和の問題について,自由に語り合うことはあらゆるところではばかられ,まじめに国を憂うる意見はたえずおさえられているではないか。
いまこそ,その具体的教育実践が全国的にまき起こされるときではないか。
私たちは平和をまもることこそ古い愛国心とことなる今日の愛国心であり,民族の文化をまもることも平和をまもることなしには不可能であると信じる」
以上は,第3回大会の声明書である。
3回大会をまえにして,高橋F一は,「平和と愛国の意志」を『月報』(bW,51.9.25)に載せている。
「サンフランシスコ講和会議は,日本軍国主義のもっとも大きな被害者である中国民衆の代表者が除外されていること,歴史的にも明かに日本領土である琉球・小笠原が,アメリカの信託統治領とされ,日米安保条約が結ばれて,わが国土内に外国の基地をゆるし,外国の軍隊の駐留を認めるのは,日本民族の独立とはならず,平和のための講和でなく,国際情勢を緊迫させるものだ」
「インド,フィリピン,オランダ,エジプト,インドネシア,ビルマなどは,反対あるいは修正を要求しているではないか」
「この講和を祝おうという人たちは,奄美大島の20万の島民が日本復帰の意志を反映させるために15日いっせい断食を決行し,日本政府が信託統治を受諾するなら,島民は本土に引あげ,無人島にするという決意を固めている」(朝日新聞8月20日)という報道をなんと聞くか」
と,先に引用した『日本週報』の記事につづいて,講和・沖縄問題がとりあげられ,アジア・世界への視野で問題をとらえていることがわかる。
1952年3月20日,学習指導要領の高校日本史・世界史がだされる。
『月報』に載った社会科学習指導要領の合評会のメモは,「5月1日,メーデーの感激を地味な歴史教育問題にこめて真剣な討論がなされた」とはじまる(『月報』12,
52.5.20)。
「特に重要な意見としては,世界史教育において近代が強調されているが,それはヨーロッパ中心の近代主義的傾向で,アジアの問題が正当に評価されていない」
と,ヨーロッパ中心の世界史に対する批判の視点が示されている。
例会はつづいていた。
服部之総「日清・日露戦争について」
江口朴郎「第一次世界大戦」(『月報』11,52.3.30)
松島栄一「太平洋戦争」
小椋広勝「最近の世界の動き」(『月報』13,52.7.13)
1952年6月29日,「研究会のお知らせ」のハガキが東京の会員にとどいた。
「前々からの皆様の要望の下に,このたび世界史教育の第一回専門部会を左記の通り行います。当今の複雑な内外の情勢に直面して私たち世界史を教えるものの任務は重く,それだけに悩みも少なくありません。
これを機会に皆さんのふだん考えていらっしゃる問題を出し合い,一歩一歩,皆で解決の道を見出していきたいと思います。まわりの先生がたをおさそい合わせの上ぜひ御参加ください。
日時 7月7日(月)午後3時
場所 お茶の水女子大学史学科第一講義室
問題 世界史教育をどうやるか
なお尾鍋輝彦先生も御出席の予定です。」
世話役は,山脇学園の阪東淑子。吉田悟郎,三木亘,上木敏郎,米川哲夫,豊島静英,野沢豊,荒井信一,久坂三郎,石川澄雄ら高校教師十数名があつまった。
歴教協東京支部高校部会の世界史研究の出発であった。
同じころ,1952年夏,上原専祿監修『高校世界史』(実教出版)の第1回編集会議が開かれた。上原専祿,野原四郎,江口朴郎,西嶋定生,太田秀通,吉田悟郎,久坂三郎である。
(1999.2.27)
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1999.5.3「第4回歴教協大会で」