世界史 の 発展法則

4.“聖戦”世界史から“人民”世界史へ
(1)世界史の発展法則
1947年4月から51年5月(38号)まで発行されていた『社会科教育』(社会科教育出版社)という雑誌がある。
その25号(49年10月号)に,川崎庸之,野原四郎,井上幸治の3人が討議して友田行夫の名で川崎が執筆した「世界史の構想」が載る。
それはまず,「歴史を世界史的な視野にとらえる,ということの意味は,今春4月の文部省の教科書局長の通牒にある,“歴史の発展の必然性を理解させること”であり,“歴史が進歩への発展であることを理解することにより,社会進展に対する自己の責任と情熱をいだかしめること”でなければならぬということは,根本的に正しい見解であり,」
という指摘からはじまる。(この通牒は,「社会科世界史がおかれたわけ・史料」の史料)
しかるに,「陸続として刊行される世界史の教本類は,教科書局長の見識にはるかにおよばない」という。
「少しでも眼を開いて,周囲の世界をみる人は,表面的には今日の世界は一つに結ばれあっているようにみえながら,じつはその内部に複雑な深い対立を蔵しており,その対立がますます深刻化する一面には,終局的にその対立を克服するための諸前提もつくりだされてきていること,より高い意味で世界を一つに結ぶための崇高なたたかいがたたかわれつつあること,そしてそこに歴史の進歩への発展の必然性があらわれていることを確信をもってみとおすにいたるであろう」
原始時代をみれば,すでに統一的な理解ができている。
とすれば,「特定の時期だけがそうした統一的な理解を拒まれなければならない理由は全くないわけであって,」
世界史の成立とは,「旧来の東西両洋史の機械的な統合であったり,いわんや,もとの西洋史の体系の中に安易に東洋史の材料を挿入したりするようなものであってはならない」
それなら,世界史の構想はどうあるべきかを述べるにあたって,コフマンやヴァンルーン,H.G.ウェルズをふりかえる。
これらの世界史は,表面的には,ヨーロッパ中心で東洋は挿話ていどにみえるが,
「そこには一貫した世界史の構想がある」「歴史の進歩を信じ,未来ははたらく人たちの手の中にあることをみとおしうる」立場がつらぬいて,「歴史の発展の必然性という立場からただしくとらえられている」という。
「ランケの世界史学は発展の概念がその中軸にすえられてきた」が,「その発展の主流をみちびいたものは,あくまでもヨーロッパの歴史にあり,他の諸民族は,その意味ではヨーロッパの発展に寄与したかぎりにおいてその地位をあたえられたにすぎなかった」
「この発展のモメントを一つの必然的な法則性において理解し,普遍的な世界史の運動法則にそれを高めていったのがマルクスであって,世界史の理解ははじめてここに統一的な基礎が与えられたといわねばならぬ」
として,「近世の世界史がヨーロッパ中心にうごいているとすれば,それは歴史のいかなる発展段階において,その必然性が考えられるかということの理解がはじめて可能になると同時に,それまでそこに偶然的副次的なものとしてしかとらえられなかった他の諸民族のうごきも,それぞれ世界史の発展の一定の段階をになうものとして,統一的に理解される可能性がはじめてひらけてきたのである」
「東洋と西洋とが歴史上の特定の時期においてはそれぞれ相互に独立な別個の世界として考えられないとすれば,それは世界史のいかなる段階においてそうなったのかということがはじめて考えられるようになってきたのであった」
とむすんでいる。
(この文章は『歴史地理教育』184,71.7に全文再録されている)

高橋F一も,「社会科『世界史』をどう生かすか」(『世界史の可能性』)で,この友田行夫の主張に賛成しながら,「歴史発展の必然性」といわれた時代区分を何にもとめるかと問い,当面参考になるのは,文部省の教科書の検定基準だという。
その「国史の教科書の要件」には,「原始時代・古代・封建時代・近代・現代という時代区分を用いて,歴史的発展を世界史的立場において明かにすることを必要条件としている」
「従って「世界史」そのものがこれと全く違った時代区分をすることは現在のわれわれには考えられず,単元を構成する際にその土台をなすものとして考えてよいと思われる」と,書いている。
一方,歴史学研究会は1949年5月,「各社会構成における基本的矛盾は何か」をテーマにして大会をひらいた。
「歴史の進歩の原動力たる歴史的諸時期における基本的矛盾の存在のしかたを追求し,そのなかに展開する世界史の基本法則を究明しようと試みた」のである。
この大会以後,歴史学研究会は,従来の,日本史・東洋史・西洋史にかえて,原始=古代,封建社会,近代=現代史の三つの部会とする(歴史学研究会編『世界史の基本法則―1949年大会報告』岩波書店,49年)。

成瀬治も,「戦後の日本における歴史学の発展の起動力となり,『社会科学』としての理論的な枠組みを提供することによって,日本史・東洋史・西洋史という伝統的な領域区分を横断する『世界史』的な観点の樹立を可能なものにしたところのものは,さし当たりマルクス主義的な歴史観ないしその方法論であった」と書く(『世界史の認識と理論』)。

田中陽児は,戦時中の筆禍事件となった細川嘉六の「世界史の動向と日本」をひきつつ,戦前における体制批判的な世界史認識の系列は,戦後の歴史学研究会の
「世界史の基本法則」にいたるまで,断続的に継承されてきた,という。
「そこでの世界史とは,世界のいかなる地域にも(とくにヨーロッパと日本で)貫徹している普遍的な歴史の発展法則の抽出を当面の第一義的課題とするものであって,時としてそれは,日本の歴史発展の歪みをうつしだしてくれる『鏡』ですらあった」
「1945年の敗戦によって,“聖戦”世界史はうちくだかれ,人民の世界史は解放された。しかし,一般的に,皇国史観から人民史観への大転換を下から支えていたものは,方法的にも,素材的にも主として戦前戦中の不屈の学問的蓄積であって,必ずしも第二次世界大戦終了後急速に展開する世界史的現実をふまえた自律的な歴史研究の方法と素材の模索ではなかったかにみえる」と書いている.
(「現段階における歴史研究と歴史教育」『歴史学研究』283,63.12)
こうしたうごきを,『歴史教育五〇年のあゆみと課題』(未来社,1997年)では,「この学界の動きは,高校に『世界史』が設置されたことと無関係にうまれたのだが,『世界史の発展法則の追求』というテーマは,戦後解禁されたマルクス主義史学や,戦後世界の動向ともあいまって,若い歴史教師たちにとっても,歴史教育の一方の目標となっていく」と書いている。
もちろん,歴史学界のうごきと,歴史教育界のうごきがまったく無関係というわけではない。
一方こうしたうごきとは,ちがう考え方も,すでにあらわれだしていた。

(2)発展段階だけでよいのか ―石田英一郎の場合―

歴史学研究会は,1963年に「歴史教育と歴史像」というシンポジウムをおこなった。そのときの報告の一つがさきほど引用した田中陽児の「現段階における歴史研究と歴史教育」という報告である。
そのなかで田中は,石田英一郎の「世界史における発展段階―特にマルクス主義史学の方法について―」をとりあげる。
これは,雑誌『展望』の1947年11月号に載った。
石田は何を問題にしたのか。「世界史の客観的事実そのものは,果してこれら総ての一線的普遍的発展段階の存在を実証したであろうか?」と石田は問う。
一線的普遍的発展段階とは,原始共産的・アジヤ的・古代的・封建的・近代ブルジョア的という発展段階をさす。
石田の方法は,つぎのようである。
「人間の生活表現の全体を文化という言葉で総称し」「相異なる基盤の上に長らく隔離して生長をとげたいくつかの文化の複合体(コンプレクス)が,それぞれ空間的拡がりを有つにいたった場合,これを文化圏と名づける」
「牧畜社会と農耕社会とは,本来横に相並存する二つの文化圏を形成したもので,けっして一方から他方が発展したというような発展段階の関係にあるものではない」
「この遊牧・農耕南北両系統の民族及び文化の接触・抗争・混交・重畳等の事実を前提としてのみ,はじめて能く解決のつく問題がきわめて多い」
「数十万年に及ぶ記録無き歴史の全時期を単に≪原始共産制時代≫というような名祢をもって総括することの,たとえ誤ではないまでも極めて不充分であることが知られてくると共に,いわゆる≪原始共産制の崩壊≫なるものに続くとされている≪アジヤ的・古代的・封建的≫なる三段階も,果してそれが一線的な発生関係にある発展段階をなすものであるか,それとももっと複雑な歴史の弁証法の所産であるかは,改めて事実について検討を加えねばならない」
「私にはギリシャ・ローマ的な形態における古代奴隷制をもって,すべての民族が共通に経過した段階であるなどとは到底考えることができない。それは奴隷制の数多くのタイプの中でも,特異な条件と基礎の上に,古代地中海縁辺の一局部に栄えたユニークな一形式であって,次の段階への内的発展をとげることなくして解体没落した,地方歴史事象と見るのが妥当であろう。いかなる史家が西洋中世の村建社会をギリシャ・ローマの奴隷制的社会構成の内的発展から生まれた進化の所産として実証的に記述しうるであろうか」
≪アジヤ的生産様式≫も「これを一定地域の一つの発展段階と見る場合にも,そこに文化圏の概念を導入しなければ,その錯雑した歴史的過程を把握することは不可能ではないか」
「このように考えてくると,血肉ゆたかな世界史の事実には,文献記録の前後を問わず,縦の内的な発展及び発展段階と共に,横に併存する文化圏の形成とその伝播拡大接触等の運動が,同様に重要な機能を果たしていることを認めずには居られない」
という。
「最後に述べておきたいことは,マルクスはもとより,モルガンやエンゲルスにたいするわが史学会の一部左翼的諸学者の態度である」
「マルクス・エンゲルスが19世紀の生んだ社会科学者の中でも最高峰に位する頭脳に属するというような事実にたいしては,何の異議を扶むものでもない。しかしながら彼等らもまた時代の子であって,その時代までに人間の蓄積しえた学問的水準の制約を免れるることができなかったという点を,忘れてはならない」
「歴史家にとって終局の拠り処は,マルクスやエンゲルスが昔どう書いているかということではなくして,歴史の客観的事実がどうであったかということではなかろうか?」
「私はただひとえに,折角古い権威と神託と呪術とから解放されたわが国の歴史学,いな全社会科学が,再びいかなる新しい魔術(マギー)の力にも屈することなく,健全な生長をとげんことを念願するのみである」と結んでいる。
「1947・48年ごろの歴史学界の動向を見ると,少くとも日本史・西洋史の分野に関するがぎりこのような法則化的思考が研究者あいだにいっそう強く浸透していく傾向にあったことは,否定できないと思われる」と,成瀬治も書いている(『世界史の意識と理論』)。
1991年に書かれたものだが,土井正興は「古代奴隷制社会についての断想」でつぎのように当時の状況をつたえている(『歴史評論』498,1991年10月)。
歴史科学協議会は1991年度の大会のテ一マに「世界史認識の再検討」をかかげ,その大会準備号に,この土井論文は掲載された。
土井が奴隷制の研究に志すのは1954年ころだが,「このころ,私にとって西洋古代=奴隷制社会というのは自明の前提であった」と書いている。
「日本でソビエトの『経済学教科書』が翻訳出版されたのが1955年。「歴研で総合部会を組織して,奴隷制,封建制の各セクションの検討会をおこなった。10月こ開かれた『経済学教科書』の研究会での石母田正の発言,「古代ローマにおける奴隷蜂起の研究が全くないという現状は克服されるべきであるという発言に刺激されて」土井は研究テーマを奴隷蜂起に定めたという。
「それにしても,西洋古代=奴隷制社会というのが,なぜ,私の出発点での前提たりえたのであろうか。それは,西洋古代=奴隷制社会という定式化が既におこなわれ,それが日本の古代史研究者によって一般的に承認されつつあったからである」
「古代社会=奴隷制社会という定式化がおこなわれたのは,ロシア革命後のソビエトにおいてであるが……」
「戦後,1949年に歴研大会が『各社会構成における基本的矛盾は何か』をテーマにとりあげ」「このようななかで,古代を奴隷制社会と把握することは,私たちの周辺では当然のこととみなされていたのである」
しかしこのとき,ギリシア・ローマしについては,古代=奴隷制社会論にたつ研究は存在せず,「いわば当時における古代=奴隷社会論は,皇国史観と格闘して世界史の普遍的法則を追求してきた日本史家によって支えられ,典型的な奴隷制社会とされたギリシア・ローマ史家からは研究の無存在もあって必ずしも積極的な学問的支えはなかったとすべきであろう。それ故に,ギリシア・ローマ社会を奴隷制社会とみとめるかどうかは,西洋古代史家にとっては,マルクス主義を擁護するかどうかのリトマス試験紙でもあった」
というじょうきょうであった。
話をもとにもどすと,石田英一郎の「世界史における発展段階」は,田中陽児によれば,「戦後もっとも早くあらわれた世界史の原理的問題への本格的取組みであり,このすぐれた論稿が47年にも,50年にも,まともな批判ひとつうけずに見送られてしまったことのなかに,当時の歴史学のあり方の問題点の一つが端的にしめされているように思う」
というものであった。
なお,石田の考え方については,浜林正夫が,『現代と史的唯物論』(大月書店,1984年)のなかで,「石田英一郎と史的唯物論」をとりあげている。
(ここまで98/12/06)
(3)東洋史と西洋史のあいだ―飯塚浩二の場合―
戦時中(いつの戦争のことかときかれそうだが)の1944年2月から11月にかけて『世界史講座』全7巻が出帆された(弘文堂書房)。
その第1巻に飯塚浩二が「世界史と地理」を書いている。その第1節の題は,「『南蛮人の渡来』と『新大陸の発見』」である。
「南蛮渡来も新大陸発見もともに,古来互いに知り合うことなく,別々な没交渉な存在をつづけて来た二つの世界が,ここに初めて直接の交渉をもつに至ったということ,即ち多元的な生活圏の結合たることに変わりはない」のに,日本では異なった扱いをうけてきたのは,どういうわけかと飯塚は問題をなげかけている。
世界史教育がはじまってまもなくの1950年代に,「地理上の発見」という言い方や,
「ヨーロッパ中心の見方」を問題にしたしだしたが,その問題がすでにだされている。
さらに,「近代ヨーロッパは,ギリシア・ローマの地中海文化を継承すると共に,イベリア半島,地中海南部から主として乾操アジアとして特色づけられるアジアの広大な領域にわたって,今日のヨーロッパ的世界の統一性に匹敵する広汎な統一を実現していたイスラムの文化を直接の先輩としてもつことによって,地理的に極めて広範囲にわたる知識を相続したた」
と書く。
「マルコ・ポーロの東方旅行の如きも,既に欧亜にまたがって組織されていたイスラムの長大な通商路の存在を前提にせずには考えられなかったことであろうと思われるのであが,ヴァスコ=ダ=ガマのアフリカ迂回による印度航路の開拓にしても,彼がメリンドに於いてアラビア人水先案内を獲得することが出来なかったとしたら,後半のコースはしかく容易でなかったであろう」
ヨーロッパ人よって世界がひとつにむすびつけられたのは,「それに先立つ各個の領域が,それぞれ独立に発達した航海技術をもつ交通頻繁な領域を成していたということ,かかる予備的前提を度外視ししては,16世紀海上の諸発見に於けるような目ざましい躍進は到底理解され得ないであろであろうことについて,彼のヴィクトル=ドゥ=ブラーシュ(1845〜1918)は原理的な遺稿の中に印象深い解説を与えている」
航海者にとって海洋が障壁であるより優れた交通路であったように,アラビア人にとっては「他民族を近づけない広漠たる沙漠は却って自己の優位を保障された交通路であった。彼等が地中海勿論,アフリカから印度洋を経て南支那にまで及んだ海上の商業活動とこの陸上の大商業とを結びつけることによって,中世のヨーロッパとは対蹠的な,燦然たる文化の華を咲かせていたことは,今日の我々によって余りにも忘れられている憾みはあるけれども,このイスラム的な世界の成立に伴つて彼等の集積した地理的知識が驚くべさ広範囲にわたるものであったことは,アラビアの地理学者たちの足跡が東半球の陸地の西の涯から東方の海上にまで及んでいたことに徴しても,明らかな筈である。近代ヨーロッパの地理学は之を継承した」

砂漠は「沙漠」の字がつかわれている。ブラーシュの遣稿とは飯塚訳『人文地理学原理』(岩波文庫)のことで,1940年の出版である。
われわれ世界史教師が,このような知識,このような観点を手にしたのは,いつごろで゙あったろうか。今日ではそれほど珍しくはないこのような事実や世界史の把握のしかたは,もうここにあらわれていた。
飯塚浩二『世界史における東洋社会』(毎日新聞社)が出版されたのは,1948年である。
『歴史地理教育』の97年9月号(567)「先生教えて」の欄に,「モンゴル軍は残酷で,中央アジアからヨーロッパまで攻めてきて死体の山を築いたといわれています。それなのになぜ,ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロは,殺されなかったのですか?」(広島県中学2年生)
という質問に,筑波大付属の篠塚明彦か答えている。
これと同し質問を生徒からつきつけられたことをずっと以前に告白したのは,吉村徳蔵である。
『歴史地理教育』の62年4月号(74)の連載「そこが知りたい」に「モンゴル軍はとても残虐野蛮だったといわれるが本当だろうか」という問いを出して,答を私が書いた話は,「世界史教育譚」に書いた(『歴史地埋教育』372)。
このときも,飯塚浩二の『世界史における東洋社会」が参考になった。この本は,その[あとがき]によれば,これは終戦の前年に書いたもので,原稿が戦災をまぬがれたので,そのまま載せたという。弘文堂の『世界史講座』と同じ時期だ。⇒「世界史と地理」
『世界史における東洋社会』の第一論文が「世界史と遊牧民族―チンギス汗の覇業を中心としての人文地理学的考察―」である。目次だけあげておこう。
一 「時」は審判官であるか
二 モンゴルを蛮族視する通説
三 沙漠の交通地理的な意味
四 遊牧民の戦闘力の構造
五 彼らは破壊的であるか
六 彼らの利用しえた文化の水準
七 遊牧民族と隊商商業との結びつき
八 通商路の治安維持者としてのモンゴル政権
飯塚の論説はのちに,『アジアのなかの日本』(中央公論社,1960年)や『東洋史と西洋史のあいだ』(岩波書店,1963年)となって,世界史教育に影響をあたえた。いまは,『飯塚浩二著作集』(平凡社)におさめられている。

聖戦世界史1−飯塚浩二の場合へリンク(98/12/07)

(4)世界と日本と自己と―上原専祿の場合―
世の中が,“聖戦世界史”から“人民世界史”へと移っていくなかで,上原専祿は,1945年から50年にかけて書いたり話したりしたものを集めて,48年2月,『歴史的省察の新対象』(弘文堂)を出版する。
これが,上原の「敗戦後総じて最初になされた筆業」(新版あとがき)である。新版は70年4月に未来社からでた。
「太平洋戦争終了後の数年間,私はこのような歴史的省察を,世界と日本と自己について加えることによって,当時私もまたおちいっていた虚脱からの脱出,私もまた抵迷していた時流からの反転を企て,ともかくも精神の主体性と能動性を確保しようとした。
その歴史的省察の試行過程を文章化した」ものが,『歴史的省察の新対象』(46.7.12)と『現代歴史学の様相』(46.8.7)だった(新版への序)。

この二つの論文を,いまあらためて読みかえしてみて,ここにすでにあったのかと,感じるのは,上原自身が「新版のあとがき」に書いているように,
「省察の新対象として世界・日本・自己の三つの範疇が選び出され,日本・東洋・西洋の三区分法が否定されている」という点である。
上原が「世界・日本・自己」というときの自己は,「世界」「日本」というものを向こうにまわして主体性を主張する人格を意味するものであった(あとがき)。
歴史に規定され,影響されて生きるだけでなく,歴史に対して,歴史に向かって生きる主体としての自分を考える。歴史をつくるもの,歴史の形成に参加するもの,歴史に向かってはたらきかける自己である。
しかし上原が,
「『世界』と『日本』というものを,また,『人類』と『民族』というものをアクチュアルな実際問題として,また,緊要な理論問題として,省察なり,思索なりの対象として実際に取り上げ,それを文章化するにいたったのは,だいたい,日本の政治現実の反動化が露になった朝鮮戦争以後のことである」
「世界平和の問題や民族独立の問題と私が取りくむようになるのも,朝鮮戦争以後」であったという。

上原は,歴史の発展法則をどう考えていたのだろうか。すこしあとになるが,1951年に書かれた「社会発展の法則と類型」(『歴史学序説』大明堂,1958年)がある。

マルクスの社会発展の法則は,ヨーロッパの学問・および思想史上,人類史上始めての「社会発展の法則」の提示である,と上原はいい,それと同時に注目すべきことは,
「マルクスが理論的関心を集中した『社会』というものは,その関心の当初から『発展する社会』であり,さらにつきつめていえば,『法則的に発展する社会』であった。
「もとより『法則的に発展する社会』は,『社会発展の法則』が実証的に確立せられたときに始めて確認せられるものであることをマルクス自身も承知しているのであるが,実は実証・非実証の論議を越えて,『法則的に発展するものとしての社会』,ただこのような『社会』だけが問題であったのであり,『社会』がまさにそのようなものであり,それ以外の何ものでもなく,またそれ以外の何ものでもありえないことを実証的に確認するものが『社会発展の法則』であった,と考えられる。
その際,『社会』が,生産力それ自体の発展段階に応じて形作られた生産諸関係の総体としての経済構造を中核として意識せられたところから,『社会発展の法則』もそのような経済構造の発展法則―すなわち,生産力自体の発展に応じて形成せられる生産様式の発展法則―というかたちで観念せられることとなり,ここに『アジア的・古代的・封建的・および近代市民的(すなわち資本家的)生産様式』の『諸時期(すなわち発展諸段階)が必然的に継起することを主張する一つの序列法則として,『社会発展の法則』が提示せられる。
すぐさまこれと関連して注意せられる第二の点は,マルクスの『社会発展の法則』にいたって,社会が一つの発展段階から他のそれへと移行する場合の動的メカニズムが法則性をもつものとして考えられていることである。かくてマルクスの発展法則は単に序列法則であるのではなく,まさに運動法則なのであり,あたかもこの点にこそマルクスの発展法則の深い特徴が存する」
「第三に注目せられる点は,……その発展法則が生産力の担い手たるものの社会的「実践」のための「理論」を形成している,という事実である。
「社会発展の法則」の成就についてのいわば責任は主体的行動者としての生産力の担い手たるものに課せられているのであり,その成就についての期待もやはりかれらに寄せられている。それと同時に,生産力の担い手たるものの社会的実践のは,客観的展望としての『社会発展の法則』によって保障せられている」
「『理論』と『実践』とのこのようなつながり方の意識において,マルクスは近代市民的な社会構成の終焉と敵対のない新しい社会の実現とを予見し,かつこのきたるべき経過における意志的行動の主体的責任をプロレタリアに課し,それに期待を寄せうるものと確信した」(下線は原文の傍点)

私なりに抽出すれば,上原は「マルクスの発展段階」をこのように解釈していた。肯定も否定もしていない。そのうえで,“上原世界史”が登場してくるのである。
浜林正夫によれば「このような上原のマルクス理解はきわめて特異なものであって,反マルクス的でも親マルクス的でもなく,いわばマルクスを相対化した相対主義的な理解ともいうべきものであろう」という。
そして浜林は,このような上原の提出した問題の意味が「日本のマルクス主義史家によって十分にうけとめられてこなかった」と書いている(『現代と史的唯物論』)。

以上,45年から50年ころ,高校に世界史という教科がおかれるようになる時期に,世界史というものが,どのように意識され,自覚されていたかを,さぐってみた。
のちに世界史教育のなかでも問題にされ,とりあげられてくる課題は,この時期にすでに,少数の研究者たちによって,意識され,自覚化されてはいた。
その声が,世界史の授業にあたった高校の教師たちには,たぶんとどかなかっただろう。一方,高校に世界史科がおかれたことが,研究者たちをいくらかは刺激したといえるだろうか。
(ここまで,98/12/09

つぎは,5.最初の「世界史の学習指導要領」です。ちょっと休憩へどうぞ