焼けはてた土の中から,新しい緑の芽がもえ出て来る。
ながいあいだ,わたしたちが,
たがいにはげましなぐさめてひそかに語った言葉が,
いま現実となった。
2.世界史への要求は国民のなかにあった
1945年8月15日,戦争がやんだ。
その年の,11月15日。
歴史学研究会全体は,まだ再建されていなかったが,日本史部会のよびかけで,
「国史教育再検討座談会」が,東京本郷のYMCAでひらかれた。
口コミで集まったもの43名。
伊東多三郎,豊田武,竹内理三,石井孝,渡部義通,信夫清三郎,高橋F一,
山口啓二,大江匡輝,吉田悟郎,羽生敦,田中健夫,村田静子,林基,
藤間生大,石母田正,井上清,遠山茂樹,松島栄一
などの面々である。(『歴史学研究』122,46年6月)
そのとき,
石母田正34歳,
高橋F一33歳,藤間生大,井上清も33歳。
遠山茂樹32歳,
松島栄一28歳,
吉田悟郎24歳である。
この座談会のことを,のちに高橋F一は,こう語っている。
「黒い学生服の青年が天皇制教育の被害者として発言していたのが印象に残っている。それが山口啓二さんである。
久方ぶりに林基さんが,解放感を顔一杯にして,ぼくに渡部義通さんを紹介してくれた。
ひとくちにいえば,戦争下の表面的活動を止められた歴史学研究会のメンバーの同窓会みたいな感じだったが,そこでの発言は,日本帝国主義の侵略戦争を阻止できなかったばかりか,その軍国主義の支柱にされていたことへの歴史学者の反省だった。
そこから歴史学と歴史教育を論じ,その上に立って歴史学研究会が再発足したわけである。
国民の歴史知識や歴史意識について歴史学者として責任をとることから出発したということは,これからの歴研の仲間が肝に銘じておいてよいことだと思うし,歴史教育者協議会の発足についてもこれを忘れることはできない」
(「歴教協創立当時の思い出」『歴史地理教育』100,64.9)
冒頭にかかげた「焼けはてた土の中から……」は,
1946年8月15日に刊行された羽仁五郎『転形期の歴史学』新版の序文の最初の文章である。
成瀬治は,この文章を引用することから,『世界史の意識と理論』の第1章を書きはじめている(岩波書店,1977年)。
「そこには,<ついに民主主義革命を日程にのぼせた日本>で,<こんどこそ自由と真理との勝利のため>の<新しい突撃>を開始しようと呼びかけるひとりのマルクス主義者の,自信と誇りに充ちた意気込みが溢れていた」
と成瀬は書いている。
1929年に初版がでた羽仁五郎『転形期の歴史学』には,「世界史の可能性と必然性―エッチ・ヂイ・ウェルス批判」がおさめられている。
それは,唯物史観の立場から,世界史の可能性を説いた最初の論文であるという。
これらについては,別の場所でかくはずである。
こうして,歴史学の,歴史教育の,戦後ははじまった。
さて,世界史への国民の関心はどうだったか。
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(1)生徒は世界史をもとめていた
「文部省も研究者も歴史教育者も,“世界史”への要求と構想をもつことなく,とりあえず社会科世界史を,高校においた」と書いた(前回)。
もうすこし調べてみると,文部省・研究者・歴史教師はともかく,当時の国民に,「世界史への要求」がなかったとばかりは,いえないことがわかる。
雑誌『日本歴史』(吉川弘文館)の1949年4月号の,
「今後の歴史教育」の座談会で
「新制高校で,生徒の間に歴史を学習したいという意欲が非常に高まってきている。高校の2年以上は,日本史,世界史,人文地理,時事問題の選択で,世界史,日本史が圧倒的に多い」
「人文地理より……?」
「問題にならんほど多いです。3分の2……」
「いやもっとでしょう。世界史,日本史合わせて80%あるようです」
と,文部省の社会科担当者が語っている。
同じ雑誌の49年7・8月号の,教師たちの座談会で,
東京都立文京高校の菅野二郎は,じぶんの学校の例として,つぎのように言う。
「2年以上選択4科目のなかで,世界史に対する関心が非常に濃厚で,殆ど100%に近いのです」
高校生の科目の選択は,入試とのからみでおこなわれることが多いから,かんたんにはいえないが,当時,高校生自身が,歴史ないし世界史への関心を持っていたことを示している。
もうひとつ。
これは,1954年12月の時点での座談会だが,世界史がおかれたときのことを語りあったときの,つぎのような発言は興味ぶかい。(『世界史講座』東洋経済新報社)
山本達郎 「[世界史というものへの要求は,戦後ばかりでなく,戦争中もあったという尾鍋輝彦の発言をうけて]そういう流れもあり,
それからアメリカの流れもあり,
一方,国内のいろんな空気も醸成されているし,それから生徒のあいだにも相当そういうばくぜんたる興味というものが考えられるわけでしょう。
そうすると,専門家を除いて,そのほかは世界史というものを求める広い欲求があったとみていいかもしれませんね」
尾鍋 「ひじょうに皮肉な表現ですが,“専門家を除いてそのほか”は,適切な表現です」
このあたりが,真相をついているのだろう。
この尾鍋発言のまえに,当時高校教師だった三木亘は,
「私の経験では,すくなくとも,子どもたちが世界史教育を望んでいおるということは,おそらく一般的にいえることじゃないかと思うのです」
といっている。
(2)毎日新聞社『世界の歴史』の刊行
世間一般の,世界史への要求の動向をしめすものとして,1949年から50年にかけて出版された『世界の歴史』全6巻(毎日新聞社)がある。
高橋F一も,1961年の座談会でつぎのように指摘している(『歴史教育研究』20号,61年7月)。
高橋 「僕もちょっと関係しましたが毎日新聞社の「世界の歴史」はたとえ中身は分かれているようでも,世界の歴史という体系を打ち出そうという意欲を飯塚さん服部さんなどが出したということはやはり意味があったと思うんです」
松島栄一 「つまり戦後の東洋史,西洋史というような別れ別れの世界史教育では駄目だという反省があったんでしょうね」
高橋がこの企画にかかわっていくいきさつは,別に書く。
『世界の歴史』 全6巻の構成は,つぎのとおり。
飯塚浩二,仁井田陞,大塚久雄,村川堅太郎 編
1 『歴史のあけぼの』 江上波夫,板倉勝正,杉浦健一
2 『西洋』 村川堅太郎,松田智雄,堀米庸三,大野真弓
3 『東洋』 仁井田陞,野原四郎,松本善海,増井経夫
4 『日本』 遠山茂樹,石母田正,高橋F一
5 『現代』 江口朴郎,村瀬興雄
6 『歴史の見方』 上原専祿,村川堅太郎,仁井田陞,川崎庸之,飯塚浩二
この企画の世話役であった飯塚浩二によれば,毎日新聞社の企画の話し合いがはじまり,編集委員会の構成がきまったのが,1948年の春だという。
このうち,なかでも名高いのが,『日本』であり,毎日出版文化賞をうけ,その賞金の一部は,歴教協設立の資金になる。
私のところに,手垢に汚れ,ぼろぼろになった『日本』がある。授業にさんざん利用させてもらったためだ。
なかでも,その「近世」を担当したであろう高橋F一の叙述は,のちに史料をつかっての歴史教育の授業,「教師のための日本歴史」あるいは,「資料と扱い方」などのもとになったものと,私は思っている。多分,その手法は,高橋の,中学や高校の授業のやりかただったのだろう。
それはそれとして,ここで重要なことは,『歴史教育50年の歩みと課題』(未来社)にも書いたが,あくまで,『世界の歴史・日本』であること。
すなわち『世界の歴史』を構成する「日本」であることだ。
「歴史のあけぼの・西洋・東洋・日本・現代」
という「世界史」の構成だったのだ。
当時私は,このことの意味を理解できず,1冊づつを,べつべつの本として,あつかっていた。東洋史,日本史,西洋史の本として,利用していたにすぎない。
飯塚の「あとがき」(第6巻)によれば,「編集委員会の顔ぶれは,服部之総氏とあわせて5人であった」
「日本史を世界史の流れのなかに正しく位置づけること,現代史が大切であるところから,服部先生には,この企画の星雲時代に大いにお世話になった」
とある。健康を害したために,服部はとちゅうで降りたのだ。
「第二次世界大戦後の事態において日本の読者におくらるべき世界史が,手近にモデルのありうるようなものでないことだけはたしかだと私は考えていた。
実は戦前において,すでにそうだったのである。モデルというなら,この企画に打ち出されるはずのものこそ,たとえ十分に目的を達するにはまだひまがかかるにせよ,世界史の構想に新しいモデルとなってしかるべきものというように考えていた」
と,飯塚は書いている。この「あとがき」は,第6巻が出た1950年5月のものだが,このような企図おもってつくられたのが,『世界の歴史』各巻だった。
毎日新聞社の名で,各巻のはじめにのっている「刊行のことば」にいう。
これは,「日本人のための最初の世界史である」と。
新聞社の出版社が,いちはやく,国民の要求をキャッチして企画をたて,一部研究者がこれにこたえようとした,というところだろうか。
それでは,国民の,生徒たちのこれらの要求にたいして,歴史教育者・歴史研究者たちは,どうこたえたのか。どうこたえようとしたのだろうか。(98.11.9)