目次
| 資料1 | 尾鍋輝彦編『世界史の可能性』(東京大学共同組合出版部,1950年3月) |
| 資料2 | 共同討議,尾鍋輝彦の発言『世界史講座』第8巻(東洋経済新報社,1956年) |
| 資料3 | 羽生敦「歴史教育十年のあゆみ」『歴史地理教育』14号(1955年12月) |
| 資料4 | 尾鍋輝彦の回想談 『歴史教育研究』56号(74年7月) |
| 資料5 | 座談会「戦後教科書物語」 『歴史教育研究』19号(61年4月) |
| 資料6 | 座談会「戦後教科書物語」2.『歴史教育研究』20号(1961年7月) |
| 資料7 | 高橋F一「社会科『世界史』をどう生かすか」(50年2月,『世界史の可能性』) |
| 資料8 | 箭内健次の発言「国史学界の今昔」『日本歴史』(吉川弘文館92年8月) |
| 資料9 | 座談会「今後の歴史教育」 『日本歴史』15号(1949年4月号) |
資料1.
この本が,『共産党宣言』をもじって,世界史を怪物と表現した尾鍋の「序」ではじまることは,本文の冒頭に引用した。
最初に載った「討論 世界史の基本問題」のなかに,世界史登場の経過と当時の研究者たちの「世界史」にたいする当時の考え方が見え隠れしている。
出席者は,以下の人びとである。
飯塚浩二(東京大学教授)
石母田正(民主主義科学者協会会員)
江口朴郎(東京大学助教授)
尾鍋輝彦(成城大学助教授)=司会
倉橋文雄(国学院大学講師)
橘高信(東京都立文京高校教諭)
遠山茂樹(東京大学講師)
中村元(東京大学助教授)
増田四郎(東京商科大学助教授)
三上次男(東京大学教授)
村川堅太郎(東京大学教授)
矢田俊隆(成蹊大学教授)
山本達郎(東京大学教授)
尾鍋 この(1949年)4月から世界史の教課目が新制高等学校にもうけられましたが,文部省の方から簡単な通牒があったぐらいで,具体的な指示もなく,また日本の学界では世界史というものが研究にも,叙述にもあまり現れていないので,先生も生徒も非常に困っております。それでこういう会を開く意義があるわけです。
本文へ戻ります
そのまえに,「簡単な通牒」とは,
◆高等学校社会科日本史・世界史の学習指導について◆
「文部省通牒」1949年4月,文部省教科書局長
高等学校教科課程改正によって本年度より開始される社会科の選択教科としての日本史及び世界史の授業については,特に左記の諸点に留意されたい。
一 それぞれの学習指導要領は目下作成中であり完成は昭和24年度末の予定であるが,概要はそり以前に発表されるはずである。現行の学習指導要領東洋史編・西洋史編はそれまで一応参考として使用してもさしつかえない。
一 指導にあたっては左記に掲げる社会科歴史学習の目標達成に留意すること。例えば
(イ)社会科一般目標に合致すること。
(ロ)現代文化の歴史的背景を理解させることにより現代社会の諸問題の意義を認識すること。
(ハ)歴史の発展の必然性を理解させること。
(ニ)現代社会の生活文化を総合的・発展的に理解すること。
(ホ)歴史が進歩への発展であることを理解することにより社会発展に対する自己の責任と情熱とをい
だかしめること。
(ヘ)歴史の時代概念を理解させること。
(ト)各時代・各社会に共通する人間性の把握につとめさせること。
(チ)事実を合理的・批判的に取り扱う態度と技能を育てること。
(リ)事実の理解に通じ,現在の社会並びに経済・政治の問題解決に必要な能力を発達させること。
全体を通じ,戦争・王朝・政治・事件の年代史であってはならない。
一 学習形態は一般社会科に準拠すること。従って生徒の自主的学習活動を刺激するよう単元学習たることが望ましく,概説の学習におちいらぬように留意されたい。
一 教科書として現在刊行されているのは西洋の歴史(上)のみであるから,他は教授者によって適当に考慮されたい。
以上である。
高橋F一は,
『社会科教育』23号(49年8月)に載せた「歴史教育の基本問題」で,つぎのように評価している。
「わたくしは率直にいって,あえて歴史教育に限らず,わたくしのせまい見聞の限りでは,いままで文部省が出した通牒類の中でこの通牒ほど日本の教育の前進のために画期的な役割を果すべき内容をもったものはなかったと信じている。
『現代文化の歴史的背景』といい,『歴史の発展の必然性』といい,『総合的,発展的理解』といい,特に『歴史が進歩への発展であることを理解することにより社会発展に対する自己の責任と情熱とをいだかしめる』というに至っては,いままでの文部省を知るものにとっては何かキツネにつつまれたような感じさえある」
この論文は,『歴史地理教育』184号(71年7月)に再録されている。
この号の編集部注(佐藤伸雄執筆)によれば,「『社会科教育』は47年4月から51年5月まで,山崎喜代作を主幹として社会科教育研究社で発行されていた。山崎は高橋F一と暁星中学における同僚であり,また同社に佐藤伸雄が就職していたことから,歴教協の事務局は,49年〜52年,同社におかれていた。…
高橋がとりあげている文部省通牒は,当時文部省事務官であった渡辺是が,高橋に意見を求めて作成した文章であった」とある。
この座談会(『世界史の可能性』)に高校教師としてただひとり参加した橘高信は,
こういう通牒はでているが,
「実のところ昏迷状態にあるというのが本当の姿」
「社会科の一般目標にそって世界史をいかに構想するか」「日本にはまだ学問的に世界史の研究がされてないので,構想の拠り所がない」
といっている。
本文へ
三上次男は,
「この課題(世界史は成り立ちうるか)は,我々歴史家の間から,社会的諸条件の命ずるところに従って自然的に醸しだされ,取りあげられたものではなく・文部省によってにわかに与えられたものだけに,問題は複雑であり,論ぜられる角度にもいろいろの違いがある」
と書き(『世界史の可能性』),
増田四郎は,
「今日一貫した世界史的考察が,何故に,またどのような事情から,突如として要請されるに至ったか……」という。
こもごも語っているように,研究者にとっても「突如として」「にわかに与えられた」ものであった。
されば,高校教師,橘が言う。
「世界史の提唱に対して,東洋史学の侮辱であると色をなされた学者もあったかに聞く。
東洋史,西洋史の総合は極めて難しいと嘆じた多くの声が洩れ聞かれた,両者の比率の差を時代が近くなるにつれて少なくすればよいとその決定に努力された教育家はなかったか。
両者を適当に織り交ぜて教えればよいのだと嘯いた教師は無かったか。世界史を避けて東洋史,西洋史の教科が行われたことは無かったか。
恐らく否とはいえないであろう。何故の混乱であろうか。
それは『世界史』という教科の新しい名に目が眩み,なす所を知らなかったといっていい過ぎではあるまい」
と。(『世界史の可能性』)
これが,「高校社会科世界史」発足当初の実状であった。
資料2.
―尾鍋輝彦のうちあけ話―
『世界史講座』第8巻(東洋経済新報社,1956年)の共同討議
上原専祿,尾鍋輝彦,大江一道,久坂三郎,田中陽児,三木亘,山本達郎,山上正太郎,吉田悟郎
座談会がおこなわれたのは,1954年12月。
によれば,高校世界史登場のいきさつは,つぎのようだ。
尾鍋 驚くべきことには,世界史をやるという決定には歴史家はぜんぜん参加していません。
昭和23年にあった教育課程審議会で,CIEの示唆によって決まったのです。
その前から日本の学界なんかで,日本史,東洋史,西洋史に分けずにやる空気などが歴史学研究会などにありましたね。
それから文部省の視学官が,東洋史と西洋史をわけておくことは具合が悪いといっていたのを個人的に聞いたことがあります。
その視学官は,東洋史がこれから非常に重大な意味をもつにもかかわらず,東洋史の選択者がひじょうに少ない。
しかし西洋史も必要だから,これは両方いっしょにくっつけなければならないといっていました。
そういうような空気があったときに,アメリカの方で,世界史にしたらどうかといってきたのです。
そうしたら教育課程審議会にいた人文科学系統の某委員が強く賛成して,他の委員もあっさりそれに同調したのです。
某委員とは中島健蔵氏と聞いています。その席には歴史家はいなかったのです。
吉田 アメリカの示唆とはどういう意味あいのものですか,性格は。
尾鍋 アメリカはひじょうに考え方が単純なんです。
アメリカの教育課程においては東洋史と西洋史ではなくて,アメリカン・ヒストリーとワールド・ヒストリーです。だから当然日本もそうすべきだというような単純な考えです。それ以上のことはよくわかりませんですがね。
機械的にいろんなことが模倣されていた時代ですから,それだけで十分理由ができていたのです。
上原 社会科のなかに世界史というものをおこうという,そういうことですか。
尾鍋 そういうことですね。
上原 そういうふうに人文関係の委員の人たちがよかろうというので決まってから,それからどうなりました?
尾鍋 それからただちに学習指導要領の編纂委員が任命されたわけです。その初期の委員が,野原四郎氏,柴三九男氏,太田秀道氏,矢田俊隆氏,井草高校の大野英雄さん,および私の6人です。
そのときはひじょうに抱負をもち,とくに野原さんが東洋史の入れ方についてだいぶ研究され,問題が起ると中国研究所へいって,みなの意見など総合してもって帰られたりしておりました。
そのコース・オブ・スタディをつくるのに2年かかりました。それが完成する以前に,それと平行して教科書が数種類作られつつありました。
三木 文部省とか政界関係で世界史教育を昔に戻せというような,そういう意見はなかったんですか。
尾鍋 ぜんぜんないですね。なにしろ世界史というものの要求は,戦後ばかりでなしに,戦争中もあったのです。
吉田 やはり大東亜共栄圏の世界史的な意味付けというような意味合いでだされたのですか。
尾鍋 そうですね,それは。そのなかにおける国家主義的なものを抜けばひじょうな抱負がみられたのです。いちおうは。
山本 そういう流れもあり,それからアメリカの流れもあり,一方,国内のいろんな空気も醸成されているし,それから生徒のあいだにも相当そういうばくぜんたる興味というものが考えられるわけでしょう。
そうすると,専門家を除いて,そのほかは世界史というものを求める広い欲求があったとみていいかもしれませんね。
尾鍋 ひじょうに皮肉な表現ですが「専門家を除いてそのほか」は実に適切な表現です。
<以上は1954年12月の時点での,記憶にもとづく当事者の証言である。>
資料3.
「高校世界史」設定のうちあけ話
―羽生敦(都立立川高校教諭・歴教協事務局長)―
世界史については47年の新制高校出発当初は,戦前のように西洋史と東洋史に分かれていたのだが,東洋史の選択希望者があまり少ないことを打開する便宜的手段として,東洋史と西洋史をくっつけたのだというのが,
文部省の保柳視学官(現防衛大学教授)の打ち明けばなしである。
したがってしばらくは,教科書なども,世界史東洋史編・西洋史編の2冊を分けてつかっているという状況で,せいぜい東西交渉史が世界史の内容であると考える者が多かった。
そういう段階であったから,尾鍋氏らの『世界史の可能性』の果たした役割は大きかった。
<これと似たような話をずっとあとだが尾鍋もしている。>
![]()
資料4.尾鍋輝彦の回想談1974年7月
48年ごろ,元東京高校教授の二宮視学官から
「新制高校で東洋史と西洋史にわけておくと,東洋史を選択する生徒が少なすぎるので,東洋史専攻の人の就職口が少なくなります。両方を一緒にするのはどうでしょう」とたずねられました。
私は,「理論的にも世界史にすべきものです」と答えました。
翌49年の新学期から世界史が設置されました。
ところで,それまでの日本の史学界では<世界史は不可能だ>というのが,定説のようになっていました。
わずかに羽仁五郎氏が1929年刊行の『転形期の歴史学』の中で,可能説を打ち出していただけでした。
<この尾鍋の談話は,74年7月の『歴史教育研究』にのったものだが,羽生のいう保柳視学官と尾鍋のいう二宮視学官とが当時文部省にいたのか,同一人物の尾鍋の記憶ちがいかはたしかめてない。これよりまえ,世界史誕生を語り合っている座談会がある。>
資料5.
出席者
明石総一,勝田守一,豊田武,菱刈隆永,尾鍋輝彦,金沢誠,羽生敦,三上次男,風間泰男,清水勝太郎,阪東宏,吉岡力,司会・大江一道。
三上 世界史という科目については思い当たることが一つあるんです。CIEの何とかいう,二世の課長に一群の歴史学者がよばれたことがありました。
言語学の服部四郎さん(東大教授),山本達郎さんが多分いたと思うんです。
昭和22年ごろだったかな。なにか文句をいわれるのかなと思って出かけたんですよ。そうしたらその二世の課長がわりあいていねいでしたが
「実は日本の歴史教育というものに対して自分たちは関心をもっているんだ。今まで日本では外国史の研究が東洋史と西洋史に分かれているけれども,それは少しおかしいと思う。あなたがたはどうか。自分の考えとしては,むしろworld historyとして,世界史として取上げたほうがよいのじゃないだろうか」
ということをいいだしたのです。そういうむこうの話を中心に約2時間ほど話をしたんですが,
とにかく今までのように,東洋は,中国を中心とし,西洋はヨーロッパが中心というような歴史は本式の外国史ではないと思う。外国を理解するためにはもっと世界的な観点から日本の地位をはっきりさせていって,そしてそこから同時に日本の地位と世界全体の概観とをつかめむようにするのが本当であろうというようなことを(向こうさん)がいったことがあるんです。
[日本の学者は]その場ではほとんどすべて賛成だったと思います。
豊田 文部省の方で聞いている世界史のできた理由というのはきわめて簡単なものですね。
高等学校に日本史が入るようになって,そこで東洋と西洋を一つにして世界史にするんだと。
世界史のアイディアとか,そうした広遠な問題から発するんではなしに,簡単な処理,日本史が入ってきたために向こうの外国史を世界史にするということであったと思うんです。
教科目の関係で。世界史とかりに名付けた。
しかし怪我の功名で,それから世界史とはなんぞやということで皆が大騒ぎをして,世界史には日本史も少しはいってなくちゃいかんというんで教科書に少し日本史をいれるということが大体の原則になりました。
金沢 僕たちがこの教科書『西洋の歴史』昭和22年発行(中等学校教科書株式会社)をつくるためにあつめられたのは,僕の日記によると,21年年11月15日なんです。
三上先生もご一緒でしたが,CIEによばれた話がこの時の前だとおっしゃると,いまのお話からすればどうしても21年の3月から11月のあいだということになりますね。
大江 いままでのお話をまとめますと,とにかくアメリカは世界史というプランをもっていて,三上先生たちをよんで,いわば探りを入れるような形で反応を受け取って,その後お二人ともよばれて,結局,外国史は分けるということになったと,こうかんがえられますか。
三上 そうじゃないんです。この本も世界史として編纂したんです。
金沢 というより世界史として編纂したかったんでしょう。
ですけどその前に,さっきの三上先生なんかのもっと大筋の話がそのときでたんでしょう。確かに,オズボン氏はその時アメリカの教科書をもってきましてね。
アメリカでは一緒にやっている,日本でわかれているのはおかしくないかといいましたよ。
そして板倉君か誰かがこたえてね,世界観の関係ではなくて,語学の関係上,日本では東洋と西洋に分かれてきたから,これからも問題はそういう技術上の問題でやはり別の方がいいんじゃないかという答えをした憶えがあります。
三上 それが世界史としてできたんです。できた結果はかなり膨大なものになっちゃったんで,世界史1巻としてだせなくなったんで,まず第一に世界史のうちの西洋の歴史を先にだそうという形で……
金沢 西洋史が集まったのは,代表の今井登志喜先生が5人えらばれましてね,古代から板倉勝正氏,中世という意味で橡川一郎君,僕が16世紀から18世紀という意味です。矢田俊隆君が19世紀,林健太郎さんが20世紀をやるというわけです。
僕の記憶では豊田先生は確かにおられましたよね。それから勝田守一さんは私たちの編纂の係りになられて,勿論おりました。
三上 この時あつまったのは和田清先生を中心に守屋美都雄,周藤吉之,松本善海,市古宙三さん,たちでした。
………
金沢 ……板倉君なんかはあんなものはまともにかけねえ,といいだして,箕作元八の『西洋史講話』,あれを写せ,現代語に直せ,というわけですよ。……
岩本町の焼け野原に立っていたビル,中等学校株式会社(後の中教出版)のビルに一週間に一回位集まりました。東洋史は東洋史の部屋,西洋史は西洋史の部屋でね。
三上 東洋史の方は,まあ,やるんだったら今度はもっといいものができそうだと。
いままでは東洋が中心だったけれども,もっとインド,西アジアも含めて面白いものができそうだというんでやろうということになったわけです。
やり方は古代・中世というふうに五人で分担してできるだけ早くやろうと。翻訳は百瀬君がしてくれたかな。
僕らの係はボールスさんという大変熱心なクエーカー信者のおばさんでした。クエーカーだったせいかそれほどひどい批判はしなかったですね。……
できあがってみると戦前の教科書とはかなり違ったニュアンスの,やはり社会の向上ということを取り入れた教科書ができまして,これができれば面白いだろうなと思った途端に西洋史の方でひっかかっちやって,一括してむこうでは見合わせろいった命令がたわけですね。
それで活字には全然ならず,結局プリントとそのブリントに対する翻訳だけですね。その原稿は僕はまだもっています。
三上 [ひっかかったのはカトリックの問題〕マッカーサ−自体がカトリックですよ。向こうで翻訳してだしたところが,全米カトリヅク協会からこの教科書は不当だという決議案がきて…
金沢 直接問題になったのはキリストのところで,聖書は伝説だということがいけないんです。
「今日われわれは福音書の記事の全部を信ずるわけにはいかない(イエスの出生,行った奇跡,殉死の復活)。しかし,当時においてはそれがそのまま信ぜられたのであって,これが同時に初期のキリスト教徒をして勇敢な伝導者とし,死を恐れぬ殉教者としたのである」です。
…とにかくこの本がでるや否や,カトリック新聞にね,「神を冒漬せる悪魔は板倉,橡川,金沢」とちやんと活字にでているんです。
橡川君のところは大してやられていない。僕のところは個人的にいけないんじゃない。教会にとって悪魔であるところのルター,カルヴァンから始めているというわけですよ。終わりがヴォルテールで終わっでいるのは何事だというんです。
日本はちつとも,民主化されておらんとね。このようにヒューマニステックな理解が足りなくて依然として神からみて悪魔の方,暗い方をそそのかすことによって,不吉な軍国主義の波があるという意味のことが書いてあるんです。
資料6
座談会「戦後教科書物語」2 1961年
出席者
尾鍋輝彦,清水勝太郎,友定節,吉岡力,久坂三郎,高橋F一,菱刈隆永,和歌森太郎,佐藤伸雄,徳武敏夫,松島栄一,司会・大江一道
松島 それからもう一つの問題は,23年の歴史教科書の委員会で高等学校の時間割をどうするかという問題のとき,委員会の議案として東洋史,西洋史というものにまとめて,日本史はやはり独立させようというのでした。
最初の計画では日本史は中学校でやるからというので高等学校ではなかったのですよ。日本史を高等学校でやるようにしたのはこの委貝会ですよ。
その日本史の問題とセパレイトに,社会科の中で日本史と東洋史と西洋史を選ぶと歴史の方が地理よりも優位になるというような文部省内での問題もからまって,結局歴史は二科目,日本史か世界史かというような選び方にしようという意見がでたのです。
高橋それから僕もちょっと関係しましたが毎日新聞社の「世界の歴史」はたとえ中身は分かれているようでも,世界の歴史という体系を打ち出そうという意欲を飯塚さん服部さん村川さんなどが出したということはやはり意味があったと思うんです。
松島 つまり戦後の東洋史,西洋史というような分かれ分かれの世界史教育では駄目だという反省があったんでしょうね。
高橋 そういう面もあると同時に教科が出来たから世界史が本格的に研究されるようになったというような極めて具体的な面も一方にあるという事も争えない事実ですね。
■吉岡力『世界史の研究』(旺文社)成立のいきさつ)(同・座談会)
吉岡 それは昭和23年1月頃,旺文社に西洋史の概説書を書いてくれと頼まれまして,僕は
「これから西洋史というんじやなくて西洋史と東洋史とを一しょにした世界史というものがだんだん出来ていくことになるからむしろそういうものを書いたらどうか」
といったのですが,向こうではそんなことは理解しない。
尾鍋 それはちょっと卓見だな。
吉岡 それで僕は一人で23年春に書き始め暮れに書き上げて,結局「世界史」という名前にしたわけです。その頃僕は浦高の教授だったのですが,丁度それを書き上げた頃世界史の科目を作るということが発表されたわけです。
それで非常に売れたのですが,内容をみると,東洋史と西洋史がはっさり分離していて,混合という感があるのです。
それが出るとすぐ改訂にかかり十ケ月位して25年7月に出た改訂版はかなり融合の段階に入った。
それが自分が考えたよりも余計に出たため,その不労所得と思う部分を研究所の建設資金にしたわけです。
清水 僕は浦高で吉岡先生に教わった関係で手伝えといわれたんです。
「まずこれを研究してくれ」といわれたのがランガ一の「ワ一ルド・ヒストリー」で,その構成などを参考までに調査したわけです。
吉岡先生に聞いてませんけど恐らく「世界史」という名前を出した一つの動機に「ワールド・ヒストリー」が頭の中にあったのではないでしょうか
資料7
高橋F一「社会科『世界史』をどう生かすか」1950年
社会科「世界史」の宿命は六三三新教育制度の出発,社会科の誕生から根を持っている。
小学校の社会科を一本とした時,中学校の社会科の中へ「国史」というコースをならべることは当時の情況において文部官僚のせい一杯の努力であった,とか聞いている。
しかしその努力は,一方では,Japanese historyといい,一方では「国史」といい廻すところにあったのではないか。
歴史教育を逆用することの効果を長い経験から最もよく知っている文部省は,敗戦直後の11月,「新時代ニ即」する「国史教育ノ方針」を決定し,「我ガ国家ノ発展ノ皇室ヲ中心トスル一大家族国家ノ形成過程タル事実ヲ明カニス」るにあることを発表して,しかもその十二月には修身や地理とともに授業を停止されたのであった。
「国史」と「日本史」を使い分けるけるぐらいは朝飯前であろう。
そして,義務教育期間中に「国史」を残したことに自分の忠良なる官僚ぶりを発見して満足し得たであろう。
しかし,中学に「国史」が「残」された代償として,高等学校の方では「東洋史」「西洋史」があって「日本史」がないという珍現象を呈した。
ここに国家主義と植民地的な奴隷根性とのウラハラの関係が見られはしなかったか。
中学校で「国史」がある以上,高等学校では「日本史」はなくてもよいという考えが,中学校教育と高等学校教育とを量的な差としか見ず,それを質的な発展としてとらえていないことは明らかであるだけに,おそらく文部官僚といえども心中の悩みは深かったであろう。
高等学校に「日本史」を設けよという運動は,新制高校に生まれかわったばかりの旧制中学の教員の間から,さらに大学の「国史学科」の学生の運動として,展開し,学生たちは署名運動に乗り出したりもした。
もちろんそこには教料課程そのものの不備がつかれ,また日本民族の歴史が高等普通教育において学び得ない点もあげられたが,その裏には日本史専門の教員の生活問題や,学生たちの将来の就職戦線を守る気持ちが働いていたこととも見逃せない。
しかし運動にねばりを与えたものは,むしろ生徒父兄,さらに一般国民の中から湧上がる日本史を学びたい,学ばせたいという声であり,それには国家主義的な傾向も相当て含まれていたろうが,また日本帝国主義の犯した侵略戦争がそもそもどこからみなもとを発しているかという冷厳な自己反省と,さらに民族独立への意慾とがこもっていたと考えてよいであろう。
こうした声は,ほかならぬ文部省の委嘱で新制中学校用「国史」教科書の編纂にたずさわっていた委員会が,高等学校に「日本史」を置くことを文部省に進言し,あわせて中学における「国史」を「日本史」と改称すべきであると主張して,ついにそれ実現するまでに進展した。
こうして新制高校出発早々にして,たちまち社会料の教科課程が変更になったわけだが,新制高校が単位制度をとっているので,「東洋史」,「西洋史」,「人文地理」,「時事問題」におのおの一週五時間があてられている時,新らしい「日本史」を置くとすればどこかの席をつめてもらわねばならないということになる。
「東洋史」と「西洋史」が新しく「世界史」というコ一スにまとめ上げられた事情がこうした機械的なものである限り,そこにはいくら続出する概説書を笑っても,それが抱き合わせと切りばりと,たかだか東西交渉史に終わることを宿命づけたかもしれない。国籍不明の混血児が植民地的な,そして民族の誇りをもたないものになるのも止むを得ないかもしれない。
しかし,社会科「世界史」はこんなものでよいのか。
日頃,「象牙の塔」にとじこもってわれこそ学者とおさまっていた大家諸先生が,あられもない世界史概説の製造に追われ,また自ら進歩的と称し世界史を口にして来た歴史家たちが,世界史など書けるものかとぺンを投げている時に,人もあろうに文部省教科書局長からの通牒が人々をおどろかせたのである。[高等学校社会科日本史・世界史学習指導について]
資料 8
箭内健次の発言「国史学界の今昔」1992年 これは,吉田悟郎さんから教えてもらった資料である。
「近世対外関係史研究の軌跡 下」
箭内健次の発言
聞き手・田中健夫
〔箭内健次は,司令部でクビになった豊田武にかわって,1948年3月から1950年8月まで,文部省の教科書の委員会にいた。〕
箭内 一番大きかったのは新制高等学校の社会科選択科目に「世界史」が設けられた問題。
それまでは,人文地理・時事問題・東洋史・西洋史という四つの選択科目であったのが,日本史が加わることになって,東洋史と西洋史を一緒にして「世界史」という料目になったわけす。
その時は,批判もいろいろな所から,もう学界をあげてまいりました。日本史については,そのころ史料編纂所が主体になって高等学校に日本史を必修でいれろという運動がありました。所長の龍さんや森末さんが何回も足を運んで……。
それから,全国の高等学校の会から会長が来ます。
「日本史を置くか,置かないかによって,今まで中学の先生だった人がクビになるか小学校に格下げになる」といわば脅しにかかる。失業問題を楯にとられると辛くて。
日本史を加えることになったら,歴史の科目が一つはみ出しちゃうんです。
それで西洋史か東洋史のどちらかをけずることになったんです。
それで私が,急遽世界史という構想を出したんです。そうしたら「文部省の世界史に対する理論を伺いたい」とこうくるのが西洋史の人。
東洋史では,あのころ和田清さん,石田幹之助さんがやはり役所へやって来まして,あなた自身が東洋史を潰すとはなにごとだと。
私は潰すんじゃなくて,今までの東洋史と西洋史と二本立てだといつまでたっても,東洋史は東洋史,西洋史は西洋史と別々でその中間にある中近東とかは全部はぶかれちゃうから,この際一本にしてやるべきだと,とうとう押し切っちやったんです。
田中健夫 あれは先生の発想ですか。私は,CIEからおしつけられたのかと思っていました。
箭内 世界史というものを作ったことで,もちろん一時混乱がありますけれども,歴史を日本と日本以外の広い世界を幅広く掴む訓練がいくらか出来てるんじゃないかと。
いささか,自己弁護ですけど(笑)。
西洋史は非常に賛成してくれたんです。それで私が委員にといったら,喜んで,尾鍋輝彦さんとかそういうふうに出してくれたんです。
でも東洋史は皆反対する。最後にに賛成だと言ってくれたのが三上次男さんだった。それから増井経夫さん。いずれも和田さんに対して強い反対がある。
和田さん式のはかなり古い東洋史だと。
あんな東洋史はだめだという三上さん始め,増井さん,それから江上波夫さんという方々が賛成してくれまして,それで自分たちが委員になると。それでやっと構成しましてメンバーが揃って。
東洋文化研究所あたりは全部駄目なんです。
まぁ,あの時代というのは過渡期で,結局いろいろな問題がありますけど,司令部,文部省,下っ端という観点の他に,それぞれにまた一つのセクトがあるんです。
歴史のなかにもある。それから社会科でも同僚の地理の保柳さんが,今の日本の歴史の人たちは皆頭が硬くてと,もう二言目には歴史とくるんです。
たった二人しかいない所で,内部分裂しちゃた。そういう経緯もありまして,その中を押し切って,通すことによって,占領という恐らく過去にも全くなかった混乱のなで,ある程度そこを潜りぬけてこうなったのは,正直なところ,今から考えると夢のようなんです。
資料9
座談会「今後の歴史教育」1949年
小西四郎(東大史料編纂所員)
箭内健次(文部省教科書局歴史家主任)
豊田武(東北大学教授)
宮下三七男(文部省教科書局社会科担任)
香原一勢(同上)
岡本正作(同上)
家永三郎(東京高等師範学校教授)
箭内 小学校におきましては社会科一本にまとめられ,歴史は特に別に置かれておりません。そして社会科の中で扱われます。
中学校におきましては,社会科の中において2年と3年に一般社会科と別に日本史というものがセパレイトに置かれております。
高等学校では,今度は新らし教科課程が改正になりまして,今年の4月から2年と3年の社会科の選択科目として,日本史と世界史という二つの教科がおかれることになっております。
特に私が強調したいことは,小学校から中学校,高等学校,この三つの学校の段階に置かれておる歴史というものが,いずれも社会科という大きな教科目の中に,一応セパレイトではありますが,歴史として独立した教科目ではないということ,これはわかり切ったことでありますにも拘わらず,実はおわかりになっていない点が多いのじゃないかと思います。
小西 時間数なんかどういうふうになっておりますか。
箭内 時間数は中学のほうでは今度改正になりまして,従来は2年に1時間,3年に2時間と,はっきりきまっておりましたものが,今度は2年も3年も1時間から3時間という幅が出来まして,その学校,その学校の事情によりまして適当にそれに幅をつけてやっていただきたいと思っております。
但しこれは一般社会科と両方関連しまして,日本史の時間が多くなれば一般社会がそれだけ減るということになっております。高校の方は日本史と世界史は5時間づつ5単位です。
豊田 なぜそういう改正がおこなわれたのですか。
箭内 この改正は学校教育局の教科課程委員会というものによって決められたものです。
一寸ここで申し上げますが,従来教科として国史と呼ばれておりましたが,今年から日本史と改めることになりました。これは国史という名称から連想される戦時中の日本史教育を一掃する意味からも喜ばしいことだと思います。
教科書などの準備
箭内 終戦後できました小学校用の『くにのあゆみ』,それから中学校用の『日本の歴史』というこの二つの教科書がつくられたのでありますが,これはその後の教科課程の改正によりまして,小学校は先程お話ししましたように社会科一本で固められてしまいまして,単独に歴史というものはなくなりました。
それから中学の方はさきに申した日本歴史が,大体旧制中学の上級用として作られましたために新しく新制中学が出来まして,その2年3年のセパレイトの歴史の教科書を早急に作る必要ができまして,一昨年来文部省の中に「中等国史教科書編纂委員会」を作りまして,民間の学者あるいは現場の先生方を中心として教科書を作っていただくことになりました。
原稿は大体できて目下提出中であります。
それから高等学校用の検定教科書としまして,東洋史と西洋史の教科書が編纂されたのでありますが,その中で西洋の歴史の上が一昨年の暮れに出て,いま現在使用されています。
コース・オブ・スタディーの方は,新制中学の日本史と新制高校の日本史と同じく世界史の指導要領というこの三つが来年の3月末までに完成することになっております。
ただその前に一応概要を出す予定にしておりますので,まだ時期はいつとは申し上げられませんが,なるべく早い機会にと思っております。
この教科書とこのコース・オブ・スタディーの両方が出ておらないため,全国の学校の先生方に,非常に御不自由をかけておるということを,私どもしみじみ痛感しております。
……
世界史をどう扱うか
小西 文部省は世界史というものをどういうふうに考えておるかという点をお話し願いたいのですが。
箭内 これもほかのものと同じことで,社会科世界史というものも決して世界史の概説を教えるのではないということ,これは第一に強調したいということです。ですから決して科学としての世界史ではない,体系づけられたものではないのです。
豊田 というと,どういうふうにやるのでか。
箭内 ですから,先程から申したように世界の歴史を教材として現在及将来の社会生活をよりよく改善するために,歴史的な物の見方を養うことがその狙いでして,そのためには,現在の生活の中の問題から出発して行つて,それが例えば東洋の中国なら中国においてどういう形で現われておるか,西洋なら西洋でどういうふうに現われたか,それの違いはその背後にある東洋の社会,西洋の社会,近代の社会ならば近代の社会,それぞれの背後の社会の姿というものに学習を進めていくというふうにもっていくべきものじゃないかと思います。
豊田 われわれに最も関心のあ問題を,世界史の中から探り出し,それを中心にして学習を進めていくということですね。
箭内 だから先程から繰返して申しておる通り,その問題は日本だけにある,日本の上代に限るとか日本の近世にだけあつてそれ以前にはないというような問題でなく,時と場所を問わず,人間生活において常にあるものでなければ,学習課題にならないということであります。
そのためには課題というものをはつきり掴み出すということが大事で,先生はまず授業を開始する前に,生徒の問題を正確に捉えること,これが最も大事なことじゃないかと思います。
それには調査ということが必要になって来ると思います。一般社会科などで試みられている生徒及社会の実態調査が,この際も参考になるわけですが,特に歴史の場合では,一段と掘りさげた調査になつていなければならないと思います。
豊田 話がちよつと逆行するけれども,世界史の中に国史ははいらないのですか。
箭内 勿論はいります。世界史の教材としては日本も東洋も,地球上の全部を含めておるのです。いわば人類発展の史実がすべてその対象となるのです。
ですからこの学習は決して体系づけられたものでなく,結局世界史というものはこれは原始時代においては一応世界史的な扱いが出来るわけで,それから最近の世界においては世界史的な問題というものがいくらもあり得るのですが,中世においては各々東洋社会なら東洋社会,ヨーロッパ社会ならヨーロッパ社会と遊離しておりまして,多少の交渉はあつたのですが,大体において別個に発展しておつたのです。
結局そういつた姿を,学習の結末において理解することが世界史であつた。だから世界史はどういう体系でなければならないということは社会科の歴史では考えておらないのです。
豊田 そうすると先生が任意にやってよろしいのでね。文部省からの意見がはいつてなくても,いろいろの世界史をやっていいのですね。
箭内 そうです。これで社会科歴史の日標が達成されているなら結構です。
豊田 そこで問題は東洋史と欧米史を分けずに世界史にした理由ですね。それから世界史においては,例えば欧米史か東洋史か,どちらに中心がおかれておるか,それを訊くのは少し野暮かも知れないけれども(笑声)案外こんなところが世間の問題になつておるようだから。
箭内 これは生徒の関心の地域性の拡大ということからも考えられると思いますね。生徒というものが,まず初めは小さい時には自分の家族というものに関心を持つ,それから次第に地域社会に,それからまた国というものに,それからそれが世界にというふうに関心が広がっていくのですね。
それに伴って歴史的な関心というものも家の歴史から地域社会の歴史,日本歴史,世界歴史というふうに展開されていくというふうに世界史というものが問題になるのじゃないかと思います。
したがつて東洋史中心とか西洋史中心とかいうことは寧ろ考えるべきことじゃないと思います。
結局東洋史とか西洋史とかいうのじゃなく,地域でヨーロッパとかアジアとかいうふうに分けた方がいゝのじゃないかと思いますね。
豊田 特に中心をおくということなくやることが一番望ましいというわけですね。
箭内 例えばある問題についてあるグループで活動をやる場合に――たゞこれは私見ですからね――例えばあるグループでは中国の社会のことをやる,片方のグループはヨーロッパ社会のことをやるというふうに,常に共通の問題からはいつて行つてそれぞれの社会というものをやるといいと思います。
豊田 アメリカじゃ,そういう方法もとられているらしいですね。例えばこの学期は中国の問題をやつていく,その次は欧米をやるという方法はあるらしいですね。
箭内 アメリカでは歴史は大体アメリカ史といつた場合には,ヨーロッパの開拓者がはいって来てから今日までの歴史を取上げ,世界史という場合は,人類の誕生から取上げておるらしいのですが,ァメリカの取り上げておる世界史というものは,いはゞ西洋史ですから,日本でやっておる世界史とは全然違っていると思いすます。
少くとも日本の世界史はアメリカの世界史ともイギリスの世界史とも当然違ってくると思います。
即ち日本で行う世界史は結局現在の日本の社会を理解するための学習でありますから,西洋史において重要な教材必しもわれわれの世界史において,重要かどうかは,別問題になってくると思います。
従来のような東洋史,西洋史は大学において始めて学習さるべきものと思います。
豊田 日本の周辺の国々の歴史を充分に認識するという意味では東洋史も決しておろそかには出来ないと思うのですが。
箭内 それは勿論そうです。しかし全く五分五分とか六分四分という具合にやるべきものではなく,これは世界史というものが出来たために大分世間ではヨーロッパふうの世界史というものを連想して,西洋史が中心でなければならないとか,従って東洋史はずつと少ししか取上げられないのじゃないかという点が非常に心配になつておるようですが,それは断じてそうでないということをはっきりいつておかなければならないのです。
豊田 新しい世界史というものが出来てから世間では,例えば京都大学とか東京大学とかで,「世界史概説」というような書物が大分出つゝあるようなんだけれども,それぞれで意見を異にしているようでね。
箭内 今出ている世界史の概説は,目次だけ見たところでは,一寸東洋史と西洋史を編みまぜたという感じで,却つてそうすると徒らに混乱を来すようで,日本で今まで東洋史と西洋史とをわけたということは,その方が歴史の流れを理解するのによかつたからではないでしようか。もしそれを過ってゴチャゴチャにしては徒らに混乱を来して背界の流れを掴むことは出来ないと思います。本を見ておらないからはつきりしたことはいえませんが,当分の中は教科書の場合は私は東洋史,西洋史というように,別々であつても止むを得ないと思います。たゞその場合には,東洋史と西洋史とで例えばその取上げる面では,東洋史では取上げていながら西洋史ではなかつたり,その反対というようなことではなく,それぞれに充分関連をもつて書かれおるということが望ましいと思います。大体東洋史というものは政治史が殆ど中心になつているといいますか大部分を占めておつたのですが,今後の東洋史はもつともつと東洋人の生活史というものを豊富に取上げなければならないと思います。東洋史と西洋史ではその内客においてかなり相違があるので,これは世界史の学習の場合非常に困難があると思い ます。ですから東洋史学者あるいは東洋を研究しておる人々は,少くもそういつた意味で従来のような研究分野以外に,もつともつと広く,各方面の分野に研究を進めていたゞきたいと思います。
豊田 世界史でこういうことをぜひ強く主張してもらいたいと思うのは世界平和の実現について人類がどのような努力をして来たかといち問題ね。時に国際連盟というようなものの成立して来た意味をはつきり学習させたらと思います。今までの国際連盟というと何かあゝいうものは各国の利益が衝突しておつて全く役に立たないものだというふうにいわれておるのだけれども,しかしあの連盟を通して世界の人類がお互に戦争をなくそうという努力をしておつたことは事実だし,戦争というものによつて解決しなくても,もつとほかによい解決の途があるというふうに考えるようになつただけでも非常な進歩だと思うのですが,日本人が世界のあのような外交の桧舞台に出て,そして世界人としての心境を一層高めていつたということは,これは世界史にとつてもまことに重大な意味をもつておると思うのです。
箭内 結論においては確かにそういうところを目指してていくべきだと思いますね。
家永 私は欧米人の場合はいわゆる東洋史というものの知識は,植民地経営の参考にする場合の外はまあなくて済むと思います。しかし日本の場合は非常に違っておるので,日本は一応西洋史の流れの外にあつて,発展して来ながら,しかも近代になつて西洋を中心とする世界史の中に飛びこんだのですから,日本人にとつてこそ東洋の歴史と西洋の歴史との両方をよく知らなければ自分の現在の位置が理解できないのです。そういう点で東洋と西洋の両方の異なつた二つの歴史の流れに対する理解の必要が,欧米人の場合に比べて非常に強いのじゃないかと思います。
そういう意味で,世界史というものを取上げたということは非常に意義があると思います。
箭内 問題は結局いかにそれを実際の授業に現わすかという学習の面ですが…。
家永 それは非常にむづかしい問題だと思います。
その場合一つの方法として東洋の歴史と西洋の歴史の比較研究ということに目をつけた場合,二つが割合に巧く結びつくのじゃないかと思います。
それが二つを並立でなく綜合させる方法ではないかと思います。しかし近代にはいる前には一応二つの別の流れを作つておりますから,それを強いてゴチャゴチャにして混ぜるということは失敗に終るから,その点非常に用心が必要だと思います。
箭内 例えばそういつたように無理に結びつけようとして,東西の交渉というものを実際以上に強調し過ぎると無理が起ると思いますね。
豊田 世界史の学習で,文化の交流を取り上げることは,何よりも大事ではありますが,何より人類が同じような社会生活を経過して来たこと,勿論所によつてそれぞれの相違はあるにしても,同じような発展段階を経てきたということをしつかり認識させることが必要だと思います。
例えば,封建社会というものを経過したとするならば,その封建社会は各国でどのような相違を見せておるか,中国ではどうか,南洋はどうか,こういった点を理解させることが世界史の一番大事なことじゃないでしようか。
座談会の,世界史についての話は,これでおわっている。
当時の,当事者の発言として,この座談会が,1級資料だが,これでも,
「世界史」が,なぜおかれたかの理由は,かならずしも,明確には語られていない。
文部省に,当時の教科課程委員会の,記録が残っていないか,と電話で問い合わせてみたのだが,ないという返事であった。
したがって,「社会科世界史」登場のいきさつについては,これ以上のことはわからない,といってよさそうである。(1998.10.11記)