なぜ世界史か

それまで,東洋史・西洋史なぜ 世界史 に したのか
だったのに,どうして,
世界史にかえたのか。
それが,わからない。

社会科世界史がはじまるまで
―1945年〜1949年―

いま,高校におかれている,「世界史」という教科は,
1949年4月からおかれました。
アジア・太平洋戦争・第二次世界大戦がおわったのが,1945年8月15日。
1945年から1949年までのあいだ,
「世界史」という教科がなかったのは,どうしてでしょうか。

1. とりあえずはじまった世界史

「一つの怪物が,1949年の日本に突如として現れた。社会科世界史という怪物が。文部官僚も,西洋史家も,はたまた日本史家もこの怪物の正体がつかめない。ましてこれと取り組む運命におかれている高等学校の教師と生徒にとっては,難解なことゴルギアスの結び目のごとくである。
しかしよく近づいて見ると,この怪物はなにか出現する必然性をもっているようだ。もっとよく調べて見ると,これこそわが国の教育に新しい希望を与えるものであり,歴史学を正しい道に導くものであるようだ」

1950年3月に出版された尾鍋輝彦編界史の可能性 理論と教育』(東京大学協同組合出版部)という本の序に,尾鍋輝彦がこう書くような,高校社会科世界史の出発だった。
この本の題名が,「世界史の可能性」であることは,何を示しているのか。はたして,
「世界史
というものが,なりたつものなのか,どうかが,まずさだかではなかった。
日本では,日本史(国史),西洋史,東洋史の学者・研究者はいても,「世界史」の専門家は,いなかった。
大学の研究室は,日本史・東洋史・西洋史にわかれているが,世界史の研究室は,なかった。
学に,「世界史」という講座・授業はなかった。
過去形でかいたが,いまもかわりはない。
1949年の夏,「世界史の基本問題」と題しておこなった座談会の記録が,この本に載っている。
参加しているのは,日本史,東洋史,西洋史の学者たちである。
座談会のメンバーは,こちら
高校に社会科の一科目として世界史が設置されたのは1949年4月からだ。それまでおかれていた「東洋史」と[西洋史」の教科を廃止して,「世界史」をおき,「日本史」を加えた。
なぜ世界史にしたのか。これが,いまとなっては,はっきりしない。当時の関係者の話や,思い出話を総合すると,つぎのよなことになりそうだ。
lE(連合軍総司令部の一部局の民間情報教育局)から,アメリカではアメリカン・ヒストリーとワールド・ヒストリーだから日本も日本史と世界史にしてはどうかという示唆によって,1948年にあった教育課程審議会できめられたものだ。
西洋史にくらべて東洋史の選択希望者が少ないのを打開する便宜的手段として両者をあわせて「世界史」とした。
来高校におかれていた必修科の一般社会と選択科目の東洋史,西洋史,人文地理,時事問題に,新たに「日本史」を加えようとしたが,それでは単位数が多くなりすぎるので,東洋史と西洋史をまとめて「世界史」にした。
などが,「世界史」が高校におかれた理由だという。
詳しい史料は,こちらをどうぞ
1947年に6・3・3・4制が発足し,新制高校が出発した当初は,戦前の中学をひきついで,東洋史と西洋史に分かれていた。
部省も研究者も歴史教育者も,「世界史」へ要求と構想をもっていたのではなく,
「世界史」という教科が高校に置かれてから,「世界史」について考え始めたのだ。
1949年4月に文部省教科書局長から各教育委員会に発せられた通牒には,
「学習指導要領は目下作成中であり,完成は昭和24年度末の予定であるが,概要はそれ以前に発表するはずである。
現行の学習指導要領東洋篇・西洋篇はそれまで一応参考として使用してもさしつかえない」
「教科書として現在刊行されているのは西洋の歴史(上)のみであるから,他は教授者によって適当に考慮されたい」とあった。
実際には,学習指導要領は1949年度末には発行されず,世界史についての学習指導要領ができたのは,1952年3月20日だった。
高校の歴史教師たちは,教科書もなく,素手で「世界史」の授業にとりくまなければならなかった。
あとから考えると「世界史」が「無」から出発したことは,教える内容が一応明らかだと思われていた日本史と違って,「世界史教育・世界史研究」の発達にとって必ずしも悪いことではなかったのたが,当の教師たちにしてみれば,四苦八苦だった。
上次男『世界史・東洋史篇』,板倉勝正『世界史・西洋史篇』(中等学校教科書株式会社)の二冊を使ったり,一つのクうスの授業を,二人の教師が,東洋史と西洋史を分担してやったりするというのまで現れた。
せいぜい東西交渉史が,世界史の内容と考える者も多かった。
1948年末に行われた教員再教育講習会で尾鍋輝彦は,
西洋史関係と東洋史関係の比率は七対三くらいがよいと思う」と語り,それが文部省の意見とされて混乱を招いたり,東洋史の学者を憤慨させたりしたという状況だった。
当時,「世界史」という名をつけた書籍がなかったのではない。1949年から51年にかけて
「世界史概説」とか,「世界史○○」という名の書物があいついで現れた。
たいていは東洋史家と西洋史家が分担執筆したものを混ぜ合わせて,先史時代と現代をつけ加えたというもの,あるいは,西洋史概説に「東西交渉史」をつけたしたものだった。
のなかで,世界史教師たちのあいだでよく使われたのは,
『世界史概観』(山川出版社,1949年)だ。
村川堅太郎,山本達郎,林健太郎の名で出版された。
執筆者は,この三名のほかに,江上波夫,橡川一郎,前田直典,のちに,榎一雄,荒松雄,神田信夫,山口修,井上一らがあたった。
れとて,著者のひとり村川堅太郎によると,
「史学会を復興させる手段として,科目はあっても教科書の無いところを狙って書くように頼まれて書いたものだった。
それでも,「世界史」を書くにあたって,世界史の構成を考えないわけにはいかない。『世界史概観』について村川は言う。
ンケ派の,そしてその後現在の外国教科書のような西洋中心のものではなく,東洋や新大陸の社会も人類史的に普通の立場から対等に扱うという考えをとった」と。
はり著者である山本達郎は,「東洋史といっても,統一あるまとまった歴史があるわけではない。東洋史というと東アジアに注意が集中しているが,シナもインドもイスラム国も一緒にまとめた歴史は書けない」と発言している。
『世界史概観』については,次章で
界史・東洋史篇』をまとめた三上次男は,
「やるんだったら今度はもっといいものができそうだと。いままでは東洋が中心だったけれども,もっとインド,西アジアも含めて面白いものができそうだというんでやろうということになった」とふりかえる。
こうした動きとは別に1948年1月ころ,旺文社から西洋史の概説書を書くように頼まれた,当時旧制浦和高校の教授だった吉岡力は,
「これからは西洋史ではなく西洋史と東洋史とをいっしょにした世界史というものがたんだんできていくことになるから,世界史にしたらどうか」
と,その年の暮れに書きあげたのが『界史の研究』(旺文社)だ。この本は以後改定され,世界史学習参考書として版をかさね,その売上げは,1954年に設立される歴史教育研先所(現在は法政大学第二高校育友会内にある)の基金となった。
「世界史」への要求と構想をもつことなく,1949年4月に,とりあえず高校に「社会科世界史」がおかれた。
世界史という教科が高校に置かれてから,人びとは世界史について考えはじめた。
こんにちの「さまよえる世界史」の起源はここにありそうである。

それにしても,あの世界的な戦争・第二次世界大戦が終わったとき,しかも日本がアメリカ軍(連合軍)に占領されていたとき,日本国民は,世界・世界史を見つめなおすことを,はじめようとしなかったのだろうか。
そして日本国民は,1949年になってはじめて,「世界史」に出会ったのだろうか。

ところどころで,文字が大きくなっているのは,行間をあけて,いくらか読みやすくするためで,
その部分を強調するためではありません。

ご意見を k_suzuki@cba.att.ne.jp

<ここまで,1998年10月11日作成>
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