歴史教育者協議会創立のころ

1.歴史教育者協議会創立大会参加者数しらべ

(1) 20人から60人まで
歴史教育者協議会の創立大会には何人くらい集まったのだろうか。
『歴史地理教育』444号(1989年7月「奔流])に,
「1949年7月14日の,本郷元町の文京高校の音楽室に集まった20人ほどの会員で,歴教協創立のための総会がもたれた」
と,現歴教協委員長松島栄一さんが書いている。松島さんは3代目委員長だが,歴教協早創の中心人物だ。
歴史教育者協議会編『地域に根ざす歴史教育の創造―歴教協の30年の成果と課題』(1979年8月,明治図書)に高橋F一さんが序文を書いている。
高橋さんは,歴教協創設のもうひとりの中心人物で,初代事務局長(当時は書記長といった)で,2代目歴教協委員長である。
「その日,創立大会の参加者は,会場にあてられた東京都立文京高校の仮校舎(現文京区元町小学校)の小さな音楽教室を満たすに足りなかった
とあって人数は書いてない。この本の序章の“はじめに”は,
「歴史教育者協議会は,あのいまわしい太平洋戦争が終わってしばらくたった1949年に数十名の人々で創立されたものである」
とはじまる。
第2章第1節の「T 創立大会」では,
「参加者は,歴史学者を中心に,教育学者・現場教師をあわせて50名に満たないささやかな会てあった」
とあるが,末尾にある「年表にみる歴教協の歩み」の1949年の欄に,
「第1回創立大会 東京 都立文京高校仮校舎 7月14日 約40名」
と記されている。
この文章で注目は,人数とともに,参加者の顔ぶれに,「歴史学者を中心に,教育学者・現場教師合わせて」とあるように,現場教師が主流ではないことだ。このことはあとでふれる。
『歴史地理教育』14号(1955年12月)に載った3代目事務局長(2代目は川崎新三郎さん),当時都立立川高校の羽生敦さんの「歴史教育十年の歩み」には,
「創立大会は7月l4日のフフンス革命の日をえらんで,文京高校で行われたが,日教組や国立教育研究所から鈴木朝英氏がメッセージを寄せられたりしたのに,集まる者は数十名にすぎなかった」
とある。
創立大会の会場,文京高校の先生の菅野二郎さんが『歴史地理教育』129号(1957年11月)に創立大会の思い出を書いている。
「当時は歴史教育が再開されたばかりであるし,占領下というごく特殊な時代でもあったので,歴史教育の上にもいろいろな問題があった。それだけにごく少数の先生方が発起人になり,何回かの準備会をもって資金の全く乏しいなかに,会員の本当にすくない中に,お世話になる間借り学校の所帯よろしく会がもたれた。参会者は僅かに五,六十名程度であったが,センダンは二葉よりの通り,まさに今日の発展の要素が十分にふくまれた会であった」

歴教協が,第2回大会(1950年10月8日)の決定により,ガリ版刷りの『歴史教育月報』を発行しはじめるのは,1950年12月からだ。
この『歴史教育月報』の7号(1951年8月15日発行)に安田学園の大江匡輝さんが,「歴教協の歩み」を書いている。
大江匡輝さんは歴研委員でもあり,創立以前から歴教協を支えてきた人だ。
「1949年7日14日フランス革命記念の日に都立文京高校で創立大会は開かれた。現行規約が定められ,三島委員長以下の役員が選出され,国立教育研究所の鈴木朝英氏をはじめ民科,歴研,日教組,都教組等よりのメッセージに祝福されていよいよ歴教協は出発した」
とあるが,参加者数は書かれていない。ここでわかるのは,メッセージをもってきた人が少なくとも5人はいたことだ。
(2) 当時の記録
当時の記録はないのか。
『社会科教育』という雑誌があった。暁星中学の地理の教師で,高橋F一さんと同僚だった山崎喜与作さんが,退職して1947年春に設立した社会科教育研究社が発行していたものだ。47年4月に創刊し,51年5月,38号で廃刊となるが,この社会科教育研究社に,当時つとめていたのが,いま副委員長の佐藤伸雄さんだ。
その佐藤さんがこの『社会科教育』23号(1949年8月号)に「歴史教育者協議会の発足」という1ページほどの報告を書いている(署名はないがこ本人に確かめた)。
この文章は『歴史地理教育』の184号(1971年7月号)と『歴史教育50年のあゆみと課題』に再録されている。
これが,歴教協創立大会についての唯一の当時の当事者の記録だが,参加人教は出ていない。
ちなみに,佐藤伸雄さんはこのとき19歳,創立以来の会員である。佐藤さんの著書『歴史教育論』(1976年,青木書店)に,
「参加者は,来賓をも含めて,会場である東京都文京区立元町小学校に間借りしていた都立文京高校の音楽室の定員にもみたない,せいぜい40人前後であったが,歴史教育運動の推進体となる組織が,ここに生まれたのである」
と書いていて,ここでは,「来賓をも含めてせいぜい40人前後」としている。

なお,松島栄一さんが,当時出ていた『VAN』という雑誌の1949年の何月号かに,歴教協創立大会のことを書いたはずだとご本人がいわれるので,49年の『VAN』を清水勲さんがもっておられると,奈良和夫に聞き,調べてもらったが,見当たらなかった。

『歴史学研究』と『歴史評論』はすでに発刊されていた。『歴研』には,歴教協創立直前までの記録は載っているが,創立時と以後のことは,もう任務は終えたというように歴教協のことは,載っていない。
『歴史評論』は,1946年10月に創刊された。ところが,かんじんの1949年1年間は発行されていない。
結局,創立大会の参加者数を記録した当時のものは,存在しない。そこでまた,「思い出話」にもどることになる。

『歴史地理教育』100号(1964年9月号)に載った高橋F一さんの「歴教協創立当時の思い出」がある。
「思いきり関東各地の学校へ案内状を出したつもりだったがいざ当日集まったのはベ40人ほどでメッセージに来た教組の成田喜英さん,国立教育研究所の鈴木朝英さんなどを別にしたらまことに寂しいものだった。
受付には,当時安田学園の大江匡輝さん,東大を出たばかりの小沢圭介さんがおられ,佐藤伸雄さんは高校を出たばかりで社会科研究社の編集部につとめていて記事をとりにきていたのだそうで,あとから思えばまあミイラとりをミイラにしてしまったような申し訳ない思もするのである」
とある。
「ノベ40人ほど」が,まずまずの人数だったとすれば,それから,最低5人の来賓を引くと,松島さんのいう,「20人ほどの会員で創立のための総会がもたれた」
というのも,まちがいでもなさそうに思える。
かくて,歴史教育者協議会の創立大会というより,設立総会が開かれたのである。今では,毎回千何百人を擁する大会を開く歴史教育者協議会の出発であった。

(3) なぜ7月14日だったのか
歴史学研究会が出している『歴史学月報』の前身に『歴研ニュース』があった。1948年12月から50年8月,10号まで出ている。ガリ版刷りである。
この『歴研ニュース』3号(1949年7月7日発行)に,歴史教育者協議会創立大会の案内が載っている。

歴史教育者協議会
7月14日 午後2時
都立文京高校にて
1.規約審議
2.役員選出
3.研究発表
a.中学校における社会科と国史の傾向について
b.新制大学入学試験問題の傾向について
4.質疑応答

以上全文である。
「3.研究発表 a,b」の内容は,のちに高橋さんが,書いていることくらいしかわからない。
「当日和歌森さんとぼくが講演をした。和歌森さんの演題は忘れたが,たしか『くにのあゆみ』でなしに『たみのあゆみ』でなければいけないという民俗学者らしい話だったと思う。ぼくは『大学入試問題批判』という固いテーマで大学入試問題を批判しながら高校の歴史教育と大学の試験制度を批判し,特に二,三の大学にすでに現れた思想検閲類似の傾向に強く反対したものだった」(「歴教協創立当時の思い出」)

1949年2月5日,歴教協設立準備会を開いたときには,250名も集まったのに,本番の創立総会には40名そこそこしか集まらなかったのはなぜか。
まず,7月14日という日取りの設定のわけがよくわからない。この日はしらべてみる
と,木曜日である。1学期末の木曜日に開く必然性があったのだろうか。
翌日に三鷹事件が起きるが,関係ない。さきほど引用した羽生さんや大江さんの言っているところでは,フランス革命の日を選んで,この日に設定したようにとれる。そんな雰囲気が当時あったのだろうか。
あつまった人びとは,主に歴史学者であって,小・中・高校の教師は少なかったらしい。という状況が,7月14日・木曜日という日の設定になったのだろうか。
それにしては,高橋さんの「思い出」に,「思いきり関東各地の学校へ案内状をだしたつもりだったのに」というのとあわない。
もっとも,第2回大会の参加者は,約50名,第3回大会が,155名だから,第1回の「ノベ40名」は,特に少ないとはいえないのかもしれない。

『歴史地理教育』100号(64.9)に,「この15年間のこと」という座談会がでている。

<佐藤伸雄> 第一回,第二回歴教協大会頃までは,学者の側の人が多かった。現場も私立 高校の先生が多かったですね。
<小沢圭介 >最初は,現場の先生は,もっぱら聞く方の立場にあったようです。
<司会> 歴教協の大会に小・中学校などの先生が入ってこられるのは?
<小沢 >第3回大会ころからですね。
<司会> 初期の頃の苦心は?
<川崎新三郎> 一番苦心したのは組織づくりです。
<小沢> 私は第4回大会に生命をかけたという感じでした。ですから400人もきてくれた ときには胸があつくなりましたし,終わった時には本当にぐったりしました。

と語っている。
第4回大会の参加者は,493名に増加し,はじめて東京以外で開いた,第5回京都大会では,665名が集まった。

2.設立趣意書の由来

(1) 設立趣意書の起草
歴史教育者協議会の設立趣意書の内容は,毎年開かれる全国大会の「大会要項」に掲げられるし,『歴史教育五〇年のあゆみと課題』(未来社)にもあるから,省略する。
その起草のいきさつは,高橋F一の「歴教協創立当時の思い出」(『歴史地理教育』100,64.9)によれば,つぎのようである。

一九四七年から毎日出版文化賞がはじまってその第一回に戦争中学問の良心を守りつづけ戦後いち早く活動を開始した歴研の機関誌『歴史学研究』に毎日出版文化賞として三万円(当時の金としては大きい)が授与された。
歴研の委員会ではこれを有意義に使う道を討論されたあげく,歴史教育のいま生まれようとする組織の結成資金にこれを提供してくれた。そして当時歴研の委員だった松島さんなどとともにぼくもよばれるようになってあれこれ相談にのった。
そうした指揮をしてくれていたのは歴研の稲垣泰彦さんであり,同じく歴研委員の大江匡輝さんが事務的なめんどうなことを世話してくれた。ぼくなどはそのさしず通りに動き,いいつけの場所に出向いたのであって,歴教協草創の功労者は松島栄一さんはもとよりだが稲垣さんと大江さんの名を忘れることはできないのである。
つまり稲垣さんは設立以前の歴教協の事務局長の役をしてくれていたわけで,そのさしずで今日は練馬のどこそこの寿司屋の二階へ集まれといったはがきが来る。
そこで探しあてて行くと,当時,民科教育学部会で活躍しておられた矢川徳光,国分一太郎,片岡並男,石橋勝治といった方々に引きあわされ大いに刺激を受けたりした。
設立趣意書をつくる仕事も稲垣さんのお招きだったと思う。井上清,松島栄一,ぼくの三名で下相談し,井上清さんに起草をお願いした。そしてあれは何月何日だったか手帖を失って残念だが,史料編纂所の二階の左手,当時松島さんのデスクのあった西陽の当る部屋で井上さんの起草した案文をめぐって話しあった。
ところがその案文が実に内容・文章ともに美事なものだったのでほとんどそのまま今日の設立趣意書になっている。またいっしょに起草してもらった規約も,今日から見れば運動や組織が伸びて再検討が要求されているとはいえ,当時としては目のさめるような民主的なもので,三人で相談して多少手は入れたけれど,これもほぼ井上さんの原案でまとめ,和歌森太郎,三島一等の諸氏にも見ていただいた上,この二つはいずれものちの創立大会でそのまま満場一致承認された。

高橋さんらしく,自分は遠慮して,他の人びとをまえに出す書き方だが,これで設立趣意書成立のいきさつは,およそ見当がつくのだが,当の井上清さんの「趣意書草案起草の思い出」というのが,『歴史地理教育』の同じ号(1964年9月号)に載っている。

歴教協の趣意書案を起草したときの思い出といっても,暑い日だったのか,雨降りの日だったのか,おぼえていない。なんでも,綱領をつくるとかで,高橋先生の指令で,ぼくも参集したのだが,ぼくは,綱領というような,あまりがっちりしたものではなく,じぶんたちは,過去の歴史教育がおかしたあやまちを,二度とくり返さないために,こういう趣旨で会をつくるのだ,という趣意書にしたらよかろう,と提案して,幸に諸先生方の御嘉納を得たように思う。それではお前がいっぺん起案してみよということで,起案してみた。
ぼくは,歴史教育は,愛国心の問題をさけて通ることはできない,と考えていた。社会発展の合法則性を認識させる,ということは,歴史教育でなければできない,歴史教育の本来の固有の任務だが,その合法則性の認識は,歴史の学問的研究においても,国民教育においても,ともに,国民の歴史創造の実践に奉仕するためのものであって,認識のための認識であってはならない。
そして,国民の歴史創造とは,べつの言葉でいえば,池田某ではないが,国づくりである。だれが,だれのために,どんな国をつくるのか。われわれ日本人民のために,独立した,民主と平和の日本をつくるのだ。「天譲無窮ノ皇運ヲ扶翼スル」のではないのだ。アメリカ帝国主義の属国をつくるのではないのだ。本当の愛国心は,われわれの国づくりのことなのだ。
新しい歴史教育の立場は,この国づくり教育にもとめられるべきであろう。そして,これだったら,天皇史観はべつにして,そのほかのものなら,歴史観の相違にもかかわらず,すべてのまじめな教師および歴史教育関心者を,結集できはしないだろう
か。
さらに,われわれこそが愛国者なのだ,本当の愛国心とは,「天譲無窮ノ皇運ヲ扶翼スル」などということとは,まったくちがったものなのだ,ということを,「天譲無窮ノ皇運扶翼」が大いばりできないでいるいまのうちに,国民教育に定着させておかねばならない,と考えた。
ぼくは四八年一月号の『われらの科学』という雑誌に「古い愛国と新しい愛国」という論文を書いた。(後に,東大出版会で出した『天皇制』の中におさめた。)愛国心の問題はそのころ,ぼくのもっとも関心のある問題だったので,歴教協の趣意を考えたときも,自然そのことが,最初に頭に来たのだろう。
そこで,いまの趣意書の冒頭の一句が生れた。そうしたら,あとは自働的に流れ出てきた。そして諸先生の御検討をいただいた。
いま,これくらいのことしかおぼえていない。綱領なんて,めんどうなものはよせ,といったときのぼくは,歴教協が,その後アッというまに,ひどく戦闘的なイデオロギーで武装して,凡人には近よりがたいものになろうとは,思ってもいなかった。そして,ぼくはいつのまにか,歴教協とは,えんのうすいものになっていった。

以上のようなものである。
この最後の一節は,<井上清さんがなにをおっしゃる>という感じだが,この井上さんの原稿については,『歴史地理教育』200号で高橋F一さんがとりあげている。
(「一号・一〇〇号・二〇〇号」1972年8月)

「井上さんの原稿がぼくあてに送られてきてすぐ編集委員会にとどけたとき,委員のなかから多少の意見のあったことを思い出す。ぼくにしても「高橋先生の指令で,ぼくも参集したのだが……」といった表現には同じ1913年生まれで長いあいだ「さん」か
「君」かでよびあってきたどうしとして異物感を禁じ得なかったが,委員の多くにとっては最後の次の一節がすなおにはのみこみにくかったであろう。
『いま,これくらいのことしかおぼえていない。綱領なんて,めんどうなものはよせ,といったときのぼくは,歴教協が,その後アッというまに,ひどく戦闘的なイデオロギーで武装して,凡人には近よりがたいものになろうとは,思ってもいなかった。そして,ぼくはいつのまにか,歴教協とは,えんのうすいものになっていった』
しかし,『いただいた原稿だから』といってそのまま掲載することをぼくは主張し,そしてそのとおりにしてもらえた。ぼく自身心中にひっかかるものがあっても,ぼくの文章とあわせ読んでもらえるだろうから,とぼくは考えていた。そして結果もほぼぼくの見とおしのとおりだったとひとりうなずいていた。」

歴教協設立趣意書の起草と決定の状況はこのようであった。

3.歴教協設立の基金となった毎日出版文化賞

(1)いくらもらったのか
歴史学研究会がもらった毎日出版文化賞が,歴教協設立資金になったことは,先述の高橋さんの「創立当時の思い出」などに書かれている。
『歴史学研究』212号(1957.10)には,戦後25周年の座談会がおこなわれ,そのなかで,
「1948年にはいって,歴研は,雑誌としては異例の「毎日出版文化賞」をもらった。このころの会誌の発行部数は現在の倍以上であり,当時,毎日新聞のデータによっても総合雑誌のベスト5のうちに加わるという,学術雑誌としては異例の売れ行きを見せていた。賞金は3万円であったが,歴研はこの半分をさき,これを資金として歴史教育者協議会がうまれた。」
とある。

3万円の半分なら,1万5000円だが,歴史学者の記録としては,正しくないようだ。当時歴研の委員であった永原慶二さんの「思い出話」の方が信頼に足る。
受賞したときの歴研委員は,歴史学研究会編『四十年の歩み』(歴史学研究会,1972年)によると,井上清,松島栄一,永原慶二,稲垣泰彦,塩田庄兵衛,岡本三郎,護雅夫,山田信夫,佐久間重男,古島和雄,吉田悟郎,中村賢二郎,井上一,柴田三千雄,竹内幹敏である。

永原慶二「戦後再建の頃」(『歴史学研究』復刻版『月報』1,1986年11月)

1947年11月には,『歴史学研究』が戦後の学問・文化に対して大きく貢献したということで「毎日出版文化賞」が与えらることになった。
このことについて私たち若い委員のあいだでは“ブル新”の文化賞をもらっていいのか,といった論議が大真面目で交わされた。結局,その可否を羽仁さんに聞いてみようということで,わざわざおうかがいをたてたところ,羽仁さんは“ブル新”でも新聞社は,権力とちがい,民主主義の側に立っているものだから貰った方がよい,と懇切に説明してくれた。
それで私たちは安んじて受賞式に出かけたのである。この時の賞金三万円は,私が史料編纂所でもらっていた月給がたしか2000円にもならないくらいだから,当時としては相当な額である。使い道は大いに議論し,歴史教育と地方史研究の連絡機関をつくろうということで,両者のために各一万円を支出することにした。
その結果,歴史教育者協議会と地方史研究協議会が誕生するのだが,私は後者の設立の呼びかけ人になっていただくため,柳田国男・野村兼太郎・有賀喜左衛門・川島武宣などという大先生のところへおそるおそるお願いにゆきそれぞれ快諾をいただいた。野村先生のところにゆくときは,石母田さんが一緒にいってやろうといって下さりどれほど心強く思ったことか,忘れることができない。
この時,二つの会とも「協議会」という形をとったのは,当時学術会議の発足とからんで歴史学界の統合.連絡の問題が日程にのぼっており(のちの日歴協はその中から生まれた)歴研は広い学会の協議会方式を提唱していたこととも関わっている。

冒頭の1947年は,永原さんの記憶違いで1948年が正しい。それと,永原さんの史料編纂所での月給が2000円というのは,記憶ちがいかもしれない。というのは,当時私は東京の区立中学に勤務した。毎日出版文化賞授与と同じ1948年11月である。そのときの初任給が4290円だ。これは辞令が残っていて,まちがいない。
それはともかく,というわけで,歴史教育者協議会と地方史研究協議会がそれぞれ1万円ずつもらったのである。
永原さんの話の最後の部分は重要なことだと思う。「協議会」という名前の由来のことである。歴教協の「協」というのがだいじな意味をもって登場したのであった。

(2)もらったのは,1度ではない

高橋さんの,「歴教協創立当時の思い出」によると,毎日出版文化賞の賞金をもらったのは,1度だけではない。
「設立までは歴研がもらった毎日出版文化賞によりかかり,その財布のヒモを握っている稲垣さんを頼りにしていればよかったが,さてこれからとなるとはがき代にもことかく運命となった。
ところが,1949年度毎日出版文化賞が発表になると遠山茂樹,石母田正,高橋F一で書いた『世界の歴史C日本』」(毎日新聞社)がこの選に入り3万円もらうことになった。そこで三人で相談して三人が学恩を受けている学会に寄附しようということになった。
もっとも出版文化賞は著者には金ばかりで記念品がなくて気の毒だといって装者の本郷新さんが装幀に使った浮彫りの原型から三人にブロンズ像を贈つてくれるということでせめて額ぶち代だけでもとってもらおうと,それだけ引いた残りを歴研と民科歴史部会と歴教協へ寄付した。これが一年の活動費に大いに役立った。
ついでにいえばその翌年の出版文化賞に松島栄一,高橋F一,宮森繁の『日本の国ができるまで」(日本評論社)が入った。そこでこの本のプロデューサーでもある吉田悟郎氏と四人がそろいのズックのカバンを買い,残りをまた三団体に寄贈した。
どうも歴教協ははじめのうちは金の運はよかったが,思えばその程度のみみっちい組織でもあったのだった。

というわけで,一度ならず,二度,三度だから,賞金かせぎのようだが,草創には,こうした支援,こんな苦心談も秘められてたのである。(1999.3.5)
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