聖戦世界史1−飯塚浩二の場合−
飯塚浩二の戦時中の論文「世界史と地理」のなかに,戦後の世界史把握の視点につながるものがすでにあることを見た。
実は残念なことに,戦後の目で,この論文をまるごとは評価できないのである。
この文章が載った『世界史講座』全7巻(弘文堂書房,1944年)を,もう少しくわしく紹介する。
世界史全体の構成は,以下のとおりである。
第1巻 世界史の理論
第2巻 日本世界史
第3巻 東亜世界史(1)
第4巻 東亜世界史(2)
第5巻 西亜世界史
第6巻 ヨーロッパ世界史(1)
第7巻 ヨーロッパ世界史(2)
第2巻の「日本世界史」は,
日本世界史の理念(高山岩男)/古代日本と東亜(肥後和雄)/中世日本の精神(柴田実)/近代日本と海外膨張(高瀬重雄)/現代日本の発展(大久保利謙)/日本精神文化の成立と発展(岡崎義恵),
これに,
神道(原田敏明)/日本仏教(釘宮武雄)/国学(室田泰一)/芸道(久松真一)/貴族(肥後和男)/武士道(藤直幹)/農民(古島敏雄)/町人(坂田吉雄)
以上が「日本世界史」である。
第4巻「東亜世界史」は,
印度史概観(足利淳)/印度思想と文化(金倉円照)/仏教文化の流伝とその展開(塚本善隆)/南方地域(松本信広)/満鮮地帯の歴史(三品彰英)/印度の階級社会(善波周)/印度文学(辻直四郎)/印度美術の理念(上野照夫)/印度の科学技術(善波周)/南方仏教(竜山章真)/ヨーロッパの東亜侵略(西山克己)/アジア民族運動史(田中直吉)/南洋と支那大陸(杉本直治郎)
第5巻 「西亜世界史」は,
イスラニズムとその展開(足利淳)/ビザンツ帝国史(井上智勇)/イスラム思想史(井筒俊彦)/西亜世界の動向(芦田均)/挨及文明(岡島誠太郎)/旧約時代(浅野順一)/マホメット(井筒俊彦)/アラビア地理学(岡島誠太郎)/アラビア科学・技術(井筒俊彦)/近世ペルシア文学(蒲生礼一)/近代回教改革思想(野原四郎)
である。
全7巻のなかでいちばん注目してよい巻は,この[西亜世界史]ではなかろうか。戦後の世界史把握のひとつの基礎になる研究と思われるからである。
第1巻の[世界史の理論」は,どのような内容と執筆者たちだろうか。
世界史の哲学 西谷啓二
世界史観の類型 高坂正顕
世界史観の歴史 鈴木成高
世界史の系譜学 無台理作
世界史の動学 高山岩男
世界史と民族 臼井二尚
世界史と地理 飯塚浩二
伝記 相原信作
英雄 大島康正
伝統 樺俊夫
これらのメンバーの多くは,まさに「聖戦世界史」の人びとである。
これらのなかの,飯塚の「世界史と地理」を読みすすむと,つぎのような部分にいきあたる。
「ヨーロッパ以外の勢力の自律性恢復の努力がヨーロッパを唯一の中心とするところの世界秩序に致命的な動揺を与えるに至ったのは,英・独の争覇を中心とした第一次欧州大戦を機として『新大陸』のみならず,東亜にもまた強力な自律的中心勢力の成長をみたことによってである。
世界政治及び経済に於けるヨーロッパの相対的比重の低下と共に新興勢力の台頭が,19世紀的な世界秩序に対して既にその存続の基礎の失われたることを悟らしめたのであった。
新秩序の始動及びその後の過程,建設せられんとする新秩序がアメりカ合衆国の野望に於いて単に肩書きの交替として,再び旧秩序の塗り替に終わらんとする現下の危機については,今更ここに冗言を要しないであろう。
万邦をして各々その所を得しめるの理想の下に,今日わが国が死力を尽くして闘いつつあるもこそ,まさにこの危機の克服に外ならないからである」
と飯塚がいうとき,それは『臣民の道』(1941年7月文部省)の世界史思想,高山岩男の「世界史の哲学」など,大東亜共栄圏思想と同じものになる。
それを裏付けるものに,雑誌『地理学』1942年2月号に飯塚が載せた
「大東亜と米・英」がある。
この論文は『飯塚浩二著作集』には入れられていない。書くとはおそろしい所業である。
書くのがおそろしいことなのではなくて,時代のなかで生きることのむずかしさであろう。
この問題について高橋F一は,飯塚の『著作集8』の解説に書いている(1975年)。
高橋の「解説」は,1948年6月15日に高橋が当時勤務していた暁星中学校の職員室に突然,飯塚浩二が訪ねてきたところからはじまる。
飯塚は,毎日新聞社の『世界の歴史』全6巻の「4 日本」を,高橋F一,遠山茂樹,石母田正の3名で執筆するようにとすすめた。
二人のはじめての出会いだった。返事につまっている高橋に飯塚は,服部之総氏との強い共同意見による人選であるともつけくわえた。
「それはことばを変えればマルクシズムと飯塚比較文化論が手を結んだ意見ときかれた」と高橋は書く。
間もなく高橋は教壇をはなれ,『世界の歴史 日本』の執筆に専念する。
「それ以後の私が自由な歴史家として生きつづける契機をつくってくれた」のは飯塚浩二先生であったと書いたあと,
「[飯塚は]『大東亜と米・英』において,『大東亜戦争の大義』と書き『東亜の被圧迫諸民族の上に加えられていた鉄鎖の切断』という表現まで使って,『大東亜共栄圏』を地理学の問題意識として大きく押し出している。しかしその際,生産諸関係,いうなればその地域社会における階級の存在と民族の解放にことさらに眼を蔽っているかに見えることは,著者自体の制約か,それとも狂乱の季節の中での一定の積極的問題提起を隠しているものと受け取るべきか,さらにこれを状況下の混乱の産物として割り切るかどうか,すべては読者に委ねられている」
と批判し,さらに続ける。
「すくなくも,これだけはいえないか。戦後の著者が学者として,また教育者としての華々しい活躍,そしてその門下生,影響下の人々の活動にもかかわらず,ついに著者が運動の中に明確に自分を位置づけることなく,いわんやその組織者として正面に立ち現れなかったこととつながりがあるのではないか。
そこに私は著者のかげりを感じつづけてきた。それは地理学が,そして地理教育が,戦争責任の所在さえも明らかにできないような状況下あったとき,科学としての地理学,地理教育の開拓者であることを自他共に許す著者が,自らあえて背負わねばならぬ十字架であったかもしれない」と。
飯塚の言葉として高橋が引用した「東亜の被圧迫諸民族の上に加えられていた鉄鎖の切断」といっただけではわかりにくいので,
「大東亜と米・英」の「五,結び,大東亜の解放」から引用しておく。
「対米宣戦,対英宣戦の意義,大東亜戦争の崇高なる使命にについては今更ここに説明を加えるまでもない。翼賛会に待つまでもなく,ラジオの講演に待つまでもなく,一億同胞は十分に之を覚悟している筈である」
「対日包囲陣の撃破は,日本にとって経済封鎖の否定を意味したと同時に,1世紀,長きは4世紀もの間,外来勢力によって,これら東亜の被圧迫諸民族の上に加えられていた鉄鎖の切断を意味する。実にここにこそ大東亜戦争の大義名分は存する。対米・英宣戦が吾が国民が死を決して血路を開く真に止むを得ざるの挙であったと同時に,大東亜戦争の条件としてまた成果としての大東亜共栄圏の建設は,東亜の天地が,東亜自身の力によって,いまや再び自由な東亜諸民族の手に恢復されることを意味している。
この大義名分のまえに,重慶による反日政権の存在理由の如きは,論ずるに足りない。
大東亜の重要なる構成要素たるべきでありながら,ついに米・英の傀儡と化し,却って大東亜解放闘争の背後を衝く反動的役割をしか演じ得ない境地に陥りつつある彼らの運命こそ,まさに世界史の悲劇といわねばならないであろう」
「大東亜戦争の理念は忽然として我々に与えられたものではない。吾が国民があますところなく,『聖戦の本義に覚醒』するためには,実に日支事変として課せられた4年有余の試練が必要であった。
ここにあえて愚見を加えるなら,私は大東亜戦争への第一段としての日支事変の意義を,今次の大東亜戦争の遂行を著しく容易ならしめた点において戦略的に重要であると共に,如上の精神的な意味,大東亜の盟主たるべき吾々の使命の『覚醒』を導く試練であったという意味においても重要であったと解釈したい……」
とまで書いた。
飯塚もまた,聖戦世界史から自由ではなかったのである。
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