第5回日韓歴史教師交流会

「第5回日韓歴史教師交流会」の記録が発行されている。
発行者 日韓教育実践研究会
事務局 〒260-0005千葉市中央区道場南1-19-13 三橋広夫気付
043-225-2073
郵便振替 00110-2-577572
E-mail mituhasi@mx2.nisiq.net
頒価 1000円

第5回の記録だけではなく,1回〜4回の記録もでている。日韓教育実践研究会への参加を呼びかけている。

研究会代表・大槻健の著作がある。
『日韓の未来をひらく教育交流』(桐書房,1994年, \2000)
『韓国の子どもと教育』(あゆみ出版,1997年,¥2000)


日韓歴史教育東京シンポジウム・参加記 ・鈴木 亮

「第5回の記録」と『歴史地理教育』573(98.1)に私は,参加記を載せたので,二つをまとめて,ここに掲載する。
目次
1.民主化がすすむなかで
2.授業実践の交流
3.民間交流のつみかさねを

1.民主化がすすむなかで
1997年1月15日,「日韓歴史教育東京シンポジウムの開催と呼びかけ人のお願い」という手紙が届いた。
「私たちは1993年に日韓教育実践研究会を結成し,訪韓団を組織して日韓歴史教師が相互に授業実践を報告して論議する交流をすすめてきた。96年には韓国南部の南海(ナムヘ)で3回目のシンポジウムをおこなった。97年8月には,韓国の歴史教師を招いて日韓歴史教育東京シンポジウムを開催するので,その呼びかけ人になってほしい」とあった。
4月1日,呼びかけ人は88人におよんだという報告と,シンポジウムでの報告者の公募,開催費用と韓国教師の滞在費のためのカンパのお願いが届けられた。
1997年8月14日,15日の両日は,めずらしく,細い雨の降る涼しい2日間だった。明治大学大学院南講堂に100名をこえる人たちが集まった。
研究会代表の大槻健,韓国訪日団の団長申振均(シンジンギュン),東京シンポジウム実行委員長石渡延男のあいさつで集会は始まった。カンパも集まり,日韓文化交流基金の後援も得た。
思えば大槻健の文章が『歴史地理教育』に最初に載ったのは,32年前,1965年8月号だ。それも専門の教育学の論文ではなく,丸山昇の「中国語のすすめ」,真保潤一郎の「ベトナム語のすすめ」とならんで「朝鮮語のすすめ」を大槻が書いている。大槻の朝鮮・韓国へのこだわりは,きのう・きょうのことではないことがわかる。
石渡延男は,都立大学で朝鮮史のくさわけ,故・旗田巍に師事して以来のとりくみだ。先年高校教師の職を捨てて韓国に留学した。二人の執念がいまみのりつつあるのだと思った。
石渡は言った。日韓の歴史教育に大きな落差があっても,子どもを前面にたてて議論すれば,日韓の歴史教師は分かりあえると私たちは考えてきた,と。
今回来日したのは,晋州歴史教師協議会の中学・高校の若い女と男の先生たち11名だ。晋州(チンジュ)は,人口30万人,慶尚南道(キョンサンナムド)の西南部の中心都市である。
文部省から派遣されたわけではない。いままでにも日韓の研究者・教育者たちの交流はあったが,授業実践を出し合う自主的な交流のための韓国の中学・高校の先生たちの来日は,日韓の歴史のなかではじめてのことではないだろうか。
私たちも手弁当で迎えた。二日目の総合討論のときに報告があったのだが,韓国の先生たちは,日本の教師たちの家に一日分宿して,そこからもたがいに多くを学びあった。
日本から,質問がでた。なぜ韓国から小学校の先生が来なかったのかと。韓国の先生が答えた。私たちの研究会はすべての人・学校に門をひらいているのだが,まだ小学校の先生の参加を得ていないのだと。
そういえば,私の住んでいる人口5万の市にも,歴教協の会員に小学校の教員はいまはいない。韓国の状況は日本よりはるかにきびしいものがあると聞いている。
第2回の交流会の記録によれば,韓国では,1980年の光州(クワンジュ)事件以来,民主化運動がすすむなかで,88年に歴史教師協議会が結成され,89年には全国教職員組合=全教組(チョンギョジュ)も創立された。
晋州教師協議会は,90年2月に結成されたという。だが全教組を韓国政府は認めていない。「非合法」の組合である。大東文化大学の尾花清は,94年夏の韓国の教育研究集会に参加した。その参加報告を読むと,韓国教師たちの苦労と意気込みが感じられる。この集会は,全教組創設と同時に開催されるようになったらしい。93年の集会には2500名が参加したという。
世の中はすこしずつ動いていることを,今回の交流会は教えてくれた。日本の小学校・中学・高校の先生たち何人もがハングルを学んでいたし,来日した韓国の先生たちの何人かは日本語を学んでいた。
私はといえば,30年前,『歴史地理教育』の編集をやっていたから,「朝鮮語のすすめ」などとひとに書かせたくせに,じぶんではやらずにやがておわりがきそうである。
ということを,石渡に話したら,ハングルを学んでいるのは,日本の若い先生だけではありませんよ,定年退職をした元中学の先生たちもですよ,と教えられた。むしろそのことに韓国の先生たちは感激して,自分たちもと日本語の勉強を始めたのだという。
今回の団長,晋州歴史教師協議会の会長,昆陽(コニャン)高校の申振均は,第1回日韓歴史教師交流会のあいさつでつぎのように述べている(第2回日韓歴史教師交流会の記録)。
私たちばかりでなく韓国の国民は,日本を“近くて遠い国”と考えています。来年は,日本にとっては“終戦の年”,韓国にとっては“解放の年”となります。それにもかかわらず,韓国の民主化運動のなかでおこったいろいろな問題のために,近い国である日本についての研究がほとんど行われてきませんでした。
正しい歴史教育を進めるために,全国的にそして各地に歴史教師協議会がつくられました。特に晋州や居口(コチャン)では,日本の歴教協がつくった『地域に根ざした歴史教育』を翻訳し,学習しました。こうした活動のなかで生まれたのが,この“日韓歴史教師交流会”だと思います。」
歴教協編『地域に根ざす歴史教育の創造』(明治図書,79年)を翻訳・学習したというのである。ことし8月,歴教協は『歴史教育50年のあゆみと課題』(未来社)を出版したが,明治図書のものは“30年の成果と課題”である。
「中央中心の歴史認識の方法を克服して,自らの地域に対する科学的で,総体的な把握の必要を感じ,地域は歴史の各段階における,わが民族社会に一般化されている構造的な矛盾が具体化され,特殊な形で貫徹されている場所であり,日本歴教協での活動は,背景と歴史的条件は異なるが,地域史研究の不毛同然のわれわれに多くの参考となるものだと信じて翻訳するにいたった」という(全国歴史協議会の機関誌『歴史教育』21号,1993年7月=大槻健訳)。
韓国でも,日本でも,そのつきあい方でも,そして実践報告の内容でも,あたらしいものが確実に生まれているのをわたしは感じた。私などのいままで思っていた国際交流などをはるかに越えた交流のすがたがあった。国際交流というより,国民交流,国民間交流とでもいったらよいだろうか。

2.授業実践の交流
偶然だろうか,報告者はそれぞれ二人とも,日本は私立の高校の「進学校」の男の先生だったが,韓国は公立中学校の女の先生だった。
「植民地時代の日韓関係」が今回のシンポジウムの共通テーマである。第1日午前に,日本からの,午後に韓国からの報告と討議がおこなわれ,間に,自由の森学園中学一年生高橋翔子の紙芝居「一番近くて遠い国」が披露された。
2日目は総合討論だった。報告者とテーマはつぎのとおりである。
テーマ学習「日本と朝鮮半島」を学んだ高校生
富永信哉(東京 桐朋中・高校)
日韓関係史を学ぶ意欲を育てる
目良誠二郎(東京海城中・高校)
紙上報告 日露戦争史観と植民地支配観を問う歴史教育
小松克己(埼玉県立入間向陽高校)
従軍慰安婦と望ましい日韓関係
カン・ウォンスン(三千浦・南陽中学)
新興亜論と真のアジア連帯
キム・ポンジャ(馬山東中学校)

日本の報告に対して韓国から質問があった。このような授業を,どのくらい多くの先生たちがおこなっているのか,日本人の韓国認識はよいほうに変わってきているのか,と。
日本からの報告は二つとも,学習前の生徒の“嫌韓悪情”が学習のなかで変化してゆくことを語っていた。韓国からの質問は,一口には答えにくい問題である。
500号をこえる『歴史地理教育』に載っているたくさんの授業報告のなかで,いちばん多いのは日本史に関するものであり,つぎに多いのは,朝鮮・朝鮮史にかかわるものである。これはなにをあらわしているのか。
一つには,日本のたくさんの教師たちが,日本の子どもたちの朝鮮認識のゆがみにおどろきながら,50年にわたって,この問題にとりくんできたことをしめしている。
長年にわたって,多くの教師がくりかえしとりくんできたということは,すこしくらいとりくんだからといって,たちまち効果をあげるといういうものではなく,くりかえしくりかえし取り組まねばならぬ状況があることを語っているということが第二。
第三に,多くの教師がとりくんだ授業報告が載っているということはまた,とりくむ教師が必ずしも多くないということをあらわしている。朝鮮史に関わる授業をやることがごくあたりまえの授業にはなっていないからである。
石渡は,韓国の教師からの質問に,「目良のような授業が,多くの日本の教師によっておこなわれているとはいえないが,増えつつあるし,韓国認識はしだいに変わりつつある」と答えたが,そうでもあるし,そうとばかりは言えない点が苦しいところである。
たとえば目良と学んだ生徒たちの多くは,ひとりの目良先生に出会うことなく小・中学時代を過ごし,高校一年生になったのである。目良先生の目をすりぬけて,大学生になり,そのまま卒業していくものはたくさんいる。
道は遠い。ほんとに遠い。目良は生徒たちの“嫌韓”感情にたじろぎながら授業にとりくんだというが,「たじろぐ」ような事実に気をとめることもなく,授業をこなしていく教師もすくなくない。
わたしたちは戦後50年にわたって,子どもたちと歴史認識,朝鮮認識,アジア認識,世界認識にずいぶんとりくんできたつもりだが,まだまだじゆうぶんとはいえない。
だが確実に変化はおこっている。いまは文部省検定済の教科書にも,「従軍慰安婦」問題を載せさせる力をもつ時代だ。日韓歴史教師交流会のような集会を開く力をたくわえてきたのである。

3.民間交流のつみかさねを
カン・ウォンスンの授業は,従軍慰安婦の問題を扱ったものだ。単にその事実を教えたというのではなく,そのうえで韓国の子どもたちと日本認識をどうつくっていくかにとりくんだ授業である。
カンがこの授業にとりくんだのは,「一部の日本人の指摘のように,私たちが過去の被害者意識のなかに浸っているだけで,現実の問題を回避しているのではないかという反省」からだった。いままでの交流のなかで出てきた問題にこたえようとしたものである。題名のとおり「望ましい日韓関係」を考える授業実践だった。
キム・ポンジャの授業,「新興亜論とアジアの連帯」の主題設定の理由はこうだ。東アジアの連帯が難しいのはなぜか。世界的に地域共同体形成の努力がおこなわれているのに,東アジアではその形成はむずかしい。
地域共同体をつくるにはどんな努力が必要か。私たちは日本に,日本は私たちに,その責任を転嫁している。生徒たちも日本を米国や英国と同じ外国と見ることはできず根の深い感情をもっている。生徒の大部分は日本をにくみつつも過大評価をして日本との競争をおそれている。
生徒がこうした誤った考えをもつようになったのは,過去に執着し,感情的に日本に対決し,そのくせ日本の発展をうらやみ,私たちと日本を比較し,私たちを卑下する大人たちのあやまちのためである。生徒たちのこうした考えは,わが国の未来のためにも結局望ましいことではない。
東アジアに地域共同体をつくろうとした歴史的事例を通して,こうした動きがなぜ失敗したのかを知り,今日がどう変わっていて,望ましい地域共同体の姿はどんなものかを生徒たちとともにさがし求めようとしたものである。
キムのいう「新興亜論」というのは,過去の大東亜共栄圏の主張を肯定し,それとかわらぬ主張を今日も唱えている,たとえば奥野誠亮議員などの主張をさしている。キムの考えは,大東亜共栄圏とか新国家主義のような考えをもつ国があれば,日中韓の連帯など不可能なことだ,すべての国が平等で共同の繁栄を享受できなければならないのに,現状はどうだろうかとキムは資料を出して生徒と考えた。
韓国の生徒たちは,日本の「新興亜論」を知って,日本との地域共同体形成に反対するが,日本人のすべてが「新興亜論」賛成者ではないことを知りつつある。それが授業の成果だとキムは報告した。
“東アジア地域共同体の形成”という発想は,私たちにいままでなかったものではないか。東アジアの連帯は考えても,「地域共同体の形成」にかかわる授業報告があったかどうか。
カンの「従軍慰安婦と望ましい日韓関係」の主題設定の理由にも「昨年私たちは世界的な趨勢である地域共同体形成の流れにもかかわらず,アジアでは共同体形成がままならないことについてのは話を交わした」と述べている。
韓国では,いま「東アジア共同体の形成」がテーマになっているのだろうか。東アジアの連帯を具体化したものとして「東アジア共同体の形成」ということが考えられているのか。日本で,それが口にされることがないのはなぜか。これは,2日間の討議のなかで深く説明される機会のないままでおわった。
私がキムの報告を聞いて考えたのは,韓国で「地域共同体」ということが問題にされるのは,東アジアのなかでの韓国の長い歴史の経験からくるのではないか,ということが一つである。
もう一つは,この問題はそれぞれの国の自立性・主体性の問題にもかかわるということだ。従軍慰安婦の問題も,従軍慰安婦のことをとりあげればよいというのではない。どうとりあげるかが問題であり,さらに従軍慰安婦の授業だけではなく,あらゆる場面で,自立の歴史認識を身につける歴史教育が必要なのである。
当然,日本の自立・独立の問題にかかわることだ。日本の従属性の問題でもある。そこで気になったのは,先に引用したキムの報告の中の「[韓国の生徒が]日本という国を,米国や英国と同じく単純に外国と見ることはできず」という部分だ。
韓国にとってアメリカ合衆国はどんな存在なのだろうか。日本は他の外国とはちがうということはわかるけれども,アメリカは韓国ににとっても,ひとつちがう外国として存在するのではないのか。そこに日本とはちがうけれども,共通する問題はないのだろうか。
両国の歴史教育・世界史教育で,中国をどうとりあげるかというという問題とともに,かつて,比較史の会が東アジア歴史教育シンポジウムで,共通テーマとしてアメリカ合衆国をとりあげたが,この交流会でもいつか,アメリカ合衆国を日韓共通のテーマにして授業報告を出し合う必要があると考えるがどうだろうか。
それはさておき,このような国際交流の討議の場で,しかもみじかい時間のなかで,何を論議することが有意義なのだろうか。2日目の総合討論では,日本での中学や高校での従軍慰安婦についての授業実践が報告された。
私はこれが必要だと思う。相手の授業実践を率直に批判し合うことも必要だが,まずそれぞれが自分たちの授業実践とその問題点,苦労点を出し合い,そのなかから,それぞれが学び,自国に帰って考え,次の授業に生かし,またそれを出し合うことをかさねることが必要ではないか。
同じく従軍慰安婦をあつかっても,日本と韓国では,提起する先生も受けとめる生徒も違うし,環境も条件も違う。歴史も違う。困難点もことなる。かんたんにこれは共通の問題だと了解するわけにはいかない。
安重根(アンジュングン)や孫基禎(ソンキジョン)の位置づけだって,韓国と日本では同じではない。お互いに“暴露・告発型”の授業を克服しようとしている。
目良はその克服のために,日韓相互理解をめざした先駆者から学ぶとして,浅川巧(たくみ)・伯教(のりたか)兄弟をとりあげた。われわれにとっては教科書にのらない重要な人物だが,それでも浅川は朝鮮総督府の役人であった。植民地所有国の国民という問題はついてまわる。これをどう考えるか,これは私の宿題である。
ことはそうかんたんではない。必要なことは,日韓共通の教科書をつくるというようなことではなく,このような交流をかさねること,いくつもの民間の交流がふえていくことだと思う。
第一日目の夜は駿河台下の浅野屋でささやかな歓迎の会がおこなわれた。第二日の午後は,両国・浅草への見学。次の日,韓国の先生たちは,京郡・奈良を訪ねると聞いた。
充実したシンポジウムであった。


1998年の「第6回日韓歴史教師交流会」

の報告は,三橋広夫さんの[rml701]98/09/08にあります。
『歴史教育月報』338,1998年10月に掲載されました。
いずれくわしい「報告集」がでるものとおもいます。

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