SUZUKI RYO
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その1<植民者の子弟>
鈴木亮は,1924年7月,中国の大連で生まれた。
父が南満州鉄道株式会社の中央試験所に勤務していたからだ。
満鉄中央試験所は,はじめ関東都督府に所属していた。
ご存知のとおり日本は,1905年,日露戦争の結果中国の遼東半島の租借地,関東州を手に入れ,遼陽に,関東総督府を設置した。
1906年に,関東総督府は関東都督府として,旅順にうつった。
1915年の対中国21ヶ条要求をおこない,租借期限を25年から99年に延長したのにともなって,1919年,関東都督府を関東庁とした。
南満州鉄道株式会社,通称満鉄は,
1906年に設立され,07年4月に営業を開始した。
関東都督府所属の中央試験所は,1907年10月,大連の元ロシア警察所あとに設立された。
中央試験所の初代所長は,東京帝国大学医学部薬学科出身の慶松勝左衛門(けいまつ・しょうざえもん)である。
ついでにいうと,小林英雄『満鉄』(吉川弘文館,1996年)には,「かつざえもん」とルビをふり,廣田鋼藏『満鉄の終焉とその後』(青玄社,1990年)では,「よしまつ」と読んでいるが,「慶松勝左衛門は,けいまつ
しょうざえもん」が正しい。
もうひとつついでにいうと,1909年10月19日,伊藤博文が中央試験所を視察している。工場を視察したおり,蒸留していた高粱酒をビーカーで試飲したという(中尾万三「中央試験所における伊藤公」『日本薬報』1926年6号)。
伊藤は,この足でハルビンへ向かう。安重根に射殺されるのは,この一週間後の10月26日である。
中央試験所は,1910年に,関東都督府から満鉄に移管される。
1912年(明治45年)に慶松と同じ薬学科を卒業した父は,1913年(大正2年)に,大連の満鉄中央試験所に赴任した。
小林英雄は前記の本で,「満鉄というと調査部が有名で数多くの研究があるが,それとならんで中央試験所と地質調査所があったことを忘れてはならない」と書いている。
もっとも,「都督府時代の中央試験所はさしたる活動はしていないから,一般的には高山甚太郎2代目所長をもって初代所長と呼んでいた」と,小林は書いている。
これでは,けいまつ しょうざえもん初代所長も,かたなしである。
中央試験所を,都督府から満鉄に移行させたのが慶松所長だとすれば,それだけでも,たいした活動になるのではないか(『慶松勝左衛門伝』非売品,広川書店)。
つい話が横道にそれたが,
とにかく,私は日本の植民地・関東州の大連で生れた。姉二人も兄も大連で生れ
た。
一家は,私が3歳のとき,1927年(昭和2年)に日本にもどったので,私には大連の記憶は全くない。
そのくせ,「生まれは?」と聞かれると,「大連」と答えるほかなく,戸籍謄本には,
「大連市桜町28番地」と書かれているし,私から大連がはなれることはなかった。
小学校の国語の教科書に,「大連だより」というのがあったのを憶えている。
そのときもなんとなく,大連というのを知ったところのような気がしていた。
親から折りにふれて大連時代の話を聞かされていたからだろう。
この「大連だより」を,最近読んでみたが,内容はなにひとつ憶えておらず,題名だけが忘れ残っていたにすぎない。
唐澤富太郎の『教科書の歴史』(創文社,1956年)を見ると,私の年代が使ったの
は,第3期国定教科書で「大正デモクラシー期の教科書」の時代だ。
唐澤の解説によれば,
「第一次世界大戦後の国際協調的な時代的性格を反映して,国語教科書は『アメリカだより』を始め,『世界』『大連だより』『トラック島だより』『ナイヤガラの滝』『上海』
『南米だより』『ヨーロッパの旅』等,諸外国をテーマにしたものを多く取り上げている」
これらの国語読本の編者八波則吉の編纂意図は,
「世界を相手に,これは現代人の標語でなけれぱなりません。私どもが尋常小学国語読本を編纂する際にも,これを標語の一つに選んで,小国民に逸早く世界の事情に通ぜしめることを心掛けました」
という。
これほど,「世界」が意識されて編纂された国定教科書は,あとにもさきにもないと思われる。
その点,現在,しきりにいわれている「国際理解」ということを考えるうえで,検討に価するのではないか。
この教科書は,
「ファシズム台頭期の臣民教育の強化」第4期国定教科書(サクラ読本)に取って代わる1933(昭和8)年まで使われる。
私が「大連だより」を習ったのは小学校4年のときであった。
斎藤秋男さんは,1917(大正6)年に生まれた。私より7年はやい。
1941年3月に東洋大学文学部中国哲学文学科を卒業した。
「関東大震災の翌年(1924年)に小学校1年生,そしてまもなく昭和“改元”となるわけだから,ものごころついて“大正”時代をいくらも呼吸してるわけじゃない。
にもかかわらず,中学生以降あたりから,おのれは“大正”の子だという自意識があった」
という。
斎藤さんは,1931年から35年まで玉川学園中等部に在籍した。その間,
「塾生(寄宿舎生活)の友だちには,両親が朝鮮・“満州”で生活してる,つまり“植民者”の子弟がいる。彼らは“内地”と比較しながら“外地”のことを熱っぽく語る」
「この時期,友人とつきあうなかで,植民地と植民者の子どもということを考えさせられた。しだいに中国への関心を深める,その萌芽はこの時期にめぱえたのだと思う」
と語っている。
(『比較子ども学―日本・中国そして私―』教育史料出版会,1996年)。
私も大正生まれにはちがいない。
そして第3期・大正デモクラシー期の国定教科書で学んだ。
私の生れた1924年は大正13年だ。大正は15年でおわる。
小学校入学は1931年,昭和6年である。
大正に生まれはしたが,大正をまったく呼吸していない。「大正生まれ」という実感はない。
小学校にはいると,まもなく,満州事変(1931年9月18日)がはじまる。
たぷん私も,斎藤さんのいう「植民者の子弟」だったのだろう。
斎藤さんに指摘されて,あらためて思いあたる。
1993年,日中歴史教育交流の旅に参加し,大連にたちよったとき,私が生まれ,3歳までをすごしたであろうと思われる南山麓の住宅街を見た。
当時のままと思われる,そのころの日本人高級住宅街があった。いまは労働者住宅だという。
多分当時は日本人だけが住み,中国人の子どもと遊ぷなどということはなかったにちがいない。
接する中国人は,雇っていた「支那人」の「メイド」や「ポーイ」か,出入りする商人だけだったろう。
大連に生まれ,3歳までをそこで暮らしたことは,私にとってたいした意味はない,といままで思っていたが,こう考えてくると,私の世界認識形成に,少なからぬ役割を果たしているように思えてきた。
佐伯修『上海自然科学研究所―科学者たちの日中戦争』(宝島社,1995年)という本がある。
この本は,もっと注目されてよい本である。
上海自然科学研究所のことは,いままでの日中戦争史,あるいは上海事変史にはまず登場しない。
平凡社の『アジア歴史事典』には,元所員であった小宮義孝が書いている。
「上海市,もとフランス租界に1931年から45年まで存在した日本の自然科学研究機関。
この研究所は初めは義和団事変賠償金でまかなわれた日華合弁の研究機関であったが,日華事変勃発後はもっぱら日本政府の出費によって経営された。
敷地約2万坪,4階建て鉄筋コンクリート建築,室数400余のものであった。
医学部と理学部とに分かれ,前者は病理,細菌,漢薬,衛生の4科を,後者は物
理,地質,化学,生物の4科に分かれていた。
各科研究員はおよそ5〜10名,そのうち約3分の2は日本人,3分の1は中国人であった。
研究業績は,機関雑誌<The Journal of Shanhai Science Institute>
(英文),およぴ<上海自然科学研究所彙報>(日本文)に掲載された。
総数約600余,貴重な研究業績が少なくない。
45年終戦とともに中国側に接収され,現在は中国科学院の一部がはいっている」
とある。
つけくわえると,この研究所がだしていた日本語の雑誌に『自然』がある。
この上海自然科学研究所がまた私とかかわりがあるのだ。
佐伯氏の本にもたぴたぴ登場するこの研究所の生薬学科主任だった人物に中尾万三がいる。
中尾万三は,『アジア歴史事典』にはでているが,薬学者であり,本草学の大家であり,陶磁器にくわしかった。
『岩波講座 東洋思潮』に「科学(本草の思潮)」を書いている(1934年)。
ほかにも多くの著書・論文がある。
1999年には,中野卓によって,『中尾万三伝』が刀水書房から出版される。
中国本草史の研究は,いまでも多分,この中尾万三の研究からすすんでいないだろう。?
中尾は,私の父の先輩であり,父の前任者として,満鉄中央試験所で,慶松所長の下にいた。中尾が,ドイツ留学となったので,そのあとに父がはいったのだ。
そして,慶松家も中尾家も,京都の二条通りにあった江戸時代からの薬種問屋の家であった。
おまけに,中尾万三は私の伯父にあたる。私の母の兄だ。
ちなみに私の母の名は営(えい)。日清戦争中の明治28年の生まれで,大本営の営から名づけられたと聞いた。
つまり父は,中央試験所に赴任した翌年,中尾万三の妹,営と結婚して,大連にいた14年間に私をふくめて4人の子をなしたのだ。
上海事変(1932年)のあと,伯父中尾万三は上海自然科学研究所をやめて上海を去るが,私が小学校6年のとき1936年,肺がンで死ぬ。55歳だった。
さらにいえぱ,私の姉の夫つまり義兄は,華北交通株式会社にいた。
この華北交通株式会社のことは,これまたなぜか,ふつうの日中戦争史には出てこない。
『国史大辞典』(吉川弘文館)には臼井勝美が書いている。
中山義昭さんと書いた『世界と日本の歴史』第10巻(1988年,大月書店)には,すこしだが,華北交通を登場させた。
ほんとうは,華北交通にふれずに,日中戦争はかたれないのだ。
満鉄の研究はあっても,華北交通は忘れられている。近年,高橋泰隆の研究『日本植民地鉄道史論』があるくらいだろう。
1937年7月,盧溝橋事件がおこるとすぐ,満鉄は軍の命令で華北の鉄道の運行にあたる。
39年に華北交通株式会社を設立して,華北の鉄道,自動車,運河,港湾の交通事業をおさえた。
満鉄にいた義兄・姉一家は,6年間だけ存在したこの華北交通株式会社の社員として,北京や済南に暮らし,若い情熱をかたむけていた。
1936年に満鉄社員の男性と自分の娘が結婚することに父は何の不安もなかったのだろうし,まさか満鉄や華北交通が消えてなくなるなどということは,考えもしなかったのだろう。
家には父の名の入った,いまでは反故となった満鉄の株券がいまも残っている。
親戚中を見わたせば,鞍山昭和製鋼所のえらい人もいるとか,かくて私の家は一族あげてく満州・中国>と深くかかわっていたのである。
大連をひきはらってからの鈴木一家のその後もすこし書き留めておきたい。
私の子ども時代の世界認識形成を考えるうえで,多少関係があるかもしれないと思われるからである。
これはアメリカとのかかわりである。
1927年に大連をひきあげて東京に住んだ父は,しぱらく失業していたらしいが,
1929年に両国にあたらしくできた病院,東京同愛記念病院の薬局長になった。
少年時代の私の記憶に残る父の職業はこれであった。
この病院がふつうの病院と多少ちがっていた。
この病院の竣工をつたえた業界紙『日本薬報』(1928年6月5日発行)の記事がある(岐阜にある工一ザイの「くすり博物館」所蔵)。それは,
「江東横網の地に兀として聾え立った四層の大建築物,初夏の陽光を湛えた墨江に倒影あざやかなる辺り,路を行くもの江東の人に之を問えぱ答えて,之がアメリカ寄付の病院ですと言う。
江東無産の徒が安んじて医療を受け得べき所,震災の所産初めて吾等に酬いられんとす,と莞爾として而かも暗然たる語調である」
という古風な文章ではじまっている。
1923年9月1日の関東大震災のとき,アメリカ合衆国の赤十字社の主唱による寄付が募集され,その残余金で1924年(大正13年)4月,810余万円の同愛記念病院財団の設立を見た。
さきに横浜同愛記念病院が1928年7月にできて,9月より診療を開始した。
東京同愛記念病院は,29年4月1日,被服廠跡の西北端に落成した。
「本病院はその主旨に則り専ら細民階級に対して完全なる医療施設の恵沢に浴せしめんとするものであるから,一世帯の月収75円以下で家族一人当たり20円以下に当たるもの,又は月収35円以下の独身者に無料診療を与え,有料のものも月収
120円以下の世帯に限ってある。
内科,外科,産婦人科,小児科,耳鼻科,眼科,隔離室に分かれ病床総て248。
個室は等級によるものでなく重症患者のためにしたものであり,入院経費は努めて節減せしむる方針で付添婦を一切置かざる様,看護婦の手を省ける様,そして心おきなく完全なる治療の出未る様な施設である。通院は600名を抱擁し得る」
というものであった。
父のつとめるこの病院へは,病気になると,母につれられてよく通った。そこで働く父のすがたも見ていた。
アメリカの金でできた病院ということが子どもの心に沈んだ。
さらにつけ加えると,第二次大戦後,日本を占領した米軍は,この同愛記念病院と聖路加病院とを接収したのだと聞いた。
どうも米軍は,最初からこれらの病院を爆撃目標からはずしていたらしい。
これも確かめてみなけれぱならないのだが,まだはたしていない。
いま総武線の電車の窓から,りっぱに建て替えられた同愛記念病院の建物がみえ
る。
あれこれ書いたが,私の子ども時代の世界認識形成ということを,あらためて考えてみると,このような生い立ち・環境がはたらいていることが考えられる。
中国・アジアヘの思い,アメリカ,世界への関心が,それなりに沈んでいたのではないだろうか。
そこで,あらためて,「大連だより」が載っている,大正デモクラシー期の国語読本を読み返してみた。
世界認識にかかわる,どんな小学校教育をうけたのだろうか。
その2.<尋常小学校の国語読本>
国語の教科書をえらんだのは,当時,学校教育の教科のなかで,すくなくとも私にとって,いちばん大きく作用したと思われるのは,国語教育だったと思うからだ。
いちばん繰り返し読んだと思うのが,国語読本だ。修身もあるし,唱歌(音楽)もあ
る。国史もあるが,中学の入試科目が,算術と国語になったためか,小学校での国史の授業の印象はうすい。
国語読本は12巻あって,1学年で2冊をつかった。
小学3年生の巻5は,「大日本」ではじまる。
大日本,大日本,
神のみすえの天皇陛下
われら国民七干万を
わが子のようにおぽしめされる
大日本,大日本,
われら国民七千万は
天皇陛下を神ともあおぎ,
おやともしたいてお仕え申す
大日本,大日本,
神代此の方一度もてきに
負けたことなく,月日とともに,
国の光がかがやきまさる
この教科書の初版は1917年で,「われら国民(くにたみ)七千万は」だが,私が習った1933年には,「九千万」だった。この人口は,朝鮮や台湾など植民地をふくめた人口である。
4年生の第7巻の第一が「世界」である。
われらが住む世界は,其の形まるくして,球の如し。ゆえに地球という。
地球の表面には,海と陸とありて,海の広さはおよそ陸の二倍半なり。
海を分けて太平洋・大西洋・印度洋とし,陸を分けて,アジヤ州・ヨーロッパ州・アフリカ州・南アメリカ州・北アメリカ州・及ぴ大洋州とす。
我が大日本帝国はアジヤ州の東部にあり。
そして第12に「大連だより」が登場する。全文つぎのとおり。
大連へ来てから,もうかれこれ七八十日,町のもようも大分わかって来ました。
町に大山通・乃木町・奥町・児玉町などと,日露戦争の時の大将方の名を取ってつけてあるのは面白いでしょう。通りは広くて平で,歩道と車道の間に並木が植えてありますが,此の頃は其の葉の美しいさかりです。
目ぬきの所には三階建・四階建の石造や煉瓦造の家が軒をならべて立っているの
で,日本の町よりはかえって西洋の都会に似ているといいます。人口はおよそ十一万,其の中日本人は五万人,支那人は六万人ですが,日本人は年々ふえるぱかりだそうです。
船で来れぱ,神戸から三昼夜,門司からは二昼夜で当地へ着きますが,来て先ず誰でもおどろくのは,波止場の大きなことです。第一第二第三とならんでいて,たくさんな大船を一どきに横づけすることが出来ます。船から陸あげした荷物は,すぐ其所から汽車にのせて,ハルピンヘでも北京へでも送ることが出来ます。
大連の貿易高は横浜や神戸よりは少し下で,大たい大阪ぐらいだといいます。輸出品は豆粕が第一で,輸入品は綿布が一番多いということです。
まだ来て二三箇月で,よくはわかりませんが,気候も思ったよりよくて,快晴の日が多いようです。
旅順へは汽車で一時間で行けます。十日ぱかり前に,私ども中学の二年生が修学旅行に行って,白玉山上の表忠塔をあおぎ,又我が忠勇の士が血を流して取った二百三高地にも上がって帰りました。
後便に又いろいろ申し上げましょう。
六月十五日
このあと第十三は「一太郎やあい」となる。
小学4年の巻八には,
「揚子江」「呉鳳」「朝鮮人参」「アメリカだより」とあって,
いまもおぼえているのは,なぜか「揚子江」と「呉鳳」である。
第五「揚子江」で私に忘れ残ったのは,揚子江の長さと筏に豚や鶏を乗せて下る,しかもそれが1年もかかるという中国人(当時は支那人)のゆうゆうたる姿である。
これは文語文だった。
揚子江ハ支那第一ノ大河ニシテ,其ノ長サー千三百里,我ガ国ノ最南端ヨリ最北端二至ル長サヨリモ長シ。我ガ国第一ノ長流鴨緑江ノ如キハ実ニ其ノ支流ニモ及バザルナリ。
汽船ハ河ロヨリオヨソ四百五十里,小舟ハオヨソ九百里サカノボルコトヲ得。
此ノ河ノ上流地方ヨリ木材ヲキリ出シ,之ヲイカダに組ミテ河ヲ下スコトアリ。イカダノ大ナルモノハ長サ六百七十間,幅三百四十間,コレニ土ヲ置キテ野菜ヲ作り,又小屋ヲ建テテ豚・鶏等ヲカイ,一家コトゴトクコレニ乗リテ,流レニシタガイテ下ル。其ノ家ヲ出デテヨリ,イカダヲトキテ木材ヲ売ルニ至ルマデ,一年ノ長キニワタルコト珍シカラズトイウ。
揚子江ハ水量ツネニ豊ニシテ,洋々ト流ルレドモ,夏季ハコトニ増水シテ,濁流江ニミナギリ,河ロヨリ海上百里ノ間,海水コレガタメニ赤シトイウ。揚子江ノ大ナルコト
コレニテモ知ルベシ。
揚子江ノ流域ハ地味スコプルコエ,米・茶・綿等ノ物産多シ。又沿岸ニハ上海・漢口等アリテ,我が国トノ貿易甚ダ盛ナリ。
つぎの,第六「呉鳳」というのは,台湾の話だが,日本の統冶時代ではなく,なぜか清朝時代の話である。
呉鳳という名も,話の内容もなぜか私は憶えている。
台湾の蕃人には,お祭りに人の首を取って供える風がありますが,亜里山の蕃人にだけは,此の悪い風が早くから止みました。これは呉鳳という人のおがげだと申します。
呉鳳は今から二百年程前の人で,亜里山の役人でした。たいそう蕃人をかわいがりましたので,蕃人から親のようにしたわれました。
呉鳳は役人になった時から,どうかして首取の悪風を止めさせたいものだと思いました。ちょうど蕃人が,其の前の年に取った首が四十余ありましたので,それをしまって置かせて,其の後のお祭りには,毎年其の首を一つづつ供えさせました。
四十余年はいつの間にか過ぎて,もう供える首がなくなりました。そこで蕃人どもが呉鳳ヘ,首を取ることを許してくれといって出ました。呉鳳はお祭りの為に人を殺すのはよくないということを説聞かせて,もう一年,もう一年とのぱさせていましたが,四年目になると,
「もうどうしても待っていられません。」
といって来ました。呉鳳は
「それ程首がほしいなら,明日の昼頃,赤い帽子をかぷって,赤い着物を着て,此所を通る者の首を取れ。」
といいました。
翌日蕃人どもか,役所の近くに集まっていますと,果して赤い帽子をかぷって,赤い着物を着た人が来ました。待ちかまえていた蕃人どもは,すぐに其の人を殺して,首を取りました。見ると,それは呉鳳の首でございました。蕃人どもは,声を上げて泣きました。
さて蕃人どもは,呉鳳を神にまつって,其の前で,此の後は決して首を取らぬとちかいました。そうして今も其の通りにしているのだといいます。
こういう話である。私には台湾と蕃人がむすぴついて記憶に残った。
もしかすると,それがこの話を載せた意図だったかもしれない。
第十八に「アメリカだより」がある。
これは,「サンフランシスコから」と「シカゴから」と「ニューヨークから」と三つからなっていて,アメリカの工業や都市の発達のさまを知らせる内容になっている。
「ニューヨークから」は次のような便りである。
長く滞在していたシカゴを立って,今日いよいよ米国一の大都会二ューヨーク市に着きました。
シカゴとニューヨークとの間は九百八十哩もありますが,おとうさんは最大急行の列車に乗って,たった十八時間で着きました。日本にはまだこんな早い汽車はありません。
ニューヨークは人口からいえぱ,ロンドンに次ぐ大都会で,七百万以上もあるといいます。高い建物のあることは世界第一で,十階・二十階の家はいくらもあります。中で最も高いのは五十五階もあります。
地上の鉄道には勿論,高架鉄道にも,地下鉄道にも,電車や汽車が終日終夜,休みなしに運転しています。アメリカ人は大きいこと,広いこと,高いこと,何でも世界一になるようにこころがけているといいますが,何しろ大した勢いです。
此所は有名な商業地ですが,りっぱな学校もありますし,博物館や図書館などもたくさんあります。
というものである。これは,アメリカに追いつき追いこせと,励まそうとしていたのであろうか。
この教科書の初版は1918年だから55階が最高としているが,1931年にはエンパイアステートビルができているから,私が習ったころは百二階だったろう。
ヨーロッパについては,もうひとつ,6年生の最後の巻,巻十二に,「ヨーロッパの旅」がある。
ロンドンから,パリーから,ベルダンから,ベルリンから,ジュネープから,の便りである。いずれも,ヨーロッパの繁栄,それをささえるヨーロッパ人をほめたたえている。
「ロンドンから」
ロンドンは何といっても世界の大都会です。テームス川を飾るタワー橋・ロンドン橋を始め国会議事堂・大英博物館・ウェストミンスター寺院,其の他見る物聞く物唯々驚く外ありません。
昨日大英博物館を一覧しました。陳列品の多種多様で,しかもその数量の数限りもないのは,さすがに世界の大博物館といわれるだけあると思いました。我が日本のよろい・かぶと其の他の武器類もたくさんあつめてあります。市街を見物して私の特に感心したのは,市民が交通道徳を重んずることです。往来の頻繁な街上でも,よく警官の指揮に従って,混乱することがなく,地下鉄道・乗合自動車などの乗り下りにも,むやみに先を争うようなことはありません。
「パリーから」
此処はさすがに芸術の都として世界に聞こえているだけあって,建物なども一般に壮麗です。
世界最美の街路といわれているシャンゼリゼーの大通りには,五六層もある美しい建物が両側に並び,車道と人道との間には,緑したたる街路樹が目もはるがに連なっています。有名な凱旋門は此の大通りの起点にあります。
ループル博物館も一覧しましたが,立派な絵画・彫刻の多いことは恐らく世界第一であろうと思いました。又エッフェル塔にも登って見ました。此の塔は世界最高の建物で,高さが三百メートルもあるそうです。塔の中には売店もあり,音楽堂・食堂なども設けられてあります。眺望台で眺めると,路を往来している人間や自動車などは,まるで蟻のように見えるし,さしもの大きなパリー市も殆ど一目に見えます。
と世界最高,世界最大を連発している。
「ベルリンから」
汽車でドイツの国内にはいったのは朝まだほの暗い頃でしたが,もう沿道の田畑には農夫が鍬を振るっており,又工場という工場には盛に黒煙が上がっていました。これはイギリスやフランスなどでは見られぬ光景で,私は今更ながらドイツ人の勤勉なのに驚きました。やがてベルリンに入って見ても,勤倹の美風が市民の間にあふれていて,彼等が大戦後における自国の疲弊を回復するため盛に活動しているのには全く敬服しました。
「ジュネープから」
世界の公園といわれているスイスは,到る処我が日本のように景色がよい。私は今ジュネープ市のモンプラン橋のてすりにもたれて,ジュネープ湖上の風景に見とれています。るり色の水に浮ぷルソー島,湖畔に連なる緑樹・白壁,はるかに紺青の空にそぴえて雪をいただくアルプの連峰。久しく単調平凡な景色にあきていた私には,如何にも心地よく眺められます。
これが,「ヨーロッパの旅」である。
私はいま読み返してみて,私のヨーロッパ像,イギリス・イメージ,フランス・イメージ,ドイツ・イメージそしてスイス・イメージのもとはこれだったのかと,してやられたことをいまいましく思うと同時に,おそろしさを感じる。
たとえば,「紳士の国・イギリス」「芸術の都・パリ」「勤勉なドイツ国民」「風光明媚なスイス」などというパターンは,教科書だけからではないだろうが,私のなかに定着していったのだろう。
一方,「大正デモクラシー」なるものの正体のもう一つを見たおもいもする。
いまは,どうであろうか。
「南米より」というのも,6年生用11巻にある。ブラジルの話。「候文」である。
「……二週間ばかり前より南方のサンパウロ市に参り候。此の辺に南米中,日本人の最も多く住める処にて,何処に行きても日本人を見かけ候は甚だ愉快に候。殊に日本人の小学校ありて,御前たちぐらいの子供が通学し居るのを見ては,殆ど身の南米に在るを忘れ候。
世界に名高きブラジルコーヒーの主要なる産地も此の辺にて,甘庶・綿花・米等もよく出来る由に候。……
コーヒー園には多くの日本人が働き居り候。中にも十三四ばかりの子供が,各国人の間にまじりてかいがいしく立働ける様を見ては,いかにもけなげに存ぜられ候。」
ブラジルは森林と原野で,「かかる処にても日本人が盛に開墾に従事致居り,其の有様は如何にも男らしく勇ましきものに候。…」
5年生用の巻9には,「トラック島だより」がある。
「…此のトラック島へ来てからもう三月になるので,土地の様子も一通りはわかりました。冬でも春でもこちらではちょうど内地の夏のようです。暑さも年中此のくらいのものだそうで,かねて思っていたのとは違い,なかなか住みよいところのようです。それに此の辺一帯の島々は我が国の支配に属しているので,内地から移って来た人も多く,少しもさびしくありません」
と書いたあと,ココ榔子とパンの木のことを書く。
パンの木の実は「土人の一番大事な食料で,焼いて食べたり,餅にして食べたりします。味はまことにあっさりしたものです」
海の美しさを書いたあと,
「土人はまだよく開けていませんが,性質はおとなしく,我々にもよくなつき,殊に近年我が国で学校をそこここに立てたので,子供等はなかなか上手に日本語を話します。此の間も十ぐらいの少女が『君が代』をうたっていました。」
とある。
第一次世界大戦の結果手に入れたばかりのミクロネシアについて,このように学校で習い,ちょうどはやった流行歌「酋長の娘」,そして少年雑誌『少年倶楽部』に連載された島田啓三の「冒険ダン吉」とがかさなりあって,「みごとな」太平洋認識ができたにちがいない。
五年生用の巻十で書きとめておきたいのは,「京城の友から」である。
こうして,日本の植民地,朝鮮,台湾,遼東半島,ミクロネシアとそろう。樺太のことは,六年生用の巻十二に間宮林蔵が登場する。
「京城の友から」はやや長いが,全文つぎの通りである。
しばらく御無沙汰致しました。皆様御かわりありませんか。こちらも一同無事です。何時か御約束した通り,今日は当地の様子を少しばかり申し上げます。
汽車で京城へ来る人は通常京城駅で下りるのです。此の停車場を出て大通りを東北に進むと,二町ぱかりで大きな門の前へでます。此の門が南大門です。京城の市街は,もと石でたたんだ高い城壁で囲まれ,その処々にこういう門があって,出入口になっていたのだそうです。今でも城壁は大部分昔の面影を留めていますし,門も主なものは残っています。南大門通から本町通・黄金通・鐘路通にかけての一帯が,京城での一番にぎやかな処です。
駅の東の方に南山という山があって,其の一部が公園になっています。此処には天照大神と明治天皇とをおまつりした朝鮮神社があります。僕はもう南山へ何度も上りましたが,此処からは京城の市街がまるで絵のように見えます。市街の周囲を取囲んだ山々は地はだが白く,それに松がまぱらに生えています。南山と向かい合って北岳という山がありますが,其のすそには,松林を後にして右に昌徳宮,左に景福宮の壮大な構があります。此の付近には一帯に朝鮮家屋があり,景福宮構内には新築の朝鮮総督府が見えます。其の手前には徳寿宮,なお手前には公会堂・朝鮮ホテル・朝鮮銀行・郵便局などの立派な洋館がそびえています。少しはなれて,右の方の小高い岡の上に天主教会堂がそぴえて見えます。すみきった空気中に煉瓦の赤色や,松の緑色などが鮮やかに浮出して見えるのは実にきれいです。
京城西南部に竜山という処があります。竜山はもと漢江にのぞんだ小さな町であったが,京城の発展するに連れて次第に広がり,両方が町続きになって,今では竜山も京城の中に編入されたのだそうです。此処には軍司令部や竜山停車場などがあります。
こちらへ来てもう三月余りになりますが,よくも続くと思うくらいの天気続きで雨というものはごくたまにしか降りません。殊に秋晴れの美しさはかくべつで,遠足好きの君なら,毎日何処へか出かけたくてたまらないだろうと思いました。
此の頃は大分寒くなって,朝は摂氏零度以下何度というきびしさ,学校へ行く途中などは,寒いというよりもいたいように感じます。面白いのは,三日四日続いて寒ければ,其の次には又其のくらいの間暖かさが続くというように,寒さと暖かさがほとんど規則正しく交替することです。こちらでは昔から之を三寒四温といっているそうです。お知らせしたい事はまだいろいろありますが,大分長くなりましたから,今日は此のくらいにして置きます。どうか御両親様によろしく。おついでに野田君や山口君にもよろしく。
十二月十八日
原安雄
水野竹次郎君
このなかで,私の記憶に残っているものは,「三寒四温」ということぱだけである。
このとき先生は韓国併合の話をしたかどうか。
「天照大神と明治天皇をまつった朝鮮神社」も「朝鮮総督府」も,あたりまえのこととして先生は読ませ,生徒は何の疑問もなく読んだのだろう。
こうして,私の小学生時代の世界像がつくられていった,と思われる。
皇国史観と欧米崇拝とアジア・アフリカ蔑視,脱亜入欧がみごとにちりばめられた,
「国際理解」教育の国語教科書であった。
このアジア認識とヨーロッパ認識,そして日本認識はかさなりあいながら,無意識のうちに潜在意識として,こどもたちのなかに,定着していったのではなかろうか。
三つ子のたましい百までという。
かくて,世界史教育は,戦前においてみごとにおこなわれていたのである。
あらためて思うのは,戦前と戦後のおおきなちがいの一つは,植民地を持つ国と持たぬ国ということではないか。
私の場合,生れてみたらそこは,植民地を持つ国であった。もの心ついてみたら,日本の植民地があった。
それを不思議に思うこともなく,あたりまえのこととして受けとめる,植民地保有国の国民として,少年時代をすごしたのである。
以上,鈴木亮のプロフィール・小学生の巻である。
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補
ここでまたついでに,いままでの日中戦争史で,抜かしてきたものとして,
上海自然科学研究所と華北交通株式会社があると書いた。
しらべて取上げなければならないと,思っているのだが,たぶん私には,時間が足りないだろうと思われる。
そこで,どなたかが,いつか手をつけてくださることをねがって,文献だけを,あげておくしだいである。
*上海自然科学研究所の文献は,
山根幸夫・他編『増補近代日中関係史研究入門』(研文出版,1996年)
の第10章「日中文化交流」の7「対華団体」に載っている(429貢)。
たぶん,いまのところ,前記の佐伯修の本が,いちばんくわしいのではないか。
*華北交通株式会社の文献
興亜院華北連絡部編『華北交通株式会社創立史』1941年復刻版,本の友社,
1995年
遠寧省
档案館編『盧溝橋事件と満鉄』全3巻,柏書房,1997年
福田英雄編『華北の交通史』TBSプリタニカ,1983年
華北交通社史編集委員会『華北交通株式会社社史』華北互助会,1984年
梅田義雄『華北交通外史』華北交通外史刊行会,1988年
『華北交通社員回顧録』華北互助会,1981年
浅田喬二編『日本帝国主義下の中国』楽游書房,1981
(第5章日本帝国主義による中国交通支配の展開―華北交通会社と華中鉄道会社を中心として―」(高橋泰隆)
高橋泰隆『日本植民地鉄道史論』日本経済評論社,1995年