7月3日 当時はオーストリア・ハンガリー二重帝国の都市であったプラハに、ユダヤ系商人ヘルマン・カフカとその妻ユーリエの間の長子として生まれる。(1889年に妹エリ、1890年に妹ヴァリ、1892年に妹オットラが生まれる。この中でも末の妹オットラが特にフランツの「お気に入り」であった。)
1889年(6才)
ドイツ系の小学校、フライシュ・マルクトの小学校に入学。当時のプラハには、ドイツ語系の学校とチェコ語系の学校とがあり、この両者の間の争いが絶えなかった。
1893年(10才)
アルトシュテッター・ギムナージウム入学、ここで少なからず社会主義の影響を受けたといわれている。(ヴァーゲンバッハによる)
1901年(18才)
プラハ・ドイツ大学入学、初め化学を、次いで法学を「全く野心なく」学び始める。この専攻選択は将来の職業選択を有利にするためだけのものであり、そのため本人の苦痛も大きかった。
1902年(19才)
生涯の友人となるマックス・ブロートと知り合う。
1904年(21才)
『ある戦いの記録』
1906年(23才)
法学士の学位取得。4月から9月まで法律事務所で「見習生」として勤務。この法律事務所の弁護士、リヒャルト・レーヴィは従来、彼の叔父であるとされていたが、実際は全く親戚ではなかったことが判明している。(アンソニー・ノーシーによる)
10月から地方裁判所、次いで刑事裁判所において「司法修習」。
『田舎の婚礼準備』
1907年(24才)
10月、一般保険会社(アシクラツィオーニ・ジェネラーリ社=イタリア系の保険会社)に「臨時雇」として入社、勤務規定の厳しさに絶望し、ひそかに転職の機会をうかがう。ヘートヴィヒ・ヴァイラーとの恋愛(?)のもつれ。
ブロートとの頻繁な娼館通い。
1908年(25才)
ボヘミア王国労働者災害保険局に「臨時職員」として採用される。チェコ系の強いこの局で、カフカは「2人しかいないユダヤ人の1人」であった。彼の高校時の同級生の父親が当時の局理事長であったことが、この就職を可能にした。
1909年(26才)
主にブロートの尽力により、雑誌『ヒューペリオン』に始めて作品が載る。プラハの無政府主義者たちへの関心の芽生え。(ヴァーゲンバッハによる)
1911年(28才)
プラハ客演中のユダヤ人俗語(イディッシュ語)旅回り劇団一座に熱中。一座の男優、イツハーク・レヴィとの交友。
1912年(29才)
8月、その後およそ5年以上にわたる膨大な文通ともめごとを引き起こす、ベルリン出身のフェリーツェ・バウアーとの出会い。文通の開始。『観察』、『判決』、『変身』の成立、『失踪者(アメリカ)』執筆開始。
1913年(30才)
フェリーツェに婚約申込み、応諾。その一方、ガルダ湖畔リーヴァのサナトリウムで「スイス娘」G・W嬢との恋愛沙汰。フェリーツェの友人グレーテ・ブロッホとの文通開始。
1914年(31才)
6月フェリーツェとの非公式な婚約。7月、ベルリンにて「ホテル内の法廷」と日記に記される婚約解消の話し合い。その際、彼がグレーテ・ブロッホに宛てた手紙が少なからず不利に働く。『審判』執筆開始。
第一次世界大戦勃発。彼は兵役を免除される。
1916年(33才)
7月、フェリーツェとマリーエンバートで10日間を共に過ごす。再び非公式の婚約。『田舎医者』などの短編。
1917年(34才)
8月に最初の喀血。肺結核と診断される。これによりフェリーツェとの婚約は最終的に破棄される。9月、ツューラウにいる妹オットラのもとへ。
1918年(35才)
プラハの北、シュレーゼンで療養。ユーリエ・ヴォホリゼクと知り合う。第一次世界大戦の終了。
1919年(36才)
夏、ユーリエと婚約するも、主にフランツの父ヘルマンの反対により解消される。『父への手紙』
チェコ人女性ジャーナリスト、ミレナ・イェセンスカ夫人が彼の作品のチェコ語訳の許可を求める。
1920年(37才)
メラーンでの療養、ミレナとの文通の開始。翌年にかけて恋愛関係への移行、終焉。
1922年(39才)
『城』執筆開始。7月からオットラのいるプラナーへ。労働者災害保険局を正式退職。『断食芸人』
(この年に彼はブロートに「私の死後に、私の原稿を焼却してほしい」と依頼したといわれている)
1923年(40才)
7月、バルト海沿岸のミューリッツへ。そこのユダヤ民族ホームの臨海学校で、ドーラ・ディアマント(デュマントとも表記される)と知り合う。9月、ベルリン、シュテーグリッツでドーラと同棲生活を始めるが、第一次大戦後のドイツの天文学的インフレーションの影響を受け、栄養不良となり病状も著しく悪化する。
『巣穴』
1924年(40才)
3月、プラハに戻る。4月、ドーラらと共にウィーン郊外のサナトリウムへ。次いでウィーン郊外キーアリングのサナトリウムへ。6月3日、死去。
『歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族』
6月11日、プラハ、シュトラスニッツのユダヤ人墓地に埋葬される。
(参照・クラウス・ヴァーゲンバッハ『若き日のカフカ』、『決定版カフカ全集』第7巻付録、アンソニー・ノーシー『カフカ家の人々』)