フランツ・カフカ

フランツ・カフカ

「書くこと」と「生きること」




中学、高校の頃に多くの人が『世界文学』への入り口で一度は出会う薄い一冊の文庫本、それがカフカの『変身』ではなかったでしょうか。

「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気掛かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変わっているのを発見した。」(高橋義孝訳)

なにやらホラーめいたこんな言葉で始まるこの短編小説を、あなたはどんな気持ちで読みましたか? 何だか訳の分からない、不気味な小説、そんなイメージを抱いたまま読み終えてしまった人も多いでしょう。
あるいは

「実存主義」


という言葉をどこかで聞くか読むかして、「カフカ」というこの名前を、頭の中で、サルトルやカミュといったフランスの作家の名前のそばに「不条理」という分類項目をつけて置くことにした人もいるでしょう。

しかし、こんな不可思議な文章を書かなくてはならなかった(そうです、作家は「書かなくてはならない」と思うからこそ書くのです)フランツ・カフカという人は、一体どんな人だったのでしょう。


フランツ・カフカは1883年、つまり19世紀末のプラハに、ユダヤ系の商人の長男として生まれました。

19世紀末(西洋文学史では19世紀末の事をただ「世紀末」と呼ぶのが習わしになっています。しかしドイツ語圏について語るときは「世紀末」という呼び名を使わずに「世紀転換期」と呼ぶことが多いようです)のプラハ、というのは、それだけで一つの特殊な雰囲気を連想させます。

現在のチェコの首都であるプラハは、当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国内の一都市でした。この街に住む大多数の民族=チェコ人はチェコ語で生活をしていました。しかし帝国の支配者であるオーストリア人(つまり、ドイツ系ということですが)たちはこの街でもドイツ語で話し、ドイツ語で生活をしていました。そしてこの街に住む多くのユダヤ人たちは、よりよい生活を望むのであればドイツ語を話す側に付くことが自らに有利だと考えました。

カフカの父ヘルマンも、商人として成功するために、ドイツ語で生活する事を選びました。そして息子のフランツも、ドイツ語での教育を受けることになったのです。

しかし考えてみてください。住民のほとんどがチェコ語を喋る中で、ごく僅かな支配階級の人たちが使うドイツ語で生活を送るということは、どんな気持ちだったでしょう?
そしてそのドイツ語を喋る自分は、ドイツ人ではないのです。

カフカ自身はそんなドイツ語を一生涯「借り物」の言語だと感じ続けていました。

しかしまさにそのドイツ語で、彼は小説を書いたのです。


カフカの(あまり数は多くはありませんが)全ての小説の底辺には、常に

不安

が流れています。冒頭でもご紹介した、ある朝突然「虫」になってしまう男の話『変身』、あるいは突然「逮捕」されてしまい、不可思議な裁判に巻き込まれてしまう男の話『審判』。もしこんな事があなたの生活の中で突然起こってしまったら、どんな思いがするでしょう?

読む人をもその不安の中に巻き込んでしまうこのようなカフカの文章を、ある人は「社会」というものの本質を表しているといい、またある人は、もっと限定して、20世紀前半の「全体主義」社会を予見したものだと言っています。

これらの意見の正否はともかくとして、少なくとも確実だと言えるのは、

フランツ・カフカ自身が常に「不安」を感じながら生きていた

ということです。

彼は、大多数のチェコ語を喋る人々のなかで、ドイツ語を喋りました。
彼は、背が高く(約185センチ)とても痩せていて、のちに38歳になった時にも高校生と間違えられることがあったほどの童顔を非常に気にしていました。
彼は、商人である父親が反対するのが分かっていたので、自分が本当に学びたかった文学を諦め、法律学を学ぶことにしました。
彼が就職した「ボヘミア王国労働者災害保険局」では、彼は2人しかいないユダヤ人職員のうちの1人でした。
彼は、ある1人の女性と2度婚約し、そして、2度ともそれを破棄しました。
彼は、自分がユダヤ人であることで、どこの国にも確実な居場所がないと感じていました。

しかし、こんな「不安」に満ちた生活の中で、彼が唯一疑わなかった自らの信念があります。それが

自分は「作家」でありたい

ということでした。

年を経るごとに強くなってゆく「不安」の中に溺れそうになればなるほど、この思いは彼にとってすがるべきものとなっていったようです。


しかし、ここで気にとめなくてはならないことは

では「作家」である、というのはどういうことか?

ということです。

ある人たちは、「作家である」ということを、有名であることや、尊敬されるということ、そして(時には)金持ちであることなどと容易に結びつけて考えがちです。
生前のカフカには、これらのどれもが当てはまりませんでした。

彼は生前には、わずか数冊の本を出版しただけで、ほとんど「無名」でしたし、結核で辞職するまで、ほぼ一生涯を「ボヘミア王国労働者災害保険局」の一役人として暮らしました。

しかし彼はそれでも「作家」でした。


「たえず額をぴりぴり震わせながらも、ぼくは書きたい。」
(日記 1911年11月5日 谷口 茂訳)

「ぼくが頭の中にもっている恐るべき世界。だが引き裂くことなく、どのように自分を開放し、それを開放したものか。むろんそれをぼくのなかに留めておくとか埋めておくとかするくらいなら、引き裂いた方が千倍もましだ。」
(同 1913年6月21日)

彼の(不本意ながらも彼の死後に残されてしまった)日記は、「書く」ことが一人の人間にとって、どれだけ大きな意味を持つかということをわたしたちに教えてくれる貴重なドキュメントです。そこには「書くこと」が生きることであり、同時に「生きること」が書くことであった一人の「作家」の姿があります。


その人生と作品とを知ったとき、「作家である」というのがどんなことか、そして「書くこと」「生きること」とは何か、ということについて考えるヒントを、カフカはわたしたちに教えてくれるのではないでしょうか。


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