磐代の 浜松が枝を ひき結び ま幸しくあれば またかえりみむ

― 「片倉屋」と梅干し ―

 「片倉屋」が梅園としての本格的な歴史を歩み始めるのは、明治になってからです。明治以降、山深いといわれた紀州にも近代化の波が押し寄せ、新しい道路(現国道42号線)や鉄道が整備されるのに伴って、熊野古道は人の記憶から遠くなり、片倉屋梅園の傍にさんざめいた旅人の声も消えてゆきました。この頃から、「片倉屋」は梅を栽培する梅農家としての道を歩んできました。
 江戸の時代まで、紀州では現在のように盛んに梅が生産されていたわけではありませんでした。梅の生産が最盛期を迎えるには、日清・日露の戦争を待ちます。当時、梅干しは、兵士たちの副食(保存食)、そして健康維持のための食品として珍重され、銃後に残る家族たちは遠い戦地へ赴く息子たちが無事に帰ってくるようにという祈りを込めて、梅干しを持たせたそうです。
 この頃から南部地方の主要農産物になりつつあった梅は、新しくできた鉄道や、当時はまだ珍しくなかった廻船(帆かけ船)などを使って全国に送り出されてゆくようになりました。

「本家 片倉屋梅園」の沿革
 「片倉屋」の「片倉」という名前は、江戸から明治期にかけて旧熊野街道(熊野古道)にあった「片倉峠(南部之荘)」に由来します。
 旧熊野街道は、古く奈良の昔から明治に至るまで、京都・奈良を始めとする畿内から那智・本宮・速玉の熊野三山へ至る信仰の道として、また南紀白浜を始めとする温泉地への湯治の道として、そして紀伊半島の唯一の主要幹線道路として、大王(古代の天皇の呼称)を始め多くの人々が往来したことが知られています。また旧熊野街道は歌の道でもあります。万葉集以来、定家に至るまで多くの歌人が旧熊野街道を旅する途中で歌を詠みました。片倉屋梅園から少し離れた場所にも、万葉の時代、有馬皇子が謀反の疑いで連行されていく途中詠んだ挽歌で有名な「結びの松」があり、今も徳富蘇峰の筆による記念碑がひっそりとたたずんでいます。
 「片倉峠」は、その旧熊野街道のひとつの宿場として、また古くからの荘園のひとつとしても栄えた「南部之荘(南部駅)」の玄関口に位置する峠です。「片倉屋」の人々も、こうして旅人に一服の茶や餅でもてなした時代があったそうです。
 左の写真は、嘉永年間(江戸時代)の「片倉峠」を描写した絵図です。ご覧のように「片倉峠」の茶屋は春をひさぐ大勢の人でにぎわっています。画面左側には、駕籠にのった相撲取りが峠で休んでいる様子が描かれています。当時、どこの大名にも贔屓の力士やお抱え力士というものがいたので、今とちがって幅広く地方巡業が行われていたそうです。
 この頃、南部(みなべ)の町は、「南部駅」と呼ばれ、飛脚、伝令の宿場、紀州藩筆頭御付家老の田辺藩(安藤家)と主藩紀州徳川家の城下町和歌山、そしてその先の京・大阪へと至る物流の拠点のひとつとして、小規模ながら栄えており、その玄関口にあたる「片倉峠」も多くの人たちが往き交いました。右の写真はそのころの南部駅(宿)の様子を描いたものです。峠の絵図と違って、こちらには往き交う武士や和歌山と田辺を結ぶ大名飛脚などが描かれ、藩の専売品を商う商家、その向こうには「御宿」の看板が見えます。
 おいしいものを少しでも多くの人に食べていただこうと思う「片倉屋」の伝統は、そんな旅人への「おもてなしの心」に培われたものなのかもしれません。
 このころ、「南高梅」はまだ開発されておらず、主に「小城」、「小梅」といった品種が一般に栽培されていたそうです。
 右は、「片倉屋梅園」の人たちを写した古い写真です。まだ洋服を着ている人は少なく、ほとんどの人が和服に帽子をかぶっています。当時の帽子はひとつのステイタスでもあったそうです。写真右のネクタイにオーバーオール姿の人は、当時珍しかったトラックの運転手さんです。
 この頃、「片倉屋」では梅を栽培する梅農家として、そこで栽培される梅の半分を生の梅の実で、また残りの半分を「片倉屋梅園」で梅干しに加工し、地元で「梅屋さん」と呼ばれる梅干しの問屋や販売業者さんに卸していたそうです。
 南部地方における梅の栽培が変化を始めるのは、先の戦争(第二次世界大戦)が終わってしばらくした昭和26年ごろからです。この頃、戦前、「紀南農業学校」と呼ばれた「南部高等学校」農業科の先生が「南高梅」という新しい梅の品種改良(開発)に成功したのです。もうお分かりになったかもしれませんが、「南高梅」という名称は「南部高等学校」の略称「南高」に由来しています。
 この「南高梅」の開発によって南部地方の梅つくりは劇的に変化してゆきました。「南高梅」は従来の梅に比べ、格段に果肉が厚く香り豊かでした。この梅は、梅干しにしたときのその果肉のやわらかさから、梅干しとして他の品種を圧倒し、「南高梅」を使った梅干しは高級梅干しとして珍重されるようになり、片倉屋梅園を含め南部地方の多くの梅農家はその生産の中心を南高梅の栽培に切り替えていったのです。
 片倉屋梅園では、「南高梅」が開発されて以来、一貫して最高級の「南高梅」の栽培およびこれをつかった梅干し作りを続けてきました。その50年にわたる栽培と梅干し作りの日々の中で培った味と、古い時代から続いてきた「おもてなしの心」という伝統が「千安梅」「南高味梅」など「本家 片倉屋梅園」の梅干しには込められているのです。
片倉峠(嘉永年間)
南部駅(嘉永年間)
南部船溜りに係留された廻船(帆掛け舟)の様子
旧紀南農業学校(現南部高等学校)
「片倉屋梅園」の人々
古い南部町の風景や風物などの写真を集めてみました。ぜひご覧ください。
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