シンジは最初、自分がどこにいるのか、理解することが出来なかった。


 
 頭がボウッとする。
 
 霞がかかっているようだ。
 
 軽く2・3度、頭を振ろうとして、身体中が重いことに気づく。
 
 
 
 焦点が、徐々に揃うと、自分が透明なケースに入っているのが分かった。
 
 
 
 ああ……。
 
 そうか……。
 
 
 
 交代の時間が、来たんだ。
 
 
 
 シンジは、指だけ動かして、右手のそばにあるボタンに触れる。
 
 ピッ。
 
 「おはよう、シンジ。気分はどう?」
 
 枕元のスピーカーから、柔らかな女性の声が聞こえてきた。
 
 シンジは、数度、眉をしかめて答える。
 
 「……頭が、くらくらするよ、母さん」
 
 「いつものことでしょ。何分か経てば、自然と直るわ」
 
 「ああ……そうだったね」
 
 重い腕を持ち上げ……目頭を指で摘んで、シンジは小さく息を吐いた。
 
 
 
 きっかり10分後、シンジはベッドのケースを開く。
 
 貼り付いたように、まだ起き上がることを拒否していた体を無理矢理奮い立たせ、ようやくと上半身を起こした。
 
 ふと、横を見る。
 
 
 
 自分のスリープベッドの横に、もうひとつ、同じベッドが並んでいる。
 
 ケースはまだ閉じており、うっすらと霜がはっていて、中は見えない。
 
 しばらく、ぼーっとそれを見つめてから、シンジは口を開いた。
 
 「……母さん、綾波は?」
 
 部屋の壁に設置されたスピーカーから、先程と同じ声がする。
 
 「もう、脈動カーブには乗っているわ。レイちゃんは、もともと体が丈夫じゃないし……目が醒めるまで、あと30分くらいかかると思う」
 
 「そうか……わかった」
 
 「ブリッジで、アスカちゃんとトウジくんが待ってるわよ。早く行きなさい」
 
 「うん……」
 
 
 
 シンジは髪の毛をくしゃくしゃと掻きながら、ゆっくりとケースから立ち上がる。
 
 この部屋は、自分達のいる2つのベッドケース、そして反対側の壁際にある空のベッドケースがもう2つ、それ以外、何もない。ふわっと浮き上がる体を宙に放りながら、シンジは扉に近付いた。
 
 扉の前のプレートに手の平を置く。
 
 パシュッ、と小さな音がして、扉が開いた。
 
 「じゃ……綾波、先に行ってるからね」
 
 まだ主の目覚めぬケースに声をかけると、シンジは静かに地面を蹴り、音もなく廊下へと飛び出した。



 
星恋 (前編)


 
 シンジは、もともと寝覚めのいい方ではない。
 
 だから、というわけでもないだろうが、ブリッジへの移動中に、方向転換を忘れて3回も壁にぶつかってしまった。
 
 コールドスリープから目覚めると、いつもこうだ、とシンジは思う。
 
 その点、アスカもトウジも、すこぶる寝覚めがいい。
 
 今までに2回交代があったが、そのどちらも、今までコールドスリープしていたとは思えないような元気さでやって来たのを覚えている。
 
 レイは、また別だ。
 
 彼女は生まれつきあまり体が丈夫ではなく、普通の人が目覚める脈動レベルの3倍までこないと覚醒しない。
 
 そのかわり、目覚めたときから身体の脈動値が高いので、すぐに普通に行動できるようになるのだ。
 
 
 
 ……その計算で行くと、一番損してるのは自分じゃないかな?
 
 と、シンジは思わなくもない。
 
 
 
 通路の一番奥の扉を開き、中のグラヴィティ・ルームに入る。
 
 「準備はいい? シンジ」
 
 先程の女性の声。
 
 「いいよ」
 
 言いながら、シンジは足を踏ん張る。
 
 
 
 ズズズズズッ、という鈍い音と共に、シンジは身体中に重さが蘇るのを感じる。
 
 内蔵がギュウッと下に押し付けられる感じがして、何度やっても好きになれない感覚だ。
 
 無重力なら無重力で、ずっとそのまんまでいればいいのになぁ。
 
 と、ぼやきもするが、長期間の生活に重力が欠かせないのは分かっているので、口に出して言うことはない。
 
 20秒後、シンジの体は、彼が生まれ育った星……地球と同じ重力を感じていた。
 
 
 
 入って来た方とは反対側の扉を開け、ブリッジに入った。
 
 「こりゃぁ! 今、ズルせんかったか!?」
 
 「バカ言わないでよ! アンタ相手に、ズルする必要なんてどこにあんのよ!?」
 
 コンソールの向こう側から、聞き慣れた声が聞こえてくる。
 
 
 
 コンソールの角を曲がると、その向こうで怒鳴りあっている二人の親友の姿が見えた。
 
 案の上、彼等の手許には、トランプのカードが散らばっている。
 
 
 
 また、「ダイフゴウ」だな。
 
 いっつもやってるけど……よく飽きないなぁ……。

 ……て言うか、あのゲーム、二人でやって面白いかなぁ?
 
 
 
 苦笑して、シンジは二人に声をかけた。



 「おはよう、トウジ、アスカ」
 
 シンジの声に、アスカとトウジが顔を上げた。
 
 「あら! おはよ、シンジ」
 
 「おお、おはようさん、シンジ。なんや、もうそんな時期か?」

 首をかしげるトウジに、スピーカーから声が響いた。
 
 「そうよ、トウジくん。前の交代から、2ヶ月経ったわ」

 「ホラ」
 
 呆れた顔で、アスカがトウジの背中を小突く。

 「ユイさんが、今朝言ってたじゃない。もう忘れたワケ?」

 「ああ……そういや、そんなこと言っとった気もするワ」

 ボケッとした声で、トウジが答える。

 「そうか……もう、1年経つンやな……地球を出てから……」



 恒星間宇宙艇「Nerv」初号機が地球を出てから、正確には1年と25日が経過していた。
 
 彼等の航行の目的は、「新天地を探すこと。」

 地球からの測定で、生命が居住できる可能性のある星を選びだし、そこに向かって飛んでいるのである。
 
 
 
 半世紀前には、無人の衛星が太陽系を出ることにも、数年の月日を要したと言う。
 
 だが、先程のグラヴィティ・ルームに見られるような「重力を操作する」技術の開発と、火星の地殻から発見された新燃料素材「ゼーレ」の利用、そして、自由に凍結・解凍を行なえるコールドスリープ技術の開発により、現在は、理論上では有人で銀河系を飛び出すことも可能となったのである。
 
 
 
 だが、実際には、いまだ人類は他の恒星に辿り着いたことがない。

 
 
 技術に欠陥があるわけではない。

 人間の本能が、宇宙の深淵に向けて旅立つことを拒否してしまうのである。

 数カ月……あるいは数年に渡る、宇宙船の中だけでの生活。

 月面ステーションなどとは違い、トラブルが起こっても、戻るのに同じだけの日数を必要とする。

 いつでも冒険に旅立つ用意が整いながら、その場で足踏みをして10年以上が経過していた。



 だが、そう悠長なことを言っていられない事態に遭遇したのだ。

 国連宇宙研究所のコンピュータが、4年後に、地球に巨大な隕石が衝突することを預言したのである。

 映画ではない。
 
 隕石は巨大で、火力による破壊は不可能だ。軌道を簡単に変えることもできず、結局、放っておけば人類……いや、地球上の全ての生命が滅亡することが避けられなくなったのである。
 
 急遽、人類が生きる、次なる新天地を求めて、恒星の洗い出しと恒星間宇宙艇の建造が始まった。
 
 時間がなく、結局、1艇の宇宙艇のみが完成。国連宇宙研究所の正式名称の頭文字「Nerv」を宇宙艇の名前に付け、便宜上、初号機と呼ばれた。

 
 
 大人達は、この期に及んで、なおも臆病だった。

 本当に、行き先が人の住める星であるとは限らない。

 計算が狂って、あてもない永遠の航行になってしまう可能性もある。

 人類の滅亡を間近に控えて、彼等は「子供をパイロットにする」という、信じられない決定をくだしたのだ。
 
 
 
 表向きは、「長期間の航行には子供の柔軟な思考が求められる」ということになっている。
 
 だが、結局、首脳陣が、保証されない旅を恐れたのは明白だった。
 
 だが、子供達は、拒否しなかった。
 
 彼等は、冒険に憧れていた。
 
 全ての大人が尻込みする中、公募に集まった子供の数、およそ600万人。

 厳しい選抜と訓練の結果、選びだされた4人の子供達が、大いなる海原へと出発したのである。



 この船に乗り込んでいる、子供達。
 
 一人目は、綾波レイ。
 
 体が弱く、厳しい訓練に耐えられないだろうと考えられていたが、気付いたら耐久訓練の成績が最も良かった。

 もしかしたら、人より鈍いのかも知れない。
 
 二人目は、惣流・アスカ・ラングレー。

 聡明な頭脳と、類い稀なリーダーシップを発揮する。

 その美貌は素晴らしく、地上では密かに世界的ネットワークを誇るファンクラブができたりしているのだが、本人は全然気にしていない。
 
 三人目は、碇シンジ。
 
 国連宇宙研究所の所長・碇ゲンドウの息子だが、そのことは全くの偶然であることが証明されている。
 
 成績は中の上と言うところだったが、危機的情況での集中力が並外れており、そこが採用に結びついた。

 四人目は鈴原トウジ。
 
 いい加減な性格とへこたれない精神力、ざっくりとした判断力など、主にいいんだかわるいんだかよくわからない基準が「長期間の閉鎖空間での生活」に適しているとされ、採用された。
 
 そして、マザー・コンピュータ「エヴァ」。

 国連宇宙研究所のコンピュータに匹敵する処理能力と、史上初めての完全疑似人格を搭載した、「世界で最も優秀」と呼ばれるにふさわしいコンピュータが、この船には積み込まれており、およそ航行と通常運航の全てを取り仕切っていた。

 ちなみに、この「エヴァ」、名前をユイと言う。

 趣味なんだかなんなんだか、碇ゲンドウの妻にして碇シンジの母親の、名前と性格を与えられていた。

 物心ついた時にはすでに母を亡くしていたシンジは、自然とユイを「母さん」と呼び、残る3人も、そのことについては特に異論を挟むことはなかった。
 
 
 
 こうして、地球を出発してから、1年。

 目的の恒星までは、あと7ヶ月かかる計算である。







 「レイはどうしたのよ?」
 
 トランプを片づけながら、アスカがシンジに尋ねた。

 「いつもと同じだよ。まだ、覚醒ラインまできてないから……あと、15分くらいかな?」

 「ワイらもあと半日でコールドスリープせなアカンし、久し振りに4人でワイワイやりたいのぉ」

 航海日誌をタイプしながら、トウジが言う。



 彼等は、2人ずつ、2組に別れての交代制をとっている。

 1直が碇・綾波組、2直が鈴原・惣流組である。
 
 この組み合わせは、ユイが「最も効率がよい」と算出したものだ。
 
 確かにそうだよな、とシンジは思う。
 
 アスカとシンジが組むことになれば、2ヶ月もの間二人きりと言う状態に、シンジは胃潰瘍にでもなってしまうだろう。
 
 レイとアスカが組むことになれば、本人達が平気でも、そのギスギスした空気に交代に来るシンジがやはり気を使い過ぎて胃潰瘍になると言うものだ。
 
 その点、トウジとアスカなら、うってつけだ。喧嘩ばかりしているが、二人とも全然堪えないし、全然尾を引かないので、アッサリしたものだ。
 
 それに……この組み合わせは、僕も嬉しいし……とシンジは思い、自分の思考に少し照れて鼻の頭を掻いた。
 
 
 
 「……おはよう」
 
 背後から声が聞こえて、三人は振り返った。

 見ると、コンソールの横に、レイが立っていた。

 「おはよう、綾波」
 
 「おはようさん、綾波」
 
 「おはよ、レイ」
 
 シンジは、立ち上がってレイの側まで駆け寄った。

 「綾波、大丈夫?」
 
 「うん……大丈夫。ありがとう……」

 言いながら、レイはシンジの肩に、軽く手をのせる。
 
 「ワシら、邪魔モンみたいやの」

 「あ〜あ。とっとと寝ることにしようか」
 
 大袈裟に肩を竦めるトウジとアスカに、シンジは赤くなって反駁する。
 
 「なに言ってるんだよ、二人とも……」

 「ええて、ええて。みなまで言うな」

 「結婚式には呼びなさいよ」
 
 「だ、だから、そんなんじゃぁ……」
 
 「……ええ、じゃあ、呼ぶわ」
 
 「あ、あ、綾波!?」
 
 
 
 トウジ・アスカの容赦ない突っ込み。自爆するシンジに天然ボケをかましまくるレイ。

 ……いつもの、風景。
 
 交代でコールド・スリープに入る4人にとって、2ヶ月に一度……たった半日だけ、全員がそろう、貴重でこのうえなく居心地のいい瞬間であった。
 
 
 
 
 
 久し振りにお喋りを楽しんだあと、トウジとアスカはスリープルームに行ってしまった。
 
 シンジはふぅ、と溜め息をついて椅子に座る。
 
 そして、顔をあげる。
 
 小さな机を挟んで、反対側に座っている、レイ……。
 
 「……綾波、またこれから2ヶ月、よろしく」
 
 「……うん、よろしく、碇君……」
 
 かすかに目を細めて、レイは柔らかく微笑んだ。
 
 
 
 当直と言っても、彼等の仕事はほとんどない。

 ただ、コールド・スリープに入ってしまうと、何かの時に覚醒に時間がかかる。
 
 そのため、常に誰かが通常生活状態にいることが義務付けられているのだ。
 
 
 
 ただ、たとえば二人で、さらに昼夜交代制であたっているわけでは、ない。
 
 通常睡眠ならば、何かの時にすぐ行動できる。
 
 基本的な警戒体制や艇の運用はユイが行っているため、彼等は普通に朝起きて、普通に生活し、普通に夜眠っているだけなのである。
 
 彼等の仕事と言えば、せいぜい航海日誌をつけること、くらいであろうか?

 しかもその航海日誌も、ユイが毎日のできごとを十分に整理・蓄積しているため、単なる私的な日記と言う意味合いが強かった。

 シンジとレイも、自分達がコールドスリープしていたあいだの情報をユイから軽く説明を受け、あとは夜まで、本を読んで過ごしたのだった。







 その晩、シンジはユイに起こされた。

 「……シンジ、シンジ、起きて」
 
 「ん……なに? 母さん……」
 
 マニュピレータに肩を揺すられて、シンジは目をこすった。
 
 「レイちゃんを起こさないように」
 
 「ああ、うん……」
 
 ユイの声に小さく答えながら、シンジは自分の枕元を見る。
 
 
 
 そこには、蒼い髪の天使が、あどけない横顔で眠っていた。


 
 一応、全員に小さな個室が用意されており……レイにも、自分の部屋がある。
 
 だが、レイは毎晩、シンジのベッドに潜り込みに来るのである。

 こればっかりは、何度シンジが言っても止める気配が全くないので、最近はシンジも諦めて気にしないようにしていた。

 ちなみに彼等の名誉のために申し上げておくが、レイがシンジを抱き締めて眠っていたりなんかはするものの、彼等はキスすらしたことがないことを明記しておこう。



 それはともかく、シンジはレイを起こさないように、そっ……とベッドから抜け出すと、ブリッジに向かった。



 そこは、普段、あまり彼等が立ち入ることのない、「操縦ブリッジ」である。

 報告をまとめ、情報をチェックし、航海日記をつけるだけなら、「居住ブリッジ」で事足りる。

 アスカとトウジも、前回の2ヶ月間では、一度もここの扉を開くことはなかった。

 目的の星に着くまで、おそらく一度も入らないだろう……と思っていた操縦席へ呼ばれたことで、さすがのシンジも緊張の度合いを高めていた。

 「何があったのさ? 母さん」
 
 椅子に座りながら、シンジが問う。

 ちなみに、彼が座っているのは「艦長席」。少々意外な感じだが、この艇の艦長はシンジが務めていた。

 「待って。いま、メインモニタに映像を送るわ」

 ユイの声が聞こえ、それから3秒後、ブン……という低い音と共に、前方のメインモニタに灯が点った。



 「!」
 
 
 
 一瞬のタイムラグを置いて、シンジは思わず椅子から腰を浮かせた。

 一見、モニタに映るのは、見なれた星空に過ぎない。

 航海図から見ても、目的の恒星までの間には、何もないはずなのだから。

 だが、モニタの右端に、小さく映るものは……。



 「あれは……宇宙船……!?」
 
 シンジが、低い声で呟く。
 
 「そうね……その可能性が、一番高いわ」

 ユイの声が続く。
 
 「まだ0.4光年ほど離れているわ。この距離だと正確な数値はわからないけど……ビーコンの計測では、完全な金属体ね」

 「大きさは?」
 
 「この艇の、半分くらいかしら?」
 
 ユイの言葉を聞きながら、シンジは、気が抜けたように椅子に体を沈めた。
 
 「……て、ことは……地球の船じゃ、ないよね」

 「そうね……どこかの国が隠れて建造でもしてない限り、あり得ないわ」

 それはないだろう、とシンジは思う。
 
 地球で開発された重力制御機関には、ある程度の大きさが必要だ。

 この巨大な初号機も、考え得るサイズとしては、かなり小型な部類に入るだろう。

 この機体の、更に半分……その大きさで、地球からこれだけ離れた宙域を航行するには、既存の技術とは違う、新たな理論が必要だった。



 「それで……どうしようかと思って。こういう判断は、やっぱり搭乗員の判断に任せないと……」

 「ありがとう、母さん。そうしてくれてよかったよ」

 ユイの言葉に、シンジは片手を挙げて答えた。
 
 「相手が友好的か好戦的かもわからない。本当なら、人類史上初の、地球外知的生命体とのコンタクトなのかも知れないけど……このままやり過ごす、という手もあるね」

 シンジが、顎に手をやりながら、考える。

 「向こうは、こっちに気付いてるのかな?」

 「わからないわ。向こうからの、通信などのコンタクトはないわよ。ただ、普通に考えて……これだけの距離で、向こうが気付いていないとは考えにくいけど」

 「……だよね」
 
 言いながら、シンジは溜め息をつく。

 「こっちに向かってるの? それとも、全然無視で、まるで違う方向に航行中?」

 「いえ……動いていないわね」
 
 「え?」
 
 「完全にはわからないけど……駆動系の機関が動いている様子はないわ」

 「え……それは」
 
 シンジが言いかけたその声に、澄んだ声が重なった。

 「難破してるのかも、知れないわ……」

 「あ……綾波!」
 
 驚いてシンジが振り返ると、操縦ブリッジの入り口に、レイが立っていた。

 「碇君……目が覚めたら……いなかったから……心配で……」

 恨みがましそうな視線で、上目遣いにシンジを見る。

 「あ、わ、わ、ごめんよ、綾波……良く寝てるから、その、起こしちゃ悪いと思って……」

 「……いじわる」
 
 「あ、あはははは……か、母さんも、綾波が起きたなら、教えてくれればいいのに……」

 「あら」
 
 クスクス、とユイの笑いが聞こえる。

 「愛しのシンジがいなくなって、必死で探しているレイちゃんを見てると、なんだか可愛くて……ごめんなさいね」

 「あ、あ、あのねぇ……」
 
 頭を抱えるシンジと、首まで赤くなってしまうレイ。

 まったく……
 
 本当にコンピュータなのかよ〜……

 実は押し入れに隠れた女の人が、マイクで喋ってるんじゃないの、と、思わず疑ってしまうシンジであった。



 「ハイ、ハイ。そんなことより……どうするの?」

 ユイの言葉に、ハッと気付いて慌てて椅子に座り直すシンジ。

 レイも、とてとて……っと歩いてきて、隣の副官席に座る。

 ちなみに、レイとアスカがダブルで副官、トウジが操縦士である。

 「どうしたらいいと思う? 綾波……」

 シンジが、モニタを見つめたまま、レイに尋ねる。

 「……近寄ってみましょう」
 
 「……そうかな、やっぱり」
 
 「この距離では、判断できないわ……向こうが気付いているなら、やり過ごしてもどうせ無駄。ならば、判断できる距離まで近寄る必要があります」

 淡々とした声で、レイが説明する。

 レイは、感情に惑わされず、その場に最も相応しい判断をくだすことができる。それは、類い稀な才能であり、シンジも非常に頼もしく思っていた。

 「そうだね……じゃあ、現在位置にブイを投下。そのあと、微速であの宇宙船の方角へ向かおう」

 「了解」
 
 シンジの言葉に、ユイが答えた。



 初号機の下部ハッチから、直径2M程の球体が投下される。
 
 航路を逸れるので、道しるべが必要なのである。再びこのブイまで戻ってきて、ブイの発信するナビゲーションにシンクロさせれば、艇は再び正常な進路をとることができる。

 初号機は、その巨大な機体を、ゆっくりと未知の宇宙船に向かって回頭させた。
 
 
 
 ゆっくりと……微速で進行する初号機。

 モニタに映る宇宙船も、だんだんとその船影をはっきりとさせてくる。
 
 そして……
 
 30分後、モニタいっぱいに映る機体を、シンジは目を丸くして眺めていた。
 
 
 
 それは、あきらかに地球の作った宇宙船ではなかった。

 全体が流線形で……円柱の前と後ろをキュッと絞ったような形をしている。

 が……それはなめらかな流線形ではなく、「シルエットがなんとなく流線形」であるに過ぎない。

 その表面は、ボコボコと肉感的に膨れ上がり、縦横無尽に葉脈のような節が、メロンの表面のごとく広がっていた。

 全体が、オレンジ色に塗られており……それが、より異様な雰囲気を醸し出している。
 
 
 
 そして……何より目を引くのは、その宇宙船の下部が、小隕石にでも当たったのか、大破してしまっていることだろう。



 「……熱源は、感知されないわ」
 
 ユイが言う。
 
 ……つまり、生命が存在しない、ということだ。

 もちろん、バクテリアのような、ほとんど熱を発しない生命もいるが……それでは知的活動はできないだろうから、この場では意味がない。

 シンジは、ただ呆然と、その機体を眺めていた。



 そして、数分……。
 
 「……よし、ちょっと中に入ってみよう」

 意を決したように、シンジが立ち上がった。

 「私も行く」
 
 レイが立ち上がりかけたが、シンジはそれを、片手を上げてさえぎった。

 「駄目だよ、綾波。起きてるのは僕達だけなんだから、どちらか一人は残ってなくちゃ……それに、二人で行く程のことでもないよ」

 「危険だわ」
 
 「大丈夫だよ……多分、何かいたとしても、みんな死んじゃってるんだし。船外カメラを持っていくから、モニタで見ててよ」

 尚も言いつのろうとするレイに、シンジは優しく微笑みかけた。

 「大丈夫……心配しないで。すぐに戻ってくるから」
 
 そして、顔を上げて言う。
 
 「母さん、接舷できる? それと、船外作業服を」

 「了解……気をつけてね、シンジ……」

 笑って親指をたてると、シンジは操縦ブリッジを出ていった。

 扉が閉まり……残されたレイは、不安そうに、胸の前で両手を握り締めていた。
 
 
 
 減圧ハッチを開けると、すぐ目の前……20M程のところに、ふしくれだったオレンジ色の壁面が見えた。
 
 顔を出すと、初号機の接舷アームが、しっかりと相手の宇宙船を固定しているのが分かる。
 
 減圧を終えて、シンジはゆっくりと、初号機の外に泳ぎ出した。

 そのまま、フワリ……と、すぐ目の前の宇宙船の外壁に取り付く。

 ……考えてみれば……人類で初めて、地球外の人工物に触れた瞬間になるんだなぁ……

 などと、シンジは考える。
 
 オレンジ色の外壁は、近くで見ると、ますますぶよぶよと気色が悪い。大きなふしくれの表面に、更に血管のような細かい節が走り、さながら動物の内蔵を彷佛とさせた。

 軽く、拳で叩く……
 
 中にジェルが詰まったような感触があり、怖気が走る。

 少なくとも、宇宙船を金属で作る、という感覚は、宇宙共通というわけではないのか……。

 ……いや、さっき母さんが、ビーコンの結果を「完全な金属体」と言っていた。

 ……これが、金属? 宇宙は広いな……。

 そのままシンジは、外壁を伝って、下部の裂け目に近付いた。
 
 
 
 裂け目から中を覗くと、真っ暗で何も見えない。

 シンジは、船外カメラのスイッチを入れた。
 
 
 
 『もしもし……映ってる?』
 
 モニタに暗闇が映り、スピーカーからシンジの声が聞こえて、固唾を飲んで見守っていたレイはホッと溜め息をついた。

 「感度良好です、碇君」
 
 『じゃあ、今からライトを入れるよ』

 シンジの声と共に、前方の暗闇が、パッと明るい世界に生まれ変わった。



 中の様子は、外見から想像のつくものだった。

 正確にどういう部署にあたる場所なのかはわからないが……廊下が奥に向かって伸び、その壁に幾つかの扉。床にはライト(明かりはついていないが)が等間隔に並んでいる。
 
 ……そして、そのすべてが、ぶよぶよと膨れ上がっていた。

 少なくとも、表面が乾いた感じなのは、まだ良かったよ……と、シンジは思う。
 
 これで糸でも引いたりしたら、これ以上は絶対に行きたくないところだ。

 「床にライト……てことは、上下が逆になってるみたいだね」
 
 奥を覗き込みながら、シンジが言う。

 「まぁ……無重力で、上下もクソもないけどさ」
 
 そして、シンジはライトを改めて奥に向け直すと、辺りに注意しながら、ゆっくりと泳ぎ出した。
 
 
 
 途中の部屋はほとんどが鍵がかかっており、中を覗くことが出来なかった。数少ない、鍵の開いた部屋を覗くと、居住区と思われる個室や、倉庫と思われる部屋など、使用用途が想像できる……つまり、地球と大きくは違わない部屋が並んでいた。
 
 ただし、それでも、壁から床から、その全てが肉感的なのは変わらない。
 
 地球のものではないのだ……と、シンジは思わざるをえない。
 
 
 
 やがて、通路の一番奥、突き当たりのドアに辿り着く。

 扉一面に、びっしりと、葉脈のようなふしくれが広がっている。金属でできているはずの扉とその周りの壁の内部に、木の根が張り巡らされているような感じだ。
 
 撮影を続けながら、ふしの一つに触ってみると、やはり妙な弾力がある。

 はっきり言って、気持ちのいいものではない。
 
 だが、ここまで来て、入ってみないわけには行かないだろう。

 一つ、息を吸い込むと、意を決して、シンジは扉を開けた。
 
 
 
 中は、操縦室だった。
 
 初号機のそれにくらべると小さく、座席も見たところ二つしかない。

 まわりの計器は、地球のそれとは明らかに違う。やはり、こういう科学分野になると、進化の過程が無数にあり、同じ形態に結びつくとは限らないらしい。
 
 そして……
 
 
 
 その、操縦室が、葉脈でいっぱいになっていた。
 
 
 
 想像はしていたが、こういう閉鎖空間がこうなっていると、やはり圧倒される。
 
 床という床、壁という壁、その全てが無気味にボコボコと膨れ上がり、さながら内蔵の中にいるような錯覚を覚える。

 しかも、踏んでみるとそれが柔らかいのである。

 『……碇君、大丈夫?』
 
 ヘルメットも耳許から、心配そうなレイの声が聞こえる。

 「ああ、大丈夫だよ」
 
 シンジは答えた。
 
 初号機のモニタにも、この映像は映っているはずだ。

 「……なんだろう、これ」
 
 シンジが問う。
 
 『わからない……』

 「こういう美意識なのかなぁ」
 
 『……違うと思う』
 
 「えっ、なんで?」
 
 『前を見て』
 
 レイの声に促されて、シンジは前の方角を見上げた。
 
 「……こっちが、どうしたって?」

 『前に、モニタがあるわ……初号機と同じような』
 
 確かに、レイの言う通り、操縦席の前に、モニタが見える。

 その表面も、同じようにぶくぶくと膨れ上がっている。



 「あっ、そうか……」
 
 レイの言わんとするところをシンジも理解し、思わず声を上げた。

 『モニタは、映っているものが見えなくては意味がない。表面はフラットの方がいいと思う。意図的にそういうデザインにする意味がない……と言うより、見にくくて逆効果だわ』

 確かにレイの言う通りだ。
 
 これでは、何が映っているのか理解するのも難しいだろう。
 
 「……じゃあ、一体、なんでこういうふうになっちゃってるんだろう?」

 『……わからないわ』
 
 レイの言葉を聞きながら、シンジもお手上げと言う感じで肩を竦めた。



 シンジは、もっとよく見ようと、モニタの方に歩み寄った。

 操縦席の後ろから、操縦席の横に立つ。

 そして、ふと、その操縦席の方を向いた。



 「うッ!!」



 スピーカーから聞こえてきたシンジの声にただならぬ物を感じ、レイは慌ててマイクに駆け寄った。

 「碇君! 碇君! どうしたの!?」

 返事はない。

 ただ、息を呑むような声が聞こえた後、しばし置いて、ゆっくりと息を吐く音がスピーカーから流れてきた。



 シンジが返事をしなかったのは、驚きの余り、声を発することができなかったからだ。

 今まで、宇宙船の亀裂からここまでの間、一度も乗務員に出会うことがなかった。

 そのため、無意識のうちに、「ここにも誰もいない」と思い込んでいたのだ。



 だが、操縦席の上には、乗務員がいた。

 もちろん、死んでいるのだが。

 その姿は、大まかに見ると人間と変わらないが、腕が2対あり、頭や肩に角のようなものが生えている。

 どう見ても、宇宙人だ。



 しかし、宇宙船なのだから宇宙人がいるのは当たり前である。

 シンジが驚いたのは、そのことではない。



 ……その宇宙人の遺体が、周りと同じようなふしくれで一面を覆われていたのである。



 シンジは、ゆっくりと、カメラを宇宙人の方に向けた。

 耳許のスピーカーから、レイが小さく息を呑む音が聞こえる。

 

 「これは……まさか、こういう人種ってことは……ないよねぇ」

 『ないと……思う……』

 二人とも、自然と言葉が少なくなる。

 どう見ても・・・これは、何か重大な事件が起こったのに相違なかった。

 それがなんなのか……二人には、想像することができなかったが。



 その瞬間。

 シンジの耳に、ユイの弾けるような声が飛び込んできた。



 『シンジ! 戻って、今すぐ!!』

 「えっ? どうしたのさ、母さん?」

 『いいから! 早く!!』

 普段のユイとは違う、切羽詰まった声音だ。

 「わ、わかったよ。でも、どうしたのさ?」

 シンジは、慌てて操縦席の写真を撮影する。

 しかし、ユイは、その言葉に被るように叫んだ。



 『いいから! 早くしないと、みんな危ないわ!』



 一瞬のタイムラグの後……

 シンジは、弾けるように、操縦室を飛び出した。

 途中で船外カメラが落ちる。

 だが、振り返る余裕もなかった。

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