第7話


2017年9月

今日も、暑い。
アスファルトが熱を反射して、なんとなく街が揺らいでいるような感じ。
けれど、私はそのことが、あまり苦にならない。
いつものように、病院へ向かうその足取りは、少しだけ軽い。
碇くんは、最近よく喋るようになった。
日によっても違うけど、私のことを「綾波」と呼ぶようになった。
私が話し掛けると、返事をしてくれることが増えた。
時には、うなずくだけだったり、「うん」と首を縦に振ったり、何かひとことふたこと言葉を返してくれたりもする。
そのことが、私の心の形を少しずつ変えていく。
私は、病院に行くのが前よりも、ずっと楽しみになっていた。


401号室。
碇くんの病室。
もういったい何度この部屋を訪れたのか、わからない。
私が部屋に入ると、ベッドの脇に鈴原くんが、いつもと同じ黒いジャージ姿で立っていた。
鈴原くんは、たまにお見舞いに来てくれている。
きっと、あの時のクラスメイトの中で私を除けば、彼が一番碇くんのところによく来てくれている。
彼の左足は義足だ。
彼も、エヴァのパイロットだった。
たった1度しか乗らなかったエヴァ。それが、彼から走る自由を奪い去った。
ダミープラグの起動。それによる、初号機の容赦のない攻撃。使徒に侵食された参号機に搭乗していた彼は、エントリープラグごと初号機の腕の中で握り潰された。
左足の切断。
状況を考えれば、それだけですんだことの方が、むしろ奇跡だった。

「よお、綾波。毎日ご苦労さん」
私は、彼が来ていることを素直に喜べなかった。
碇くんを心配してくれる人がいる。そのことは、いいことだと分かっている。
でも、なぜか私と碇くんの時間を奪われるような錯覚。
なぜ、こんなことを考えるのだろう?
「シンジの奴、ずいぶんよくなったんとちゃうか?」
鈴原くんが、碇くんに聞こえないような小さな声で、私にささやく。
「わしのこと、トウジって呼んだで」
碇くんは、また窓の外を見つめている。
「・・・・碇くんは、良くなってる・・・」
私の言葉に反応して、碇くんが振り返る。
「あ、綾波・・・・」
そう、碇くんはこうして私の名前を呼んでくれる。
「具合は、どう?」
私は、いつものように話し掛ける。
「・・・・うん、大丈夫・・・・・」
碇くんは、私の顔をじっと見ている。子供が母親を見つめるように、紅い瞳の奥を覗き込むように。
本当は、いつものようにその日の出来事を話し掛けたかっただ、鈴原くんがいるのでためらわれた。
「・・・・・」
しばし、静寂が流れる。碇くんの瞳は変らず、私を見つめている。
その間に耐え切れないように、鈴原くんが口を開こうとした時、
「綾波・・・、話さないの・・・・?」
碇くんの言葉。私の心を見透かして、すべてを知った上で言ったような、不思議そうな表情。私も碇くんから視線を話すことができない。
大きな悲しみを宿した、少し茶色がかった瞳。
「・・・今日は、現代文のテストがあったわ・・・」
私は、いつもと同じ口調で話し掛ける。現代文のテストがあったこと。
私は、ほとんどの教科で満点をとれるのだけど、現代文だけ苦手。感情の機微を問う質問があるから。私は、私の基準でしか物事を見ることができないから。
そして、登校途中にいつも同じおじいさんが、同じベンチに座っていること。そのおじいさんに寝癖がついていることを指摘されたこと。
私は、いつもと同じように淡々とその日の出来事を碇くんに報告する。
鈴原くんが、私と碇くんを交互に見つめながら、呆けたように口を開いている。
碇くんは、聞こえているのか、ただときおりうなずいている。
でも、その表情は、昔よりずっと和やかだ。
かつての絶望しきった表情とは違う。
すべてをあきらめた瞳ではない。

私の話が終わると、碇くんはまた窓の外を見つめる。
何事もなかったかのように。
でも、私は碇くんに話を聞いてもらえてうれしい。
会話とは、いえない。
でも、私のココロは会話をしている。
そんな感覚。


病室を出る時、鈴原くんが私に微笑んだ。
「シンジの奴、ほんとようなっとる。なんか希望でてきたで」
私は、視線を落としたまま、何もいわない。
「シンジにだけは、元気になってもらわんと困るんや・・・」
鈴原くんは、視線を正面に戻す。
「まだ、あの時のこと、夢の中で気にしてんやないかと思うとな、俺も耐えられんのや」
参号機の事件のあと、ふたりは一度も話をしていない。いや、避けていたわけではなく、その時間すらなかった。碇くんが初号機から救出された時、鈴原くんは疎開してしまっていたから。
「シンジがようなったのは、ほんま綾波のおかげやな」
再び視線が、私の方に向けられる。
「・・・そんなことないわ・・・」
「いや、綾波の愛の力や」
鈴原くんは、何の躊躇もなく、まっすぐに私を見ている。
私は、その言葉を聞いて、なぜかほほが熱くなるのを感じた。
・・・・私の愛・・・?
鈴原くんが帰った後も、私の胸はなぜか高鳴り続けた。
・・・私は、碇くんを助けたかっただけ・・。
・・・私は、碇くんと話したかっただけ・・。
・・・私は、碇くんとひとつに・・・。

私は、ふっと碇くんを見つめる。
碇くんは、変らず窓の外の何かを見つめていた。





NACのコメント:

第6話です。
トウジが出てきましたね。トウジの存在についてのレイの心の動き、分かりますね。いけないとは思いつつも、邪魔な気がしてしまう、そんなものです。
シンジ、少しずつ回復の兆しが見えてますね。
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