第百三十一話 「雪」
六百三十九



 空は、赤く燃え広がっていた。
 
 夕焼けの美しさとも違う、
 
 朝焼けの荘厳さとも違う。
 
 
 
 言うなれば、血塗られた禍々しさを伴って。
 
 
 
 「……私たち」
 
 震える声で、マヤが呟く。
 
 キーボードを叩く指が、覚束ない。
 
 我知らず噛んだ唇が、血を滲ませる。
 
 「……正しいわよね……!」
 
 泣き声を押し殺したような、言葉。
 
 
 
 「……分かるもんか」
 
 シゲルが、沈んだ声で呟いた。
 
 
 
 ミサトが、じっと前方のモニタを見つめたまま……険しい表情を浮かべて、静かにマヤの言葉に応える。
 
 「私たちは……結局、信じるしかない」
 
 そう……
 
 
 
 「アスカを……
 
 ……いえ。
 
 ……子供たちを」
 
 
 
 そして、
 
 己の無力さを……大人の、不甲斐無さを。
 
 噛み締める。
 
 ただ、唇を噛むように。
 
 
 
 初号機と弐号機を中心としたA.T.フィールドは、もはや暴力的なまでに増大し、地上と彼らの間を繋ぐ通信の全ては遮断されていた。
 
 状況は、遥か遠くから、衛星カメラでモニタリングするしかない。
 
 文字通り、指を咥えて見ている以外……もはや、何もできない。
 
 
 
 成層圏。
 
 
 
 赤い、大樹。
 
 遥か天へと伸びる無数の枝と、
 
 遥か地へと伸びる無数の根。
 
 狂気と荘厳をその身に纏って、真っ青なカンバスに垂れる血飛沫のように、その巨大な命の樹は鎮座する。
 
 成層圏をうねる強風のるつぼに晒されているはずなのに、見る者の耳を突くような、静寂。
 
 生命の存在しない、突き抜けるような蒼と、紅と。
 
 
 
 ……そして、その中心。
 
 その、十字架の交点に、小さな紫色の、点。
 
 圧倒的な巨大さを誇る大樹のそばに、羽を広げてなお、小さすぎるほどに小さな、初号機の姿が見える。
 
 
 
 量産機との闘いで失われた右腕は、S2機関を取り込んだことで、既に再生していた。
 
 再び生えた右腕は、人間のそれのように、つるりとした肌色を見せる。
 
 その、肌色の右手と、
 
 紫色の左手を、
 
 血のように紅い大樹に向けて伸ばし……びたりと、掌を、幹の表面につけた。
 
 
 
 『アスカッ!』
 
 外部スピーカーから、シンジの声が響く。
 
 
 
 『アスカッ! 聞いてくれ!
 
 お願いだから……心を、閉じないで……!』
 
 その張り裂けんばかりの想いを自らの言葉に乗せて、シンジは叫ぶ。
 
 むろん、大樹からの反応は、無い。
 
 
 
 ……八体の量産機は、大樹の周囲を、正円の軌跡を描いて回遊している。
 
 その回遊する量産機のうちの一機が、ゆるりとその輪から外れた。
 
 
 
 「碇君ッ」
 
 空を見上げて、レイが鋭く叫ぶ。
 
 
 
 輪を離れた一体の量産機は、ゆっくりと大きな弧を描いて旋回すると、ゆるやかな羽ばたきで、初号機の背後に迫った。
 
 やがて、腕を伸ばせば紫色の背に手が届くような距離で、静止する。
 
 シンジはしかし、そんな至近距離に寄って来た量産機に、視線も向けない。
 
 「アスカ……ッ」
 
 腕を伸ばして、赤い布が幾重にも巻き付いた、その大樹の幹に掴みかかる。
 
 
 
 背中に、激痛が走った。
 
 シンジが一瞬、眉を寄せて目を閉じる。
 
 量産機が、その禍々しい牙を、初号機の背中に突き立てている。
 
 「碇君!」
 
 レイが叫ぶ。
 
 トウジも、蒼白な表情で、背後の量産機と、シンジの表情を見比べた。
 
 「ぐ……ッ」
 
 シンジの唇の端から、声が漏れる。
 
 額に、脂汗が滲む。
 
 
 
 だが、
 
 
 
 気にしている余裕は、無い。
 
 背中にたかる蠅を、相手になんてしていられない。
 
 牙が、自分の背中にめり込んでいく感触を感じる。
 
 シンジは歯を喰いしばり、目の前の聖なる大樹に相対する。
 
 布の隙間に、右手の指を捩り込む。無理矢理その布の端を掴んで、乱暴に引き千切る。
 
 ぶちぶちと千切れた布を宙に放り、今度は左腕を突き立てて、布を引っ張る。
 
 一枚一枚、その周りに巻き付いた布を引き剥がしていく。
 
 
 
 引き千切って空に放られた布の残骸は、即座に燃えるような炎を纏い、そのまま灰になって霧散する。
 
 
 
 突く。
 
 千切る。
 
 突く。
 
 千切る。
 
 突く。
 
 千切る。
 
 
 
 両腕を、交互に、
 
 突き立てる。
 
 
 
 布を、どんどん千切っていく。
 
 止まることなく、一心に、大樹の皮を、剥いでいく。
 
 
 
 この、奥に、アスカがいる……!
 
 
 
 量産機は、初号機の背中に牙を付きたてたまま、しかしそれ以上の妨害はしてこない。
 
 
 
 突く、
 
 
 
 千切る。
 
 
 
 千切られた大樹の穴は、端からまた布が再生されて、どんどん元の状態に戻ろうとしていた。
 
 一見すると、穿つ穴と、塞がる布と。それはいたちごっこのようでありながら、
 
 しかし確実に、初号機の掘る穴は、深くなっていく。
 
 
 
 ……そうして更に数分を経て、やがて。
 
 深い穴のその奥から、光る球面が、その顔を覗かせた。
 
 
 
 「コア……」
 
 トウジが、その僅かに見える球面を見つめて、小さな声で呟いた。
 
 布の間から見えるのは、コア。その色は、血に染まったように、赤い。
 
 「弐号機の……コア、なんか……?」
 
 初号機は腕を伸ばして、コアの周りの布を、更に剥いでいく。
 
 突く、
 
 千切る、
 
 そうして、やがて穴は大きくなり、その両掌でコアを包み込める程度の面積が露出された。
 
 初号機は、紫色と肌色の両掌で、その真っ赤なコアを包み込む。
 
 そうして包み込んだ両手首の周りを、再生する布が、どんどん覆い尽くしていく。
 
 
 
 みるみるうちに再生が進み、初号機の両手は、そのまま大樹の中に埋まってしまった。
 
 手首から先は、赤い幹に埋もれて見えない。
 
 しかし、シンジは、確かにその両手がコアを包んでいるのを、感じている。
 
 
 
 背中に取り付いた量産機の牙は、変わらず初号機の肩甲骨にめり込んでいる。
 
 「アスカ……ッ」
 
 背中の痛みに耐えながら、シンジは、目をきつく閉じて、呼びかけた。
 
 掌から、直に触れたコアに、その想いが伝わるように。
 
 アスカ!
 
 アスカ。
 
 アスカ。
 
 アスカ……!
 
 
 
 アスカ、
 
 戻ってきて……。
 
 
 
 僕の、
 
 綾波の、
 
 トウジの話を、聞いて。
 
 
 
 僕らのことを、怒鳴りつけて。
 
 思い切り、殴ってくれても、いい。
 
 
 
 そんなところにいたら、
 
 僕らのことを、殴ることも、できないじゃないか。
 
 
 
 アスカ……ッ!
 
 
 
六百四十
 
 
 
 かすかな、
 
 潮騒の。
 
 
 
 あるいは、
 
 嵐の喧騒の。
 
 
 
 その、向こう側から、
 
 確かに、聞いたことのある、
 
 声が聞こえた気がした。
 
 
 
 だけど。
 
 
 
 それは、聞きたくない声、という気がしたし。
 
 
 
 嫌なことが多すぎて。
 
 蹲って、膝を抱えて。
 
 この、海の中に浮かんでいる自分を、これ以上傷つけたくなくて。
 
 
 
 ただ、目を、閉じる。
 
 
 
 何も、聞こえない。
 
 何も、聞きたくない。
 
 
 
 何も、考えたく、ない。
 
 
 
 ただ、目を、閉じる。



六百四十一



 「アスカ……ッ」
 
 
 
 彼女を呼ぶ叫びは、もう、シンジだけのものではなかった。
 
 
 
 シンジの右手の上に、トウジの手が。
 
 左手の上に、レイの手が。
 
 そうして、三人が、もはや布の中に再び取り込まれてしまったコアに向けて、必死の思いでその名を呼ぶ。
 
 
 
 ……アスカ……!!
 
 
 
 だが、それに反応する声は、無い。
 
 
 
 シンジの肩に、新たな痛みが走る。
 
 量産機がいつの間にかもう一体増え、初号機の右肩に齧りついていた。
 
 布の中に手首から先を埋め込まれてしまった初号機を、引き剥がそうとしているのか。
 
 唇を噛み締めて、痛みに耐える。
 
 視界の端で、更にもう一体、周回軌道から離れる量産機の姿が見える。
 
 
 
 どうすればいい?
 
 
 
 このままでは、じり貧だ。
 
 アスカは応えない。
 
 初号機は、いずれ、量産機の群れに墜とされてしまう。
 
 そうなったら、アスカを救うことなど、できなくなってしまう……。
 
 
 
 どうすればいいんだ……?
 
 
 
 「……碇君」
 
 レイの呟きが、シンジの耳に届く。
 
 シンジはその声に瞼を開けて、レイに視線を向けた。
 
 
 
 レイは。
 
 
 
 レイの横顔は、凛、として前方を見据えていた。
 
 その、双眸に、
 
 光る、意思。
 
 
 
 そうして、静かに、言葉を紡いだ。
 
 
 
 「……私、行こうと思う」
 
 
 
 「……えっ?」
 
 シンジとトウジは、当惑した表情を浮かべた。
 
 レイは、そんな二人の様子を気に留めず、ゆっくりと、言葉を続ける。
 
 
 
 「アスカに、直接、話す。
 
 アスカに、直接……許してほしいって、言いに行く。
 
 碇君……ハッチを、開けて」
 
 
 
 レイの言葉の意味を理解して、シンジはゆっくりと、目を見開いた。
 
 「……ちょ……っと、待って、綾波」
 
 慌てた声を漏らすシンジに、レイは落ち着いた声音で応える。
 
 「アスカに、許してもらうには。……ここで、スピーカー越しに話しかけていても、だめな気がするの」
 
 「まっ……、待って、綾波! 直接って……」
 
 「直接、私の声で、私の言葉で、伝えたいの。
 
 私の、……言葉を」
 
 
 
 レイの、輝く、瞳に。
 
 ……息を、のむ。
 
 
 
 「ま……待てや、綾波」
 
 トウジが、慌てた口調で、二人の間に割って入った。
 
 困惑した表情を浮かべて、レイの顔を見る。
 
 「綾波の気持ちはよう分かるけど……ここ、どこや思っとんのや」
 
 言いながら、腕を広げて周囲を指し示す。
 
 
 
 そう……
 
 ……そこは、雲海を遥か眼下に見おろし、空は蒼よりもむしろ濃紺に近い、成層圏。
 
 「人間が、ほいほい……外に、出られる場所と違うやろ」
 
 そうだ。
 
 空気の薄さもさることながら、外を吹き荒れる暴力的なまでの風のうねりは、生身の人間が命綱も無しに踏み止まれる限界を大幅に超えていた。
 
 
 
 レイは、しかし静かに、トウジの顔を見返した。
 
 
 
 「……大丈夫。A.T.フィールドを張ればいいから」
 
 その言葉に、トウジは当惑の表情を浮かべる。
 
 「A.T.フィールドって……」
 
 「………」
 
 「……人間に、そないなもん、張れんやろが」
 
 「張れるの。私は」
 
 「んなワケ、ないやろ」
 
 トウジの否定の言葉に、レイは、数秒の沈黙を空けて……しかし、小さく、首を左右に振る。
 
 「張れるの。私は。……人間だけど。私は、人間、だけど。でも。
 
 ……人間だけど。みんなとは、違うから。大丈夫なの」
 
 「………」
 
 
 
 トウジは、言葉を失ってしまう。
 
 シンジは、レイの言葉を、黙って聞いていた。
 
 そんな二人に、レイは、改めて、視線を向ける。
 
 口を、開く。
 
 
 
 「……ハッチを開けて。
 
 私に、やらせて」
 
 
 
 凛、とした、声。
 
 
 
 「……本気、なのか」
 
 シンジが、呟いた。
 
 トウジが、驚いた表情で、シンジを見る。
 
 レイは、シンジの瞳を見つめて、頷いた。
 
 シンジも、レイの瞳を見つめる。
 
 
 
 その時間は、数分……
 
 ……いや、数秒か。
 
 
 
 シンジは、視線を外した。
 
 操縦把を引くと同時に、空中に「PLUG EJECT MODE」と、赤い文字が浮かび上がる。
 
 がくん、とインテリアシートが揺れ、内部電源が省エネルギーモードに切り替わる。
 
 
 
 「……プラグを抜いたら初号機は動力を失う。手首が布に取り込まれてるから落下はしないだろうけど、すぐに戻さないと危険だ。機外排出は迅速に行く」
 
 淡々と言葉を紡ぐシンジに、レイは頷いて見せる。
 
 「量産機が少なくとも三機、間近に取り付いている。あくまで相手は初号機で、人間なんかに興味は示さないとは思うけど……万が一もあるし、すぐに機体前面に移動して」
 
 「分かった」
 
 レイはそう応えると、シートのステップを蹴り、プラグ上部に向けてふわりと浮かび上がった。
 
 一瞬、シンジの顔の横に口許を寄せて、小さく、呟く。
 
 「碇君……ありがとう」
 
 そのまま、レイはプラグ上方へ泳ぎ出す。
 
 
 
 その遠ざかる背中を見上げて、トウジは、呆然と、呟いた。
 
 「……なんで、行かすンや」
 
 「………」
 
 シンジは、答えない。
 
 
 
 「……止めんのかいな」
 
 「………」
 
 「……シンジ」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……シンジ……ホンマに、大丈夫なんか……?」
 
 
 
 シンジは、操縦把を握り締めたまま……じっと、前方を見つめ続ける。
 
 真っ赤な大樹と、
 
 その幹に、手首から先を取り込まれた、初号機の腕。
 
 
 
 シンジが、口を開く。
 
 「……綾波を、信じてる」
 
 そう、呟く。
 
 
 
 「……信じる……て、信じれば何でもできる、っちゅうわけやないやろ」
 
 トウジが、抑揚を抑えた低い声音で、応える。
 
 まるで、諌めるかのように。
 
 シンジも、視線を前方に固定したまま、言葉を続けた。
 
 「……綾波の……意思を。それから……アスカのことも、信じてる」
 
 
 
 「ワイかて信じとるわ」
 
 トウジが言う。
 
 「……せやけど、信じてたら、こないな場所で、生身で一人、生きてられるんかいな。信じる、っちゅう力は、物理法則を捻じ曲げるんか? ちゃうやろ」
 
 「………」
 
 「……信じてるんなら、なおさら綾波を止めな、アカンのと違うんか」
 
 
 
 二人の間に、沈黙が横たわる。
 
 
 
 ゴン、ゴン……と、プラグを叩く音が、響く。
 
 ハッチ付近まで昇ったレイが、合図を送ったのだ。
 
 「シンジ」
 
 トウジが、もう一度、シンジに問い掛ける。
 
 シンジが、トウジの顔を、見返す。
 
 
 
 トウジは、じっと、シンジの顔を、見つめていた。
 
 じっと……その、瞳の奥を、見透かすように。
 
 口を、開く。
 
 
 
 「勘違い、すんな」
 
 トウジが、静かな口調で、言う。
 
 
 
 「……シンジ。
 
 ええか。
 
 シンジは、……綾波は。
 
 ……自信が、あんのや。そうやろ? 普通、綾波が死ぬかも知れへん……ちゅうか、ほぼ確実に死ぬようなトコに行くっちゅうのに、シンジがそのまんま行かすわけあらへん。
 
 自信が、あんのや。……綾波なら、外に出られる、っちゅう自信が。
 
 シンジには、……綾波には、その自信が、あるんや。
 
 
 
 ……勘違い、すんな。
 
 
 
 ワイは、闇雲に止めろ、っちゅうてんのやない。
 
 行けるんなら、行ったらええ。
 
 惣流を助ける手が、いっこでもあんのなら、何を捨ててもやったらええ。
 
 ……せやけど、ワイには、分からん。綾波が、なんで外に出ても平気なんか、分からんのや。
 
 ワイから見たら、綾波は、死にに行くようなもんや。
 
 そしたら、止めるやろ? そんなん、当たり前や。
 
 
 
 ……ワイが言いたいのはな、シンジ。
 
 ワイを、安心させろっちゅうことや。なんで、お前ら二人が、綾波が外に出ることを許せるのか。
 
 ワイにも、許させろや。
 
 
 
 ……ワイには、ワイの倫理観があるんや。ワイの、正義感が、あるんや。
 
 せやろ?
 
 ……今のまま、ハッチを開けたら、ワイは飛び出してって綾波をふん捕まえる。もしかしたら、勢いでワイも外に飛び出してしもうて、で……風に吹っ飛ばされて、死んでまうかも知れへんけど……それでも、行くで。
 
 だって、ワイにとって、綾波は仲間や。綾波が死ぬかも知れへんのに、見殺しにはできんのや。
 
 シンジが説明してくれへん限り、ワイにとって、綾波が外に出るのは、自殺行為や。
 
 絶対に、見過ごすことは、できんのや」
 
 
 
 シンジは、トウジの顔を、じっと見ていた。
 
 
 
 ゴン、ゴン、と、もう一度、壁を叩く音が聞こえる。
 
 トウジの言葉は、恐らく、レイの耳には届いていない。
 
 
 
 背中の、痛み。
 
 肩の痛み。
 
 いつしか、もう一方の肩にも、三体目の量産機が、牙を突き立てている。
 
 
 
 その痛みの全てを、忘れていた。
 
 
 
 シンジが、トウジの瞳を見つめている。
 
 トウジが、シンジの瞳を、見つめている。
 
 
 
 シンジが、口を、開く。
 
 
 
 「……僕は」
 
 
 
 瞬きも、せず。
 
 
 
 「……また、間違えるところ、だったのかな」
 
 
 
 「……間違え……? やっぱ、根拠なんか、無いんか……?」
 
 トウジの言葉に、シンジは目を瞑って、かぶりを振った。
 
 「いや……違う」
 
 間違い、とは。
 
 また、秘密にしようと、したこと。
 
 
 
 秘密にすることに、理由があっても。
 
 秘密にされた方には、確実に、傷が残る。
 
 
 
 秘密にする理由が、あるなら、
 
 秘密を打ち明けることにも、その由がある。
 
 
 
 打ち明けることの、許される。
 
 その、タイミングを見誤った結果が、この状況ではなかったか。
 
 
 
 シンジは目を瞑って、
 
 
 
 そして、開く。
 
 「……話すよ、トウジ」
 
 シンジは、顔を上げ……トウジの瞳を、しっかりと、見据えた。
 
 その瞳の色は、一瞬前とは、違う。
 
 口を開こうとしたシンジの眼前に、しかしトウジは右手を広げて、それを制した。
 
 
 
 「ええ」
 
 「……え?」
 
 「もう、ええ。分かった。大丈夫や」
 
 「……トウジ」
 
 
 
 トウジは穏やかな口調で、言葉を紡ぐ。
 
 「分かった。今のシンジの顔見て、分かったわ。すまんかった。ちゃんと分かったわ。
 
 大丈夫や、全部終わったら、ちゃんと聞かせてや。今は、時間無い。
 
 綾波を、行かせたってくれ。ワイは、綾波と、綾波を信じたシンジを、信じる。
 
 信じられる。
 
 大丈夫や。
 
 もう、大丈夫や」
 
 
 
 トウジの言葉に、数秒の隙間を置いて……
 
 ……シンジは、頷いた。
 
 首を回し、プラグの上部に声を張り上げる。
 
 「綾波! ハッチを開ける。15秒で戻す! 頼む!」
 
 ゴン、と、一回、壁を叩く音。
 
 シンジは視線を戻し、操縦把を内側に捻った。



六百四十二



 それは、突然だった。
 
 
 
 「ターミナルドグマより、正体不明の高エネルギー体が、急速接近中!」
 
 シゲルの叫びに驚きの色が含まれていたのは、当然だろう。
 
 いま、この場にいる誰もが、その意識を遥か成層圏の高みに向けていて……まさか、ドグマに何者かが出現するなど、予想もしていなかったのだ。
 
 「A.T.フィールド確認! 分析パターン……青!」
 
 マコトのモニタに、激しく明滅する幾何学形態と共に、大写しで「BLOODTYPE BLUE」の表示。
 
 
 
 「……まさか、使徒!? 本当!?」
 
 ミサトは驚愕の表情でマコトのパネルを覗き込む。
 
 
 
 次の、瞬間。
 
 
 
 真っ白な巨躯が、管制塔のメインフロア……地形図がホログラムで表示されている吹き抜けの空間に、ぬるりと立ち上がった。
 
 床を破壊して、ではない。……まるで、床をするりと通り抜けてきたかの、ように。
 
 その場にいた全員が、あっけに取られたように言葉を失った。
 
 顔を伏せ、前屈みになった真っ白な巨体が、ゆっくりとその背筋を伸ばす。
 
 その大きさは……頭の大きさが、建物二階分くらいはあるだろうか。
 
 そう、それは言うなれば、地下に眠るリリスぐらいの……。
 
 
 
 ……いや。
 
 
 
 呆然と見つめるミサトの脳裏に、拒否反応のアラートが浮かぶ。
 
 
 
 分からない。
 
 
 
 見るものに、その輪郭を捉えさせない。
 
 
 
 大きいのか、小さいのか。
 
 地球を超える大きさなのか、幼女の如き小ささなのか。
 
 
 
 分からない。
 
 確かに、今、目の前にいるはずなのに、
 
 理解できない。
 
 
 
 床にお尻をつけて、呆然とその巨体を見つめている、マヤ。
 
 その、マヤの体を、ぬるり、と、床から天井に、白い体が通り過ぎた。
 
 
 
 一瞬の空白。
 
 眼を、見開く。
 
 呆然と、宙を見つめて……
 
 ……数秒の空白を、空けて。
 
 
 
 瞳孔を……
 
 ……見開いて
 
 ……叫ぶ。
 
 
 
 「……い……や、ぁ……あぁあああああぁああああぁああぁぁああああああああぁああああああぁああああああッッッッ!!」
 
 
 
 「なん……なん、なん、なん……」
 
 シゲルが、立ち上がって、数歩、後ずさる。
 
 座っていたシートが、音を立てて後ろに倒れる。
 
 目の前の巨体から、視線を外せない。
 
 その、シゲルの体を、床から天井まで、一瞬にして白い体が通り抜ける。
 
 
 
 ぬるり。
 
 
 
 「ひッ……」
 
 
 
 腰が砕ける。
 
 どん、と尻餅をついて、床にへたり込んだ。
 
 
 
 歯の根が合わない。
 
 かちかちと、音がするのが、分かる。
 
 体が震えている。
 
 鎮まれ。
 
 どうした。
 
 だが、駆け抜けた虚無に、
 
 その身の内の寒さに、
 
 ……震えを止めることができない。
 
 
 
 「な……なん……なんだ、なんだ、なんだよ……なんなんだよッ……!」
 
 
 
 その、白い「もの」は、管制塔を通り抜けて、ジオフロントを越えて、一気に地表を超えた。
 
 瞬く間に、巨大さを増していく。
 
 だが、モニタに映るセンサーは、その大きさを一秒ごとに目まぐるしく変化させて、捉える事が出来ない。
 
 
 
 ケイジ。
 
 床に片膝をついた加持は、荒い息で前髪を掻き分けた。
 
 
 
 脂汗が浮いた額をぬぐう。
 
 加持の体を通り過ぎた「何か」は、例えようのない虚無を、加持に垣間見せて、過ぎ去っていった。
 
 大きく、乱れた息をついて振り返ると……その背後で、リツコも床に尻をついたまま、蒼白な顔で虚空を見つめている。
 
 「……りっちゃん、パンツが見えるぞ」
 
 加持の言葉に、数秒の間を置いて……焦点が急速に合う。
 
 初めて、そこにいる加持の存在に気付いたように、その顔を見……そして、更に数秒遅れて言葉の意味を理解し、慌てたように両腿を合わせた。
 
 
 
 加持は、立ち上がると、膝を払った。
 
 もう一度、大きく息をついて……体になお残る震えを、なんとか追い出し、天井を見上げる。
 
 
 
 たった、いま。
 
 ケイジの床を突き抜けて、
 
 加持とリツコの体を通り過ぎていった、
 
 白い「もの」。
 
 
 
 「なんだ……今のは」
 
 加持の膝が、まだ、笑っていた。
 
 加持の言葉に、リツコは、自らの震える肩を抱いて、呟いた。
 
 「リリス……」
 
 いや、と、言葉を濁す。
 
 「……アダム、とも言えるかしら」
 
 
 
 その言葉に、加持が振り返る。
 
 「じゃぁ……」
 
 「……あれが、手首の行き先でしょうね」
 
 「……なるほどな」
 
 加持は呟いて、頭を掻いた。
 
 
 
 確かに、この空間を通り過ぎたはずの「何か」は、しかしこの場に何の爪痕も残していない。
 
 見上げる高い天井にも、足元の床にも、傷一つ、付いていない。
 
 まるで、夢だったかのよう……だが。
 
 たった一つ、はっきりと残る、その痕跡。
 
 ……ただ、自分自身が垣間見た、あの、……虚無の、世界。
 
 
 
 「……あれが、アダムか」
 
 「アダムに、ココロなんて、無い……ってことね」
 
 リツコも溜息をつくと、額に張り付いた髪の毛を払った。
 
 
 
 レイは、初号機の腕の上を、手首の方向に向かって歩いていた。
 
 
 
 確かにその耳には、空気を切り裂くような風の音が響いている。
 
 だが、彼女の周囲を取り巻く七色の壁は、それを、スカートの裾がはためく程度のものに変えていた。
 
 ……思えば、シンジを愛するようになってから、生身の体でA.T.フィールドを展開したことなど、無い。
 
 それは、自分自身が人間である、また、そうありたいという彼女の思いが、それをさせなかったということでもあるが……シンジを幻滅させることを恐れていた、という感情もあった。
 
 ……しかし、いま、シンジの目の前でA.T.フィールドを展開することに、もはや一片の躊躇いもない。
 
 シンジの前でA.T.フィールドを展開しても、彼が自分を見る視線に変化など無い、という確信があった。それは、信頼という言葉に置き換えてもよい。
 
 そして、アスカの許に駆け寄るのにそれが必要ならば、躊躇う理由など、何も無かった。
 
 
 
 初号機の背中や肩にその牙を突き立てている量産機は、レイに対してはまるで反応しない。
 
 それだけでなく、初号機に対しても、それ以上の過度な攻撃を仕掛けてくる気配は無かった。
 
 彼らにとって、もはや補完計画はそのレールに乗っており、初号機の存在など、実際にはどうでもよいのかも知れない。
 
 
 
 重力を感じさせない、軽やかな足取りでレイは初号機の腕の上を進むと、やがて、その手首へと到達した。
 
 足元に視線を落とすと、初号機の手は、紅い大樹に完全に取り込まれてしまっている。
 
 レイはその手を伸ばすと、大樹の幹に触れた。
 
 その姿勢のまま空を見上げると、どこまでも高く、そして無数に枝分かれした枝が、大気圏を超えて宇宙の深淵にまで繋がっているのが見える。
 
 他方、眼下に視線を落とすと、その根は同じく無数に分かれ、雲海の下に消えていた。
 
 
 
 視線を、前に戻した。
 
 
 
 真っ赤な、幹。
 
 その固い幹に、指を這わせる。
 
 肘を曲げて、一歩、踏み出し、レイはその額を、赤い幹に押し付けた。
 
 目を閉じる。
 
 
 
 初号機の中で、レイの後ろ姿を、シンジとトウジが見つめていた。
 
 レイの体を、さらに二重・三重のA.T.フィールドが取り囲むのが、見えた。
 
 トウジの喉が、ごくりと鳴る。
 
 
 
 レイは、心の中で、大事な友人の名前を呼んだ。
 
 
 
 アスカ。
 
 アスカ……。
 
 アスカ。
 
 アスカ、
 
 ……アスカ。アスカ、アスカ、アスカ。
 
 
 
 アスカ……。
 
 
 
 ……戻ってきて。
 
 話を聞いて、
 
 アスカ……。
 
 
 
 アスカ!
 
 
 
 ……オレンジ色の光の中で、
 
 アスカの瞼が、ゆっくりと開く。
 
 抱えた膝の向こうから、確かに聞こえた。
 
 誰かが、自分を呼ぶ声を。
 
 
 
 だけど。
 
 
 
 それが、何だというのだろう。
 
 頭の奥に、霞がかかる。
 
 何も聞きたくない。
 
 何も考えたくない。
 
 なにも、したくない。
 
 
 
 ……世界の全てが、ゆっくりと終末に向かっている、その気配。
 
 それを、なぜか体中の神経が感じている。
 
 自分の体が、髪の毛の先まで、全て一本の樹になってしまったような錯覚。
 
 ひたひたと、確かに、滝壺の向こう側に、時間は流れ落ちていく。
 
 その速度は、少しずつ、少しずつ、速くなっていく。
 
 
 
 だが、それが何だというのだろう。
 
 全て終わってしまえばいい、
 
 ……そう、思う心は、決して偽りでは、ない。
 
 
 
 心の隅っこに、なんだか分からない違和感は、ある。
 
 もはや止めようもない終局への流れに、必死に抵抗しようと足掻いている何かが、確かに自分の中に、ある。
 
 それは、事実。
 
 だけど、……それは今の自分には、……鬱陶しいだけ。
 
 岸に指をかけて、急流から抜け出そうと藻掻くその姿に苛つき、その爪の一つ一つを引き剥がしてやりたい衝動に駆られる。
 
 
 
 でも、とアスカは思う。
 
 どんなに足掻いても……どうせ、力尽きて、やがて流れに呑まれてしまうだろう。
 
 わざわざその指を引き剥がさなくたって、もう間に合わない。
 
 そうして全ては、終わってしまうに違いなかった。
 
 
 
 思考に霞がかかる。
 
 遠くに聞こえる微かな声に耳を塞ぎ、アスカは膝を掻き抱いた。
 
 
 
 再び、その瞼は閉じられる。
 
 
 
六百四十三
 
 
 
 アスカに、想いを、届けたい。
 
 
 
 ただそれだけを念じて、必死に祈っていた。
 
 邪念を祓い、目の前の大樹に、指先に触れる赤い布に、その奥にいる少女に、集中する。
 
 だからこそ。
 
 唐突に。彼女の背後……初号機と大樹の背後に現れた、巨大な「なにか」。
 
 それは全くの予想外で、彼女を驚かせるに充分だった。
 
 
 
 音も、無く。
 
 雲海を切り裂いて、その、巨大な白い「なにか」は、紺碧の空を背景に屹立する。
 
 
 
 もちろん、驚いたのは彼女だけではなく、シンジやトウジも、完全に虚を突かれて絶句していた。
 
 
 
 突然、今まで何も無かった静謐な空間に突然現れたそれは、人型なのか、そうでないのかも区別できない。
 
 見た目の問題ではない。精神が、その形を理解するのを拒んでいた。
 
 ただ、唐突に、のそり……と現れたそれは、眼窩に黒い闇を携えて、そこに、いたのだ。
 
 
 
 トウジは、喉の奥で、空気の抜けたような、声にならない悲鳴を上げた。
 
 当たり前だ。
 
 雲海を貫き、成層圏まで到達する、巨大な人型。そんなものの存在を、理解できる人間がいるだろうか?
 
 その存在自体も不定形で、どんな形をしているのか、網膜が情報を伝えることを拒否している。
 
 見つめるだけで、不安感に苛まれる。背骨の中を、虫が這いまわるような違和感。
 
 自分を見失い、脳の回転が止まってしまうのは、仕方がないことだった。
 
 
 
 トウジに比べれば、シンジはまだましだった。
 
 我を失っていたのは一瞬。
 
 しかしシンジは、すぐに自我を立て直した。
 
 それができたのは、ひとえにシンジにとって、これが「初めて」ではなかったからだ。
 
 
 
 シンジには、目の前の人型が、あの……前回のサードインパクトのさなかに邂逅した、「巨大なレイ」と同じ存在だと、直感で理解出来ていた。
 
 と、言うより……違う、と言われても、困る。こんなもの、二つといてはたまらない。
 
 あの時……あれが「レイの姿」をしていたのは、その中に「レイ」という存在が、いたからだろう。
 
 「レイ」という存在の持つ、形の記憶。それが、あの白い巨体の輪郭に投影されていた。
 
 いま……目の前に立つ巨体の姿が不定形で捉えられないのは、その輪郭を決定する「存在」が、その裡に含まれていないからではないか、と、シンジは思う。
 
 
 
 それに、目の前のこの存在が、あの時の巨人と同じ存在であることを確信させる、もう一つの理由。
 
 シンジには、それを思わせる記憶が、もう一つのある。
 
 そう……
 
 以前……レイの代わりに、零号機に搭乗した、あの、パイロット交換実験。
 
 
 
 あの時、
 
 搭乗した零号機の中に感じた、存在……
 
 アダム。
 
 零号機の中にいたアダムの、どこまでも荒涼とした、精神の全てを凍りつかせるような……虚無の世界。
 
 ……あの交換実験の際には、その恐ろしいまでの虚無に、膝の震えを抑えるのも困難なほどの寒さを感じた。
 
 あの虚無と、同じ寒さを……目の前の存在の、そのどこまでも深く穿たれた眼窩の闇の奥に、感じる。
 
 
 
 (これは……アダムだ)
 
 あの、零号機と、同じ。
 
 それは、シンジだからこそ分かる、間違えようの無い直感だった。
 
 
 
 ……しかし、何故、突然アダムが現れたのか。
 
 シンジは、呆然と、巨体の威容を見つめる。
 
 この局面で、巨大なアダムがやってくるなどという事態は、完全な想定外だった。
 
 こいつは、敵なのか、味方なのか?
 
 ……敵だとしても、闘って、勝てるような存在では、ない。
 
 何故ここに、何をしに、来たのか。
 
 何を考えているか分からない、という点では、カヲルを除く今までの全ての使徒も同じなのだが……アダムは、それに輪をかけて、次の行動の予測が全く立たない。
 
 
 
 ともかく……長引かせるのは得策ではない、とシンジは判断した。
 
 
 
 シンジは視線をアダムから切り、大樹と、その前に立つレイに目を向ける。
 
 レイも、呆然自失の様子で、アダムを見上げて固まっているのが見える。
 
 ……初号機の背中にかじりついていた三体の量産機は、いつの間にかその牙を抜き、再び上空の輪に向けて緩やかに滑空している。
 
 ……それはつまり、量産機は「初号機の阻止」という役目を、アダムに任せたということか。
 
 あるいは、アダムの登場で補完計画は最後の局面を迎え、もはや初号機の存在など、どうでもよくなったのか。
 
 牙の痛みから解放された喜びよりも、量産機の離脱は、むしろシンジを焦らせた。
 
 
 
 『綾波!』
 
 マイクに向かって、シンジが叫ぶ。
 
 間近でシンジの叫びを聞いたトウジが、思わず驚いて身を縮め、ようやくアダムの呪縛から解放された。
 
 呆然とアダムを見つめていたレイも、シンジの声にハッと我に返る。
 
 
 
 『綾波! ……急いで!』
 
 シンジの声を聞き、レイは、顔を上げる。
 
 止まっていた脳細胞が動き出す。
 
 茫然自失していた状態から、ようやく自分の置かれた状況を思い出した。
 
 初号機を見る。
 
 『何をするか分からないんだ』
 
 スピーカーから聞こえてきたシンジの言葉は主語が欠けていたが、言わんとすることはたちまち理解できた。
 
 確かに、まさに、このアダムがこれから何をするか、見当がつかない。それは一刻の猶予もない状況なのかも知れず、レイはシンジから見えるように大きく頷いてみせた。
 
 再び、スカートを翻して大樹に向き直る。
 
 ……このままアスカを呼び続けたら、彼女にいつか届くのか……正直に言えば、分からない。
 
 だが、もう、それしか、自分たちに取りうる手段が、無い。ただ一心に、アスカを呼び続けるしか、無いのだ。
 
 再び、大樹に手を伸ばす。
 
 
 
 その瞬間、
 
 
 
 レイの背中を戦慄が走った。
 
 形容しがたい、電撃のような、感覚。
 
 再び、彼女はバッと振り返った。
 
 目を、見張る。
 
 初号機の背後から……まるで包み込むように、アダムが、その両手を伸ばして来ていた。
 
 
 
 「碇君!!」
 
 レイは叫ぶ。
 
 アダムの、輪郭のない体は、「両手を伸ばしている」ということは理解できても、その距離が分からない。
 
 伸ばした手は、初号機と、自分と、大樹と……その、どれに向かって伸ばされてきているのか、分からない。
 
 レイは、その場に留まるべきか、走り出すべきか、判断が付かない。
 
 ただ、アダムの顔を見つめることしか、できない。
 
 
 
 黒く穿たれた二つの穴と、視線が、合う。
 
 その黒い眼窩からは、何の感情も読み取れない。
 
 
 
 「き……き、き、来た、……き、来た、キタキタキタ、来たで!」
 
 トウジが上擦った声を上げた。
 
 アダムを見上げるシンジの額からも、脂汗が滲む。
 
 シンジにも、トウジにも、レイにも、アダムの目的が分からない。
 
 操縦把を握る手に力が籠る。……しかし、動けない。
 
 
 
 その、伸ばしてきた手は、何だ。
 
 何をしようとしている?
 
 どう、すれば、いいのか。
 
 
 
 目的は、初号機かも、知れない。
 
 目的は、レイなのかも知れない。
 
 シンジはレイの身を案じて、焦る気持ちを抑えながら、横目で視線を彼女に向ける。
 
 そして。
 
 
 
 気付く。
 
 
 
 ……レイが、じっと、アダムを見つめている。
 
 ただ、じっと。
 
 
 
 なんだ?
 
 
 
 シンジが、眉を寄せた。
 
 つい、一瞬、前……レイの顔を見た時には、確かに彼女の表情には、緊迫感が満ちていた。
 
 それが、無い。
 
 ただ、……無表情に、……アダムを見つめている。
 
 あの、表情は、なんだ。
 
 なんで、あんな顔をしている……?
 
 
 
 『……綾波』
 
 おず、と、シンジはスピーカーから、レイに声をかけた。
 
 レイは、応えない。
 
 
 
 初号機と、レイの間を、ただ風が吹き抜ける。
 
 そして。
 
 
 
 そのまま……
 
 ……ふわり、と、その足が、宙に浮いた。
 
 
 
 それは信じがたい光景だった。
 
 レイは、無表情のまま、視線だけをアダムに固定して、ゆっくりと宙に浮いていく。
 
 その高度は、そのまま初号機の頭を越え……それを止めようにも、初号機の手首は幹に取り込まれていて、身動きが取れない。
 
 『……綾波!?』
 
 シンジとトウジが、まるでハモるように声を上げたのは当然だろう。
 
 何が起こっているのかは分からない。
 
 
 
 シンジのこめかみの奥で、激しい警告音が鳴り響いている。
 
 何が起こっているのか、
 
 何をする気なのか。
 
 
 
 認めたくなくても、
 
 予想がついてしまう。
 
 
 
 初号機の頭の上を、ゆっくりとレイが越えていく。
 
 その先に、
 
 両腕を広げた、あの、白い……。
 
 『綾波!! 待って!』
 
 シンジが叫ぶ。
 
 背筋にぶつぶつと浮き上がる鳥肌が収まらない。
 
 
 
 駄目だ、
 
 駄目だ、
 
 駄目だ。
 
 『綾波! お願いだ! 戻ってッ……!!』
 
 
 
 駄目だ、
 
 駄目だ駄目だ駄目だ。
 
 
 
 白い巨体の、
 
 その、
 
 胸の辺りに、
 
 ゆっくりと
 
 近付く。
 
 
 
 『あやなみ!!』
 
 
 
 ぶくり、
 
 と。
 
 
 
 胸板の、その、真ん中。
 
 不定形のアダムの、なぜか中心であることだけは理解できる、その部分が泡のように、ごぼり、膨らみ。
 
 
 
 弾けた。
 
 
 
 一瞬の後に、レイの体を、その内側に取り込んで、膨らみは消えた。
 
 後には、つるりとした胸板だけが、が残った。



六百四十四



 つい、たった今の今まで、その巨体の輪郭を理解することは、出来なかった。
 
 だが、今、激しくその輪郭線が鳴動したかと思うと、急にぴしりと、その「無数の可能性」は収斂した。
 
 
 
 「あ……や、な……」
 
 顎が外れんばかりの勢いで、トウジは、目を見開いていた。
 
 シンジも、絶望の思いで、その姿を見つめている。
 
 
 
 白い巨人は、
 
 白いレイになった。
 
 
 
 真っ白なレイは、顔を真上に向けて、更なる高み……大気圏を超えた宇宙を見上げていた。
 
 初号機のシートに座る二人からは、首筋と、その美しい顎のラインしか見えず、レイの表情は見えない。
 
 顎の先の向こう側で、彼女の髪が風に煽られて激しく乱れているのが、窺える。
 
 
 
 シンジにとって、それは目を覆いたくなる光景だった。
 
 
 
 前回……シンジはその姿を見て、恐慌に陥った。
 
 姿かたちはレイのそれでありながら、レイとは思えなかった。まるで人知を超越した、恐怖しか抱かせないような、異形の者。
 
 その、姿を、シンジは今も、精神の奥深くに、消えない傷跡として、刻み込んでいる。
 
 
 
 シンジの背中を、震えが走る。
 
 ……あの時。
 
 あの時、シンジを見た、動物のような、レイの目を、覚えている。
 
 初号機を……そしてその中にいる、シンジを見透かす、目。
 
 あの、遥か心の奥底まで無遠慮に覗き見るような、冷酷な瞳。
 
 
 
 あの、
 
 目が、
 
 また……
 
 
 
 操縦把を、汗ばむ手で握り締めた。
 
 何を……
 
 
 
 ……何を、考えている?
 
 
 
 ぱぁん!
 
 乾いた音がプラグの中に響き渡り、トウジが驚いてシンジを見た。
 
 シンジは、更に2発、自らの頬を叩く。
 
 「シン……」
 
 シンジは、ぶるっと頭を振った。
 
 「綾波を、助ける」
 
 ギッ、と前方を睨んで、シンジは鋭く呟く。
 
 
 
 「え?」
 
 トウジが、驚いた表情で、シンジを見る。
 
 シンジは白いレイの顎を睨んだまま、言葉を続けた。
 
 「綾波を、連中の好きにさせない。助け出す、絶対に」
 
 「……ど、」
 
 言いかけて、トウジの喉が変な音を立てた。
 
 恐怖で、声帯がひっくり返ってしまったようだ。
 
 二、三度咳き込み、改めてシンジの顔を見る。
 
 
 
 「……ど……どないして」
 
 「知るもんか」
 
 シンジが吐き捨てるように言った言葉に、トウジは目をむく。
 
 「な、に、言うとんのや」
 
 トウジの疑問に、シンジは、バッとその顔を見た。
 
 
 
 「じゃあ、放っておくのか? そんなこと、絶対に出来ない。このまま、綾波を助けないで、アスカだけ助けたって、そんなものは何の解決にもならない」
 
 トウジが、慌てて手を挙げる。
 
 「わ、分かるで、ワシも分かっとる。分かっとるけど、せやけど、どう……」
 
 「あいつの腹を掻っ捌いてでも、綾波を引きずり出す」
 
 「そ」
 
 絶句。
 
 「そ、……そ、そない、」
 
 言葉が出ない。
 
 「そな、そないなこと、で、できるんか?」
 
 「出来るとか出来ないとかじゃない」
 
 
 
 シンジは視線を、大樹に向けた。
 
 「やるんだ」
 
 揺ぎ無い、
 
 全てを決意した、
 
 その視線。
 
 
 
 視線の先で、大樹に埋まっている、初号機の手首。
 
 まずは、この手を、大樹から引き抜かなければならない。
 
 完全に取り込まれてしまっているが、知ったことではない。
 
 初号機の持てる、全ての力を振り絞って、腕を引き抜く。
 
 そして、そのままアダムの腹に取り付き、そこを裂くのだ。
 
 
 
 シンジの脳細胞が、これ以上にないほど回転している。
 
 状況を打破するために、
 
 レイを助けるために、
 
 持てる力の全てを振り絞る。
 
 
 
 そのシンジの後頭部に、トウジの困惑した声がかかった。
 
 
 
 「……な、なんか……様子が、変やで」
 
 
 
 その言葉に、シンジは、顔を上げてトウジを見た。
 
 トウジの視線は、遥か上空……レイの、顎に向けられている。
 
 シンジも、つられるように、空を見上げた。
 
 
 
 ……巨大なレイは、先程までと変わらず、その顔を上空へ向けていて、下からは顎しか見えない。
 
 だが、先ほどまでだらりと垂れていた両腕が、いつの間にか頭を抱え込むように上がり、その見えない顔を覆っている。
 
 「……なに、しとるんや」
 
 両手を、その顔に当てて……ゆっくりと、首を左右に振っている。
 
 いやいやを、するように……。
 
 髪の毛が、風の中で左右に揺れている。
 
 
 
 行動の、意味が分からない。
 
 ゆっくりと……右に、左に、髪の毛を揺らしながら、頭を振っている。
 
 シンジも、トウジも、言葉を継げずに、ただその行動を見つめていた。
 
 なおも、繰り返し……繰り返し。
 
 30秒近く、ゆっくりと、繰り返し。
 
 
 
 そして、
 
 顔を覆っていた両手が、離れた。
 
 
 
 「なん……」
 
 トウジの言葉が終わるよりも早く。
 
 レイの首が、ぐるん、と下を向いた。
 
 
 
 初めて、その白い巨体が、その表情を、晒す。
 
 
 
 遥か上空から。
 
 
 
 初号機を、見下ろす。
 
 その……
 
 
 
 ……赤い、瞳!
 
 
 
 「……綾波!」
 
 上擦った声で、シンジの喉から声が漏れる。
 
 足元から頭の先まで、シンジの体を震えが駆け抜ける。
 
 綾波。
 
 綾波、綾波、綾波。
 
 
 
 違う。
 
 
 
 違う、違う、と、シンジの頭の中で、エコーがかかったように同じ言葉がこだまする。
 
 
 
 違う、
 
 違う、
 
 違う。
 
 
 
 ……あのときの、あの、アダムとは、違う!!
 
 
 
 ……初号機を見下ろすレイの瞳は、いつものレイの瞳だった。
 
 シンジが慈しみ、愛し、その傍に永遠にいたいと誓った、そのレイの瞳だった。
 
 初号機に、そしてその中にいるシンジに、確かな温かい愛の視線を向ける、レイの瞳だった。
 
 
 
 「……綾波!」
 
 シンジは、もう一度、レイの名前を呼んだ。
 
 シンジの腹の奥底から、例えようもない波動が広がる。
 
 この、シートを蹴って、空に飛び出したい。
 
 レイの頭を、体を、自分の腕に力一杯、抱きしめたい。
 
 いま、自分の中に湧き上がるこの思いを、彼女に伝えたい……!
 
 
 
 そうだ、
 
 何を、血迷う?
 
 
 
 レイは、違う。
 
 あの時とは、違う。
 
 
 
 レイは、もう、アダムに負けたりしない!
 
 
 
 歓喜に打ち震えるシンジと、レイは視線を絡ませる。
 
 レイは、自分自身を、失わなかった。
 
 レイは、レイだ。
 
 ……前回のアダムは、「レイの形をしたアダム」に、過ぎなかった。
 
 結局、形の記憶だけを、アダムに吸い取られたような、もの。
 
 だが、今回は、違った。
 
 レイは、自分自身を、失わなかった。
 
 そうだ。
 
 
 
 レイは、もう、アダムに負けたりしないんだ……!
 
 
 
 先ほどまでその顔を覆っていた両手を、レイはゆっくりと、初号機に伸ばした。
 
 静かに……微笑むように。
 
 その、指を、絡めるように。
 
 初号機の頭に、触れる。
 
 
 
 シンジの脳細胞の奥が、スパークした。
 
 そう……
 
 ……あの……見慣れた、横顔が……見える……!
 
 
 
 瞬間、シンジの全身の力が抜けた。
 
 「うぉッ」
 
 トウジが、咄嗟にその体を支える。
 
 肩を抱いてその顔を見ると、シンジは眠るように瞼を閉じていた。
 
 「え? ちょ……シン」
 
 シンジ、と呼びかけようとした瞬間、ビュゥン……と、プラグの明かりが落ちる。
 
 暗闇。
 
 「えッ?」
 
 一瞬の闇の後、非常電源に切り替わった。プラグの中は警告を示す赤い灯りに包まれ、全天を覆っていた風景は消えて、無骨なプラグの内壁だけが見える。
 
 小さな非常モニタだけが前方に浮かび、かろうじて周囲の様子が映ってる。
 
 「えっ……え、えッ?」
 
 シンジの肩を抱いたまま、トウジは慌てて周囲を見渡した。
 
 非常モニタの横に、英語で文字が浮かんでいる。
 
 
 
 EMERGENCY MODE / SYNCHRONIZER is OUT
 
 
 
 「えまーじぇんしー……もーど……? しん……しん……しん……」
 
 眉根を寄せて、目を細めたトウジが、完全なひらがなで読み上げる。
 
 意味がよく分からず、そのまま首を傾げた次の瞬間、全身の臓腑がぶわっと浮き上がった。
 
 
 
 「おわぁあッ!!」
 
 初号機が一気に落下し、トウジの体は天井に叩きつけられた。
 
 初号機は大樹に埋まった手首がひっかかり、がん!、と落下が唐突に治まってこんどは胃が下方向に叩きつけられた。
 
 「うぼッ」
 
 モニタを見るまでも無く、初号機が落ちて、しかし手首が大樹に取り込まれていたせいで落下せずに済んだことは、全身で受けたジェットコースターのような感覚が鋭敏に知らせていた。
 
 省電力モードになっているためか、普段だったら機能するショックアブソーバーがまともに働いていない。
 
 バッ、とモニタから外を覗くと、上の方に、大樹に取り込まれた手首が見え……
 
 ……その周りの布が、脱力した初号機の重みに耐えかねてブチブチと千切れ始めているのが見えた。
 
 
 
 トウジの全身の毛穴が、一気に収縮した。
 
 ずぁっ、と、足の指の先から脳天の髪の上まで、何かが一気に走り抜けた。
 
 緊張で、一気に胃の中のものが、喉を上がってくる感触。
 
 しかし、それでも、トウジの脳細胞は、彼がこの世に生を受けて以来、最も早い回転を見せた。
 
 逡巡は一瞬。
 
 判断は一瞬。
 
 トウジは、シンジの頭からヘッドセットを外し、それを自分の頭につける。
 
 前後が逆で、ヘアバンドのようになってしまったのはご愛嬌だ。
 
 シンジの体をL.C.L.の中に浮かせて、トウジは滑り込むようにインテリアシートに収まった。
 
 歯の根が震える。
 
 全身から、脂っぽい汗が噴き出すように流れる。
 
 だが、それでも。
 
 
 
 震える手で、しかし、折れよとばかりに操縦把を握り締めた。
 
 カチカチとなる歯を抑え込んで、喉の奥から、声を出す。
 
 「シン……シン……シンクロ、……スタートやぁッッ!!」
 
 
 
 ……そこは、風の吹き抜ける、どこまでも青い草原だった。
 
 シンジは、膝下を柔らかい草の葉が撫でるのを感じながら、制服姿で立ち尽くしていた。
 
 
 
 目の前に、ユイが立っていた。
 
 
 
 「……母さん」
 
 シンジが、小さな声で、呼び掛ける。
 
 ユイは耳にかかった髪の毛を掻き上げて、静かに微笑む。
 
 
 
 草原のかなた、地平線のあたりから、静かな瘴気が漂う。
 
 生命の息吹に満ち溢れた草原は、ゆっくりと……シンジ達を取り囲むように、枯れ草の色に変わっていく。
 
 
 
 シンジの胸のうちに、ゆっくりと……じわっと、滲むように落胆が広がった。
 
 ここは、世界だ。
 
 シンジは、考えるよりも先に、その心で確かに感じている。
 
 
 
 ここは、世界だ。
 
 その世界が、ゆっくりと……閉じようとしている。
 
 
 
 「母さん」
 
 もう一度、シンジはユイに呼び掛けた。
 
 ユイは、変わらぬ微笑みをたたえたまま、シンジを見る。
 
 「なぁに? シンジ」
 
 シンジは、そのユイの視線を、ただ、受け止める。
 
 「母さん……これが……母さんが、望んだ、ことなの?」
 
 
 
 「さぁ?」
 
 ユイは、しかし肩を竦めて、軽く応えた。
 
 シンジは、微かに困惑した表情を浮かべる。
 
 「さぁ……って」
 
 「だって」
 
 ユイが、微笑む。
 
 「私は、碇ユイでは、ないもの」
 
 
 
 「え?」
 
 シンジの声が、その喉から洩れるのと同時に、いつの間にかユイの右隣に、カヲルが立っていた。
 
 いま現れたというよりは、まるで最初からそこにいたようだった。
 
 「そうだよ、シンジくん」
 
 「カヲル君……」
 
 「彼女は、碇ユイじゃない」
 
 カヲルが、穏やかな表情で、言葉を紡ぐ。
 
 
 
 「え……?」
 
 シンジは、もう一度……ゆっくりと、眼を、見開いた。
 
 意味が、分からない。
 
 「……え? そんな……だって」
 
 シンジの言葉に、カヲルの髪の毛が、風に揺れてたなびく。
 
 「でも」
 
 カヲルの唇が揺れる。
 
 
 
 「でも……彼女は、違う」
 
 カヲルの口から流れる言葉は、風に乗って、静かにシンジの耳を撫でる。
 
 「彼女?」
 
 シンジの疑問。
 
 その言葉と同時に、三人の中心に、小さな光が現れた。
 
 その光は、輝き、煌めきながら、ゆっくりと……しかし着実に、大きくなっていく。
 
 「彼女は、本物だ」
 
 カヲルの言葉が、続く。
 
 風は、光の中心から起こっていた。
 
 「止められるのは、彼女だけだよ」
 
 眩しくて、目を開けていられない。
 
 制服が風ではためく。
 
 「彼女に、託すしか、ない」
 
 光の向こう側で、カヲルは、ユイは、どんな表情をしているのか?
 
 「彼女って……」
 
 シンジの言葉が終わるよりも早く、
 
 三人が、光に包まれた。
 
 
 
 ……そこは、深い海の底だった。
 
 
 
 光も届かない、
 
 冷たい、
 
 死の世界。
 
 
 
 アスカは、ただ膝を抱えて、沈んでいた。
 
 
 
 その顔に、表情は無い。
 
 うつろな瞳で、ただ、闇を見つめていて、
 
 彼女の美しい髪だけが、流れに任せて別の生き物のように揺らめいていた。
 
 
 
 その心は、空虚だった。
 
 
 
 何も、感じない、
 
 何も、考えない。
 
 
 
 生まれてこなければ、よかった。
 
 と、アスカは思った。
 
 
 
 だから。
 
 
 
 世界は、……私が、生まれる前の世界に、戻るだけ。
 
 瞼を、閉じる。
 
 私が……存在しない、世界。
 
 私を傷つけるものも、存在しない、世界。
 
 ……全てが、無い、世界。
 
 
 
 それは、なんて……甘美な、楽園だろうか。
 
 
 
 (本当に?)
 
 
 
 アスカの頭の中に、声が響く。
 
 
 
 優しい、声音。
 
 アスカは、糊で貼り付いてしまったかのように重い瞼を、微かに開けた。
 
 目の前に、一人の女性の姿が、見える。
 
 だけど……その、顔が、見えない。
 
 その、表情が見えない。
 
 
 
 <アンタ……誰?>
 
 
 
 アスカは、小さな声で、呟く。
 
 それは本当に小さな声で、目の前にいる女性の耳に届くはずもない。
 
 だが、女性は、確かに、微笑んだ。
 
 微笑んでくれたような、気がした。
 
 顔が……見えないのに。
 
 何も、見えないのに。
 
 
 
 (生まれない方が、よかった?)
 
 その女性の、美しい声が、問う。
 
 なんだか、不思議と身を委ねたくなるような、甘い声。
 
 安心できるような、その声に、アスカはなんとなく、会話を続けてみようか、という気分になった。
 
 自分のココロは、とうに固まってしまったと思っていたのに……なんだか、おかしい。
 
 
 
 <フフ……そうね>
 
 アスカは、自嘲気味に、呟く。
 
 
 
 <……アタシがいるから、みんな、迷惑するの。
 
 
 
 アンタ、誰だか知らないけど……フフ……知ってる?
 
 アタシがどんなに酷いことしたか、教えてあげる。
 
 
 
 渚カヲルは、死んじゃった。
 
 アタシが、この手で、殺したんだ。
 
 
 
 シンジも、レイも、アタシがいるから……アタシが馬鹿だから、隠し事をしなくちゃいけないのよね。
 
 加持さんだって、アタシみたいなガキにつきまとわれて迷惑だっただろうし、ミサトもリツコも、とんだお子サマ相手で、きっと苦労してたわ。
 
 それに……
 
 フフ……
 
 ……人類も、滅亡させちゃったし>
 
 
 
 笑いが、喉の奥から、漏れるのを抑えられなかった。
 
 まだ笑えるんだ、と、思ったけれど、
 
 こんな笑いなら、できない方がずっと、よかった。
 
 
 
 (そう……)
 
 女性が、優しい口調で、呟く。
 
 (それは……本当? 本当に、そう思う?)
 
 
 
 <本当よ>
 
 アスカは応える。
 
 声音に混じる自嘲を、抑える気力もなかった。
 
 <渚を殺したのも事実だし……人類が滅びるのも、事実。
 
 そうでしょう?
 
 ……それは、私がいなけりゃ、起こらなかったコト……よね、どっちも。
 
 ……そうでしょう?>
 
 
 
 気付けば、アスカは立ち上がっていた。
 
 いつ姿勢を変えたのか、分からない。
 
 海の中なのに、頬に乾いた涙の跡が残り、皮膚を引っ張っている感触があった。
 
 
 
 女性と、向かい合っていた。
 
 目の前にいるのに、その顔はやはり、見えなかった。
 
 誰だろう? これ……
 
 ハハ……
 
 ……自分自身と、向き合う、ってヤツかな……。
 
 
 
 とうとう末期かな、と、アスカは心の中で笑った。
 
 その笑いが、ひどく乾いていることに気付いて、……しかし、それを止めることができない。
 
 私は、終わっちゃった。
 
 終わっちゃったんだ、と、静かに、思う。
 
 
 
 <不思議ね>
 
 アスカは、目の前の女性に向かって、静かに呟いた。
 
 
 
 <アンタ……私を、受け入れてくれそうな気がする……こんな、私を。
 
 アンタ……もしかして、死神ってヤツ?>
 
 
 
 アスカの問いに、女性は微笑む。
 
 (そう見える?)
 
 <さぁ……分かんない>
 
 アスカは、言いながら笑う。
 
 
 
 <でも……さ>
 
 
 
 アスカは、ゆっくりと、女性に向かって、手を伸ばした。
 
 微笑んでいるような、
 
 泣いているような、表情で。
 
 
 
 <だったら……早く……連れてって。
 
 私を……アンタの世界へ。
 
 ここから……解放してよ>
 
 
 
 アスカの伸ばした手を、女性は見ていた。
 
 微笑んだ気が、した。
 
 頷いた、気が、した。
 
 
 
 女性も、その手を伸ばす。
 
 アスカの、伸ばしたその指先に触れ……手の甲に触れ。
 
 腕に触れ、
 
 肘に触れ、
 
 肩に触れ。
 
 
 
 アスカの、白い頬に、その手が柔らかく、添えられる。
 
 
 
 ああ、
 
 と、アスカは、思う。
 
 
 
 これで……
 
 
 
 ……終わるんだ。
 
 
 
 そして、
 
 女性の指が、
 
 頬を、優しく、撫でて。
 
 
 
 「えっ?」
 
 
 
 次の瞬間、
 
 その掌は大きく振りかぶられて、
 
 一気に振り抜かれた。
 
 
 
 アスカの頬が、鳴る。
 
 その衝撃に、アスカの体は、思わず一歩、後ろに下がった。
 
 「……えっ……?」
 
 呆然として、アスカは、女性の顔を見る。
 
 
 
 顔が、見える。
 
 
 
 顔が……表情が。
 
 
 
 「アスカ」
 
 
 
 女性が、アスカの頭を、両腕で引き寄せて、抱き締めた。
 
 力、いっぱい。
 
 アスカの目は見開かれたまま、瞬きもできない。
 
 アスカの頭を力強く抱きしめたまま、女性は、その耳元で、優しく、呟いた。
 
 
 
 「誰が……あなたを、いらないなんて……言うの? アスカ」
 
 
 
 目が、見開かれる。
 
 
 
 冷たく冷え切っていたその白い肌を、震えが、走り抜け、広がっていく。
 
 
 
 全身の、
 
 毛穴から、
 
 染み込む、
 
 
 
 言葉。
 
 
 
 一粒……
 
 ……涙が、アスカの目から、浮かびあがった。
 
 
 
 「……マ……」
 
 
 
 掠れた、声が。
 
 
 
 「……マ」
 
 
 
 その名を、呼んだ。
 
 
 
 暗い海の底に、光の渦が、巻き起こった。
 
 それは、地球上の全ての生命が持つ、命の光だった。
 
 アスカと、女性の体を、荒々しいまでの流れが、包み込む。
 
 
 
 固まっていたアスカの四肢を、大地の鼓動が叱咤する。
 
 叩きつけるような雄たけびが、うねりとなって硬直したアスカの心を砕く。
 
 全身が、ココロが、想いが、その力の全てが、駆け抜け、突き抜け、通り抜けていく。
 
 
 
 膨大な光のうねりの中で、女性はアスカの耳に、言葉を届ける。
 
 「アスカを待ってる人は、いるわ」
 
 言いながら、女性は抱えていたアスカの頭を離した。
 
 鼻先が触れ合うような距離で、アスカと、女性は、見つめ合う。
 
 「……えっ?」
 
 女性の言葉に、返答できない、アスカ。
 
 女性は、穏やかに……愛しみの全てを篭めて、アスカに微笑む。
 
 「耳を塞いでは駄目よ……聞いて。あなたを求める声を」
 
 
 
 そのアスカの耳に、確かに、届く。
 
 
 
 いつから?
 
 もしかして、今までずっと?
 
 聞きなれた声が、確かにアスカの名前を呼ぶ。
 
 それは光の渦の向こう側で、ほんのかすかに……それでも、本当に、聞こえてくる。
 
 
 
 声の方に見るアスカの肩に、女性の手が置かれた。
 
 アスカが振りむく。
 
 女性は微笑むと、その背中を、優しく押した。
 
 
 
 「私は、いつでもアスカのそばにいるわ」
 
 
 
 アスカは思わず手を伸ばした。
 
 離れてゆく女性の指と、アスカの指が絡み合う。
 
 その、温かさ。
 
 その、感触。
 
 焦がれるほどに待ち望んでいた、その、全て。
 
 
 
 指が、離れる。
 
 アスカの体が、急速に、その場から遠ざかっていく。
 
 冷たい海の底から、揺らめく水面に向かって、浮上していく。
 
 
 
 でも。
 
 
 
 その、微笑みは、アスカの胸の真ん中に、確かに息づいている。
 
 
 
 (私は、いつでもアスカのそばにいる)
 
 アスカは、流れる涙を手の甲で拭った。
 
 あれっ。
 
 いつ、泣いていたんだろう。
 
 でも、この涙は、嫌じゃない。
 
 ちっとも、嫌じゃない。
 
 
 
 豆粒のようになった女性の姿を、網膜に焼きつけて、アスカは体を振った。
 
 アスカを呼ぶ声は、どんどん大きくなる。
 
 アスカは力強く水を蹴った。
 
 そうだ。
 
 
 
 何を、勘違いしていたんだろう。
 
 何を、思い込んでいたんだろう。
 
 
 
 ……私を、待っている人は、いるんだ!
 
 
 
 光が弾けた。
 
 一気に、鉄砲水のように、アスカの体を海流が押し上げた。
 
 そうだ。
 
 この、力強さが。
 
 
 
 ママの、力……!!
 
 
 
 光の渦の向こう側に、かけがえのない親友の姿が見える。
 
 確かにアスカに向かって両手を力いっぱい伸ばしている、少女の姿に向かって、アスカはさらに水を蹴る。
 
 レイは、アスカの名前を呼ぶ。
 
 アスカも、レイの名前を呼ぶ。
 
 喜びが、破裂する想いに乗って、喉の奥から湧き上がる。
 
 
 
 ぶつかるように、レイの両腕の中に飛び込んだ。
 
 柔らかく、
 
 温かく、
 
 かけがえのない、
 
 その体に!
 
 
 
それは、

 
まるで

 
雪のように

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「なに……これ」
 
 ミサトは呆然とメインモニタを見上げていた。
 
 何が起こっているのか、分からなかった。
 
 自分の理解の範疇を超えた風景が、世界のすべてを包み込んでいた。
 
 
 
 大樹は、その幹を形成していた根と枝が一瞬にして燃え上がり、美しい炎と化した。
 
 その炎はそのまま、宇宙と地上に流れおちて霧散する。
 
 中央に残った十字架は、巻きついていた聖なる布が幾重にも解け、それが幾何学的な模様を描いて紺碧の空に広がっていく。
 
 輪を描いていた量産機は、その解ける布に取り込まれ、瞬く間に一体化して消えていった。
 
 布の通り道は光る道になり、それは花火のように光の渦を巻き散らして端から消えていく。
 
 
 
 巨大なレイは、端から音も無く砕けていく。
 
 その破片は、淡雪のように舞い散り、世界に降り注ぐ。
 
 
 
 こんな荘厳な風景が、あるだろうか?
 
 
 
 マヤは、いつの間にか、涙を流していた。
 
 体中を、歓喜と感動が、包み込んでいく。
 
 
 
 世界は、
 
 白く、
 
 白く、
 
 ただ音も無く降り積もる雪に埋まっていく。
 
 
 
 この世界の、
 
 醜さも、
 
 汚さも、
 
 全てが覆い隠されていく。
 
 
 
 空から、天使が降りてくる。
 
 
 
 紫色の機体と、
 
 赤色の機体と。
 
 その背中には、真っ白な羽根に敷き詰められた大きな翼が広がり。
 
 
 
 その指を絡め合い、
 
 その掌は、何かを包むように、
 
 やわらかく、
 
 ただ、やわらかく。
 
 
 
 掌の中心で、二人の少女は抱き合っていた。
 
 
 
 一糸纏わぬ姿で、レイとアスカは、お互いの体を力の限り抱きしめていた。
 
 
 
 お互いの名を、呼ぶ。
 
 再び、抱き締め合う。
 
 
 
 叫びたかった。
 
 
 
 心の、底から。
 
 
 
 湧き上がるこの想いを、伝えたかった。
 
 
 
 初号機と弐号機の足が、地面に降り立つ。
 
 地面に降り積もった雪が、羽毛のように舞い上がった。
 
 その吹雪は全てを覆い隠すように散り、
 
 
 
 アスカは、
 
 ただ、泣くことしかできなかった。
 
 体の中に溜まった全てを吐き出すように、
 
 涙が溢れ続けていた。
 
 
 
 そうだ。
 
 
 
 世界は、
 
 確かに、
 
 
 
 未来へ
 
 一歩を踏み出したのだ。