第百三十話 「鼓動」
六百三十七



 「初号機、搭乗準備できたわ」
 
 リツコがノートパソコンのキーボードを叩きながら、そう告げる。
 
 
 
 ……ケイジに備え付けられている専用端末は、弐号機の嵐のような起動によって破壊されてしまっていた。通常であれば、この場所での起動準備は不可能な状況である。
 
 だが、リツコは壁の端子に直接ノートパソコンを接続し、かつ管制塔と連携をとって処理の多くをMAGIに分配することで、それを可能にしていた。
 
 リツコの傍らに立った加持が、彼女の言葉に頷いてから、振り返ってシンジに左手を高く回してみせる。
 
 ……手首から先を失った右手は、その切断面も露なまま、無造作に腰元に下げている。見た目には痛々しさがあるが、つるりとして出血もなく、痛みを感じたのも最初だけだったと、本人は言う。
 
 加持の回す手を見て、タラップの上に立つシンジはヘッドセットを装着した。
 
 初号機には既にエントリープラグが半分挿入され、目の前に開いたスライドドアの中には、L.C.L.が一杯に溜まっているのが見て取れる。
 
 
 
 シンジは、プラグのふちに手をかけると、ハッチを飛び越えてL.C.L.の中にその身を投じた。
 
 ざぶん、と飛沫を上げて、シンジの体が沈む。
 
 肺の中の空気を排出し、L.C.L.で満たす。
 
 口からこぼれた空気の塊は、舞い踊りながら水面に消えた。
 
 
 
 シンジの表情は、険しかった。
 
 まだ電気の通っていないプラグの中で、暗闇を睨みつける、その瞳は、怒りで燃え盛っていた。
 
 
 
 ゲンドウの言葉が蘇る。
 
 
 
 『今でも、人類なぞ、滅んでも構わないと……思って、いる』
 
 
 
 「……ふざけるな」
 
 
 
 吐き捨てるように、シンジは呟いた。
 
 
 
 なんなんだ。
 
 どいつも、こいつも……
 
 ……みんな、何を考えているんだ。
 
 
 
 脳裏に、銀色の髪の少年の姿を、思い浮かべる。
 
 微笑むような表情で、……しかし、血の池の中で、もはや冷たくなっていた少年の姿を。
 
 
 
 脳裏に、栗色の髪の少女の姿を、思い浮かべる。
 
 絶望の中で、……歯の根も合わぬ寒さに凍えて、膝を抱えている少女の姿を。
 
 
 
 ふざけるな。
 
 
 
 シンジは、インテリアのシートに腰を下ろす。
 
 操縦把を握り、前方に視線を向ける。
 
 
 
 「……僕は、アスカを助ける」
 
 口の中で、小さく……
 
 ……しかし、揺るぎない鋭さとともに、呟く。
 
 
 
 そうだ。
 
 アスカを、助ける。
 
 その上で、サードインパクトなんか、絶対に起こさせない。
 
 
 
 ……未来は、自分の力で、変えるんだ!
 
 
 
 ドボン、と、何かがL.C.L.に着水する音が、耳に届いた。
 
 同時にハッチが閉じ、プラグの中が漆黒に支配される。
 
 シンジが驚いて振り返るのと同時に、プラグ内に電源が供給された。
 
 激しい電子信号が内壁一面に明滅する中で、レイとトウジが、ゆっくりと下降してくるのが見えた。
 
 
 
 「……綾波!? トウジ!?」
 
 驚いた表情で目を見開くシンジの左右に、レイとトウジが降りてくる。
 
 レイが横についてハンドルを引き出し、それを回すと、足を乗せることのできるステップがインテリアの両側から飛び出してくる。
 
 そのまま二人は、ステップの上に足を置いた。
 
 見ると、二人とも、頭にヘッドセットをつけている。突発的な行動ではなく、リツコの協力があることは、明らかだった。
 
 
 
 「私たちも、行く」
 
 レイは、前を向いたまま、呟いた。
 
 揺るぎない瞳で。
 
 トウジも、小さく呼応する。
 
 「邪魔に、なるかも知れへんけど……でも、もう、ただ隅っこで見とるだけっちゅうのは、堪らん。シンジも、惣流も、仲間なんやから……」
 
 
 
 呆然とした表情のシンジに、トウジは鼻を掻いた。
 
 「ま、その……本当に邪魔になりそうやったら、言うてくれ。後ろの方に下がって、精一杯、邪魔ンならんように小さくなっとるから……」
 
 「そ……」
 
 そんなことはない、と、かぶりを振ろうとするシンジの声に、レイの言葉が被る。
 
 「そんなこと、ない」
 
 二人がレイを見ると、レイは、シンジを……そして、トウジの顔を、見た。
 
 
 
 「……私たちにとって、アスカは、大事な、友達。
 
 ……そうでしょう?
 
 その気持ちが邪魔になることなんて、ないわ」
 
 
 
 レイの言葉が終わるのとほぼ同時に、スピーカーからリツコの声が響いた。
 
 『友情の確認は終わった?』
 
 「リツコさん」
 
 シンジの返事に、リツコは淡々と言葉を紡ぐ。
 
 『いま、最終確認をしてるから、待ってて。120秒で準備できるわ』
 
 リツコの言葉尻とほぼ同時に、マヤの『主電源接続』という声が、被る。
 
 マコトやシゲルの言葉も聞こえる。
 
 『全回路動力伝達』
 
 『第2次コンタクト開始』
 
 『A10神経接続異常なし』
 
 管制塔とも足並みが揃っているようだ。
 
 
 
 オペレーターたちの言葉を背景に、聞き慣れた女性の声が、静かに響いた。
 
 『シンちゃん』
 
 「……ミサトさん」
 
 『レイ、そして、鈴原君』
 
 三人が、顔を上げる。
 
 
 
 リツコのノートパソコンによる簡易オペレーションでは出力に限界があるのか、あるいは電源供給が足りずに無駄な部分をカットしているのか。
 
 浮かぶモニタには砂嵐を背景に「SOUND ONLY」と表示されているだけで、ミサトの顔は見えない。
 
 だが、
 
 ……分かる。
 
 彼女の、表情が。
 
 
 
 『……アスカのこと、頼んだわよ』
 
 
 
 「「「はい」」」
 
 即答した三人の言葉が、重なった。
 
 お互い、それに驚いたり、顔を見合わせることはなかった。
 
 マヤの声が聞こえる。
 
 『オールグリーン。発進準備整いました』
 
 数拍の、間を、空けて。
 
 凛とした、声が、響く。
 
 
 
 『エヴァンゲリオン、初号機、発進!』
 
 
 
 ズン! という衝撃とともに、初号機は発射抗を勢いよく上昇していった。



六百三十八



 「……なんなんだ、あれは」
 
 
 
 戦自のヘリコプターに乗った兵士が、呆然とした表情で、呟く。
 
 退却の指示も出ていないのに、機体がゆっくりと後退しているのは、訓練されたパイロットには有り得ぬ無意識の恐怖の表れだろうか。
 
 
 
 ヘリコプターの眼下にぽっかりと空いた、N2爆雷の爪痕。
 
 ……その下に見える、ピラミッド状のNERV本部施設。
 
 その傍らには四角い地底湖、
 
 爆雷で木々が薙ぎ払われ、荒れた地肌が見え隠れする、森。
 
 その、森の中に……
 
 ……たったいま降り立ったばかりの、九体の獣の姿が見える。
 
 
 
 真っ白な人型をしたその獣は、片手に不釣り合いなほど大きな両刃の武器を携え、前傾姿勢で腰を落とす。
 
 その体長よりも遥かな長さで広げられていた翼は、生理的嫌悪を喚起させる有機的な動きで、ぬるりとその肩甲骨の突起に吸い込まれた。
 
 大きな口を縁取る、血のように赤い唇と、その間から覗く、白い歯。
 
 それ以外に表情を思わせるものは何も無く、その気配の窺えぬ様が、ますます野生の獣を彷彿とさせる。
 
 
 
 確かに、兵士たちには「新たな味方」の来訪は、事前に予告されていた筈だ。
 
 この異形の者たちは攻撃対象ではなく、獣共の邪魔をせぬようにと、通告がなされていた筈である。
 
 だが、それでも……一斉砲撃が降り注いだのは、その姿が「とても味方とは思えない」もの、だったからであろうか。
 
 
 
 空から降り注ぐ無数の光が、森を、湖を、そして彼らを爆炎に包む。
 
 
 
 だが、業火の中で、そののっぺりとした機体には、傷の一つもつかなかった。
 
 A.T.フィールドを張るまでもない。
 
 その姿勢は変わることもなく、戦自に対して反撃の意思を見せることもなかった。
 
 それはまるで、たかる蠅を払う必要などない、と言っているかのようだ。
 
 
 
 そうして、九体の天使を傷つけることすら叶わない、戦自の攻撃。
 
 しかし、冷静な状況判断を欠いたまま、砲塔に装填済みだった爆撃を全て砲撃したため、そのうちの何割かは、照準を量産機にはセットされていなかった。
 
 直前まで、攻撃の対象だったもの……照準がセットされていた対象は、地底湖の中に沈む、弐号機。
 
 対地上ミサイルと一緒に、水中爆雷が次々と地底湖に水柱を上げて着水する。
 
 それはやがて、先ほどと同じく、時間差を置いて湖底で激しい爆発を起こす。
 
 
 
 びりびりと、振動が内部に響く。
 
 そんな弐号機の中で、アスカは、胎児のように膝を抱えて蹲っていた。
 
 
 
 L.C.L.に浮かんだまま。
 
 ……自分の両膝に額をつけて、その顔は見えない。
 
 
 
 どくん。
 
 
 
 ……自分の、
 
 鼓動が聞こえる。
 
 
 
 どくん。
 
 
 
 いや……それはまるで、自分の鼓動ではなく。
 
 耳に張り付いている、別の人間の鼓動のようだ。
 
 
 
 どくん。
 
 
 
 自分の心臓は、どこだろう……?
 
 
 
 どくん。
 
 
 
 自分の体の中には、もう心臓はどこにも無くて。
 
 そこにぽっかりと、穴が空いているような。
 
 
 
 どくん……。
 
 
 
 ……胸に、穴が、空いて。
 
 
 
 どくん……。
 
 
 
 空いた穴から噴き出す、赤い、血の中に。
 
 
 
 ……どくん。
 
 
 
 ……横たわっているのは、誰だ?
 
 
 
 「……ぅああっ」
 
 
 
 貼り付いた喉から、意図せぬ言葉が漏れた。
 
 錆び付いたような動きで、両手がぎこちなく頭を掴む。
 
 乱れた髪の毛の隙間から、頭皮に爪が食い込む。
 
 
 
 「あ……ぁ」
 
 
 
 どくん。
 
 
 
 考えたくない。
 
 
 
 それなのに。
 
 
 
 さっきから、こびりついたように、網膜から剥がれない、この映像は、なんだ。
 
 
 
 どくん、
 
 どくん、
 
 どくん、
 
 
 
 うるさい。
 
 
 
 やめて……。
 
 
 
 ……やめて。
 
 
 
 その、人を、見せないで。
 
 
 
 美しい銀髪が。
 
 茎から水を吸う切り花のように、ゆっくりと、血の赤に染まっていく。
 
 ゆっくりと、
 
 ゆっくりと。
 
 
 
 やめて。
 
 
 
 やめて、
 
 やめて、
 
 やめて。
 
 
 
 ゆっくりと。
 
 その髪は、やがて、見る影もなく。
 
 その根元まで、真っ赤に、なる。
 
 
 
 や  め  て
 
 
 
 振り返った
 
 その顔は、
 
 
 
 自分の顔だった。
 
 
 
 「やめてぇぇぇッ!!」
 
 
 
 喉から叫びが漏れると同時に、世界は暗転した。
 
 電源の入っていなかった漆黒のプラグは、一瞬にして火が入り、ミキサーにかけられたミンチ肉のように、トリップ映像の如き激しい明滅で竜巻のように荒れ狂った。
 
 「やめてッ! やめてッ! やめてぇ……ッ!!」
 
 アスカは叫ぶ。
 
 硬直したように四肢を伸ばし、次の瞬間にはインテリアのシートに座っていた。
 
 両手の爪の先に血が付いている。頭を抱えこんだ時に、本当に頭皮に食い込んでいたようだ。
 
 一筋の血が、額から鼻梁に垂れ、LCLに溶ける。
 
 
 
 頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。
 
 自分がどこにいるのかも、分からなかった。
 
 鼓動はもはや、耳障りなほどに大きく。
 
 自分の首から上がすべて心臓になってしまったのかと思うくらいに、耳元で激しく鳴り続けている。
 
 映像が、止まらない。
 
 カヲルが、自分の放った弾に撃たれ、絶命していく。
 
 その、一連のシーンが、繰り返し、繰り返し、壊れたテープのように再生され、巻き戻され、また再生される。
 
 「やめて! やめて! やめて! やめて! やめて!」
 
 ……いつの間にか弐号機が、燃え盛る森の中に立っていることが、プラグに映る外の映像から分かる。
 
 いつ、湖から出たのか?
 
 だが、アスカは、全く外に気を配る様子が無かった。
 
 髪の毛を振り乱し、叫び続ける。
 
 「やめて! やめて! やめて! やめて! やめて……ッ!」
 
 ふと気が付くと、見たことのない白い機体が、弐号機をぐるりと取り囲んでいた。
 
 普段のアスカなら、この量産機の群れを、即座に敵と判断して薙ぎ払ったに違いない。
 
 だが今のアスカは、周りに立つ見慣れぬ白い機体のことなど、まるで眼中に無い。
 
 ただ、喉を枯らして、拒絶の思いを、叫び続ける。
 
 量産機は、弐号機から100メートルほどの距離を置いて円形にぐるりと取り囲み。
 
 そして……その手の剣を、ざくり、と垂直に地面に突き立てた。
 
 
 
 その、突き立てられた九本の剣の先から、中央の弐号機の機体に向けて、地面を何かが走る。
 
 何も無い。何も無いけれど、草が、土がえぐれ、まるで空気が通り抜けたかのように、弐号機に向けて九本の道が刻まれる。
 
 
 
 アスカの耳に、鼓動とは別の音が、聞こえた。
 
 
 
 その言葉は、彼女に何を告げたのか?
 
 言われた言葉は、分からなかった。だが、確かに聞こえたその声は、今まさに狂気のあぎとに呑みこまれかけていたアスカに照らされた、一筋の光明だった。
 
 なんだか、許しの言葉だったような、気がした。
 
 苦しみを癒す言葉だった気がした。
 
 ……彼女に逃げ道を与える、甘い問い掛けだった気が、した。
 
 それに、縋るように。
 
 その言葉を掻き集めて、
 
 枯れた声で、その「問い」に対する答えを叫んだ。
 
 
 
 「……こんな
 
 ……世界……
 
 
 
 ……消えちゃえば……いいんだッ……!!」
 
 
 
 竜巻のようだった。
 
 激しくうねる嵐が起き、その豪風はジオフロントの開口部を越えて地上にまで及び、取り囲んでいた戦自のトラック群も巻き込んだ。
 
 森は舐めるように火の海に呑み込まれ、空は夕暮れのように赤く彩られる。
 
 
 
 その中心に、陽炎に揺らめく、赤い機体。
 
 
 
 「……なンなんや、……これ」
 
 トウジが、荒れ狂う大気を見回しながら、呆然と呟く。
 
 ハッチから飛び出してきた初号機は、その周囲の状況の異常さに、立ち尽くすしかない。
 
 『リフトオフ!』
 
 ミサトの号令とともに、肩の固定具が解放され、初号機は腰を落とした。
 
 
 
 揺らめく炎のベールの向こう。
 
 弐号機の周囲に、白いエヴァが九機、立っているのが見えた。
 
 全機が、中心に立つ弐号機の方に顔を向け、周囲に背を向けた状態だ。
 
 次の瞬間、その背中から、ぶわっ……と羽が伸び、その両翼が開かれる。
 
 そして、静かに、音も無く、羽ばたき始めた。
 
 その、ゆるやかな羽ばたきに合わせて、九機の踵がゆっくりと地面を離れる。
 
 
 
 徐々に……静かに、宙へと浮かび上がる量産機。
 
 と、共に……中央に立つ弐号機が、周囲の量産機に牽引されているかのように、ゆっくりと地を離れた。
 
 
 
 トウジとレイにとっては、初めて目にする、白い機体。
 
 その異様な姿に、トウジは目を見開く。
 
 「……な……なんじゃ……アイツら」
 
 と、トウジが言うよりも早く、シンジは操縦把を前方に叩き込んでいた。
 
 初号機は地を蹴って、矢のような速さで走り出す。
 
 上空、次第に高度を上げていく一群を睨みつけながら、紫色の機体は一気に距離を詰めると、そのまま、一歩、二歩、と長い足で跳び、三歩目で跳躍した。
 
 
 
 初号機の飛び蹴りは、そのまま一体の量産機の背中にめり込んだ。
 
 蹴り落とされた量産機は、背骨を反るように曲げて、腹から地面に叩きつけられる。
 
 初号機は空中で回転すると、流れるような動きで肩からプログナイフを取り出し、そのまま地面に倒れる量産機の背中に突き立てた。
 
 
 
 突き刺した背中から、赤い鮮血が吹き出す。
 
 パッとナイフを逆手に持ち替え、そのまま量産機の頭の方に向かって、ナイフを一気に押し上げた。
 
 プラナリアのように、白い頭が左右に割れる。
 
 その残骸を確認するよりも早く、初号機は、量産機の落とした両刃の武器を拾い上げ、振り向きざまにしなる腕で上空に投擲した。
 
 
 
 ぶん、と鈍い音を立てて、回転した剣は二体の量産機の腹を薙いだ。
 
 血の雨を降らせながら、絞った雑巾のように体を捩って落下する量産機。
 
 その、量産機の手から離れた武器が宙を舞う。初号機は、ざん、ざん、と大股で駆けると、地面に落下するよりも早く空中でキャッチ。
 
 そのまま体を回転させ、また鋭い空気音を発して別の量産機に投擲する。
 
 
 
 「な、な、なんや、アイツら敵なんか!?」
 
 インテリアシートにしがみつきながら、トウジが必死の面持ちで叫ぶ。
 
 額に汗を浮かべながら操縦に集中するシンジに代わり、レイが短く応えた。
 
 「敵よ。最強の」
 
 
 
 三度拾い上げた剣を、シンジはまた宙に放った。
 
 羽根の付け根を切り取られた量産機が落下する。
 
 
 
 「最強……なんか?」
 
 トウジが、目まぐるしく展開する戦況を凝視しながら、呟く。
 
 初号機に蹴り落とされ、また投擲した武器に両断された量産機が、次々と地面にその死に体を横たえる。
 
 「せやけど……圧倒的、やないか」
 
 戦況は、圧倒的に、初号機に有利に進んでいるように、見える。
 
 
 
 しかし、シンジには、分かっている。
 
 
 
 前回……あの、ベークライトに固まった初号機の前で、空しく膝を抱えて座り込んでいた、時。
 
 ケイジのスピーカーから絶え間なく流れ続けていた戦況の様子は、まさに今と同じように、弐号機の圧倒的な優勢だったはずだ。
 
 
 
 ……だが、……弐号機は、負けた。
 
 
 
 (復活するんだ)
 
 シンジは操縦把を叩き込みながら、唇を噛む。
 
 今、何体倒しても、量産機は復活する。
 
 S2機関を内蔵している量産機を殲滅するには、それこそ、一瞬で塵にでも化さなければ、難しいのだ。
 
 
 
 だが、
 
 それでも。
 
 
 
 「……上昇が、止まってる」
 
 上空を見上げ、レイが呟く。
 
 
 
 いつの間にか、弐号機を中心とした量産機の輪は、その高度の上昇を止めていた。
 
 初号機に何機も落され、いまや翼を広げた量産機の数は、僅かに二機。
 
 
 
 そうだ。
 
 
 
 前回、初号機が……シンジが、サードインパクトを起こした時。
 
 初号機は、自らが取り込んだS2機関によって、新たな透明な翼を展開して、初号機自身が自力で浮遊していた。
 
 だが、弐号機は違う。
 
 弐号機には、そんな力はない。
 
 弐号機の周りを量産機が取り囲んだのは、きっと、空中に浮かび上がるのに量産機の力が必要だからだ。補完計画の詳しいプロセスは分からないが、浮上することに意味があるのだったら、それを阻止するしかない。
 
 量産機が何度復活しても、それを撃ち落とす。
 
 周りを囲む量産機がいなくなれば、きっと弐号機は落ちてくる。
 
 そして、アスカに語りかけるのだ。
 
 ……世界は、……自分たちは、……アスカを、待っていると。
 
 
 
 全身のバネを使うように投げた武器は、また一体、量産機の腰を薙いだ。
 
 二つに割れて落下し、荒れた森に落ちる。
 
 「あと一体!」
 
 シンジは鋭く言葉を発し、次の剣を拾うために、ぐるりと体を回転させた。
 
 
 
 その右腕が、肩から落ちた。
 
 
 
 瞬間的に襲ってきた激痛に、シンジの胃の腑から何かがせりあがってきて、反射的にそれを抑え込んだ。
 
 「ふぅッ」
 
 短く息を吐いて、横薙ぎに脚を払う。
 
 背後で剣を振り下ろしていた量産機は、その顔面に初号機の踵を受けて、回転しながら百メートルほど先の地面に激突する。
 
 
 
 「碇君!!」
 
 レイが叫びをあげてシンジのシートに顔を寄せる。
 
 シンジは脂汗を浮かべながら、頷いて見せた。
 
 視線を素早く走らせる。
 
 初号機の右腕が無く、それは遥か先の地面に逆さまに突き刺さっていた。
 
 
 
 「くそッ」
 
 口の中で吐き捨てると、周囲を見渡した。
 
 一体、また一体と、ぎこちない動きながらも立ち上がる量産機の姿が見える。
 
 シンジは、自分の右肩を掴んだ。
 
 眉間に皺を寄せながら、そっと唇を舐める。
 
 
 
 痛くない。
 
 痛くないぞ。
 
 
 
 斬れたのは、僕の腕じゃ、ない。
 
 
 
 「……うぉおッ!」
 
 気合を入れるかのように叫ぶと、シンジは走り出した。
 
 接合部が繋がる寸前だった量産機に詰め寄ると、その頭にぶん、と踵を落とす。
 
 衝撃で顎から地面に叩きつけられる量産機。
 
 その腕にある剣を奪い取る。
 
 
 
 
 その剣が、別の剣に叩き落とされた。
 
 「ひゅッ」
 
 短く息を吐いて、シンジは頭を回した。
 
 初号機の脚が鞭のようにしなる。
 
 背後にいた量産機の脇腹に爪先がめり込み、そのまま土塊を上げて横薙ぎに倒れる。
 
 
 
 「シンジ!」
 
 トウジの声が耳に届いた瞬間、シンジは脊髄反射的に、死角に向かって左の拳を回した。
 
 気配なく鼻先まで詰めていた、量産機の顔面をとらえる。
 
 返す刀で、右手でプログナイフを握ろうとして、
 
 「あッ」
 
 右腕そのものが無いことに気付く。
 
 その一瞬のタイムラグに、別の量産機の蹴りが初号機の脇腹にめり込む。
 
 
 
 激しい土煙を上げて、横向きに転倒したまま一気に地面を滑った。
 
 「ぐはッ」
 
 息が漏れる。
 
 意識を失っていたのは、およそ2秒。
 
 瞬間的に覚醒し、バク転のような動きでその地点を離れ、立ち上がった。
 
 改めて、左手にナイフを構える。
 
 
 
 何体もの量産機が、無傷の姿を晒して初号機の方を向いている。
 
 トウジが、驚愕に口をパクパクとさせた。
 
 「な、なんや。……さっきみんな倒したんやなかったんか」
 
 トウジは事情を知らないのだから、驚いて当然だ。
 
 今の、短い僅かな時間の攻防の間、何の指令も飛ばしてこなかった管制塔も、恐らく突然の事態についてこれていないのだろう。
 
 初号機は腰を落として、ナイフを横手に構える。
 
 ぐずぐずしていられない。
 
 シンジは、前方を見据えたまま、視線を一瞬、上空へ向けた。
 
 
 
 「!!」
 
 
 
 「ぅおッ……」
 
 トウジが、喉の奥から変な声を出す。
 
 シンジも、レイも、初号機の取り巻く緊迫した状況を忘れて、呆然と、上空を見上げていた。
 
 
 
 弐号機の背中から、二枚の光る羽根が伸びている。
 
 
 
 その全長は、弐号機自身の身長の、およそ5倍以上はあるだろうか。
 
 「……まさか」
 
 シンジは、呆然と呟いた。
 
 そうだ。
 
 弐号機は、初号機のように羽を生やすことはできないなんて、
 
 誰が、決めた?
 
 
 
 また、思い込みか。
 
 そうして、大事なところで、僕は道を誤る。
 
 
 
 「大気圏外より、高速接近中の物体があります!」
 
 マコトが、コンソールのモニタを凝視しながら叫ぶ。
 
 そのシートに手をかけて、ミサトが身を乗り出した。
 
 「何ですって!?」
 
 
 
 冬月が、メインモニタを見上げる。
 
 
 
 「……ロンギヌスの槍か!」
 
 
 
 嵐の様相を呈していた空の、遥かな高みにキラリと光る一粒の点。
 
 その点を中心に、一気に捻りこまれるかのように雲が回転し、空が裂け。
 
 青空の中を一陣の赤い槍が、一瞬にして弐号機の眼前まで到達した。
 
 慣性の法則を無視して、その位置でぴたりと停止する。
 
 その、槍の切っ先は、弐号機の首筋に触れるほどの、距離。
 
 
 
 「……しまった!」
 
 シンジが、思わず叫ぶ。
 
 
 
 顎を上げた弐号機の喉に、僅かな距離を残してロンギヌスの槍が浮かぶ。
 
 初号機は、見上げる。
 
 量産機も、それを見上げている。
 
 
 
 嵐が、やんでいる。
 
 
 
 「……ついに、我らの願いが始まる」
 
 漆黒の闇の中で、キールの声が響く。
 
 「ロンギヌスの槍も、オリジナルがその手に帰った」
 
 モノリスが呼応する。
 
 「いささか数が足りぬが、止むを得まい」
 
 
 
 十二基のモノリス。
 
 その、中心に、どす黒い瘴気が立ち上る。
 
 いや……あるいは、静謐なまでの、澄んだ冷気か。
 
 
 
 「エヴァシリーズを、本来の姿に。
 
 我ら人類に福音をもたらす、真の姿に。
 
 等しき死と祈りをもって、人々を真の姿に」
 
 
 
 「……それは、魂の安らぎでもある」
 
 キールが、静かに呟く。
 
 
 
 「……では、儀式を始めよう」
 
 
 
 初号機を囲んでいた量産機が、次々と腰を落とした。
 
 背中から、羽根が生える。
 
 大鷲が最初の飛翔を見せるように、大きな上下運動とともに、ふわり、とその体躯を浮かび上がらせた。
 
 「待て……ッ」
 
 シンジは操縦把を叩き込む。
 
 目の前に浮いていた量産機の腹部に左拳が入る。だが、数に違いがありすぎる。残りの八体は、ぶわっ、と一気に高度を上げた。
 
 
 
 二体の量産機が、空中でそれぞれの剣の先を、ぴたりと合わせる。
 
 まるで、芝居のワンシーンのように。
 
 ぐるるっ、と、その剣は有機的に捩じれ、姿形を変え、一本の長い槍となる。
 
 別の場所で、更に二体が同じように一本の槍を形成している。
 
 量産機はその槍を構えると、弐号機に向かって投擲した。
 
 
 
 右手、
 
 左手。
 
 一本ずつ、
 
 弐号機の掌に、槍が突き刺さる。
 
 
 
 両手を左右いっぱいに伸ばした姿で、その掌を空中に磔にされる、弐号機の姿。
 
 まるで、……その様は、十字架に掲げられた聖人の如く……。
 
 
 
 弐号機の両側に広げられた羽に、量産機が取り付き、その禍々しい唇を開いて、噛みついた。
 
 そのまま、咥えて引き上げるかのように、弐号機を中心とした一群は、空を上昇していく。
 
 
 
 どんどん、どんどん、
 
 それは一気に高く、
 
 澄み切った青空を、超えて。
 
 
 
 「高度一万二千! なおも上昇していきます!」
 
 シゲルの声に、ミサトは焦りの表情を浮かべて親指を噛んだ。
 
 ……対応する術が、ない。
 
 冬月が、険しい表情でメインモニタを見つめる。
 
 「ゼーレめ……弐号機を依り代とするつもりか……!」
 
 
 
 雲海を超え、やがて成層圏に到達する。
 
 邪魔ものの無い、静謐な空間。
 
 ……弐号機の翼を咥えていた量産機が、その歯を離す。
 
 弐号機は、もう、落ちない。
 
 ただ、静寂を携えて、宙に浮く、のみ。
 
 
 
 全天を囲む、吸い込まれるような紺碧の空の中。
 
 インテリアシートの上で、アスカは、両手で頭を抱えこんでいた。
 
 喉が、ひゅうひゅうと、荒い息をたてる。
 
 上下する肩。
 
 乱れた髪の毛を抱える、両手。
 
 その、両手の甲には。
 
 
 
 ……赤黒い円が、描かれている。
 
 
 
 「「エヴァ弐号機に、聖痕が刻まれた」」
 
 漆黒の中でモノリスが唱和する。
 
 「「今こそ中心の樹の復活を」」
 
 淀みない、狂った儀式。
 
 
 
 キールの言葉が、後を継ぐ。
 
 「我らが僕、エヴァシリーズは、……みな、この時のために」
 
 
 
 「……エヴァシリーズ、S2機関を解放!」
 
 シゲルの言葉を裏付けるように、メインモニタに映る量産機は、弐号機を規則正しく囲んでその周囲に円形の七色の壁を展開していた。
 
 「A.T.フィールド……!? 何をするつもりなの……?」
 
 ミサトが呆然と呟く。
 
 目まぐるしく蠢くグラフを睨みながら、マコトが叫ぶ。
 
 「次元測定値が反転! マイナスを示しています! ……観測不能! 数値化できません!」
 
 「アンチA.T.フィールドか……!」
 
 冬月が、呟く。
 
 
 
 ぶぉん……
 
 ……と、鈍い音を立てて、
 
 量産機の周囲に、光り輝く文字列が浮かび上がる。
 
 
 
 そう、
 
 それは、
 
 まるで……。
 
 
 
 「……全ての現象が、15年前と酷似しているわ」
 
 ノートパソコンを高速で流れる数値を見ながら、リツコが呟く。
 
 傍らの加持が、ケイジの天井を見上げた。
 
 「……何が、起こっているんだ……? ここからじゃ、状況が掴めないな」
 
 「そんなもの、どこに居たって同じよ」
 
 リツコの冷めた言葉に、加持は肩を竦めた。
 
 「……これって……補完計画の始まり、ってことかい?」
 
 「そうね」
 
 数字の滝を眺めながら、リツコが静かに応える。
 
 「人類の、……終わりの、始まり……ってところかも」
 
 
 
 「「エヴァンゲリオン弐号機パイロットの欠けた自我をもって、人々の補完を」」
 
 唱和が続く。
 
 「「三度の報いの時が……いま」」
 
 
 
 量産機の背中に、
 
 輝く光の虹が現れる。
 
 いつの間に、量産機の配置が変わったのか。
 
 周囲に整然と展開した白い天使たちを中心に、
 
 眩く輝く光の回廊を描き出す。
 
 
 
 紺碧の天空に、整列した光る点が浮かぶ。
 
 指揮車の外に出てそれを見上げる軍人の横で、ヘッドホンを片耳に当てた兵士が叫ぶ。
 
 「S2機関、臨界! ……これ以上は、もう……!!」
 
 その言葉を聞きながら、軍人は、諦念の表情を浮かべ、口許を歪めた。
 
 「……作戦は、失敗だったな」
 
 
 
 空気が、色を帯びてくる。
 
 肌を焼く熱射が、重量を持って陸自の行軍を襲う。
 
 ふわり、と、一瞬の無重力を経て、戦車やその他の戦闘車両は、炎の鞭に薙ぎ払われた。
 
 
 
 地面が解け、砕ける。
 
 泡のようにオレンジ色に盛り上がり、弾け、その中央から火柱が上がる。
 
 
 
 管制塔のモニタにも、無数の「EMERGENCY」の文字が、真っ赤に敷き詰められた。
 
 大音響の警告音が、オペレータたちの耳朶を叩く。
 
 モニタやホログラムの表示も、激しい爆音と震動によって、ともすれば雑音とノイズにまみれて途切れがちだ。
 
 シゲルが振り返って叫ぶ。
 
 「直撃です! 地表堆積層融解!」
 
 「第二波が、本部周辺を掘削中!」
 
 マコトの声が被る。
 
 
 
 メインモニタに、被害状況が映し出される。
 
 ドグマと本部を中心とした円形の部分が、大きな光の円に呑み込まれていくさまが見える。
 
 
 
 ミサトは、マコトのシートにしがみつきながら、険しい表情で叫ぶ。
 
 「まだ物理的な衝撃波よ。アブソーバーを最大にすれば耐えられるわ!」
 
 
 
 土塊が舞う。
 
 光の渦は、周りの全てを巻き込んで融解していく。
 
 それはさながら地獄の始まりのようでいて……
 
 しかし、
 
 衝撃は、ジオフロントを中心とした一帯に留まっているようであった。
 
 
 
 「……MAGIの予測値よりも、衝撃波が小さいです。これなら、耐えられそうです」
 
 真っ赤な警告照明の下、シゲルがキーボードを叩いて報告する。
 
 「予測値よりも、小さい? ……日向くん、第三新東京市の損害は?」
 
 「衝撃波による被害は甚大ですが、爆炎は局地的です。シェルターに避難している一般市民は大丈夫でしょう」
 
 ミサトの言葉に、マコトが応える。
 
 
 
 衝撃波が小さい、という報告に、冬月は顔を上げた。
 
 工事現場の中に放り込まれたような振動の中、冬月はメインモニタを見上げる。
 
 モニタに映る、整然と並ぶ、光点。
 
 
 
 「……ん?」
 
 眉を、顰めた。
 
 「……一体、足りんな……」
 
 
 
 ドシャッ、と、量産機の体は血飛沫を上げて地を這った。
 
 その胸の中心に、初号機の腕が突き刺さる。
 
 びくん、びくん、と背を反らせて痙攣する、白い体躯。
 
 真っ赤な血の奔流にその身を染めながら、紫色の腕が、量産機の蘇生よりも早く、その中心にあるコアを引きずり出していく。
 
 
 
 めり込むように、操縦把を握り締める。
 
 フットペダルは、限界まで踏み込まれ。
 
 ヘッドセットを嵌めた髪の毛は逆立つ。
 
 
 
 その右手の上に、トウジの手が。
 
 その左手の上に、レイの手が。
 
 
 
 ぶち、ぶちぶちっと繊維を引き千切りながら取り出された、黒いコア。
 
 初号機はそのコアを握ったまま、自らの胸の中心に叩きつけた。
 
 ずぶずぶと、量産機のコアが初号機の胸板に埋まっていく。
 
 喉の奥からこみ上げる痛みを、抑え込む。
 
 節くれだった模様が初号機の全身を覆い、一瞬ののちに、ぴしゃりと再び元の状態に戻る。
 
 
 
 「さ……」
 
 シンジの口の端から、押し殺したような声が漏れる。
 
 初号機の体が前傾に落ち、その肩甲骨が光り輝く。
 
 
 
 「……せ……る、かぁあッ!!」
 
 
 
 バキンッ、と、背中の拘束具が砕け散った。
 
 初号機の背中に、光り輝く翼が生える。
 
 その羽ばたきは、周囲の大地を一瞬にして薙いだ。
 
 
 
 「初号機のA.T.フィールド、増大!」
 
 シゲルの言葉に、ミサトは、呆然とモニタを見つめた。
 
 オレンジ色に光る翼を、十字の方向に伸ばしている、初号機の、姿。
 
 「……なにが、起こっているの……?」
 
 呟くしか、できない。
 
 
 
 初号機が、腰をかがめた。
 
 地を蹴る。
 
 ぶわっ、と上空に飛び上る、紫色の体躯。
 
 その、目指す、先。
 
 
 
 ……成層圏。
 
 その静謐な蒼の空間に、一点の染みのようにかぶ、弐号機。
 
 その、弐号機の胸が蠢いて左右にぱっくりと割れ、真っ赤なコアが、露出する。
 
 
 
 その中心に、ロンギヌスの槍が、音も無く、近付き。
 
 ……そして。
 
 
 
 「……使徒の持つ、生命の実と、人の持つ、知恵の実」
 
 モニタを見上げながら、冬月が、静かに、言葉を紡ぐ。
 
 「……その両方を手に入れた、エヴァ弐号機は、神に等しき存在となった」
 
 
 
 ロンギヌスの槍の先端が、くるくると解けて、布のように変化する
 
 弐号機の体に、解けた布が包帯のように巻きつく。
 
 聖蓋布の如く。
 
 真っ赤な、布が。
 
 
 
 その色は、弐号機のそれか、
 
 それとも、槍の色か、
 
 ……血の、色か。
 
 
 
 「そしていまや、命の大河たる生命の樹へと還元している」
 
 
 
 布が、
 
 四方に、
 
 八方に、
 
 十六方に、
 
 三十二方に。
 
 
 
 「この先に、サードインパクトの無から人を救う、方舟となるか」
 
 
 
 無数に伸びた枝は、
 
 地上に、
 
 そして、
 
 天に。
 
 
 
 「人を滅ぼす、悪魔となるのか……」
 
 
 
 それは、
 
 まさに、
 
 ……血の大樹。
 
 
 
 「未来は、……惣流・アスカ・ラングレーに委ねられたな」
 
 
 
 『……ふざけるなッ』
 
 
 
 スピーカーから漏れた声が、全員の耳朶を叩いた。
 
 空を、見上げ、気付く。
 
 その、大樹の麓に、
 
 一対の翼が、あることに。
 
 
 
 『アスカ一人に、そんなものを、背負わせるものかッ!』
 
 
 
 シンジの声が、空を揺らした。



六百三十九



 その、小さな違和感に、最初に気付いたのは加持だった。
 
 
 
 最初……加持は、スピーカーを通して聞こえるシンジの決意の叫びに、ただじっと瞼を閉じていた。
 
 その眼を開いて、ゆっくりと、周囲を見渡す。
 
 そして……
 
 ……心の隅っこに小さな引っかかりを覚える。
 
 それは、ほんの……本当に、小さな、変化。
 
 
 
 何か、違う。
 
 何が、違う?
 
 
 
 どこが……
 
 
 
 キーボードを叩いて液晶画面を見つめていたリツコは、その背中に悪寒が走り抜けるのを感じた。
 
 空気中を伝播してきた緊張感。
 
 思わず顔を上げる。
 
 見上げると、傍らに立っている加持が、何かをじっと見つめて、全身を硬直させている。
 
 その殺気。
 
 隠そうともしないそのオーラに気圧されつつ、リツコはその横顔を呆然と見詰め……
 
 ……おずおずと、加持の視線の先に目を向ける。
 
 
 
 視線の、先。
 
 その先には、数十分前に皆の前でこと切れた、男の亡骸。
 
 かつて愛した男の、抜け殻が横たわる。
 
 
 
 再び視線を加持に戻す。
 
 じっと……ゲンドウの遺体を注視する横顔。
 
 その眼光は、確かな殺気を孕んでいる。
 
 
 
 「加持君……?」
 
 リツコの怪訝な声に、加持は視線を動かすことなく、抑揚の抑えられた淡々とした声音で、呟いた。
 
 「手首は、どこに行った」
 
 
 
 言われて、視線を戻す。
 
 ゲンドウの遺体。
 
 
 
 その、右手。
 
 
 
 が
 
 ない。
 
 
 
 地の、底で。
 
 
 
 鼓動が、静かに響く。