第百二十九話 「火」
六百三十四



 まるでダンプカーに撥ねられたかのように、ゲンドウの体が激しく宙を舞った。
 
 紫色の掌に叩きつけられたその体が、壁にめり込む。
 
 金属板はひしゃげ、細かい欠片が宙を舞う。
 
 鼻先の危機を間一髪で擦り抜けたシンジは、背後にレイを庇ったまま、呆然と、その様を見つめていた。
 
 
 
 初号機を拘束していたロックボルトが、衝撃で弾け飛び、ケイジの壁にめり込む。
 
 パイロットも乗っておらず、その頸椎には停止芯が挿入されているはずの初号機は、半身を乗り出して、その片腕を伸ばしていた。
 
 
 
 冷却湖が波打つ。
 
 ケイジに反響する衝撃音の残滓は、やがて虚空の闇にゆっくりと吸い込まれていく。
 
 ……そして、再び、静寂が、その帳を下ろす。
 
 
 
 初号機の腕が、ゆっくりと引き戻された。
 
 自らの意志で動いた初号機は、腕を半分ほど戻したところで止まり、まるで最初からその姿勢だったかのように、動かなくなった。
 
 
 
 ……掌の形にひしゃげていた壁から、ゲンドウの体が剥がれた。
 
 
 
 床に足がつくと、同時に水っぽい音で咳き込んだ。
 
 血飛沫。
 
 その顎と、黒い服と、足元と。
 
 そこに大量の血溜まりを形成していく。
 
 
 
 一歩、二歩。
 
 よろめくように、前に足を出し、
 
 そのまま、崩れるように、膝をついた。
 
 手を床につき、四つん這いのような姿勢になる。
 
 もう一度、喀血。びしゃっ、という音と共に、床が血に染まる。
 
 上体が崩れ、肩から床に落ちた。
 
 
 
 自らの吐いた血の池に落ち、その体が赤くまみれる。
 
 頬を床につけたような姿勢で数秒止まり、そこから、ゆっくり、ごろり……と仰向けになった。
 
 ひび割れたサングラス越しに、天井を見上げる。
 
 
 
 「……父さん!」
 
 思わず呟き、シンジは数歩、前に出た。
 
 その前を、手首のない腕が遮る。
 
 片膝をつきながら、額に脂汗をにじませた加持が、シンジを制している。
 
 「加持さん」
 
 「……あれは、駄目だ」
 
 重い声で、言う。
 
 「内臓がやられている、助からん」
 
 
 
 面々が、呆然とした表情で、横たわる男に視線を注ぐ。
 
 
 
 ゲンドウは、震える手を挙げ、眼前に翳した。
 
 サングラスをとる。
 
 ひび割れたグラスは、乾いた音を立てて割れ、破片はゲンドウの頬に当たって床に落ちた。
 
 
 
 裸眼で、傍らの初号機に視線を送る。
 
 片腕を伸ばしたような姿勢で固まっている、初号機。
 
 「……ユイ、にも、拒絶……されたか」
 
 掠れた声で言い、口の端を歪めた。
 
 「これが……答えというわけだ」
 
 呟いて、視線を再び天井に戻す。
 
 
 
 「……一体……」
 
 シンジが、絞り出すような声で、呟いた。
 
 顔面に皺を刻み、眉根を寄せて。
 
 「一体……何が、したかったんだ……父さん……!!」
 
 
 
 小さな、声……だが、それは……重い、楔のように、確かに目の前の男の胸に届いたはずだ。
 
 シンジは、自らのシャツの、胸の辺り……カヲルの血で赤く染まった部分を、ぎゅっと握りしめる。
 
 まるで、自らの心臓を、握りしめているかのように。
 
 ゲンドウを、……実の父を、睨みつけたまま。
 
 
 
 荒い息で天井を見上げていたゲンドウは、口を開かない。
 
 その場には、静寂と……初号機の暴走の余波で、いまだ波打つ冷却水の音が、場違いな潮騒の音色を運ぶのみだ。
 
 
 
 そうして、ゲンドウは、ゆっくりと、首を回し。
 
 数メートル先に立つ、息子の姿を視界に収める。
 
 
 
 「……私は……監視、していただけだ」
 
 
 
 ゲンドウの口から洩れてきたのは、意味不明な言葉。
 
 気勢を削がれたように、怪訝な表情を浮かべるシンジ。
 
 「なに……?」
 
 「……シンジ……」
 
 ゲンドウが、その名を、呼ぶ。
 
 「……おまえを……見るのが、私の役目だ」
 
 
 
 「役目……?」
 
 シンジの瞳が、戸惑いの色で染まる。
 
 意味が、分からない。
 
 役目?
 
 なんのことだ?
 
 この男は、何を、言っているのか?
 
 
 
 ゲンドウが、もう一度、笑った気がした。
 
 
 
 「……戻ってきたのが……おまえだけだと、思ったか……?」
 
 
 
 シンジの全身を電撃が走った。
 
 背後にいるレイも、驚愕で目を見開く。
 
 シンジの体が震える。
 
 レイは、思わずシンジの肩を両手で抱いて支えた。
 
 いや……
 
 支えられているのは、自分か?
 
 レイの白い足が、膝から震えているのが、分かる。
 
 
 
 加持や、リツコ、トウジは、二人の会話の意味が分からない。
 
 ゲンドウの言葉と、シンジの表情。その意味を咀嚼しかねて、しかし口を挟むこともできずに、相互の顔を見比べるしかない。
 
 
 
 「……父……さん……」
 
 瞬きを忘れてしまったのだろうか、まるで石膏に塗り固められたような表情を張り付けたまま、シンジは、驚きを含んだ声音で、言葉を絞り出す。
 
 そんな……
 
 そんな……こと。
 
 ゲンドウの言葉が、続く。
 
 「私は……ユイの、意志で、戻った……。ユイが……おまえ、を……助けろ……と」
 
 
 
 「なんだって……!?」
 
 
 
 「おまえの、望む、未来を……それが、ユイの、……意思、だ」
 
 
 
 ゲンドウは、口を噤んだ。
 
 ひゅー、ひゅー、と、喉の奥を通る荒い呼吸音だけが、微かに、響く。
 
 誰も、喋らない。
 
 ただ、秒針が固まったように、動かない時間。
 
 
 
 「……だったら!!」
 
 その静寂を打ち破って、シンジの叫びが響き渡った。
 
 
 
 叩きつける、ように。
 
 
 
 喉に張り付いていた粘液が、激しい声に吹き飛んだ。
 
 全員が、驚いてシンジの顔を見る。
 
 全身を包む震えは、驚きのそれではなく、怒りの波動だった。
 
 先ほどまでの、絞り出すような声ではなく……この場の全員の臓腑に叩き込むような、激しい感情。
 
 
 
 「だったら!! ……もっと、もっと! やりようが、あったハズだ!! もっと簡単に、人類を救えたんじゃ、なかったのか……ッ!?」
 
 
 
 その背中に、燃え盛る炎を見た。
 
 ぶるぶると握り締められた拳の内側から、爪を食いこませて鮮血が滴り落ちる。
 
 ぶつけようのない怒りに背中を震わせる息子と対照的に、父親はただ冷たい視線を、その姿に注ぐ。
 
 シンジは、瀕死の際にいる父親を睨みつけた。
 
 そうだ……
 
 ……いま、なお人類が滅亡せずに済んでいるのは、単に、運が良かっただけだ。
 
 シンジ一人の力では、抗いようのなかった事態は、幾度も起こった。そのたびに、目を覆うような最悪の事態を、……霊峰の鋭い頂でか弱く揺れるやじろべえの如く、僅かな重心の偏りで切り抜けてこられただけに、過ぎない。
 
 いま、この場にこうしていることは、奇蹟なのだ。
 
 今頃、地球の全てがあの赤いスープに満たされていても、不思議は何もなかった。
 
 
 
 いつも、危うかった。
 
 その、危ういタイトロープを、少しでも早く、少しでも安全に。
 
 渡ることの出来る重要なピースを、ゲンドウは、幾度もその手に握っていたはずだ。
 
 
 
 それを、何故、しなかった!?
 
 傍らに眠るように横たわる、銀髪の少年を、思い浮かべる。
 
 絶望に支配されて、エントリープラグの中で膝を抱えている大切な仲間の少女を思い浮かべる。
 
 そうだ。
 
 彼らがこうならなくても済む、その道標を、この男がその気なら、きっと提示できたはずなのだ……!
 
 
 
 ゲンドウは、熱意の籠らない氷のような視線を、シンジに向ける。
 
 血に濡れた唇を、開く。
 
 「……言った、はずだ」
 
 「何を!?」
 
 「……これは、……ユイの、願いだと。……お前を助けること……それは、ユイの願いであって……私の、願いでは、ない」
 
 
 
 シンジは、呆然と、ゲンドウの述懐を聞いていた。
 
 何を、言って……。
 
 
 
 「お前の道と……私の道は、永久に、交わらない。
 
 言ったはずだ。
 
 あの……ユイの、墓の、前で……。
 
 私は、私の信念を、曲げない、と。
 
 おまえも、おまえの信念を曲げるな、と。
 
 私とシンジの信念は、交わらない。お互いに擦り寄ることなく、自分の道を歩く限り、永久に交わらない。
 
 
 
 ……私は、それで構わない。
 
 私は、何も感じない。
 
 人類が滅んでも……私は、それを何とも思わない」
 
 
 
 怒りが、シンジの体を、支配する。
 
 
 
 ゲンドウの言葉が、すべて神経を刺す針となって、シンジの感情に火をつける。
 
 それは傍目にもはっきりとわかる有様だったが、ゲンドウは全く意に介す様子は無い。
 
 再び、二度、血を吐き。
 
 まるで自らの息子に世の理を講義するかのように、そのまま、言葉を続ける。
 
 
 
 「時間の、流れとは……もっと、……不可侵な、ものだ……」
 
 息が、荒い。
 
 「不可侵で……神聖。
 
 ……違うか?
 
 人間の、意志で……やすやすと、改変して、いい、ものでは……無い。
 
 
 
 時間の、流れ、とは……
 
 ……神の、意思に、他ならないからだ……」
 
 
 
 「だったら、人類が滅亡してもいいって、言うのか……!?」
 
 吐き捨てるように、シンジが言葉の槍を突き刺す。
 
 あり得ない。
 
 ゲンドウの言葉が、理解できない。
 
 
 
 ゲンドウは、シンジの言葉に、答えない。
 
 ただ……淡々と、自分の言葉を、続けた。
 
 
 
 「……時間の流れとは……すなわち、神の意志。
 
 それをおまえは……捻じ曲げる、と、言った。
 
 それは……おまえの意思が、神の意志を、凌駕できるのか、どうか……と、いうことと……同じだ。
 
 
 
 私が……見極めたかったのは……それだ。
 
 おまえの……意思と……
 
 ……神の……意思、と。
 
 その……どちらが、より、強いのか……」
 
 
 
 シンジは、ゲンドウから視線を外すことなく、口を開いた。
 
 「僕の意思……
 
 神の意志……だって……?
 
 
 
 ふざけないでよ。
 
 ……父さんの意思ってものは、ないのか!?
 
 父さんの望みは、ないのかよッ!!」
 
 
 
 喀血。
 
 ゲンドウの体は、すでに血まみれだった。
 
 いま、目の前で。
 
 男の生命の灯は、明らかに、その火を消さんとしていた。
 
 
 
 もはや、その瞳に、物の姿が写っているかどうか。
 
 急速に、生気が失われていく、その中で。
 
 血の気を失った唇が、震える。
 
 
 
 「私の……意思……」
 
 
 
 「そうだよ!!
 
 父さんの、望みだ!!」
 
 シンジの叫びが響く。
 
 
 
 ゲンドウは、白く濁った瞳で、息子を見つめた。
 
 
 
 「……私の、望みは……
 
 ……ユイと。
 
 再び……まみえる、ことだ。
 
 
 
 世界も、
 
 おまえも、
 
 どうでもいい。
 
 
 
 私は……
 
 
 
 ……今でも、
 
 人類なぞ、
 
 滅んでも構わないと
 
 ……思って、いる」
 
 
 
 ……火は、
 
 
 
 消えた。
 
 
 
 その、蝋燭は、二度と再び、灯ることは、無かった。
 
 
 
 「……なんなんだ……」
 
 
 
 静寂に包まれた、ケイジで。
 
 シンジの、怒りと絶望に包まれた叫びだけが、反響する。
 
 
 
 「……なんなんだよ、それッ……!!」
 
 
 
 離れた所に立っていたリツコは、白衣のポケットに手を突っこんだまま、感情の動かない瞳で、その亡骸を、見つめていた。
 
 
 
 一度は愛した男の、亡骸。
 
 それを見つめて、リツコは、小さく……ほんの小さく、肩を竦めた。
 
 
 
 「……マザコン」
 
 乾いた声音で、それだけを呟く。



六百三十五
 
 
 
 途切れることなく続く……微かに響く、爆音。
 
 マヤは、不安そうな瞳で、天井を見上げた。
 
 パラパラと、細かい欠片が、時折鼻先に落ちてくる。
 
 
 
 冬月が、モニタの状況を見上げる。
 
 最初のうちこそ、敵部隊の侵入は完全にシャットアウトしていたものの、既に幾つかのルートでは第一の隔壁は破られ始めていた。
 
 もっとも、そのすぐ後ろに控える第二、第三の隔壁が再び彼らの侵入を防ぎ、施設への侵攻は、いまだろくに達せられてはいない。
 
 
 
 マコトが、キーボードを叩きながら、言う。
 
 「射出された弐号機ですが、そのまま地底湖の底に沈んでいます。外影はモニタリングできていますが、パイロットの生死は不明」
 
 報告を聞きながら、冬月はため息をつく。
 
 
 
 「……可能ならば、このまま済んでくれればよいが。
 
 現状の弐号機は、決して安全では、無い。
 
 ……地底湖よりも、ケイジにいたままの方がよほど安全だった。敵部隊が、ケイジに到達できるとは思えんしな。
 
 ……もちろん、弐号機が直接、爆撃に晒されたからといってどうなるわけでもないが、それでも無防備な状態に違いはあるまい」
 
 冬月の言葉に、シゲルが椅子を引く。
 
 「……地底湖と言っても、あくまでジオフロントの中です。まだ、ジオフロント自体に敵の侵入は許していませんし、このままでも大丈夫じゃないですか?」
 
 確かに、黒い球体は未だその外殻を強固に保っていて、震動はあれども、地底湖を囲む森はまだ損壊を受けていない。
 
 ミサトは、表情を緩めることもなく、じっとモニタの戦況推移を見つめる。
 
 「……このままで済む、というのは……希望的観測ね。
 
 と……言うより、まぁ、このままで済むわけがないわ」
 
 「……N2兵器ですか」
 
 マコトの言葉に、冬月は頷く。
 
 「人間用の通路が通れないなら、風穴を開けるしかなかろう。あいにく、さすがに大容積のN2兵器の直撃を受ければ、ジオフロントの外壁ももたん」
 
 言って、上を見上げる。
 
 天井を透視して……ジオフロントの上面も透視して。
 
 その向こうの、空を見ているかのように。
 
 顎を撫でる。
 
 「……連中にとっても……この膠着状態は、好ましくなかろう。と、なれば、早期に打開を図ろうとするのが、まぁ……人情というものだ」
 
 
 
 その頃。
 
 ジオフロントの上空、
 
 紺碧の、空。
 
 
 
 その遥か上空から、一粒の種が、音もなく降下してくる。
 
 
 
 照りつける太陽の光で黒い地肌を煌めかせるその球体は、遠目には不思議なほどゆっくりと……落ちて、来る。
 
 
 
 一重、二重……
 
 雲の絨毯を切り裂いて、高度を落とし。
 
 
 
 湖の僅か100メートルほど上空に到達したとき、それは、炸裂した。
 
 
 
 湖は一瞬にして蒸発し、露わになったその底を突き抜けて、爆風はジオフロントの森を焼き払った。
 
 高圧線は消し飛び、地底湖の水面はすり鉢状に凹んで嵐のように荒れ狂う。
 
 ピラミッドの壁面は高熱で怪しい色に煌めく。
 
 土塊が飛び、渦巻く。
 
 加持のスイカ畑もまた、灼熱の海に呑まれ、消えた。
 
 
 
 激しい震動に、マヤは頭を抱えて悲鳴を上げた。
 
 管制塔の電灯が消え、真っ赤な非常灯に切り替わる。
 
 激しいサイレンが鳴り響く中、シゲルが顔をしかめ、舌打ちして虚空を睨んだ。
 
 「……言わんこっちゃない!」
 
 「やつら、加減ってものを知らないのか!?」
 
 マコトも険しい表情で天井を仰ぐ。
 
 電灯は数度、明滅して……再び蛍光灯の明かりが戻り、赤い非常灯は消えた。だが、警報は変わらず耳障りな音を鳴らし続ける。
 
 
 
 ぽっかりと地表に丸く空いた大きな開口部が、ジオフロント内部を、外気に曝け出していた。
 
 その穴から、待っていたとばかりに無数の爆撃が降り注ぐ。
 
 森を焼く激しい爆音に、ふたたび管制塔が揺れる。
 
 
 
 「……馬鹿じゃないのか。いくら侵入がままならないっていったって、ここを全部消し去るつもりか」
 
 コンソールを叩きながら、シゲルが毒づく。
 
 険しい表情で腕を組んだミサトがが答える。
 
 「……MAGIは無傷で手に入れたいはずよ。だから、ここを制圧するんだったら、人海戦術かBC兵器ね。そういう意味では、敵部隊の侵入を隔壁で防いでたのは無駄じゃない」
 
 「でも、こんな爆撃を受けてたら、いつか崩れますよ。それに、地底湖が露わになりましたから、弐号機も危険です」
 
 「……弐号機は平気よ」
 
 ミサトが呟く。
 
 「この十倍の爆撃を食らったって、傷も付かない。弐号機を制圧するなら、使徒かエヴァを連れてくるしか、ないわ」
 
 
 
 その頃。
 
 長野県・第2新東京市、首相官邸第3執務室。
 
 
 
 その部屋は、四面の壁のうちの一面が、まるまる天井まで届く大きな窓になっており、そのガラスの向こうには青い空が広がっていた。
 
 ……広い空間には、その窓を背にして、大仰でいかにも高価そうな木の机が、一つだけ。
 
 部屋の中央を、どういうつもりの意匠なのか……大きな振り子がゆっくりと、左右に揺れている。
 
 
 
 革の椅子に座る初老の男は、手に持った受話器を見つめていた。
 
 受話器のスピーカーからは、微かに、ツー……という電子音が聞こえてくる。
 
 「……電話が通じなくなったな」
 
 男はそう言うと、受話器を傍らの電話機に置いた。
 
 
 
 横に立つ女が、応える。
 
 「はい。三分前に、弾道弾の爆発を確認しております」
 
 秘書の女性の言葉に、男は頷く。
 
 「NERVが裏で進行させていた人類補完計画……人間すべてを消し去るサードインパクトの誘発が目的だったとは……とんでもない話だ」
 
 
 
 人類補完計画を主導していたのは、ゼーレであって、NERVではない。
 
 計画の内容も、捏造されて伝わっているようだ。
 
 ……だが、自分が……そして日本政府が、ゼーレの老人たちの掌にいることなど、男には知る術がない。
 
 今こうして陸自を使ってNERVを攻撃していることが、人類補完計画の遂行の助けになっているなどとは、思いもよらない。
 
 
 
 秘書は、微笑んで頷いた。
 
 「自らを憎むことのできる生物は、人間くらいなものでしょう」
 
 その微笑みは、暗く、冷たかった。
 
 秘書と目を合わせようとしない男は、その瞳の奥の光に、気付くことはない。
 
 手を組んで背凭れにその身を預けると、鼻の奥から息を吹いた。
 
 「さて……残りは、NERV本部の後始末だな」
 
 「ドイツか中国に、再開発を委託されますか?」
 
 「買い叩かれるのがオチだ。二十年は封地だな。旧東京と同じくね」
 
 
 
 「賢明なご判断です、首相」
 
 男の言葉に、秘書は再び微笑む。
 
 
 
 じりじりとしたアスファルトの上に、茶緑色の装甲車が止まっている。
 
 傍らで双眼鏡を手にした陸自の兵士は、茂る草木の間から、前方を覗きこむ。
 
 先ほどまで、満々とその水面を晒していた湖はすでに干上がり、その底に丸く空いた穴の中に、難攻不落と思われたジオフロントが無防備にその姿をさらけ出している。
 
 
 
 足元に置いた通信機の外部スピーカーから、報告が聞こえる。
 
 『……上層部の熱は引きました。高圧蒸気も、問題ありません。全部隊の初期配置、完了しました』
 
 後ろに立っていた兵士が、言葉を継ぐ。
 
 「現在、ドグマへの侵入は停滞しています。連中、我々の侵攻作戦を察知していたようですね」
 
 双眼鏡を覗き込んでいた兵士は、前方を見つめたまま、応える。
 
 「全てのことが済んだら、情報の漏洩元の特定でまた、面倒なことになるな」
 
 「そうですね」
 
 「まぁ、どちらにしても、調査やら書類仕事はお偉いさんの役目だ。我々は、粛々と任務を果たすのみ、だ。……エヴァの状況はどうだ」
 
 「紫のやつは、いまだ制圧できておりません。作戦の通りなら、今頃はケイジを押さえているはずだったのですが……」
 
 「出てこられると厄介だな」
 
 双眼鏡を外して、男は呟く。
 
 「赤いのは?」
 
 男の言葉に、端末に向き合っていた別の兵士が振り返った。
 
 「地底湖、水深七○二にて発見。専属パイロットの生死は、不明です」
 
 その報告に、男は眉を上げた。
 
 「……なんで、表に出てきたんだ? 侵攻は進んでいないし、中にいる方が安全だろうに……」
 
 「囮……でしょうか」
 
 通信兵の意見に、男は顎を撫でて思案する。
 
 
 
 「……まぁ、考えても推論の域を出ん。手の出せない檻の中から、せっかく出てきて下さっているんだ。丁重にお迎えするのが筋というもんだろう」
 
 「丁重に、ですか」
 
 「ああ。盛大な花火でな」
 
 
 
 まだ熱を帯びた空気の層で揺らめく、大きな穴。
 
 その周りを囲むミサイルランチャーから、立て続けに白い煙の帯が伸びる。
 
 それは穴の中に降り注ぎ、中央の地底湖の水面に着弾すると、白い水飛沫が上がった。
 
 それは爆発の衝撃ではなく、着水の衝撃。
 
 無数の爆雷は炸裂せずに、ゆっくりと湖の底に沈んでいく。
 
 
 
 水深七百メートル。
 
 暗い金属壁の上で、赤い体躯が横たわる。
 
 
 
 ……インテリアの中で、薄汚れたワンピースをL.C.L.に揺らめかせた少女は、膝を抱えてうずくまっている。
 
 
 
 その、弐号機の上に、静かに爆雷が降りてくる。
 
 
 
 ゴン、と、その側頭部に最初の爆雷が接触し、次の瞬間、白い閃光を放った。
 
 
 
 激しい地鳴りとともに、湖面が膨れ上がって次々と水柱が立つ。
 
 一つの爆発が、次の爆発、次の爆発を誘発し、瞬く間に大爆発を巻き起こしていた。
 
 ミサイルランチャーからは、続けて次の弾幕が発射される。
 
 爆発の中に再び爆雷が降り注ぎ、地獄の様相を呈した。
 
 
 
 「弐号機が攻撃を受けています!」
 
 マコトが叫ぶ。
 
 震動に足を踏ん張らせながら、ミサトが鋭く答える。
 
 「大丈夫。通常兵器で弐号機がやられるはずがない。しかも水の中よ、衝撃は分散するわ」
 
 「むしろ、ここが危ないですよ。余波で建物が崩れたりしないかと」
 
 シゲルが揺れるホログラムを見つめながら、不安そうな声を上げる。
 
 「……なんで」
 
 キーボードを叩きながら、マヤが眉根を寄せた。
 
 「……なんで……こんなに、エヴァが欲しいのよ」
 
 
 
 漆黒の空間に浮かぶ、12基のモノリス。
 
 01、と赤い光が刻印されたモノリスから、低い声が漏れ這う。
 
 「忌むべき存在の、エヴァ……今やしかし、その存在を依代に、我らの悲願を達成するしかない」



六百三十六



 九機の、黒い三角形が、成層圏との境目を滑空する。
 
 神聖な想いを抱かせる紺碧の空を切り裂く、飛行体。
 
 黒い機体の上面には、1から9までのナンバーが赤くペイントされている。
 
 
 
 機体の下から、無骨で醜悪な造形が、不自然に突き出ている。
 
 真っ白なそれは、人間の背中を思わせた。
 
 肩甲骨を露わにして、下半身と首は機体の中に埋まっており、肩の辺りだけが逆さまになって空中に曝け出されている。
 
 その、首の部分から、赤いエントリープラグが露出している。
 
 側面にプリントされた、黒い文字。
 
 「KAWORU.01」と印字されたその円柱は、一瞬ののちに回転しながらその頸椎に吸い込まれて、装甲が蓋をするようにスライドして圧着される。
 
 
 
 ずるり、と、潜り込んでいた首が、滑り落ちてきた。
 
 両腕が抜け、その白い上半身が、だらりと逆さまにぶら下がる。
 
 
 
 のっぺりとした顔に、血のように赤い唇。
 
 その奥に並ぶ歯が、陽光に煌めいた。
 
 
 
 笑った、気がした。