第百二十八話 「冷気」
六百三十



 暗闇の、中で。
 
 
 
 「……そうだ、変更を余儀なくされた」
 
 
 
 キール・ローレンツの声が、低く這う。
 
 
 
 「……碇シンジと、エヴァンゲリオン初号機による人類補完計画の遂行は、もはや不可能」
 
 別の男の声が応える。
 
 「ならば、惣流・アスカ・ラングレーと、エヴァンゲリオン弐号機による補完を」
 
 
 
 「そうだ」
 
 「そうだ」
 
 呼応する声、そして、声。
 
 「その為の、デストルドーを」
 
 「その為の、死への衝動を」
 
 「タブリスの死も、その為に」
 
 
 
 ライトの微かな明かりを背負って、キールはバイザーの奥の瞳を鈍く光らせる。
 
 節くれだった指を眼前で組み、……変わらぬ表情のまま、それをゆっくりとまた解いて、組み替える。
 
 「これで、人類補完計画は始まる」
 
 静かな。
 
 抑揚の、無い。
 
 
 
 およそ、血の通った人間とは思えぬ、声音。
 
 
 
 「我々は、新しい世紀へと、歩き出すのだ」
 
 
 
 沈黙が、キールの言葉を肯定する。
 
 やがて闇に消える男たちの口元に、浮かぶ、微かな冷笑。
 
 そして場は、暗転する。



六百三十一



 管制塔に、激しい警報が鳴り響く。
 
 「勝手に弐号機が起動しています!」
 
 シゲルの報告に、ミサトは驚いて眼を剥いた。
 
 
 
 「えッ……? どういうこと!?」
 
 ミサトの質問に、シゲルが慌ただしく計器を操作しながら答える。
 
 「弐号機、シンクロ率上昇中! 150%……200%……250突破! 止まりません!」
 
 ミサトは、慌ててシゲルの座席に飛びついた。
 
 手許のモニタを覗き込むと、弐号機のピクトグラムの横に、どんどん上昇していく棒グラフの表示が見て取れる。
 
 「……アスカがやってるの!?」
 
 「パターンはアスカのものです、アスカが乗ってるのは間違いないと思います。ただ、内部モニタに繋ごうとしてるんですが、主導権が奪われていてこちらからモニターできないんです」
 
 「主導権が奪われてるって……それ」
 
 ミサトの言葉に、シゲルは眉を顰めてみせた。
 
 ミサトは、恐る恐る、口を開く。
 
 「……暴走?」
 
 「いえ」
 
 シゲルは、渋い表情で首を振る。
 
 「数値を見る限り、暴走はしていません。あくまで、パイロットの自発行動だと思います」
 
 「アスカ……」
 
 呆然とする、ミサト。
 
 マコトのモニタに、弐号機のタラップがシャフトに接続されたことを示す警告が表示される。
 
 そのまま、ランプは着々とシャフトを上昇。
 
 シャフトは何重もの隔壁が閉じているはずだが、ほとんど意に介した様子が無い。
 
 「弐号機、射出上昇中!!」
 
 ミサトは、焦りの表情で、唇を噛む。
 
 「どういうこと……一体!? ……とにかく! 弐号機の主導権、何としても取り戻して!」
 
 
 
 ケイジの壁面には無数の傷跡が刻まれ、さながら竜巻が通り過ぎたかのようだった。
 
 メインシャフトを封鎖していた隔壁は破壊され、天上へと繋がる大きな穴が開いている。
 
 まだ波立つ余韻の残る冷却水の湖には、既に赤い巨躯の姿はなかった。
 
 
 
 つい先ほど、アスカを弐号機のエントリープラグに押し込んだ黒服の男たちは、壁に叩きつけられたり、あるいは水面にその亡骸を浮かべたりして、すでに息をしない人形となっている。
 
 目の前で弐号機の攻撃を受けたのだから、生身の体ではひとたまりもない。
 
 人、だけではなく、建材や金属のパネルなどが、破壊されてそこかしこに散らばっていた。
 
 その向こう、ひしゃげた通路の奥に、吹き溜まりのように鉄骨や崩れた壁材が折り重なっている。
 
 ……その山が動き、やがて壁材を掻き分け、熊谷が姿を現す。
 
 
 
 「ハッ……は、ははははははッ!」
 
 生きているとはいえ、その姿は血だらけで、満身創痍だった。
 
 しかし熊谷は、頭から滴る血で顔面を赤く染めながら、まるで自らの傷など意に介さぬように、狂気に彩られた声音で高らかな笑い声をあげていた。
 
 「ははははははッ!! やった……ははははははッ!! やったぞッ!! ……ははははははははッ!!」
 
 ボロボロの服を身に纏いながら、しかしまるで神からの福音を受け取るかのように、両手を広げて頭上を見上げる。
 
 開いた瞳孔には、異常とも言える輝きが鈍く光を放っていた。その視界には、本当に、天上から舞い降りる神の幻影を見つけているのかもしれない……いや、あるいは、したたる血滴に禍々しい笑みを漏らす、漆黒の死神の姿か。
 
 胃の腑から湧き上がる赤黒い血の塊にむせ、床に数度、喀血を繰り返す。
 
 弐号機の攻撃の余波を受け、骨か内臓か、いずれにしても浅くない傷を受けたのは間違いがない。
 
 
 
 駆け込む足音とともに、ケイジにシンジが飛び込んできた。
 
 
 
 「これは……ッ!?」
 
 シンジは驚愕の表情で、辺りを見渡した。
 
 縦横無尽に切り裂かれ、穴が穿たれたケイジ。
 
 初号機の体にも幾筋かの傷が残っている……もっとも、これは表面の擦り傷程度だが。
 
 弐号機を固定していたはずのロックボルトは無残に引きちぎられ、そのうちの何本かは、有り得ない力で壁に叩きつけられてめり込んでいた。
 
 
 
 「碇……シンジ」
 
 微かな声がその耳朶に届き、シンジは、ばっと視線を向ける。
 
 ひしゃげた鉄骨の中に、血だらけになって立つ男。
 
 その姿に、見覚えがある。
 
 
 
 加持を、撃った男。
 
 あの、地下坑道で、殴り合いの闘いを繰り広げ、
 
 シンジの足に銃弾を放った男。
 
 シンジの記憶が急速にその像に焦点を結び、シンジの脳髄に警報を鳴らした。
 
 
 
 「おまえッ……なんで」
 
 なんでここにいる、と。
 
 シンジが詰問よりも早く、熊谷の右手が上がった。
 
 シンジに向けられたのは、黒光りする銃口。
 
 「死ね」
 
 短く発する言葉と同時に、躊躇なくその引き金が引き絞られる。
 
 シンジは、思わず目を瞑って眼前を両手で覆った。
 
 
 
 くぐもった爆発音。
 
 同時に、熊谷の右手の指が、無くなった。
 
 
 
 「ぐぁ……っ……」
 
 噴き散らかす鮮血に顔を染めながら、熊谷は顔を歪めた。
 
 暴発だ。
 
 おそらく、弐号機の攻撃を受けた際に、銃身が衝撃で歪んでいたに違いない。
 
 手首を押えて、膝をつく。
 
 
 
 撃たれそうになって思わず身構えたシンジも、目を開けて再び熊谷を睨みつけた。
 
 熊谷の顔色は既に蒼白だが、その口元には笑みが浮かび、いまだ双眸に輝く狂喜の光は揺るぎない。
 
 「……貴様……ここで、何をしていたんだ!?」
 
 シンジは熊谷を視線で射抜き、鋭い詰問を投げかけた。
 
 熊谷は、肩を震わせて笑う。
 
 
 
 「は……はッ……はッ、は、はははッ! ……これで……すべて、終わりだ」
 
 不敵な笑みを浮かべて、呪詛のように言葉を紡ぐ。
 
 シンジは怪訝な表情を浮かべて……
 
 ……そして、視界の端に。
 
 いま初めて、……横たわる銀髪の少年の姿を、見つける。
 
 
 
 一瞬の空白の後に……シンジは、状況を把握する。
 
 熊谷の存在など一瞬で消し飛び、弾けるように、その傍らに駆け寄った。
 
 「カヲルくん……ッ!?」
 
 血溜まりに膝をつく。
 
 その顔を、横たわる少年の顔に近づけるが、反応はない。
 
 
 
 頭の中が、
 
 真っ白に、
 
 なる。
 
 
 
 「そん……」
 
 な
 
 バカな。
 
 
 
 「はッ……は、は……はッ」
 
 ごぼごぼとした血の泡を口元から湧き出だしながら、熊谷が醜悪に眉根を歪めて笑う。
 
 「そいつは……もう、死んでいる」
 
 シンジは、顔を上げた。
 
 呆然と……しかし、その視界の端に、熊谷の嘲笑を捉えている。
 
 膝が、上がる。
 
 膝下が、靴が、カヲルの血で黒く染まる。
 
 
 
 「……貴様が……」
 
 貴様が。
 
 殺ったのか?
 
 掠れた声で……瞬きもせずに、熊谷を見つめて。
 
 無表情なその瞳の奥には、荒れ狂う感情の渦が、その迸りの出口を探して暴れまわっている。
 
 瞳孔が、黒く、開く……
 
 
 
 ……が、しかし、熊谷は、口の端から血を垂らしたまま、眉をあげて笑った。
 
 「勘違いするな……碇……シンジ。そいつを……やったのは、俺じゃ、ない」
 
 「………」
 
 熊谷の言葉に、シンジは表情を変えない。
 
 熊谷は、クッ、クッ、と喉の奥で笑う。
 
 「教えて……ほしいか?」
 
 目を開く。
 
 「そいつを殺したのは……惣流・アスカ・ラングレーだ」
 
 
 
 シンジの表情が変わった。
 
 
 
 明らかな驚きの色彩で、熊谷を見る。
 
 「……なんだと……?」
 
 「撃ったのさ。あの女が、そいつを」
 
 嘲笑を含んだ声で、シンジを睨む。
 
 「は、は、はッ……あの女、どんな顔をしてたと思う? これ以上ない、って絶望の表情だった……」
 
 「……アスカは、どうした」
 
 今度こそ、怒りを隠さずにシンジが言葉を叩きつける。
 
 応えようとして、熊谷は咳き込む。
 
 また、血の塊が男の足許を、腹を汚す。
 
 思わず膝をつきそうな程にふらつきながら、ひしゃげた鉄骨にその背中を預けて、熊谷は荒い息でシンジの視線を正面から受け止めた。
 
 「なんだ……フフ、なにを、そんなに、怒ってやがる……? そいつは、使徒だ。……そうだろ? そいつが死んで、人間サマが、なぜ、怒るんだ、はははッ」
 
 「ふざけるな」
 
 シンジは、ポケットから銃を取り出した。
 
 その、怒りの銃口を、目の前の男に向ける。
 
 死の瀬戸際にいる男は、それに動じない。変わらぬ笑いをのっぺりとその顔に張り付けて、シンジを見る。
 
 「あの女なら……エヴァに乗って、そのまま、飛び出して行ったよ……見ろ、この有り様を。ひどいもんだろう? ははッ……滑稽だ。アイツは使徒なのに。アイツが死んだって、ナニも絶望するコトなんてないのに」
 
 「黙れ!」
 
 鋭い、憤怒の叫び。
 
 熊谷は、蒼白の表情でシンジを睨む。
 
 「どうした? 怒るな……彼女を、褒めろよ。忌まわしき、使徒をその手で葬った、人間サマの鑑ってヤツだ。そうだろ?」
 
 「アスカを侮辱するな」
 
 バシッ、と、叩きつける。
 
 言葉。
 
 「おまえに……何が、分かる」
 
 1ミリもずれない銃口の向こうに、熊谷を捉えたまま。
 
 奥歯を噛みしめるような思いで、シンジは呟く。
 
 「おまえに、」
 
 怒りで
 
 目が、
 
 眩む。
 
 「なにが……分かる!」
 
 引き金にかけた指に、力が籠もる。
 
 
 
 しかし、その銃口が火を噴くよりも前に、小さな破裂音がケイジに響き渡った。
 
 
 
 シンジは、熊谷を見る。
 
 
 
 熊谷は、
 
 自分の胸を、
 
 見る。
 
 
 
 そこに穿たれた穴から、血が噴き零れる。
 
 「あ……?」
 
 水っぽい、掠れた声が口元から漏れ、
 
 顔を、上げる。
 
 
 
 貼りついた笑いが剥げ、その裏側から、醜く歪んだ表情が顔を出す。
 
 
 
 「き……さ、マ……」
 
 震える右腕が、上がる。
 
 指が無い、その腕を上げて、
 
 まるで、そこにいる男を、指さすように。
 
 「加……」
 
 破裂音。
 
 熊谷の後頭部から、血飛沫があがる。
 
 衝撃で、バン、と鉄骨に背中を叩きつける。
 
 続く破裂音。
 
 額に空いた穴はたちまち広がり、血肉と脳漿と、頭蓋骨の破片を飛び散らせる。
 
 なおも数発続いた破裂音に合わせ、弾けるように頭を振った後、先ほどまで熊谷という名前だった肉体は頭から崩れ落ちた。
 
 
 
 シンジは、撃つことのなかった銃を構えたまま、茫然と、その様子を見つめていた。
 
 その肩に、掌が置かれる。
 
 
 
 「……こんな男のために、シンジくんが手を汚す必要なんて、無い」
 
 加持はゆっくりとそう呟くと、硝煙の臭いの残る拳銃を、その懐に収めた。



六百三十二



 シンジは、精気の籠らない瞳で、再び自らの足許に、視線を落とした。
 
 
 
 そこに横たわる、一人の少年。
 
 うつぶせに倒れるその背中には確かに銃痕があり、ひしゃげて傾いた床の上に、赤黒い血溜まりを作っている。
 
 風になびく美しい銀髪は、その血に浸されて紅に色を変え、
 
 その瞼を閉じた青白い横顔はしかし、微かな微笑みをたたえているようにも、見える。
 
 
 
 シンジは、ゆっくりと、再びその膝を血溜まりに下ろす。
 
 瞬きすることも無く……
 
 ……じっと。
 
 カヲルの横顔を、見つめる。
 
 
 
 死んでいる。
 
 
 
 確かに。
 
 
 
 シンデ
 
 いる。
 
 
 
 その眼は乾いて、溢れるべき涙も浮かばない。
 
 こんな……
 
 ……シンジの喉の奥で、声にならない声が、絞り出る。
 
 こんな……
 
 ……こんな、ことが。
 
 
 
 こんな、ことが……あって、いいのか……!?
 
 
 
 シンジの精神が、
 
 
 
 ぐらり、と……
 
 その、天秤を、
 
 傾きかけた、
 
 
 
 その
 
 瞬間。
 
 
 
 ……シンジの脳細胞の、
 
 その、向こう側で。
 
 
 
 
 光の渦が、スパークする。
 
 
 
 「!」
 
 
 
 真っ白い光に溢れる部屋の中で。
 
 シンジは驚いて立ちつくす。
 
 
 
 眩いばかりの光の中で。
 
 
 
 カヲルが、優しく微笑んでいる。
 
 
 
 気が付くとそこは、風なびく一面の草原。
 
 濃密な空気の気配が、二人の間を堰き切って駆け抜けていく。
 
 目を見張るシンジ。
 
 カヲルは、その微笑みを絶やさぬまま、
 
 ゆっくりと、目を開く。
 
 
 
 「大丈夫」
 
 
 
 鈴を転がすような、その、声。
 
 
 
 声の出ないシンジの耳に、直接、カヲルの声が流れ込む。
 
 
 
 「シンジくん」
 
 
 
 「カ……」
 
 カヲル、
 
 くん。
 
 呼びかけようとして、草木のむせかえる匂いに息をのむ。
 
 カヲルは笑い、そして言葉を続ける。
 
 
 
 「シンジくん。いま、するべきことは、そんなことじゃない」
 
 
 
 シンジは、怪訝な表情を浮かべた。
 
 意味が、分からない。
 
 するべきこと?
 
 そんなこと……って、なんだ……?
 
 
 
 「いま、するべきなのは、僕のことを、悲しむことじゃないよ」
 
 
 
 その言葉と同時に、シンジの脳裏に血溜まりに横たわる少年の姿が去来する。
 
 一瞬ののちに、世界は再び光の渦に変わる。
 
 その激しい光の渦を背負い……
 
 ……しかし。
 
 
 
 今まで一度も捉えることのできなかったその人影は、はっきりと、目の前の少年の姿を保ったまま、シンジを見つめている。
 
 
 
 「いま、するべきことは……」
 
 
 
 光の、渦。
 
 
 
 微笑み。
 
 
 
 「……彼女を、助けることだろう?」
 
 
 
 シンジの肩に、手が置かれる。
 
 ハッ、と、シンジの思考は、一瞬にして現実に呼び戻される。
 
 目の前の少年は、変わらず亡骸となって横たわっていた。
 
 シンジが振り向くと、加持が沈痛な面持ちで、小さく首を左右に振った。
 
 数秒、加持の顔を茫然と見つめて……やがて、そのジェスチャーの意味に思い至り、シンジは立ち上がる。
 
 加持は重い表情のまま、シンジの肩を、軽く叩いた。
 
 「シンジくん……大丈夫か?」
 
 「……加持さん」
 
 「悪いが……時間がない」
 
 加持は、眉に力を込めて、低く、呟いた。
 
 
 
 「弐号機には、アスカが乗ってる。
 
 葛城の話では、通信が遮断されていて、中の様子が全く分からないそうだ……」
 
 
 
 加持の言葉に、シンジは眼を見開く。
 
 いや……
 
 
 
 ぎゅっと目を瞑り、頭を振った。
 
 馬鹿か。
 
 分かっていたことだ。
 
 頭を切り替えろ……そうだ。
 
 
 
 頭の中で、確かに、声がする。
 
 
 
 いま、するべきことは、
 
 こんなことじゃ、ない。
 
 
 
 「アスカを止めてくれ」
 
 加持が、言葉を続けた。
 
 「シンジくんと初号機にしか、それは出来ない」
 
 
 
 加持の瞳を見返して、シンジは強く頷いた。
 
 そうだ。
 
 いま……するべき、ことは……
 
 ……アスカを、助けることだ!
 
 
 
 走り出そうと踵を返した瞬間、ケイジの中に、見知った顔が二つ、飛び込んできた。
 
 レイと、トウジだ。
 
 シンジと加持は、突然現れた二人の姿に、驚いた表情を見せる。
 
 「あ……綾波? どうして……」
 
 二人は、ぐしゃぐしゃに荒れ果てたケイジの惨状に息を飲んだ様子を見せ、
 
 辺りを見回して、シンジの姿を認め……
 
 ……喜びの表情を浮かべて駆け寄ろうとして、その足元に横たわる血溜まりのカヲルを見て、再びつんのめるように急ブレーキをかけた。
 
 
 
 無言で……眼を、見開いて、その亡骸を見る。
 
 トウジが、掠れるような声で、……なぎさ、と、その名前を呼んだ。
 
 
 
 二人は、一度止めた脚を、ふたたび……そろ、と動かす。
 
 数歩、
 
 こわごわと歩いてから、……歩を速めて、一気にシンジに駆け寄る。
 
 
 
 「……いかり……くん」
 
 シンジの目の前まで走り寄ったレイは、乾いた声でシンジの名を呼び、その姿を見る。
 
 シンジの足や服も血で汚れているが、本人は背筋を伸ばして立っている。この血はカヲルのものだ、ということは一見して理解できた。
 
 レイの瞳は、激しく混乱している。
 
 当たり前だ。
 
 トウジは数メートル手前で止まり、呆然とカヲルの亡骸を見つめて……頭は、完全に真っ白になっている様子だ。
 
 
 
 レイは、不安を隠しきれない表情で、シンジの瞳を見つめる。
 
 シンジも数秒、レイの瞳を見つめてから、くるりと加持に顔を向けた。
 
 「加持さん」
 
 「ん」
 
 「……綾波とトウジ、頼みます」
 
 シンジの言葉に、レイとトウジが、少し驚いた表情でシンジを見る。
 
 加持は、静かに頷く。
 
 「分かった」
 
 「碇君……?」
 
 「綾波、トウジ……こうしてる暇、ないんだ」
 
 レイとトウジの顔を見て、シンジが硬い表情で呟く。
 
 「アスカを、止めないと」
 
 
 
 レイが、気付いたようにハッとした表情を浮かべた。
 
 「……アスカ?」
 
 「……惣流が、どうしたんや?」
 
 トウジも驚いてシンジに詰めよる。
 
 
 
 確かに、この場にアスカの姿はない。
 
 一人で歩き回って、ここにいないだけかとも思ったが……そもそも冷静に辺りを見回せば、弐号機が、いない。
 
 「まさか……」
 
 何かに思い当たるように、目を見開いて行くレイの肩に、シンジは両手を置く。
 
 「ここは危険だ。加持さんと一緒に、管制塔に戻ってて欲しい」
 
 
 
 レイは、大きく首を振った。
 
 何が起こっているのか、
 
 そんなことは、ここに来たばかりのレイには、分からない。
 
 それでも。
 
 
 
 見ているだけ、
 
 待っているだけは、
 
 もう、ごめんだ。
 
 
 
 「……碇君! ……わたしも……」
 
 私も、行く。
 
 言いかけたその言葉は、聞き慣れた別の声音に掻き消された。
 
 
 
六百三十三



 その場にいた全員が、振り返った。
 
 
 
 ひしゃげたタラップの陰から、現れた男。
 
 その男は、横たわる熊谷の無残な遺骸の横を、まるで目に入っていないかのように悠然と歩む。
 
 先ほどまでの喧騒から、一瞬にして冷たい氷水に満たされたかのようなこの空間に、その革靴の足音だけが響く。
 
 
 
 シンジ達から数メートルの間をおいて、男は立ち止まる。
 
 ズボンのポケットに入っていた手を出し、それをそのまま、ゆっくりと差し出した。
 
 
 
 「……私と一緒に来るんだ、レイ」
 
 
 
 「……父さん!」
 
 シンジは、驚愕の思いで……茫然と、叫んだ。
 
 
 
 管制塔にいたのではなかったのか?
 
 だが、確かにシンジがミサトと連絡を取ったとき、その場にゲンドウがいたなどとは誰も言わなかった。
 
 分かっていたのか? ここに、集まることが?
 
 ゲンドウの視線は、ただレイにだけ注がれていて、
 
 そのすぐ横にいる筈のシンジを、まるでその場にいないかのように扱い、僅かな視線も向けない。
 
 
 
 その、差し出された、手。
 
 その、
 
 甲には。
 
 
 
 「な……ん、や……アレ……」
 
 トウジが、掠れた声で、呟いた。
 
 
 
 シンジと加持には、それがなんだか、分かる。
 
 その甲に、まるで融合しているかのように一体化して埋め込まれ、微かに脈動するもの。
 
 その眼が、ギョロリと、シンジを見る。
 
 まるで、サングラス越しのその瞳が見えないゲンドウの代わりに、視線をくれてやったかの、ように。
 
 「アダム……」
 
 シンジが呟く。
 
 加持も、眉根を寄せた。
 
 「……成功、したというわけですね」
 
 重い声で、そう、言う。
 
 
 
 レイは、シンジのシャツの袖を掴んだ。
 
 ぐっ……と、その手に力が籠る。
 
 だが、シンジの体の陰に、身を隠すような真似はしない。
 
 ただ、……じっと、ゲンドウの視線を受け止め、
 
 そのまま、跳ね返す。
 
 
 
 「嫌です」
 
 短く。
 
 
 
 しかし、はっきりとした声音で。
 
 鋭く。
 
 答える。
 
 
 
 それは、明確な意思だった。
 
 
 
 揺るぎない、
 
 拒絶の、意思。
 
 
 
 ゲンドウは、動じた様子もなく、ただじっと同じ姿勢でその言葉を聞いた。
 
 重い空気は、変わらない。
 
 そうして……10秒も経過しただろうか。
 
 ゲンドウは、ゆっくりとレイから視線を外す。
 
 
 
 そのまま……見上げる。
 
 そこには、冷却水に浸かった、初号機の威容。
 
 その紫色の巨躯を見上げて……それから、静かに視線を戻す。
 
 
 
 
 口を、開く。
 
 「……ここでやっても、構わない。幸い、初号機もいる」
 
 
 
 全員の表情に、緊張が走る。
 
 トウジだけは状況の理解についていっていないが、しかし、この場の電流が走るようなピリピリとした空気は、トウジも変わらず全身の毛をそばだてる。
 
 加持は、素早く……音も立てず、一瞬にしてレイと体を入れ替え、その前に遮るように立った。
 
 いつもの飄々とした態度とは一変して、腰を低く、臨戦体制で銃を構える。
 
 「……そういうことですか」
 
 ゲンドウを睨みつけたまま、加持は静かに呟く。
 
 「……しかし、彼女の協力は、得られそうもありませんね。司令……これは、シナリオの内ですか?」
 
 半身をずらして構えつつ、そう告げる。
 
 
 
 初めて、ゲンドウの表情が動く。
 
 それは、微かな嘲笑。
 
 口の端を、小さく歪めて、笑う。
 
 
 
 「シナリオなど、書き直せばいい」
 
 言いながら、無造作に足を出した。
 
 あまりに自然な動きに、加持の表情に驚きと戸惑いの色が浮かぶ。
 
 銃を構えているはずの加持の存在を無視するように、その後ろのレイに向かってまっすぐに歩みよる。
 
 「……それが、A.T.フィールドの力だ」
 
 言いながら、ゲンドウは、まるで青果店で軒先の野菜を手に取るように、何の緊張もなく、レイに向かって手を伸ばす。
 
 盾になる位置に、加持がいるのに。
 
 レイは緊張で体を固くする。
 
 加持は、咄嗟に、銃を持った手を使って、その伸ばされた手を払いのけようとする。
 
 
 
 その、手を。
 
 アダムの埋め込まれたゲンドウの手が、まるで暖簾を掻き分けるように、軽く、いなした。
 
 
 
 場の空気が、固まる。
 
 一滴の血も、飛ばない。
 
 まるで、粘土細工のように。
 
 
 
 銃を握ったまま、加持の右手が床に転がった。
 
 
 
 加持の袖口には、もう、何も無かった。
 
 「加持さん!?」
 
 驚きの声を上げ、加持に駆け寄ろうとするシンジを、加持は素早く、左手を上げて制した。
 
 加持の額に脂汗が浮かぶ。
 
 その表情のまま、微かに笑った。
 
 「はは……まさか」
 
 手首から先が消えた右腕を、抱えて、加持がよろめく。
 
 「A.T.フィールド……こんな」
 
 言いながら、思わず片膝をつく。
 
 
 
 それでも、まだ狂乱に陥らないだけ、加持の精神は、見上げた強靭さを保っていた。
 
 それほどに、いま目の前で起こった出来事は、異常。
 
 理性が状況の認識を拒絶する、あり得ない情景。
 
 
 
 アダムの、手。
 
 その手には、物体の形など、無意味。
 
 人の殻など、無いも、同然。
 
 
 
 ゲンドウは、そのまま流れるような動作で、その手をレイに伸ばした。
 
 レイの下腹部に向けて、手を伸ばす。
 
 思わず数歩後ずさるレイを、追いすがる、その、アダムの手。
 
 「やめろッ!!」
 
 シンジがレイの肩を抱き、一緒に数歩逃げる、
 
 手が、伸びる、
 
 
 
 間に合わない。
 
 
 
 そう思った瞬間、ケイジに銃声が響き渡った。
 
 
 
 ゲンドウの背中に、七色の壁が出現した。
 
 銃弾は、届かずに跳ね返され、跳弾して冷却湖に波紋を作る。
 
 シンジとレイは、その僅かな隙に、必死に歩を踏み、更に大きく後ろに下がった。
 
 
 
 ゲンドウはゆっくりと振り返り、銃声の元へ視線を向ける。
 
 
 
 数メートル離れた搬入口で、たなびく紫煙を携えて立つ、その白衣の姿。
 
 「……君か」
 
 ゲンドウの言葉に、応えずリツコは引き金を引く。
 
 数発、続く銃声。
 
 しかしそれは、眼前のA.T.フィールドの壁にすべて阻まれる。
 
 
 
 ゲンドウは、瞬きもせず、じっとその姿を見つめる。
 
 「君に、用は無い」
 
 ゲンドウの低い声に、リツコは柔らかく、微笑んだ。
 
 
 
 「私にだって無いわ」
 
 
 
 更に続けざまに二発、銃声が響く。
 
 結果は変わらない。
 
 全ての弾をはじかれ、引き金を引いても乾いた金属音しかしなくなる。
 
 リツコは、肩を竦めると、その銃を無造作に足許に投げ捨てた。
 
 
 
 ゲンドウは、ぐるり、と体を回した。
 
 リツコに向けていたその正中線を、シンジとレイに合わせる。
 
 手の甲を、ゆっくりと、あげ。
 
 アダムを、二人に、見せる。
 
 
 
 「終わりだ」
 
 
 
 ぎょろり、と、アダムが二人を見る。
 
 サングラスの向こう側で、ゲンドウが、同じ眼をしている気がした。
 
 
 
 シンジとレイの足許から、一瞬で冷気が駆け上る。
 
 背中を流れていた汗が、凍りついた。
 
 
 
 ゲンドウの足が出る。
 
 シンジと、レイの足が下がる。
 
 しかし、二人の背後には壁があり、数歩でその冷たい壁に、踵が付いてしまう。
 
 
 
 シンジは恐怖と闘いながら、レイの体をその全身で覆い隠した。
 
 「だめっ……碇君!」
 
 レイの悲痛な叫び。
 
 ゲンドウの手が伸びる。
 
 毛穴が凍る。
 
 
 
 ただ。
 
 視線だけは、ゲンドウの顔に。
 
 
 
 最後まで、
 
 凝視する。
 
 
 
 それが、
 
 プライド。
 
 
 
 ゲンドウの、
 
 手が、触れる。
 
 
 
 瞬間、目の前を、豪速で紫色の物体が走り抜けた。
 
 轟音が響く。
 
 
 
 初号機の腕が、ゲンドウを壁に叩きつけていた。