第百二十六話 「双肩」
六百二十三



 ぺたん。
 
 と、アスカはお尻を床につけて、脱力したように座っていた。
 
 その視線は、どこに結ばれているのか。
 
 ただ、じっと……。前方の暗がりを見つめ、焦点が合っていない。
 
 
 
 やがて……
 
 ……数瞬の時を置いて、視線がゆっくりと、手許に落ちる。
 
 いま、初めて気が付いたかのように……静かに、その手の中のものに、視点が、合う。
 
 
 
 その黒光りする鋼の塊は、ずっしりとした確かな重さを、彼女の掌に与えていた。
 
 
 
 男の声が、脳裏に、響く。
 
 「あなたは引き鉄を引いて、渚カヲルを殲滅してくださればいいのです」
 
 
 
 ……殲滅……
 
 
 
 ……殺す?
 
 
 
 ……アタシが?
 
 アイツを……?
 
 
 
 それは、なんと現実感の無い言葉だろうか。
 
 掌で存在を主張する、この禍々しい塊が無ければ、白昼夢と片付けてしまいそうなほどに。
 
 
 
 分からない。
 
 
 
 判断、出来ない。
 
 何が正しくて、
 
 何が、間違っているのか。
 
 
 
 ……誰を、信じて、いいのか。
 
 
 
 あの男が言っていた、別の白昼夢を思い出す。
 
 
 
 ……シンジが、スパイ?
 
 それは、あまりにも荒唐無稽。
 
 笑い飛ばしてやりたいし、
 
 こんなことを言うバカがいる、と、シンジ本人に電話の一つでもしてやりたい。
 
 だが。
 
 
 
 シンジが、スパイ。
 
 その、言葉の全てを、足蹴にできない。
 
 全く……何も考えず、明朗にこの言葉を打ち捨てられない。
 
 
 
 そんなことない。
 
 そんなことない。
 
 そんなことない……と。
 
 ……思って……いるのに。
 
 
 
 いつも、見え隠れしていた、シンジの背中の後ろの、影。
 
 シンジがその裡に確かに保つ、何らかの、秘密。
 
 シンジが、確かに秘密を持っていること……それは、つい先ほど、自分自身がこの耳で確認したばかりだ。
 
 ……何か、隠している。
 
 それだけは、もはや疑いようがなくなった。
 
 
 
 足許が、ぐらつく。
 
 シンジに、相談することなど、できない。
 
 もちろん、レイにも。
 
 
 
 「……自分で……決めろって……言うの?」
 
 
 
 自らの口から零れたその言葉に、アスカは呆然とした。
 
 ドイツでの訓練で、幾度と無く引き絞ってきた、引き鉄。
 
 それは安全装置を外して撃鉄を起こせば、まるでプディングにずぶりと人差し指を突っ込むかのごとく、容易く引くことのできる機構。
 
 だが……今の自分には、とてつもなく、重い。
 
 
 
 (加持さん……)
 
 
 
 ただ、呆然と。
 
 
 
 加持さん……。
 
 自分の行動に、責任を持てって……
 
 どういうこと?
 
 
 
 責任って、なに……?
 
 
 
 あのとき……
 
 
 
 アタシが、渚カヲルを、助けなければ、
 
 よかったの……?
 
 
 
 思考は渦を巻き、
 
 荒れ狂う波間に
 
 千切れ、飲み込まれる。
 
 クレヨンで乱暴に、
 
 無造作に……
 
 脳味噌の上を
 
 塗り潰されていく。
 
 ミキサーにかけられた豆腐は
 
 原形をとどめない。
 
 弾けた水風船は
 
 誰の指から抜け落ちたのか?
 
 
 
 これは
 
 現実か?
 
 
 
 それとも、夢か。



六百二十四



 早足で廊下を歩きながら、シンジは忙しく周囲に視線を走らせていた。
 
 普段、アスカが足を運びそうな場所を重点的に探しているのだが、通りかかる人に尋ねても彼女の痕跡を見つけられない。
 
 根本的なアプローチが違うのか……むしろ、彼女が全く足を踏み入れないような深部にこそ、今は彼女が逃げ込んでいる可能性が高いのだろうか。
 
 ……だが、そうなると一気に捜索範囲は広がる。
 
 アスカが普段行かない場所は、その殆どは、シンジも行ったことの無い場所ばかりだ。
 
 そこを探すとなると……はっきり言って、どこから手を付ければいいのか。
 
 焦りばかりが胸の奥でうずく。
 
 
 
 携帯電話が鳴り、シンジは歩みを止めずにノーモーションで耳に押し当てた。
 
 「はい、碇……ああ、綾波。そっちはどう? ……そう、うん……僕も、まだ。……いや、手掛かりも無いよ。……うん……うん、分かった。とにかく、見つけたら教えて」
 
 そのまま通話を切り、携帯電話をズボンのポケットに放り込む。
 
 
 
 アスカを見つけてどうするのか、という問題も、シンジを悩ませている事柄の一つだ。
 
 少なくとも、彼女を放置していい状況では、ない。それは確実だと思うからこそ、こうして手分けして探しているのだが……実際にアスカを目の前にしたとき、どう彼女に語りかけていいのかは、まだ霧の中だ。
 
 アスカが今なにを考えているのかを、推し量り切れないことも、シンジの悩みを深くする。
 
 ……アスカを見つけたとき、アスカがどう動くか、分からない。
 
 秘密にしていたことを弁解し、彼女に謝罪し、今度こそ全てをアスカに語る……と、シンジが言うのは簡単だ。
 
 だが、聞く側のアスカが、また逃げ出したら? 絶対に聞きたくないと、永久凍土の如き頑なさでシンジの言葉を拒絶したら。
 
 それでもなお……耳を塞ぐ彼女の両手を無理矢理引き剥がしてまで、「聞きたくない」と言われた言葉を聞かせるのが正しいのか、判断がつかない。
 
 
 
 だが、とにかく、今はアスカに会いたかった。
 
 
 
 彼女がシンジの言葉を聞いてくれるとしても、
 
 あるいは……拒絶されるにしても。
 
 目の前に本人がいなければ、シンジにはどうすることもできない。
 
 謝ることさえ、できないのだ。
 
 
 
 足早に通路を通り抜け、エレベーターホールに入りボタンを押す。
 
 このフロアには、いなかった。
 
 次はどこを探すのか、そのプランは無いまま、扉の開いた箱の中に体を滑り込ませた。
 
 とにかく適当なフロアのボタンを押し、エレベーターの壁に体を預ける。
 
 ほう……と、歩き詰めだった疲れから、溜息をひとつ。
 
 
 
 次の瞬間、エレベータの中の照明が真っ赤に染まり、聞きなれたサイレンが響き渡った。



 管制塔は、緊迫した喧騒に包まれていた。

 「第六ネット音信不通!」
 
 オペレータの声に被るように、耳障りなサイレンが鳴り響く。
 
 忙しくキーボードの上に指を走らせるマコトの横で、冬月が受話器を片手に厳しい表情でモニタを睨みつけていた。
 
 矢継ぎ早に指示を飛ばす。
 
 「左は、青の非常回線に切り換えろ。衛星を開いても構わん……そうだ。……右の状況は?」
 
 『外部との全ネット、情報回線が一方的に遮断されています』
 
 報告に溜息をつくと、冬月はさらに二、三言の指示を出して受話器を置く。
 
 
 
 モニタには、警告の赤い文字とともに、激しい情報の攻防戦が視覚化されて溢れかえっていた。
 
 それを凝視して、冬月は誰に告げるとも無く、呟く。
 
 「……目的は、MAGIか?」
 
 その言葉に応えるように、マコトが鋭く告げる。
 
 「全ての外部端末から、データ侵入」
 
 「MAGIへのハッキングを目指しています!」
 
 シゲルの報告が、マコトの言葉を補足する。
 
 
 
 冬月は、厳しい表情を崩さぬまま、マコトのモニタにスクロールする文字列を一瞥した。
 
 「やはりな。……侵入者は、松代のMAGI2号か?」
 
 「……いえ……少なくとも、MAGIタイプ5……ドイツと中国、アメリカからの侵入が確認できます」
 
 シゲルの言葉に、冬月は眉根を寄せた。
 
 「ゼーレは総力を挙げているな……勢力差は1対5。分が悪いぞ」
 
 
 
 「第四防壁、突破されました!」
 
 オペレータの報告が響き渡る。
 
 メインモニタに映し出される基幹システムの模式図は、徐々に赤く染まる部分が増えつつあった。
 
 「主、データベース、閉鎖。……ダメです! 侵攻をカットできません!」
 
 マコトの声に、しかし、冬月の表情は厳しくも揺るがない。
 
 「赤木博士は」
 
 問われたマヤは、視線を激しくモニタ上に躍らせながら、頷いて応えた。
 
 「進捗率およそ67%。先輩の方が数ステップ早いです」
 
 「さすがだな」
 
 「MAGIが5台攻めてきたくらいで、先輩がいるアドバンテージを越えられるはずがありません」
 
 揺ぎ無いマヤの言葉に、彼女の背中を見つめた冬月は、我知らず苦笑した。
 
 
 
 MAGIの内部。
 
 その暗闇の中で、リツコの顔だけが、手許のノートパソコンの明かりに照らされて浮かび上がる。
 
 うねうねとまるで有機体のように這い回る金属パイプの隙間で、まるで氷上を滑るフィギュアスケートの妙技の如く、キーボードを無数の指の残像がタッチする。
 
 リツコの眼鏡に反射するモニタには、滝のように文字列が現れ、瞬く間に流れ消えていく。
 
 
 
 『赤木博士が現在プロテクトの作業に入っています』
 
 携帯電話でマコトの報告を聞きながら、ミサトは大股で通路を闊歩していた。
 
 警報が鳴るよりも前に、加持とは別れて今は一人だ。
 
 「調子はどう?」
 
 『何とか間に合いそうです』
 
 「そう。さすがね」
 
 『それから、さきほど、第二東京からA-801が出ました』
 
 マコトの言葉に、ミサトの表情が険しくなる。
 
 「801……NERVの特例による法的保護の破棄、および指揮権の日本国政府への移譲……」
 
 『そうです。最後通告ですよ』
 
 
 
 それはつまり、日本国内に、政府のコントロール下に無い軍隊の存在する特殊性を認めない、という宣言であり……この通告を無視して指揮権の移譲を拒絶した場合、クーデター行為と見なされて戦略自衛隊からの攻撃も起こりうるだろう。
 
 通告などと言う生易しいものではなく、強制に等しい。
 
 
 
 「……下らないことしてくれるわね」
 
 ミサトは毒づいた。
 
 NERVがやすやすとその指揮権を日本国に明け渡すはずが無く、そしてそれは日本国政府も端から承知だ。
 
 つまり、初めからNERVがこの通告を蹴ることは分かりきっているわけで、宣戦布告と変わらない。
 
 NERVからの返答を待つまでも無く、今頃、戦略自衛隊がこの地を取り囲んでいても不思議は何も無かった。
 
 
 
 管制塔に直結した小型エレベーターハッチに乗り、ミサトは下階からそのまま中央管制塔に上がった。
 
 部屋に入ると、マコトがその姿を認めて、たった今までミサトと会話していた受話器を置く。
 
 「強羅地上回線、0.2%に上昇」
 
 シゲルの言葉を聞きながらミサトはツカツカとコンソールに歩み寄ると、マヤの肩に手をかける。
 
 「どう?」
 
 「あと87ステップで終了です。このままいけば、5ステップは余裕を持ってこちらが勝ちます」
 
 マヤの言葉に頷いて、ミサトは後ろを振り返り、MAGIの開口部に視線を向ける。
 
 
 
 暗闇の中で、無表情のまま、キーボードを叩くリツコ。
 
 そのまま、ノーモーションで、タン! とエンターキーを叩く。
 
 そして、静寂。
 
 
 
 マヤが喜びを声音に含んで叫ぶ。
 
 「MAGIへのハッキングが停止しました! Bダナン型防壁を展開。以後62時間は、外部侵攻不能です」
 
 報告に頷きつつ、ミサトの表情は崩れない。
 
 腕組みをして、前方のメインモニタを見つめる。
 
 
 
 頭上、司令席のそばで報告を聞いていた冬月が、腰をかがめてゲンドウに囁く。
 
 「……MAGIは、前哨戦に過ぎん。やつらの目的は、本部施設、および残るエヴァ二体の直接占拠だな」
 
 「ああ。リリス、そしてアダムさえ我らにある」
 
 「……老人たちが焦るわけだ」
 
 冬月は溜息をついて、再び姿勢を正した。
 
 
 
 MAGIの狭い開口部から、にじるようにしてリツコが姿を現した。
 
 そのそばに、ミサトが歩み寄り、右手を差し出した。
 
 「お疲れ、リツコ。さすがね」
 
 「ありがとう」
 
 ミサトの手を取り、リツコは立ち上がって白衣を軽くはたいた。
 
 
 
 「やっぱり、天下のリツコ様にかかっちゃ、MAGIが押し寄せても、あしらいは軽いものね」
 
 ミサトの言葉に、リツコは視線だけ彼女に向けた。
 
 「そうでもないわよ」
 
 「あ、そう?」
 
 「結構、綱渡り」
 
 「へぇ、そう。マヤの報告では、割と余裕だったみたいだけど」
 
 リツコは視線をミサトから外し、今は警告の表示が消えたメインモニタを見る。
 
 「事前に予想できてたからね。準備万端なんだから、私じゃなくてマヤだったとしても、間に合ってたと思うわよ」
 
 リツコの言葉に、ミサトは怪訝な表情を浮かべる。
 
 「事前に……って?」
 
 「シンジ君から、警告を受けてたから」
 
 「ああ……」
 
 
 
 いまさら、驚く要素はない。
 
 お互いに口を開かず、リツコとミサトは視線だけを交わしあい……そのまま、各々の位置へと別れた。
 
 
 
 もはや……
 
 ……シンジの言葉に、疑念を差し挟む必要はない。
 
 それに異を唱えるまでも無く……シンジが何らかの示唆を唱えたら、リツコはそれを咀嚼して、自らのやるべきことをやるだけ。
 
 そして、それが的中したからといって、殊更に騒ぐことは、もう無かった。



六百二十五
 
 
 
 暗闇に浮かぶ、モノリスの群れ。
 
 その禍々しい物体は、その場の全てを押し潰すような重さを孕んだ沈黙を横たえて、やがて、決意する。
 
 「碇はMAGIに対し、第666プロテクトをかけた。この突破は容易ではない」
 
 「MAGIの接収は、中止せざるを得ないな」
 
 
 
 別の声が言う。
 
 「あの男からの報告は?」
 
 「現時点では順調のようだ。種は撒いた……稲穂がその頭を垂れる時も近い。いずれは収穫を迎えよう」
 
 
 
 低く……
 
 キールの言葉が、地を、這う。
 
 「補完計画については、予定通りの手筈で行う。
 
 そのために整えるべき環境は穏便に整えたかったのだが……いたしかたあるまい」
 
 
 
 言葉を切り、数瞬。
 
 その沈黙の後、
 
 厳と。
 
 
 
 「本部施設の占拠を行う」



六百二十六



 その湖底の下にジオフロントの広大な空間を抱えた湖が、太陽の光を受けてキラキラと輝く。
 
 周りの廃墟に目を瞑れば、清涼飲料水のCMにでも使えそうな、健康的で爽やかなロケーションである。
 
 だが、その周囲に密かに潜伏し蠢く無数の影は、そんな爽やかさとは縁のないぎらぎらとした視線をその湖面に注いでいた。
 
 欝蒼と茂る茂みの中で、軍服に身を包んだ兵士が、携帯用の無線機の受話器を置く。
 
 「始めよう。予定通りだ」
 
 男の後ろに控えていた別の兵士が、かすかに頷き、茂みから立ち上がった。
 
 それに呼応するかの如く、次々と人影が立ち上がる。
 
 つい先程までは夏の風が吹き抜ける草原だったそこは、一気に硝煙の臭いが鼻をつく戦場と化す。
 
 
 
 今まで、その巨体をどこに隠していたのか?
 
 物々しい駆動音を響かせて、戦車や装甲車、地対地ミサイル搭載車などが湖を囲む道という道に溢れかえる。
 
 戦車の砲身が火を噴く。
 
 装甲車のランチャーから発射されたミサイルが宙を舞う。
 
 それは湖や山肌を一気に薙ぎ、要所に設置されていたNERVの監視カメラや指揮車を破壊していく。
 
 
 
 「第8から17までのレーダーサイト、沈黙!」
 
 「特化大隊、強羅防衛線より、侵攻してきます」
 
 「御殿場方面からも、二個大隊が接近中!」
 
 「三島方面からも接近中の航空部隊3を確認」
 
 管制塔に響き渡るアナウンス。
 
 サブモニタに表示されていた、各所の監視映像は、次々と砂嵐に変わっていく。
 
 冬月が、静かに、呟く。
 
 「やはり、最後の敵は、同じ人間だったな」
 
 
 
 「総員、第一種戦闘配置」
 
 ゲンドウの言葉が、低く……オペレータたちの背中に投げかけられた。
 
 ミサトの表情が険しくなる。
 
 マヤは、呆然とした顔でゲンドウを見上げて、それから自分のキーボードに視線を落とす。
 
 「……戦闘配置!? ……相手は使徒じゃないのに。同じ人間なのに」
 
 
 
 隣で、同じように険しい表情を見せていたマコトが、そっと……呟く。
 
 「……むこうは、そう思っちゃくれないさ」
 
 
 
 その、ジオフロントを揺るがすようなサイレンと……スピーカーから漏れ聞こえる緊迫した報告の数々は、アスカの耳にも届いていた。
 
 薄汚れた廊下の隅で、壁に背中を預けて、膝を抱えて座っている。
 
 
 
 すべて、非・現実的。
 
 自分に関わりのあることが、起こっているような気がしない。
 
 
 
 抱えた足のつま先……そのすぐ先の床に、拳銃が鈍い光を放っている。
 
 その塊を、ただ……見つめている。
 
 
 
 どうすればいいのか……を、確かに考えていた筈だった。
 
 だが、今のアスカの頭の中は、ただ「無」が広がるのみ。
 
 ……思考を停止して、すでに幾許かの時間が経過していた。
 
 どうすればいいのか。
 
 ……わからない。
 
 考えても、堂々巡りの、袋小路。
 
 自分の脳味噌の中に、答えが用意されている気が、しない。
 
 
 
 このまま、全てが過ぎ去ってしまえばいい、と、アスカはぼんやりと考えていた。
 
 さっきから耳障りな音をかき鳴らしているスピーカーも……これが使徒の襲来を告げているのなら、きっとシンジが何とかしてくれる。
 
 自分が行かなくても……こうして、ここに座っているままでも。
 
 全ては、滞りなく、処理されるだろう。
 
 この、いまいましい拳銃も……使わずじまいで。
 
 さっきの男が、恐縮そうな顔で戻ってくればいい。
 
 
 
 すいません、状況が変わりまして。
 
 惣流さんに撃っていただく必要はなくなりました。
 
 あ、その拳銃は回収しますね。
 
 ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。
 
 あ、渚カヲルは放っておいても大丈夫ですよ。
 
 ええ、大丈夫です。サードインパクトは起こらないみたいです。
 
 ああ、碇シンジがスパイだっていうのも、間違いでしたよ。
 
 本当に、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。
 
 いやぁ、全ては終わりましたよ。
 
 何も、ご心配はいりません。
 
 世界は救われたんですよ。
 
 もう、あなたを煩わせるようなことは、何も起こりません。
 
 世界は平和になったんですよ。
 
 よかったですね!
 
 
 
 ……あ、もうひとつだけ。
 
 もう、必要なくなったので。
 
 さっきお貸しした携帯電話、返していただけますか?
 
 
 
 ポケットの中で唐突に鳴り響いた携帯電話の呼び出し音は、アスカの背骨をビキッと引き伸ばすような驚きを彼女に与えた。
 
 心臓が、早鐘のように鳴る。
 
 目を見開いて、自分のポケットを見下ろす。
 
 
 
 一度も、鳴らなかった、携帯電話。
 
 シンジたちが自分を探して鳴らす筈で、それを避けたくて……逃げ出してすぐに、電源は切っていた。
 
 だから、おそらくこのサイレンで呼び出しがかかっていたとしても、自分のところには、連絡は来ない。
 
 それなのに……
 
 ……信じられないような思いでポケットに手を突っ込み、おずおずと取り出す。
 
 
 
 ……それは、自分の携帯電話では、なかった。
 
 自分の携帯電話は、それとは別に、ポケットの中に入ったままだ。
 
 
 
 いつ?
 
 どうやって?
 
 なぜ、このポケットの中に?
 
 アスカの表情が、恐怖で彩られた。
 
 もう、コール数は20を超えただろうか。
 
 手の中の携帯電話を見つめたまま、その電話に出ることができない。
 
 しかし、コールは諦める素振りも見せず、淡々とその電子音を廊下に響かせている。
 
 
 
 
 息が、荒くなる。
 
 さらに、20回はコールを重ねていた。
 
 出たくない。
 
 無視したい。
 
 だが、耳鳴りのように自分を呼び続ける単調な電子音に、これ以上抗うことはできなかった。
 
 震える指で、通話ボタンを押す。
 
 なぜ、ここまで緊張しているのだろう?
 
 こめかみを脂汗が伝うのを感じながら、おずおずと携帯電話を持ち上げ、耳に押し当てた。
 
 
 
 『準備が整いました』
 
 耳に流れ込んできた声は、数刻前まで目の前にいた、あの男の声だった。
 
 すいません、状況が変わりまして。
 
 惣流さんに撃っていただく必要はなくなりました。
 
 ……そんな、アスカに都合のいい言葉は、吐かなかった。
 
 『渚カヲルを、ケイジに呼び出してあります。そこで、決行してください』
 
 「ま……」
 
 掠れた声がアスカの口から零れる。
 
 眉間に皺が刻まれる。
 
 懇願するように、言葉を続けた。
 
 「待って……待って、待って。決められない……私には、できない」
 
 『待てません』
 
 ぴしゃり。
 
 と、アスカの縋る言葉を、男はぶつ切る。
 
 アスカは我知らず息を飲んだ。
 
 
 
 数秒の沈黙を経て、男の言葉が連なる。
 
 『タイムリミットです。逡巡の余地は、もうありません。あなたが出来ないと言うのであれば、一時間後には、人類は滅亡していることでしょう。
 
 本当に、ギリギリなんです』
 
 「そんな……」
 
 声が震える。
 
 そんな。
 
 そんなこと、言ったって。
 
 『いいですか?』
 
 諭すような口調で、男が言う。
 
 『渚カヲルを殲滅することに、かなり悩んでおられるようですが……考え方を変えてください。
 
 渚カヲルを殺さない、ということは、イコール……
 
 ……あなたが、その他の全ての人類を殺すことと、同じです』
 
 
 
 脳天を、ハンマーで叩かれたかのようだった。
 
 呆然と……虚空を見つめる。
 
 膝が、傍目にも、はっきりと分かるほど震えだす。
 
 
 
 『こう、考えれば、単純でしょう?
 
 渚カヲル一人の命と、その他の、この地球上に住むすべての人間の命と。
 
 天秤に掛けるまでもない、と思いませんか?』
 
 そう。
 
 そう、だ。
 
 そう、だ、けど。
 
 『あなたにも、大事な友人がいるでしょう?
 
 いや、別に、友人でなくてもいい。
 
 幸せに暮らす、幾億の人々……そんな多くの人々の命を、あなたの手で、摘み取ることになる。
 
 ……そんなことが、できますか?』
 
 
 
 できる、わけが、ない。
 
 そんなことができる人間が、この世にいるか?
 
 だけど。
 
 
 
 だけど。
 
 それと、これとは。
 
 違う……。
 
 違う、のに。
 
 
 
 「ハァッ」
 
 苦しい息が漏れた。
 
 反論、できない。
 
 臓腑の中を、熱く滾る何かがぐるぐると渦巻いて、自分自身を破壊していく。
 
 分かっている。
 
 分かっている、けど。
 
 だからと言って、渚カヲルに向かって引き金を引くのは、違う。
 
 
 
 『ケイジに、すぐに来てください』
 
 アスカの事情などお構いなしに、男は言う。
 
 『監視カメラを切っておく時間にも、限りがあります。今、やるしかないんです』
 
 頷けない。
 
 返事が出来ない。
 
 
 
 『人類を、救ってください』
 
 
 
 小さな切断音が耳に届き、ツー、ツー、という電子音しか聞こえなくなった。
 
 身動きが、できない。
 
 呆然と……
 
 ……ただ。
 
 そこに、座って。
 
 
 
 目に痛みを感じて、咄嗟に瞼を閉じた。
 
 手の甲でこする。汗が入ったようだ。
 
 気がつくと、顔中に脂汗が浮き出ている。
 
 壁に預けた背中にも、
 
 胸の谷間にも、
 
 気持ちの悪い汗が大量に滴っているのを感じる。
 
 
 
 「……ッ」
 
 アスカは立ち上がると、そのまま渾身の力で振りかぶった。
 
 肩の筋肉、腕の筋肉が千切れるのではないかというほどの力で、一気に携帯電話を投げつける。
 
 壁に当たった携帯電話は、激しい音を立てて粉々に砕け散った。
 
 破片がアスカの頬をかすめ、赤い筋が浮かぶ。
 
 
 
 「ハーッ……ハーッ……ハーッ……」
 
 肩で荒く息をしたまま、アスカはその壁を睨みつけた。
 
 「ハーッ……ハーッ……ハーッ……」
 
 忌々しい携帯電話は粉々になったのに、ぶつかった壁には傷の一つも付いていない。
 
 携帯電話が砕けたって、言われた言葉は、砕けて消えるわけじゃ、ない。
 
 「ハーッ……ハーッ……ハーッ……ハーッ……」
 
 人類を?
 
 救う……。
 
 なんの、冗談か。
 
 「ハーッ……ハーッ……ハーッ……ハーッ……ハーッ……」
 
 人類を。
 
 殺す……。
 
 ……わたし、が。
 
 「ハーッ……ハーッ……ハーッ……ハーッ……ハーッ……ハーッ……」
 
 わ、た、し、……が。
 
 
 
 「ハーッ……ハーッ……ハーッ……ハーッ……ハーッ……ハー……あ……あぁあ……あ」
 
 
 
 両手で、顔を覆った。
 
 耐えられない。
 
 爪が額を穿つ。
 
 このまま、脳味噌を引きずり出して。
 
 壁に投げつけたら。
 
 
 
 「あ……あ、あぁ……あぁあぁあ……ああああぁあ……」
 
 
 
 砕け散った携帯電話と同じように、
 
 私の灰色の脳味噌も、砕け散るだろう。
 
 それで、全て終わり。
 
 何も、考えなくて、いい。
 
 何も、しなくていい。
 
 
 
 しなくて、いい……のに。
 
 
 
 「あ……あ……ああああああああああぁあああああああああああああぁぁぁああああああああああああああぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁあああああああああああぁああああああああああああああああああああああぁああああああああああ!!」
 
 
 
 狂ってしまえば、どんなに楽だろう。
 
 
 
 だが、肩にのしかかった「人類」の二文字が、彼女にそれを許してくれそうも、なかった。