第百二十五話 「薄氷」
六百二十一



 本部の中に駆け込んだときには、既にアスカの姿は無かった。
 
 
 
 すぐに一番近いエレベーターホールに飛び込んだが、階数表示が移動している形跡は無く、このエレベーターに乗り込んだわけではなさそうだ。
 
 別のエレベーターホールに行ったのか?
 
 それとも、同じフロアを走っているのか?
 
 階段やエスカレーターだって多い。そのどれかを使用しているのか。
 
 本部の、網の目のように張り巡らされた通路の構造が、無数の選択肢を浮かび上がらせていて決め手が無い。
 
 
 
 差し当たりエレベーターを呼び、シンジとレイは居住フロアに舞い戻った。
 
 アスカの部屋まで行き呼び鈴を押すが、応答は無い。
 
 万が一を考えて確認にきたのだが、やはり、自分の部屋に戻ってきたりはしていないようだ。
 
 
 
 「くそっ……」
 
 廊下の壁に背中を預けて、シンジは頭を抱えた。
 
 
 
 ……最悪の、タイミングだった。
 
 
 
 アスカに語ることを、ずるずると引き延ばしてきた。
 
 その都度、もっともらしい理由をつけて。
 
 その結果が、これだ。
 
 
 
 「自分だけがのけ者にされた」と……アスカは、きっと傷ついただろう。
 
 自分の考えの浅さが、彼女をないがしろにしたのだ。
 
 ……どうして、躊躇っていたんだろう?
 
 彼女も、唯一無二の、仲間だ。それは胸を張って言い切れるのに、何故……秘密にし続けたのか。
 
 
 
 タイムマシンに乗って、過去の自分の頬を張りたい衝動に駆られる。
 
 
 
 「……どう、するの……?」
 
 レイが、不安そうな表情で、シンジに尋ねる。
 
 シンジは顔を上げてレイを見て、力無くかぶりを振った。
 
 「……このまま、放っておいていいわけは無い。二人で、手分けして、とにかく何とか探し出すしかないよ」
 
 「……アスカに、本当のことを、言うの?」
 
 「言うしかないよ。アスカを傷つけてまで、秘密にしておく理由なんか、無い」
 
 
 
 とは言え、アスカが話を聞いてくれるかどうかは、また別の問題だ。
 
 先ほども、シンジは意を決して真実を語ろうとしたが、アスカは拒絶した。
 
 拒絶した理由も、よく分かる。
 
 しかし……シンジには、選択権など、無い。
 
 
 
 ……根気よく……彼女がそれを受け入れてくれるまで、語るしかない。
 
 それで罵倒されても、絶縁されるとしても。
 
 自分に選択の余地など無いのだ。
 
 
 
 「とにかく二人で、手分けして探そう」
 
 言いながら、シンジは立ち上がった。
 
 アスカを見つけたら、携帯電話で連絡を取り合うことを約束し、二人は廊下を別の方向に走り始めた。



六百二十二



 荒い息が、薄暗い廊下に反響する。
 
 耳鳴りのように、押し寄せ、苛む。
 
 それは、彼女をようやく正気に戻らせ、
 
 同時に、10分以上のあいだ全力で走ってきた自らの太ももが、悲鳴を上げていることをも、ようやく気付かせていた。
 
 
 
 アスカの歩みは徐々に遅くなり、やがて、止まる。
 
 一度立ち止まると、もうその踵は、床に根を張ったように動かなくなった。
 
 心臓が、
 
 喉が、
 
 焼けるようだ。
 
 ふらつく足を踏ん張ることも出来ずに、アスカは壁に倒れ掛かるように肩を預け、そのままずるずると両手をついてへたりこんだ。
 
 
 
 肩で息をしながら……視線だけを動かして、辺りを見る。
 
 
 
 ここは、どこだ?
 
 
 
 自分が一体どうやって、ここまで来たのか分からない。
 
 闇雲に走って、辿り着いたのが、ここだ。
 
 
 
 そこは、薄汚れた、暗い廊下だった。
 
 居住フロアのような、一定の間隔で並んだドアなどはなく、見たところ別の場所へ移動するためだけの通路のようだ。
 
 彼女のよく行くフロアとは違い、全体的にライトの光量が落とされている。
 
 それは恐らく節電のためで……そうして光量が落とされているということは、つまり普段はあまり人の立ち入らないエリアだということだろう。
 
 階段を駆けた記憶は微かにあるが、それが上りだったか下りだったか覚えていない。
 
 
 
 目を瞑り、倒れこむようにごろりと横になった。
 
 床は薄く埃が積もり、お世辞にも綺麗とは言い難かったが、それを気にする余裕は無かった。
 
 
 
 はぁ……はぁ……
 
 
 
 喉を焼く、荒い呼吸。
 
 それが収まるのに、数分かかった。
 
 乱れた呼吸が、徐々に……徐々に、落ち着いていく、その時間……
 
 それは同時に、ぐちゃぐちゃとミキサーにかけられたように混乱した思考が収まるのに要した時間とも、言えた。
 
 
 
 やがて耳朶に響いていた耳障りな呼吸音がなくなる。
 
 その場に静寂が舞い降りても、暫くは何も考えられなかった。
 
 
 
 「はぁ……」
 
 
 
 やがて……深い……溜息。
 
 
 
 アスカは無意識に、重い両腕を持ち上げた。
 
 
 
 腕を伸ばして、手の平をかざす。
 
 それから、両手を、顔に当て、
 
 視界を覆う。
 
 
 
 ひりつく喉の痛みは、今は潮騒のように遠のき。
 
 彼女を苛む痛みは、いまは、心の痛み、だけ、だった。
 
 
 
 指の間から、天井を見る。
 
 細かな明滅を繰り返す、蛍光灯。
 
 そのぼんやりとした光が、いまは網膜を通して脳髄を焼いてしまうような錯覚に駆られて、瞼をきつく閉じる。
 
 
 
 ……秘密に、
 
 されていた。
 
 
 
 奥歯を、噛み締めた。
 
 
 
 私、だけ。
 
 
 
 レイも、
 
 シンジも、
 
 
 
 私にだけ、
 
 何も話してくれなかった。
 
 
 
 ………。
 
 
 
 「……だから?」
 
 
 
 自分の耳にも届かぬような、小さな声で。
 
 アスカは、呟く。
 
 
 
 だから?
 
 
 
 だから、
 
 どうだっていうの、
 
 アスカ?
 
 
 
 口元を、小さく……歪める。
 
 それは、笑顔か、
 
 あるいは、泣き顔か。
 
 だが、そのどちらだとしても、気を抜くと目尻から涙が零れそうになるのは同じで、だから、目を開けない。
 
 
 
 そんなこと、
 
 と、アスカは思う。
 
 そんなこと、
 
 
 
 ……最初から、分かっていたことじゃない?
 
 
 
 今度こそ、目を開けた。
 
 蛍光灯の光が、歪んで見える。
 
 雫がこめかみを伝って落ちるその軌跡を、頭の片隅で認識する。
 
 
 
 そうだ。
 
 
 
 あの二人が、自分に何かを隠していること。
 
 そんなこと、
 
 最初から、分かっていたことだ。
 
 
 
 なんで、いまさら、こんなに心が乱れるのか?
 
 
 
 シンジを、
 
 信頼していたんじゃ、ないのか。
 
 
 
 アスカ、
 
 おまえは、
 
 全部ひっくるめて、
 
 シンジを信頼することに、
 
 決めたんじゃなかったのか?
 
 
 
 「……フフ」
 
 笑い声が、口の端から漏れた。
 
 流れる涙は、変わらない。
 
 意図せず零れた笑い声に、脳の隅っこにいる冷静な自分が、首を傾げる。
 
 今の自分は、どういう精神状態だろう。
 
 この笑顔は、なんだろう。
 
 
 
 自嘲かな、と気付き、眉根が歪んだ。
 
 
 
 「……う……っ……」
 
 
 
 喉の奥から、せり上がる感情。
 
 笑顔と泣き顔がごちゃごちゃになる。
 
 ここが、他の誰も通らなさそうな場所で、よかった。
 
 こんな顔は、誰にも見られたくはないし、
 
 この嗚咽も、誰にも聞かれたくはなかった。
 
 
 
 両手を左右に投げ出して、大の字になった。
 
 「うっ……う……うぅっ……」
 
 かすかな嗚咽が、喉から零れ続ける。
 
 泡立つように、次から次へと、感情の波が彼女を襲う。
 
 ああ、
 
 泣いてるな……私。
 
 と、アスカは思う。
 
 
 
 そう……
 
 
 
 確かに。
 
 シンジたちに、自分だけ、何かを秘密にされていたこと。
 
 それを、漠然とした推測ではなく……初めて事実として思い知らされた、ショック。
 
 その衝撃は、確かに、浅くない傷を、彼女に与えている。
 
 
 
 だが、それと同じくらい深い爪痕が、もう一本。
 
 彼女の心に刻み込まれている。
 
 
 
 それは、
 
 
 
 ……シンジのことを、
 
 信じ切ることが、出来なかった……
 
 その、事実。
 
 
 
 「……そうよ」
 
 
 
 シンジが、自分を裏切らないこと。
 
 それは、もう、分かってるはず。
 
 分かっていた、はずだ。
 
 たとえ、隠し事をされていたとしても。
 
 シンジは自分を絶対に、裏切らない。
 
 裏切ったりしない……。
 
 もちろん、レイもだ。
 
 
 
 「……そうよ……」
 
 
 
 どんなに信頼している人間にだって、全てを話すことなんて出来ない。
 
 自分だって、母親のこと、ドイツでのこと……彼らにまだ話していないことなんて、いくらでも、ある。
 
 彼等と、何が違う?
 
 分かっているはず。
 
 分かっていたはず。
 
 なのに。
 
 
 
 語ってくれようとしたシンジを拒絶して、自分は逃げた。
 
 差し伸べられた手を振り払って、自分は逃げ出した。
 
 
 
 何故?
 
 
 
 「……分かってる」
 
 アスカは、誰に言うともなく、呟いた。
 
 分かってる。
 
 
 
 何故、シンジを受け入れられなかったのか。
 
 何故、
 
 こんな薄暗い場所で、ひとり涙を流しているのか。
 
 
 
 そう。
 
 
 
 ……自分が、用無しだからだ。
 
 
 
 パイロットとしても、
 
 
 
 ……シンジの仲間としても。
 
 
 
 ぐいっと拳で涙を拭った。
 
 ハッ
 
 と、自らを蔑むように笑う。
 
 歪んだ眉は直らない。
 
 たとえ、口元が笑いを浮かべていても。
 
 
 
 私って、なに?
 
 
 
 私の存在って?
 
 
 
 ……私は
 
 何の為に……ここに、いるの?
 
 
 
 『アスカが、何の為にここにいるのか、なんて……
 
 俺には分からない。
 
 アスカ自身でなければ、誰にも分からないよ』
 
 
 
 加持の言葉が、脳裏に響く。
 
 そう、
 
 加持は、アスカのことは、アスカにしか分からないと、
 
 そう、言った。
 
 
 
 でも……。
 
 
 
 分からない。
 
 
 
 私には、
 
 自分が、
 
 分からない。
 
 
 
 (……加持さん)
 
 
 
 ……私に、
 
 意味なんて、
 
 本当にあるのかな?
 
 
 
 誰からも、
 
 何も、
 
 求められていない。
 
 
 
 「こんな私に……」
 
 
 
 誰の、耳にも届かない、言葉。
 
 
 
 こんな、私に。
 
 
 
 「……意味なんて、
 
 本当はないんじゃないかな……」
 
 
 
 小さな声で呟き、
 
 もう一度、笑った。
 
 
 
 ……誰の耳にも、届かないはずの、アスカの独言。
 
 
 
 その言葉に呼応するように、男の声が廊下に響いた。
 
 
 
 「……意味が無い?
 
 とんでもない」
 
 
 
 アスカは、一瞬にして飛び起きた。
 
 異常事態を頭が理解するよりも早く、体はバネのように弾かれて立ち上がる。
 
 乳酸の溜まりきった筋肉は悲鳴を上げたが、眉を一瞬しかめたのみで、思考の外に追い払う。
 
 
 
 「誰!?」
 
 鋭い声で叫びながら、慌てて目尻を拳でこする。
 
 自分を責めて泣く姿を誰かに見られたなんて、一生の不覚だ。
 
 
 
 暗い、通路。
 
 その先の曲がり角から、一人の男が、ゆっくりと姿を現した。
 
 
 
 アスカは、暗がりに姿を現した男の顔を、眉を顰めて目を細めながら、訝しげに、見る。
 
 「……誰?」
 
 先ほど投げかけたものと同じ言葉を、もう一度……ゆっくりと、呟いた。
 
 見知らぬ顔だ。
 
 少なくとも、知り合いでは、無い。
 
 
 
 男は、アスカの質問に応えない。
 
 口元には微笑を浮かべて、短く刈り込まれた頭をアスカの方に向けた。
 
 「意味が無いなんて、とんでもない。あなたには、意味があります。……惣流・アスカ・ラングレーさん」
 
 自分の名前を呼びかけられるのを聞いて、アスカは警戒レベルを一気に引き上げた。
 
 両足を肩幅に開き、僅かに腰を落とす。
 
 睨みつけるような視線で、男を見る。
 
 「見たこともない男に、馴れ馴れしく名前を呼ばれるいわれはないわ。……もう一度、聞くわよ。……あんた、誰?」
 
 
 
 シンジが何者かに拉致された事件は、まだ記憶に新しい。
 
 レイも、同じような目にあったことがある。
 
 そのいずれも、NERVの管理管轄内の場所で発生した事件だった。さすがに本部施設の中でそんな大胆な、と思わなくも無いが、こんな寂れたエリアでは何があっても不思議ではない。
 
 
 
 男は、アスカに向かって両手を広げて見せた。
 
 敵意は無い、との意思表示だろうか。
 
 明らかな警戒態勢を構えたアスカに対して、男は微笑みながら目礼をする。
 
 「ご覧のように無作法にしか振る舞えない男でして……無礼はお許しください。私は、NERVの上部組織・人類補完委員会より命を受けて行動している、一介の諜報員です」
 
 両腕を広げたまま、静かに頭を下げた。
 
 
 
 男を睨んだまま、アスカは内心混乱していた。
 
 そうでなくても、人生で五指に入る大混乱中だったところに、この男の登場である。
 
 その上で、全くの予想外の申告に、今後の予測も成り立たない。
 
 
 
 「え……? なに? ……人類、補完委員会……?」
 
 混乱が口調に滲み出て、自然、力強さの欠けた声になる。
 
 男は、微笑を浮かべたまま、静かに頷いて見せた。
 
 「惣流さん、あなたに、お願いがあって参りました」
 
 「そんなの、シンジに頼めばいいじゃない」
 
 男の言葉に、まるで脊髄が反射したように、言葉を叩き返した。
 
 
 
 自らの口から出た言葉に、アスカは混乱と、自己嫌悪の念を抱いた。
 
 私は、いったい何を言っているんだ。
 
 男は静かにかぶりを振る。
 
 「人類を救うために……碇ゲンドウや、赤木リツコに知られることなく、行動しなければなりません。それを頼めるのは、あなただけです」
 
 そう言った男の言葉に、アスカは自嘲気味に応えた。
 
 「だから……何だか知んないけど、シンジに頼みなさいよ。
 
 アイツは……どんなことだって……うまく、やれるわ。心配しなくても……アタシなんかより、ずっと……」
 
 脳の裏側で、舌打ちしている自分が居る。
 
 なんて、情けない言葉だろう。
 
 自信に満ち溢れた、アスカ様はどこに行ってしまったのか?
 
 冷静な判断力を失っている自覚はあるが、それを取り戻す術は分からない。
 
 混乱は、混乱のまま、彼女の裡に横たわっている。
 
 
 
 シンジは、うまくやる。
 
 どんな頼みごとだか知りゃしないけど、でも……シンジなら、きっと、うまくやる。
 
 こんな……
 
 ……なんにもできない、
 
 用無しの、
 
 アタシ……なんか、
 
 よりも……。
 
 
 
 「ご存知、ありませんでしたか」
 
 男は、ゆっくりと口を開く。
 
 「彼は、敵対勢力の、スパイですよ」
 
 
 
 アスカは、男の顔を凝視していた。
 
 
 
 荒れ乱れていた思考が、一瞬にして真っ白になっている。
 
 瞬きすらも忘れて、アスカは、男の顔を見る。
 
 「……え……?」
 
 「もう一度、言いましょうか?」
 
 「……何……ですって……?」
 
 「……惣流さん。あなたは、不思議に思ったことは、ありませんか?」
 
 
 
 諭すように……
 
 じっと……見透かすような視線で、男は、アスカの眼球の向こう側……視神経の奥までを覗き込む。
 
 視線を、逸らすことが、できない。
 
 
 
 「碇、シンジ……彼は、一介のチルドレンにしては、知りすぎている……と思ったことは、ありませんか」
 
 「……何を……」
 
 「全てを、です」
 
 
 
 微動だにしないアスカを尻目に、男は、さながら舞台俳優のような大袈裟な演技で肩を竦めてみせる。
 
 「詳しい説明は避けます。しかし……これは、事実です。裏付けも取れています。
 
 彼は、人類に敵対する存在であり、
 
 それを信じられないのだとしたら、あなたにそう思わせるほど完璧に仲間を演じきった証拠だということですよ」
 
 「………」
 
 信じられる、わけがない。
 
 
 
 だが、正体不明のどろどろとした感情が、腹の底に蠢くのを自覚する。
 
 混沌……と、呼ぶに相応しい、
 
 どす黒い、感情。
 
 
 
 彼女の瞳の奥に浮かんだその感情を認めて、男はそれと分からぬほど微かに、口許を歪めて笑う。
 
 「お分かり、頂けましたか?」
 
 「……頂けないわよ」
 
 搾り出すように、アスカは応える。
 
 だが……普段のアスカだったら、男のこんな言葉を、黙って聞いているだろうか。
 
 シンジを侮辱されたとばかりに、考えるよりも先に張り手の一つも飛んでいるかもしれない。
 
 しかし今のアスカは、まるでヒビの入った薄氷の上につま先で立っているかのように頼りない。
 
 
 
 「……アタシに……どう、しろって、言うのよ」
 
 アスカの選んだ答えは、疑問からの逃避だった。
 
 シンジがスパイであるという、この場で一番放っておけない話題を脇へ避けた。
 
 明らかに、彼女のキャパシティを超えた事態。
 
 その選択は彼女の意図的なものではなく、無意識な防衛本能の表れと言えるだろう。
 
 男は頷いて、口を開く。
 
 「人類補完計画は、いま……頓挫の危機に瀕しています」
 
 男の言葉に、アスカは混乱の表情のまま、しかしはっきりと眉根を寄せる。
 
 「なんでよ……アタシたちは……ちゃんとやってるはずよ。使徒は全部倒してる。あと何回あいつらが来るのか知らないけど、全部あたしたちが叩きのめすから、人類は滅亡しない」
 
 「本当ですか?」
 
 「何がよ」
 
 「タイムリミットは迫っている。もう、あまり猶予はありません」
 
 「だから、何がよ。使徒は全部倒してるし、ミスは無いわ。これ以上、アタシたちに何しろって言うの?」
 
 「本当ですか?」
 
 「だから……何がよ」
 
 「……本当に、全ての使徒を、倒していますか?」
 
 
 
 アスカは言葉を継げなかった。
 
 指摘されるまでも無く……男が言わんとしていることは、即座に理解できた。
 
 口を噤むアスカを見て、男はゆっくりと言葉を続ける。
 
 
 
 「渚カヲル」
 
 「………」
 
 「彼は……使徒、ですね?」
 
 「……だから……なに?」
 
 「彼は、いずれ人類を滅ぼします」
 
 
 
 今度こそ、アスカは反発した。
 
 今までの、グラグラとしていた足許を渾身の力で踏みしめ、精神力を総動員して男を睨みつけた。
 
 「何を根拠に言ってんの? アイツが……そんなこと、するとは思えない」
 
 「……何を根拠に、とは、こちらのセリフです。彼が人類を滅ぼさないと、なぜあなたは言い切れるのです?」
 
 「……うっ……るさいわね! 勘よ、悪い!? アイツが敵だったら、初めから、アイツを助けたりしない!」
 
 
 
 そうだ。
 
 吹き抜ける風が、彼女の心を鮮明にしていく。
 
 そうだ……。
 
 アイツを、敵だと思うのなら、
 
 初めから、アイツを助けたりなんて、しない。
 
 
 
 男は、再び肩を竦めるジェスチャーをしてみせた。
 
 いちいち癇に障る。
 
 「勘、ね……」
 
 「悪い!?」
 
 男の呟きに、鋭く反応する。
 
 
 
 男は浮かべた微笑を絶やさぬまま、言葉を続けた。
 
 「いいえ……お気に障ったのなら謝ります。
 
 そう……そうですね、女性の勘は、世の理の真実と言っていいのかもしれません。
 
 だとすれば確かに……渚カヲルは、人類を滅ぼしたりする気など、無いのでしょう。
 
 ですが……それと、彼が人類を滅ぼす事実とは、関係がありません」
 
 
 
 アスカは、眉根を寄せた。
 
 言っている意味が、分からない。
 
 
 
 男と、自分と。
 
 その二つの影だけが、明滅する蛍光灯の下に、か弱く這う。
 
 
 
 男の口が開く。
 
 「我々の調査で、使徒に関するある重大な事実が判明しています。
 
 使徒の行動には、それそのものの意思とは無関係な本能とでも言うべきものがあり、条件が揃えばやつらはそれに逆らえない」
 
 「………」
 
 「使徒の本能とは、なんですか?」
 
 急に質問を投げかけられて、アスカはうろたえた。
 
 二、三度、瞼をしばたたかせるが、答えは出てこない。
 
 男は、返答がないことを気にする様子も無く、言葉を続ける。
 
 「使徒の本能……それは、サードインパクトを起こすことです」
 
 
 
 それは、当たり前だ。
 
 今までの使徒は、いずれも……サードインパクトを起こすために、この第三新東京市にやってきた。
 
 そんなこと、NERVの全ての職員に共通する基本知識である。
 
 怪訝な表情でアスカは男を見返すが、男の表情は変わらない。
 
 
 
 「この本能は、強力な強制力を持つ。使徒には逆らえません」
 
 男は、じっとアスカの瞳を見つめる。
 
 「渚カヲルに、人類を敵対する意思が無いとしても……そんなことは、関係が無いのです。彼らの遺伝子に組み込まれたタイマーは確実に時を刻み、タイムリミットを迎えれば、本人の意思を凌駕して、サードインパクトを起こすために持てる力の全てを傾けるようになります」
 
 
 
 アスカは、目を見開いて、男を見た。
 
 
 
 「意思と……関係、無く……?」
 
 「そうです」
 
 男は、頷く。
 
 「例え彼が、人類の味方をすると決めたのだとしても、本能が許しません。
 
 彼が仮に、あなたの言うように……人類と敵対しない道を選ぶことに決めたのだとしたら、その意思を凌駕する強制力を受け、それに従うしかない自分に絶望するのかもしれませんね。
 
 まぁ……使徒に、絶望なんていう感情があれば、の話ですが」
 
 
 
 アスカは、言葉を発することができなかった。
 
 
 
 「我々は、あなた以外の、誰も信用することができません」
 
 男は、視線を動かさずに言葉を紡ぐ。
 
 「あなただけが、何のバックボーンも持たず……純粋に、人類を救うためだけに、動くことができる。他の者たちは全員、何らかの組織やネットワークに属していて、利害関係や政治から逃れることができないのですよ。
 
 あなたに託すしか、ない。
 
 あなたの双肩に、人類の、未来の全てがかかっているのです」
 
 
 
 男の言葉に、アスカの肩が、ビクッと震えた。
 
 自分、
 
 ひとりに、
 
 人類の未来の……全てがかかっている?
 
 
 
 意味を、咀嚼するのに、タイムラグが生じている。
 
 耳に届いた情報が、脳に伝達される途中で、なにか渋滞でも起こっているのではないか。
 
 
 
 足元の薄氷には無数のひびが入り、その間から、黒い水が溢れて足を濡らし始めている。
 
 背筋をゆっくりと上ってくる、冷たい、重さ。
 
 
 
 男の手には、いつの間にか、銃が握られていた。
 
 アスカはそれを、ガラス戸を隔てた向こう側の景色のように見つめている。
 
 男はそれを逆手に持って歩み寄ると、アスカの右手を取り、その黒光りする銃杷を握らせる。
 
 金属の冷たさが、掌に吸い付く。
 
 
 
 囁くように、男が呟く。
 
 「これで、彼を撃つのです」
 
 
 
 アスカは、呆然と、男の顔を見つめていた。
 
 冗談かと、思う。
 
 だが、男の表情には、真剣さだけが滲んでいる。
 
 
 
 「我々では、彼に気付かれずに近付くことができない。仮になんとか近付くことができても、撃てばA.T.フィールドで阻まれてしまうでしょう。
 
 同じチルドレンであり、また彼の信用を得ているあなただけが、チャンスがある。
 
 あなたの銃を使えば、足がついてしまう。この銃ならば、あなたが彼を撃ったことは分かりません。
 
 時間は、もうない。
 
 恐らく、機会は一度しか訪れないでしょう。
 
 我々は、その全てをあなたに託すしか、ないのです」
 
 
 
 アスカは、右手に視線を落とした。
 
 掌に収まった、銃。
 
 訓練で幾度もその引き鉄を引いているはずなのに……この金属の筒から弾が撃ち出され、誰かの胸に突き刺さるなんて、まるで絵物語のように現実感がない。
 
 
 
 「お膳立ては、我々がします。せめて、それくらいはさせて下さい。
 
 準備を急ぎますので、私はこれで失礼します。
 
 ご連絡を必ずしますので、それをお待ち下さい。
 
 ……あなたは、引き鉄を引いて、渚カヲルを殲滅してくだされば、いいのです」
 
 
 
 男は、体をこちら側に向けたまま、数歩、後退する。
 
 慇懃に頭を下げたが、アスカは手許の銃を見つめたままで、それに反応しない。
 
 男はそのまま、闇の中に消えた。
 
 
 
 薄暗い廊下に、ひとり残されるアスカ。
 
 
 
 ……これは、なんだ。
 
 
 
 掌の銃を、見つめる。
 
 
 
 ……なんの、冗談だ?
 
 
 
 闇が、彼女を覆っていく。
 
 
 
 薄氷は、砕けた。