第百二十話 「理論」
五百九十七



 管制塔に、警報が鳴り響く。
 
 メインモニタ一杯に「警告」の赤い文字が明滅する。
 
 
 
 ドアから飛び込んできたミサトに、振り返ったマヤは緊迫した表情で叫んだ。
 
 「パターン青、使徒です!」
 
 ミサトはマヤの席まで走りこむと、彼女の肩越しにコンソールを覗き込む。
 
 簡略化されたメインシャフトの構造図の上を、青い光点がゆっくりと下降している様子が映っている。
 
 
 
 ミサトは、小さく舌打ちした。
 
 「……シャフトに入り込まれてるの!? センサーはどうしたのよ」
 
 シャフトの真下にはアダムがいる。
 
 このまま最深部まで到達されてしまったら、有無を言わさずにサードインパクトの発動だ。
 
 人類の滅亡まで、既にカウントダウンは始まっている。
 
 
 
 「初号機、弐号機パイロットは?」
 
 ミサトの質問に、マヤはキーボードを叩く。
 
 「初号機パイロットは、現在準備中です。あと数分で搭乗完了すると思います」
 
 ミサトは頷く。
 
 「分かった。弐号機パイロットは?」
 
 「………」
 
 「なに?」
 
 「あの……こっちに、向かってます」
 
 「こっち?」
 
 歯切れの悪いマヤの言葉に、ミサトは眉根を寄せる。
 
 「え? ……ここ?」
 
 「……はい」
 
 
 
 怪訝な表情で、ミサトは声を潜めた。
 
 「え……どうしてケイジじゃないの?」
 
 「ええと……」
 
 「シンちゃんは搭乗準備してるんでしょ。なんで、アスカだけこっちに向かってるの? アスカが自分で決めたの?」
 
 「いえ、……先輩の」
 
 「リツコ?」
 
 ミサトは振り返り、そこに立つリツコを見た。
 
 ミサトの視線に気付いたリツコは、ミサトの顔を見返すと、1秒ほどそうしてから再び視線をメインモニタに戻す。
 
 モニタに映し出された下降する青い光を見つめたまま、リツコは静かに呟いた。
 
 
 
 「弐号機は乗っ取られたわ。いま、使徒と一緒に、弐号機はドグマに向かって降りているのよ」
 
 
 
 弐号機は、ゆっくりとした速度で、シャフトを下降していく。
 
 その機体のすぐ前に、ポケットに手を突っ込んだ格好のまま、まるで散歩に行くような雰囲気の、カヲル。
 
 カヲルと弐号機は、同じように下降する。
 
 自由落下速度よりは、若干遅い。その速度で、人の姿をしたカヲルが宙を滑るように降りていくさまは、まるで……悪い夢を、見ているようだ。
 
 
 
 初号機の頚椎にエントリープラグが挿入される。
 
 操縦杷を握ったシンジは、じっと前方のプラグ内壁を見つめている。
 
 『L.C.L.注水』
 
 足許からせり上がる、波立つ水面。
 
 
 
 夥しい電子信号の渦が起こり、数秒ののちに、その全天がスクリーンに変わる。
 
 
 
 シンジの脳の半分は熱く、半分は冷たい。
 
 
 
 <また、同じ展開>
 
 脳裏をよぎる言葉。
 
 
 
 ……幾らでも、止められたはずだ。
 
 こうなることを知っていた自分には、幾らでも。
 
 何故、躊躇した?
 
 何を、ためらった。
 
 止めなければいけない現実を前にして、強い意思でその阻止を願いながら、何故、現実的な行動を起こさなかった。
 
 (歴史は、動かせない)
 
 シンジはきつく目を瞑り、激しく頭を左右に振った。
 
 L.C.L.が泡立つ。
 
 
 
 (まだ、早い)
 
 シンジは、嫌な思いに上書きするように、強い力で、新たな言葉を刻印する。
 
 <まだ、何も始まっていない>
 
 冷静に。
 
 常に、頭の一部を冷静に。
 
 そう……何も、まだ、始まっていない。
 
 追いついてさえいないのだ。
 
 
 
 今回と前回は、違う。
 
 
 
 どこが、違うのか?
 
 
 
 「……違うのは、僕自身だ」
 
 
 
 『? シンちゃん、何か言った?』
 
 スピーカから響くミサトの言葉に、シンジは小さく首を振った。
 
 「いいえ……何も」
 
 呟いて、口を閉じる。
 
 
 
 前方に、「Complete.」という文字が浮かび上がる。
 
 シンジは、操縦杷を勢いよく押し出した。



五百九十八



 「初号機、シャフト降下中。15分後に使徒と接触します」
 
 「接触地点は?」
 
 「C-20付近です。使徒の降下速度に変化がなければ、接触後20分で最下層に到着します」
 
 マヤの報告に、ミサトはメインモニタを睨みつける。
 
 
 
 「20分……」
 
 それだけの時間では、ろくな作戦は取れない。
 
 まして今回は、使徒の能力も不明のまま。全てはシンジに委ねられた、作戦部にとっては責任放棄……と言われても反論できない状態だ。
 
 ……それに、弐号機が使徒に乗っ取られているという状況も気にかかる。
 
 以前、使徒に乗っ取られた参号機を殲滅するのに、エヴァ三機がかりで相当な時間を要した。同じような展開になるとしたら、初号機のみで、僅か20分で戦いを終わらせるのは至難の業だろう。
 
 
 
 拳を、握り締める。
 
 
 
 まただ。
 
 結局、子供たちの手に、世界の重さを全て預けてしまう。
 
 
 
 だが、他にどうすればいいと言うのか?
 
 
 
 「使徒の映像、まだ?」
 
 「すいません、レールカメラが追いついていなくて、まだ……」
 
 「……できるだけ急いで、お願い」
 
 簡略図を降下する青い光点と、初号機を示す白い光点。
 
 
 
 初号機と使徒が邂逅する、前に。
 
 少しでも早く、使徒の映像を確認したい。
 
 使徒がどんな姿をしていて、どんな戦い方をしそうなのか……。
 
 1秒早く映像を確認出来れば、1秒多く作戦を考えられる。
 
 1秒分の重さを、シンジの肩から取り除ける……。
 
 
 
 ガッ、と、背後の扉が開かれた。
 
 
 
 駆け込んできたのは、アスカ、レイ、トウジの三人だった。
 
 アスカは勢いよくミサトのそばまで駆け寄ると、眉間に皺を寄せて、顔を突き出す。
 
 「弐号機が奪われたって、ホント!?」
 
 「本当よ」
 
 アスカの鋭い声に、ミサトは頷く。
 
 
 
 アスカは舌打ちする。
 
 「何だって、そんな……」
 
 ミサトは険しい表情のまま、首を振った。
 
 「ごめんなさい、詳しい状況はまだ、何も分からないわ。ケイジにあった弐号機に使徒がどうやってアクセスしたのかも、今はまだ……」
 
 「………」
 
 「とにかく、シンちゃんが追ってるわ。四人は、ここで待機していて」
 
 動かせる機体は初号機しかないのだから、他に方法はない。
 
 焦っても、ここにいる四人には、どうすることもできない……。



 ……そこまで言って、ミサトは怪訝そうに眉を寄せる。
 
 「……って、あれ? 渚君は?」
 
 
 
 ミサトの言葉に、初めて気付いたようにトウジが背後を振り返った。
 
 「あれ……?」
 
 もちろん、後ろに隠れているわけでは、ない。
 
 レイは、無言のまま、動かない。
 
 アスカは不機嫌そうに腕を組む。
 
 「知らないわよ、一緒に来たわけじゃないんだし。そのうち来んじゃないの、アイツにだって招集かかってんでしょ?」
 
 「マヤ。渚君は?」
 
 ミサトが振り返ると、マヤは、バツが悪そうな表情で、ミサトの顔に視線を向けた。
 
 
 
 「その……」
 
 「?」
 
 「30分前から、ずっと……ロストしています」
 
 「えっ……」
 
 
 
 驚いた表情を浮かべるミサト。
 
 「そん……」
 
 「映像来ます!」
 
 言いかけたミサトの言葉に、マコトの声が被る。
 
 
 
 メインモニタ全面に、ぱっと映像が表示された。
 
 シャフト壁のレールを降りるカメラが、使徒に追いついたのだ。
 
 結ばれた映像には、高速で過ぎ去る、シャフトの壁面。
 
 その中央に、直立した姿勢で降りる、赤い機体。
 
 
 
 カメラがズームする。
 
 粒子の粗い映像。
 
 その中央に、制服に身を包んだ銀髪の少年が見える。
 
 
 
 その、横顔は……。
 
 
 
 ミサトは息を呑んだ。
 
 マヤも、マコトもシゲルも、目を見開いて、その姿を見つめる。
 
 「……無様な」
 
 小さな声で、リツコが忌々しそうに呟く。
 
 
 
 愕然とした表情で、アスカが映像を凝視する。
 
 「ま……そ、……ア、アイツ……!?」
 
 トウジも、口をあんぐりと開いて二の句が継げない様子だ。
 
 レイは、じっとその映像を見つめている。
 
 
 
 「パターン青……間違いありません……使徒です」
 
 感情を押し殺したような、抑制された声音で、シゲルが呟く。
 
 
 
 「……そんな……」
 
 ミサトの口から、驚きの声が漏れる。
 
 「……渚君……彼が、使徒!?」
 
 信じられない……。
 
 彼とは、何度も、話をした。
 
 ……彼は、人間に見えた。
 
 どう、見ても。
 
 
 
 あれが、使徒?
 
 
 
 あの、人間臭い振る舞いをするものが、使徒だというのか?
 
 
 
 「……まさか、ゼーレが、直接使徒を送り込んでくるとはな」
 
 冬月が、静かに呟く。
 
 その横で、動揺の欠片も感じさせぬ姿のまま、ゲンドウが応える。
 
 「老人は、予定を一つ繰り上げるつもりだ……我々の、手で」
 
 
 
 冬月が、小さな……殆ど無に等しい、溜息をつく。
 
 「……初号機に追わせたのは、失敗だったのかも知れんな」
 
 「他に選択肢はなかった」
 
 「それもまた、彼らの思惑通りか……。初号機の手で、使徒を殲滅する。通常ならば当たり前のことだが、それが、彼らのシナリオの重要なピースを埋めることになるな」
 
 「………」
 
 「大丈夫か、碇」
 
 「……さぁな」
 
 「……全ては、シンジ君の双肩、か……」
 
 静かにそう呟くと、冬月は、モニタの映像に視線を向けた。
 
 
 
 シンジは限界まで下ろした操縦杷を、一度も引き上げることなく、シャフトを高速で降下していた。
 
 スピーカーから届いた、使徒はカヲルだという、マヤの報告。
 
 それはシンジにとっては既知の事実であり、彼の心には何の動揺も引き起こさない。
 
 
 
 今は、一刻も早くカヲルの許に辿り着き、弐号機を排除し、カヲルと向かい合って話をしなければいけない。
 
 カヲルの、消滅への願いを、思いとどまらせなければ、いけない……。
 
 
 
 管制室。
 
 唇を噛み締めて、アスカが唸るように呟いた。
 
 「……あの野郎……」
 
 
 
 アスカの声が孕んだある感情に、レイはアスカのほうに視線を向けた。
 
 そして、思わず、目を見開く。
 
 
 
 怒っている。
 
 
 
 これ以上、無いほどに。
 
 赤く燃える炎が、彼女の周りに渦巻いているかのようだ。
 
 
 
 アスカの呟きは、小さなものだった。
 
 だが、今、この場の全員が、思わず振り返って彼女の顔を見ていた。
 
 
 
 アスカは、小さな……呟きのような声音のまま、低く……低く、言葉を、続ける。
 
 「……じゃぁ……アイツが勝手に、アタシの弐号機を奪ったって言うの……?」
 
 
 
 「そ……う、いうことに……なるわね」
 
 気圧されたように、ミサトが応える。
 
 思わず、背中から汗が噴き出す。
 
 
 
 「そ、その……アスカ、落ち着きなさい? 渚君が……って言うか、彼は……その、使徒だから」
 
 たどたどしく、ミサトが言葉を続ける。
 
 アスカは顔を伏せたまま、答えない。
 
 「………」
 
 「……アスカ?」
 
 
 
 「……あ……」
 
 「え?」
 
 「……の……野郎……ッ」
 
 
 
 言いながら、アスカが顔を上げる。
 
 
 
 ごぅ、という轟音を聞いたような、気がした。
 
 トウジは思わず、背筋を伸ばす。
 
 もしもこの怒りが自分に向けられたものだったとしたら、即座にこの場から逃げ出してしまいそうな、憤怒の相。
 
 
 
 「……ナニ、勝手に……」
 
 歯軋りするような、怒りに彩られた、声。
 
 「アタシの……弐号機を……ッ……!」
 
 
 
 バッ、と、アスカはきびすを返した。
 
 そのまま、ズカズカと出口に向かって、大股で歩いていく。
 
 ミサトは慌てて、その背中に声を掛けた。
 
 「ア……アスカ? どこ行くの!?」
 
 ミサトの言葉に、アスカは一瞬、立ち止まった。
 
 顔を半分だけ後ろに向け、ミサトを見る。
 
 
 
 「……アタシも、降りる」
 
 
 
 「……えっ? いや、待機……」
 
 「知ったこっちゃないわよッ!!」
 
 アスカの怒鳴り声が、この場にいる全員の鼓膜を震わせた。
 
 そのままアスカは再び視線を戻すと、足音を立てて歩いていく。
 
 自動扉が開くと同時に、廊下に飛び出した。
 
 
 
 一瞬の間を置いて、レイが走り出した。
 
 「あっ……レイ! アンタ……待ちなさい!」
 
 慌ててミサトが声を掛けたが、レイは立ち止まることなく、アスカのすぐ後を追うように、自動扉の向こう側に消えた。
 
 
 
 残された面々。
 
 呆然と、閉じた扉を見つめ続ける。
 
 
 
 思わず、一歩踏み出す、トウジ。
 
 そのトウジの後頭部に、リツコの声が掛けられる。
 
 「……トウジ君」
 
 「……は? は、はい?」
 
 急に呼ばれて、思わず声を裏返しながら、トウジは振り返る。
 
 
 
 リツコは横目でトウジを見ながら、淡々と、言葉を続けた。
 
 「あなたは、ここに、いるわよね?」
 
 「……え」
 
 
 
 「……いるわよ、ね?」
 
 
 
 「……は……は、はい……」
 
 
 
 こうして、トウジは一人、管制塔に取り残されたのだった。
 
 
 
 廊下をズカズカと歩いていく、アスカ。
 
 小走りにならないと、同じ速さではとても歩けない。
 
 その肩をいからせ歩く背中に、レイが走りながら声をかける。
 
 「アスカ」
 
 「………」
 
 「アスカ」
 
 「………」
 
 アスカは応えない。
 
 そのままエレベーターホールまで着くと、下向き矢印のボタンを、手の平でドン、と叩く。
 
 
 
 じっと文字盤を見つめ、黙ったままのアスカ。
 
 エレベーターホールには、静寂のみが横たわる。
 
 レイは、静かに……その背中を、見つめている。
 
 
 
 数秒の空白を挟んで、レイは、そのアスカの背中に、言葉を、投げる。
 
 
 
 「……アスカ、どうするの?」
 
 
 
 沈黙。
 
 
 
 「………」
 
 「………」
 
 
 
 「………」
 
 「……アスカ」
 
 「……どうするもこうするも、無いわよ」
 
 やがて、アスカが、小さく、呟く。
 
 
 
 「……どうするの?」
 
 もう一度重ねられた、レイの言葉に……アスカは、伏せていた顔を、バッと上げてレイを見た。
 
 
 
 「どうするもこうするも無いわよ! アイツを追っかけて、アイツの顔面ぶん殴って、アタシの弐号機を取り返すのよ! ンなの、あったりまえじゃない!!」
 
 
 
 レイは、じっと、アスカの顔を見る。
 
 アスカは怒りに唇を震わせながら、レイを睨みつける。
 
 
 
 ジェルのようにまとわりつく、硬い、沈黙。
 
 
 
 「……止める気?」
 
 アスカが、レイを睨んだまま、呟く。
 
 
 
 レイは応えない。
 
 「止めないで……レイ」
 
 アスカの言葉が続く。
 
 
 
 「アタシ……アイツ、許せない。許せないんだ……」
 
 「………」
 
 「絶対……」
 
 「………」
 
 
 
 重い。
 
 比重が、数割は増したのではないかと錯覚してしまうような、そんな空気が、場を支配する。
 
 この場に、別の誰かがいたとしたら、その人物はきっと、身動きをとることなどできないだろう。
 
 心の中にまで冷たさが染み込んでしまうような……そんな、空気の中で。
 
 
 
 ……レイが、静かに、口を開く。
 
 
 
 「……でも、どうやって、追うの?」
 
 
 
 レイの声音は、まるでこの場の空気の重さなど感じていないかのような……抑制された、静かな声だった。
 
 アスカは、レイを睨んだまま、応える。
 
 「……どうやって、って、どうやってもよ」
 
 「アスカのIDで、最下層まではいけない」
 
 エレベーターを指差して、レイが呟く。
 
 
 
 エレベーターホールに、到着を知らせる電子音が響き渡った。
 
 ガッ、と、扉が開き、白い箱が姿を見せる。
 
 
 
 対峙する、レイと、アスカ。
 
 アスカの背後で、開いたままの、エレベーター。
 
 
 
 アスカは、変わらずレイを睨んだまま……口を開く。
 
 
 
 「だったら……このエレベーターシャフトに飛び込んで、ワイヤー伝ってでも降りてやるわよ」
 
 
 
 「……本気?」
 
 
 
 「……本気よ」
 
 
 
 足を踏み出したレイは、そのまま両手で、アスカの胸を押した。
 
 レイに押されてバランスを崩したアスカは、そのままエレベーターの中へよろめき入り、奥の壁に背中をぶつける。
 
 追うように、レイも入る。
 
 その背後で、扉が閉まる。
 
 
 
 「レイ!? 何を……」
 
 アスカの言葉は、レイの手許を見て、飲み込まれた。
 
 レイの手に、IDカード。レイの写真が、印刷されている。
 
 レイは文字盤の方に振り返ると、スリットにIDカードを差し込む。
 
 文字盤の下が、ガシャッと音を立てて開く。その中に別のボタンが並んでいるのが、見える。
 
 
 
 「本気なら……連れて行って、あげる」
 
 レイはそう呟くと、開いた壁の中の一番下のボタンを押した。
 
 
 
 体に、静かに加重がかかる。
 
 エレベーターが、動き出す。
 
 カチン、カチン、とフロアを示すダイアルが回り始める。
 
 アスカは、呆然と、レイを見つめている。
 
 
 
 レイは、文字盤の方を向いたまま、アスカの方を振り返らない。
 

 
 アスカが、微かな声で……呟く。

 「……レイ……アンタの……ID……なんで」
 
 
 
 下降する低い音だけが静かに充満する箱の中で……
 
 数十秒の長い沈黙の後、レイが、静かに、口を開く。
 
 
 
 「……私は……ここで……生まれたから」
 
 
 
 「……え?」
 
 数瞬を置いて、アスカの口から、言葉にならない、言葉が零れた。
 
 そのアスカの声に、レイは沈黙で応えた。
 
 
 
 ダイアルが、回る。
 
 
 
 カチン
 
 カチン
 
 カチン……
 
 
 
 ただ、低く、微かに響く、エレベーターの駆動音と、
 
 蛍光灯の音。
 
 
 
 沈黙を携えて、アスカは、レイの背中を見つめる。
 
 レイは、じっと、目の前の文字盤を見つめる。
 
 
 
 アスカが、僅かに……拳を、握り締める。
 
 
 
 「……どうでも、いいよ」
 
 小さく……呟く。
 
 レイは、動かない。
 
 
 
 「……お礼、言っとく……ありがとう」
 
 
 
 アスカの、言葉。
 
 
 
 そして、また、エレベーターの駆動音と、蛍光灯の音のみ。



五百九十九



 『カヲル君!』
 
 初号機の外部スピーカーから、シンジの声が響く。
 
 数メートル先を降下するカヲルが、声に反応して、背後を見上げる。
 
 
 
 微笑む。
 
 
 
 「……待っていたよ、シンジ君」
 
 
 
 その声は、まるで直接鼓膜を震わせたかのように、シンジの耳に、すんなりと届く。
 
 カヲルの口から零れた言葉は、初号機のマイクを介さず、シンジの心に、直接話しかけられているかのようだ。
 
 『カヲル君! 待って、話をしよう!』
 
 「僕も、君ともっと話がしたかった。でも、時間切れだ」
 
 カヲルの言葉が終わるのと同時に、弐号機がその巨躯をぐるりと回し、初号機の前に対峙した。
 
 
 
 ぐわっ、と弐号機の両腕が振りかぶられ、そのまま振り下ろされる。
 
 初号機も腕を伸ばし、その両腕を捕まえる。
 
 
 
 激しい衝撃音。
 
 力比べをするように、両手を組み合う、初号機と弐号機。
 
 「ぐッ……」
 
 弐号機の渾身の力に、こちらも最大の力で応じないと、組み倒されてしまう。
 
 操縦杷を折れよとばかりにきつく握り締めるシンジ。
 
 ぶるぶると腕が震える。
 
 きしむ奥歯。
 
 一分近くそうして拮抗した状況が続き、鍔迫るように、同時に両者が離れる。
 
 
 
 『カヲル君!』
 
 シンジは叫ぶが、視線を弐号機から切ることができない。
 
 油断したら一瞬で負けてしまう……ここで負けては、そもそもカヲルを止めることなんて不可能だ。
 
 カヲルの返事は聞こえない。
 
 
 
 弐号機は、プログナイフを掴み、両腕を伸ばして眼前で構えた。
 
 
 
 僅かな躊躇が、シンジの背中を走る。
 
 ナイフを使って戦えば、弐号機を傷つけるかもしれない。……だが、その思いは、一瞬しかシンジの心には留まらず、すぐに消え去った。
 
 そんなことで、逡巡している場合ではない。
 
 弐号機は、また修理すればいい。とにかく今、この戦いに勝たなければ、カヲルと話し合うこともできない。
 
 初号機も、同じようにナイフを構える。
 
 
 
 お互いにナイフを構えた初号機と弐号機が、対峙する。
 
 
 
 動いたのは、弐号機だった。
 
 弐号機がナイフを振りかぶり、初号機の頭上に一気に振り下ろす。
 
 初号機はナイフを横に薙ぎ、振り下ろされたナイフを弾いた。
 
 反動で弐号機の腕がカヲルの方に飛ぶが、カヲルの眼前に七色の壁が浮かび上がり、苦も無くそれは跳ね返される。
 
 
 
 『……A.T.フィールド』
 
 既に一度、見た光景だ。
 
 だが、それでも……カヲルが使徒である、その事実を目の前に突きつけられたような気がして、シンジの喉の奥に、何かがこみ上げる。
 
 
 
 弐号機が、返す刀でナイフを振る。
 
 一瞬で意識を戦いに引き戻し、初号機がそれをまた、薙いで払う。
 
 「何人にも侵されぬ、聖なる領域。……心の、光」
 
 カヲルの声が、直接、耳に流れ込んでくる。
 
 弐号機がナイフを振りかぶる。
 
 振り下ろされたその手首を、初号機が掴む。
 
 掴んだ腕を、弐号機が蹴り上げ、火花を散らして両機は離れる。
 
 「君も、分かっているだろう?」
 
 ビュッ、と、弐号機は背を向けるように回転すると、そのまま裏拳のようにナイフを飛ばす。
 
 突然視界の外から飛んできたナイフに、初号機は必死に身を翻す。
 
 ナイフは初号機の胸板に傷を付け、勢いよく通り過ぎ、二機はまた対峙する。
 
 「A.T.フィールドは……誰もが持っている、心の壁だと、言うことを」
 
 
 
 『……そんなの分からないよ! カヲル君ッ!』
 
 
 
 一瞬、集中が途切れた。
 
 その、僅かな間隙を縫って、弐号機のナイフが突き込まれる。
 
 初号機の腕をかわして、ナイフは深々と、その左胸に突き刺さった。
 
 
 
 「ぐッ……あ……ッ……!」
 
 シンジの口から、苦悶の声が迸った。
 
 初号機の胸は、激しい火花を散らしながら、弐号機のナイフを少しずつ飲み込んでいく。
 
 小刻みに震える、紫色の機体。
 
 
 
 激痛。
 
 額に、ぶつ、ぶつ、と脂汗が浮かぶ。
 
 眉根をきつく締めたシンジは、しかし痛みの中でカッと目を見開くと、眼前の弐号機を睨みつける。
 
 (……アスカ、ごめん!)
 
 胸から火花を散らしたまま、初号機はナイフを振りかぶると、勢いよく弐号機の首にそれを突き立てた。
 
 
 
 「エヴァ両機、最下層に到達!」
 
 シゲルが叫ぶ。
 
 マヤの指がキーボードをなめる。
 
 「目標、ターミナルドグマまで、あと20……19……18」
 
 
 
 ミサトはその報告を、険しい表情で聞く。
 
 ただ、じっと……モニタを睨みつけ。
 
 そのまま2歩、前に足を踏み出し、マコトの椅子の背に手を置いた。
 
 
 
 屈んで、口をマコトの耳元に寄せる。
 
 「……初号機の信号が消えて……もう一度、変化があったときは」
 
 「分かってます」
 
 ミサトの言葉に、視線をサブモニタから切ることなく、マコトは短く応える。
 
 「ここを、自爆させるんですね」
 
 「ええ」
 
 「サードインパクトを引き起こされるよりは、マシですからね」
 
 「悪いわね……」
 
 「いいえ」
 
 マコトは一瞬、視線をミサトに向け……その瞳の奥でだけ微笑み、一瞬ののちに表情を戻した。
 
 
 
 ミサトはその様子に反応することなく、腰を伸ばして、また下がる。
 
 メインモニタを、見つめる。
 
 ナイフを突き合う、初号機と弐号機の、姿……。
 
 
 
 火花を散らしながら、お互いの体に深く……より深く、ナイフを沈めていく、両機。
 
 シンジの胸に、狂わんばかりの痛みが押し寄せる。
 
 「あ……あ……グ……アッ……ゥ……」
 
 荒い息で、目の前に弐号機を睨みつける。
 
 
 
 この傷みは、本物じゃない。
 
 自分の胸に、ナイフが突き立てられているわけじゃ、ない。
 
 この痛みは、幻だ……気を失わずに、いられるはずだ!
 
 
 
 より、操縦杷を握る拳に、力を込める。
 
 ずぶずぶと、弐号機の首が、両断されていく。
 
 
 
 ……パイロットのいない弐号機を止めるには、これしか方法がない。
 
 気を失うな……まだ、まだ、終わっていない。
 
 この首を刎ねて……
 
 ……それから、カヲル君を、止めるんだ!
 
 
 
 火花散る両機を見上げて、カヲルは、寂しそうに微笑んだ。
 
 静かに……呟くように、口を開く。
 
 「さだめ……か」
 
 言いながら、ゆっくりと視線を足許に下ろす。
 
 遥か遠く……しかし、徐々に、確実に近づいてくる、最後の隔壁。
 
 「……人の希望は、悲しみで綴られているね」
 
 カヲルが、目を閉じる。
 
 
 
 「これまでにない強力なA.T.フィールドです!」
 
 マコトの言葉と共に、モニタの映像が激しく乱れて、砂嵐のような状態に変わる。
 
 「光波、電磁波、粒子も遮断しています。何もモニターできません!」
 
 シゲルの報告を聞きながら、リツコは腕を組み、眉を寄せて砂嵐を睨みつけた。
 
 「こんなA.T.フィールドの使い方……まさに、結界ね」
 
 「目標、及びエヴァ初号機・弐号機、共にロスト!」
 
 マヤの叫びに合わせて、メインモニタには「LOST」の大きな赤文字が浮かび上がった。
 
 
 
 「そんな……」
 
 ミサトは呆然とその表示を見つめる。
 
 そこに、マヤの叫びが被る。
 
 「だめです! パイロットとの連絡も取れません!」
 
 
 
 赤い、湖。
 
 
 
 その天井の一部が赤く光り、そこが溶けるようにゆるゆると形を変える。
 
 やがて蒸発しながら滑らかに消えていく隔壁の、その中央から、少年が滑るように降下してくる。
 
 
 
 赤い湖の水面、その上、数メートルのところまで降下してゆっくりと減速すると、そのままスーッと前方に滑り始める。
 
 広い……ただ、ただ、広い、この空間……
 
 ……塩の柱が点在する湖の一番奥に、目指す姿がある。
 
 
 
 十字架に磔にされた、白い巨人。
 
 塞がれた面の裏から、そして釘を打たれた両手から、赤い血を流して佇んでいる。
 
 
 
 カヲルは微笑を微かに浮かべたまま……その目の前まで、ゆっくりと進む。
 
 慈しむような視線を、動かぬ巨人に注ぎながら……。
 
 そうして、その、十メートルほど手前まで滑ってきて、ゆっくりと停止する。
 
 
 
 じっと……巨人を見詰める、カヲル。
 
 その、穏やかな視線が、数十秒を経て、変化する。
 
 
 
 「……?」
 
 その表情から微笑が消え、微かに眉が上がった。
 
 
 
 無言で、巨人と対峙する、カヲル。
 
 
 
 じっと……その巨躯を見つめ……
 
 ……やがて、ハッと気付いたかのように、カヲルが顔を上げた。
 
 「違う」
 
 じっと見上げる。
 
 「これは……リリス……。そうか、そういうことか……リリン」
 
 
 
 背後に。
 
 激しい水の柱が上がった。
 
 
 
 赤い水の飛沫が、霧雨のようにカヲルの銀髪を濡らす。
 
 カヲルがゆっくりと振り返ると……そこには、八割まで首を切り落とされて湖に半身を沈めた赤い機体と、その横に飛沫を上げて立つ、初号機。
 
 その、左胸には、ナイフが深々と刺さったままだ。
 
 
 
 「……ありがとう、シンジ君」
 
 その姿を見つめて……カヲルが微笑む。
 
 「弐号機は、止めておいてほしかった……彼女がいたら、僕は、生き続けていたかも知れなかった」
 
 
 
 初号機は倒れた弐号機を放置し、そのまま波を立て、カヲルに向かって歩く。
 
 ざぶざぶと、一定の、速度で。
 
 歩きながら、右手で、自らの胸に突き立ったナイフを掴み、一気に引き抜く。
 
 左胸から、赤い血が吹き出す。
 
 
 
 赤い、血。
 
 
 
 赤い、湖……。
 
 
 
 歩みを止めることなく、近づいてくる初号機。
 
 宙に浮いたまま、その到着をカヲルは待つ。
 
 
 
 やがて、初号機は、カヲルの前に立った。
 
 
 
 吹き出していた鮮血は、今はただその傷口から弱々しく流れ出すのみだ。
 
 カヲルは、微笑を浮かべたまま、初号機を見つめている。
 
 
 
 カヲルは、その両手をポケットから出す。
 
 ゆっくりと……翼を広げるように、その両腕を、広げる。
 
 
 
 そのシルエットはまるで……十字架のように。
 
 背後の巨人が磔られた、赤い十字架と。
 
 両腕を広げた、白い、十字架。
 
 
 
 「……さぁ……」
 
 カヲルが……ゆっくりと、呟く。
 
 「……僕を、殺してくれ」
 
 
 
 『カヲル君、君は、間違ってる』
 
 シンジの……重く、低い声が、空間に響く。
 
 胸に大きく開いた傷口の痛みに耐えているはずなのに……それを感じさせない、冷たい、声音。
 
 『君は……間違っているよ』
 
 繰り返す。
 
 
 
 カヲルは、小さく笑って見せた。
 
 
 
 「そうかな? ……それは、君からの見方でしか、ない」
 
 『カヲル君だって、カヲル君からの見方でしか、話してないよ』
 
 カヲルの言葉に、シンジは首を振る。
 
 カヲルの微笑みは変わらない。
 
 「そうかも知れない。だが、それはいけないことかな? 君と僕は、違う。君は、君の世界だけで、僕のことを考えているよ……君という、人間の世界からの見方でね」
 
 『カヲル君だって人間だよ!』
 
 シンジの叫び。
 
 
 
 カヲルは、ゆっくりと……首を横に振る。
 
 「その話題は、前に、もう、したね。……分かってるだろう? 僕は、使徒だ。人間じゃ、ない」
 
 
 
 『そんなことはない!』
 
 「事実は変わらないよ」
 
 穏やかな表情で、カヲルが言う。
 
 「僕と、君は、違う。……そして、未来は、一つの種にしか、開かれていないんだ」
 
 『……違う! なんで、そんな……』
 
 悲痛なシンジの叫び。
 
 
 
 シンジは、泣きたかった。
 
 
 
 このままカヲルの体を掴んで、強引に地上へ戻ってしまいたい衝動に駆られる。
 
 だが、それでは……きっと、ダメだ。
 
 解決しないまま、ただ強制的に連れ戻しても、カヲルはきっと、同じ結果を繰り返すだろう。
 
 
 
 「違わないよ」
 
 カヲルは静かに言葉を続ける。
 
 
 
 「事実、君たち人類は、今まで他の使徒を葬り去ってきた。……これは、何故だい? 君たち人類という種が、未来に生き延びるためじゃないのか?」
 
 『……だって、君は、他の使徒とは違う!』
 
 「同じさ。君が僕を殺さなければ、僕は、サードインパクトを起こして人類を滅ぼすだろう。それが例え今じゃなくても……いつか、必ずだ。それはつまり、僕らが生き延びれば、人類が消え去るということだよ」
 
 『どうして!?』
 
 シンジが叫ぶ。
 
 『……どうして、その二択しかないんだ! 他の未来があったって、いい! 一緒に生きていく未来があったって、いいはずだ……!』
 
 「そう、未来は無数にある」
 
 しかしカヲルは、ゆっくりと首を振った。
 
 銀色の髪が、柔らかく揺れる……。
 
 「……だけど、この件に関して、他の未来はないよ。……我々か、人間か、そのどちらかにしか、トンネルは開かれていないからだ」
 
 『そんなことは無い!』
 
 
 
 初号機は、激しく足を踏み鳴らした。
 
 水柱が上がり、空間全体が、振動する。
 
 
 
 初号機は両腕を広げて、訴えかけるように上半身を乗り出した。
 
 『そんなことは、無いよッ!』
 
 もう一度、繰り返す。
 
 カヲルは、乗り出す巨躯に全く動じず、ただ、穏やかな表情を向けて、口を開いた。
 
 「どうして?」
 
 『どうしてって……』
 
 シンジは、奥歯を噛み締めた。
 
 『……だって、僕は、君を殺したくなんか無いんだよ!』
 
 
 
 シンジの頬を涙が伝う。
 
 
 
 なぜ!?
 
 きつく、きつく……操縦杷を握りしめる。
 
 
 
 なぜ……
 
 なぜ、なぜ……こんなことを、繰り返さなければ、いけないんだ!
 
 ……なぜ……
 
 
 
 ……なぜ、この想いを、分かってはくれないんだ!?
 
 
 
 カヲルは、ゆっくりと微笑む。
 
 「ありがとう……君は、やはり、好意に値するよ」
 
 だが、その瞳の奥にある光は、何も変わっていない。
 
 「だけど……僕には、生を望む自由と同じように、死を望む自由がある。……僕にとって、生と死は等価値なんだ。生は生の未来、死は死の未来に繋がっているに過ぎない」
 
 『僕にとって、生と死は、等価値なんかじゃない!』
 
 「……それはつまり、君にとっての価値観だろう? 君にとって、生と死が等価値ではないのなら……君は、より価値の高い方を選ぶといい。君は、生を選ぶんだ。それが、正しい道さ。僕は、死を選ぶ。それもまた、正しい道だ」
 
 『君の生と死だって……僕にとっては、等価値なんかじゃないよ……!』
 
 
 
 喉の奥から、嗚咽が漏れる。
 
 
 
 定められた結末に向かって、
 
 確実に、進んでいる、気配。
 
 絶対に、避けたいと、
 
 心の底から願っていた、未来。
 
 
 
 その未来に、しかし……外れることなく、着実に近づいている。
 
 
 
 ……避けられない……って……言うのか……!?
 
 
 
 そんな……
 
 そんな……馬鹿な……!!
 
 
 
 「僕の価値は、僕の物さ。君の価値が、何ものでも無い、君の物であるようにね。……僕の価値は、僕自身に選択権がある」
 
 カヲルは、諭すように、言葉を続けた。
 
 シンジは、慟哭するように叫ぶ。
 
 『僕は……僕は、君を、殺したく無いんだよッ!!』
 
 「僕も、君を殺したくない。……だから、君が、僕を殺すんだ。これが、僕の唯一の意思であり、僕の願いだ」
 
 『カヲル……く……ん……ッ』
 
 
 
 そんな、
 
 馬鹿な。
 
 
 
 馬鹿な、
 
 馬鹿な、
 
 馬鹿な……!!
 
 
 
 だが、カヲルの意志は強固にして、
 
 何も動かない。
 
 
 
 ただ、変わらぬ笑顔だけが、温かく……シンジに向けられて。
 
 
 
 涙が、溢れる。
 
 慟哭が、喉の奥から、せり上がる。
 
 
 
 馬鹿な、
 
 馬鹿な、
 
 
 
 馬鹿な……!!
 
 
 
 『なんで……』
 
 
 
 シンジの口から、言葉が漏れる。
 
 
 
 『なんで……なんで、なんで、なんで……』
 
 
 
 閉じた瞼から、涙が零れて止まらない。
 
 
 
 『……な……んで……なんだ……ッ……!!』
 
 
 
 止められない。
 
 カヲルの、崇高な、意思を。
 
 
 
 自分では……
 
 ……止められない……
 
 
 
 ……止められ……ないのか……ッ……!?
 
 
 
 『なんで……なんだよ……ッ……!!』
 
 
 
 シンジの、魂から零れるような、声が。
 
 冷たい空間に、軋み、響き渡る。
 
 
 
 ……それは、聞く者全てに、その慟哭を芯から叩き込むような、そんな嗚咽だった。
 
 シンジの百の説得を超える、彼自身の懇願の想いだった。
 
 
 
 しかし、カヲルは、ゆっくりと……
 
 ……瞼を開く。
 
 
 
 カヲルは、穏やかに……
 
 
 
 まるで、自らの死が目の前に迫っているとは、微塵も感じさせない……
 
 
 
 ……取り巻く全てに、
 
 優しい慈愛を降り注ぐような、
 
 そんな笑顔で、
 
 
 
 シンジに、微笑んだ。
 
 
 
 (……!……)
 
 
 
 それは、衝撃だった。
 
 
 
 シンジの胸の真ん中を、打ち抜く楔だった。
 
 
 
 とめどなく溢れる涙の向こうに、しかし、
 
 どう……自分が足掻いても、
 
 覆すことの出来ない、
 
 崇高な……
 
 ……意思を……!
 
 
 
 『……う……ぁ……』
 
 
 
 シンジの口から、声にならない声が、漏れた。
 
 ……初号機が、よろめくように、腕を動かす。
 
 まるで……マリオネットの糸に、操られるように。
 
 
 
 絶対に、訪れてはいけない、未来。
  
 
 
 涙で、前が見えない。
 
 ただ……微笑んでいる、その、カヲルの姿が、この世界の全て。
 
 その、たった一つのぬくもりに……
 
 震える、手を……
 
 伸ばす……
 
 
 
 自分が動かしている筈なのに、
 
 まるで、別の誰かが動かしているような、錯覚。
 
 
 
 動かしている張本人を捕まえて、やめろ、と殴り倒したい。
 
 カヲルを殺そうとする、その紫色の腕を、渾身の力で、止めたい衝動。
 
 
 
 だが、これを動かしているのは……他ならぬ……自分!
 
 
 
 カヲルは、穏やかに微笑んだまま、近づいてくるその腕を見つめている。
 
 自分をこの世界から葬り去ろうと近づくそれを、まるで慈しむように、見つめている。
 
 
 
 「さぁ……」
 
 カヲルが、静かに、呟く。
 
 「僕を……殺してくれ……」
 
 
 
 「……バカ言ってんじゃないわよッッ!!」
 
 
 
 その瞬間、空気を切り裂くような……固着した空気の全てを叩き潰すような叫びが、空間全体にこだました。
 
 
 
 呪縛を解かれたように、初号機の腕が止まる。
 
 弾かれたように、シンジは、声のした方を見下ろす。
 
 
 
 湖の、へり……小さなハッチのその前の、岸辺のようになった空間に。
 
 赤い、人影。
 
 風ひとつ無い筈のこの空間で、まるで生きているように揺らめく、紅く美しい、髪。
 
 それはまるで、燃えさかる炎を、思わせた。
 
 
 
 シンジは、信じられない思いで、その姿を見つめていた。
 
 「……アスカ!?」
 
 驚愕の声が漏れる。
 
 
 
 アスカは、腰に手を当てて仁王立ちになり、カヲルと初号機を渾身の力で睨みつけていた。
 
 
 
 ……ど……どうして、ここに……!?
 
 呆然と、シンジは見下ろす。
 
 だが、その姿の後ろに立つレイの姿に、シンジは全てを理解する。
 
 
 
 カヲルは微笑み、怒りのオーラを背負ったアスカに、穏やかな視線を向けた。
 
 「……やぁ、惣流さん」
 
 「渚カヲル!!」
 
 カヲルの挨拶を全く無視して、アスカは怒気を孕んだ声で叫ぶ。
 
 「アンタ、アタシの弐号機にナニしやがンのよッ!」
 
 「君が、弐号機を追ってくるという可能性は、考えていた」
 
 アスカの言葉には応えず、カヲルは穏やかに言う。
 
 「どうやって来るのかは分からなかったけど、いざとなったらどんな手段でも使って、ここまで来るだろうと思っていた。予測通りだ。……だから、早く終わらせたかったんだけどね」
 
 「アンタこないだから予測通り、予測通りって……勝手に、人のこと分かったような気になってんじゃ無いわよ!」
 
 「そう言われてもね」
 
 カヲルは肩を竦めると、視線を眼前の初号機に戻した。
 
 
 
 「しかし、ともかく……今は、シンジ君と話をしていたんだ。君と話している暇は、無い」
 
 
 
 「今、アンタと話してんのは、アタシだ!」
 
 アスカの怒鳴り声。
 
 眉間に皺を寄せて、上空のカヲルを睨みつける。
 
 カヲルは初号機を見たまま、視線を下ろさない。
 
 「その前に、僕がシンジ君と話をしていたんだ」
 
 「バカシンジのことなんて、ど〜〜ッでもいいから! ンなとこに浮いてないで、ここまで降りて来いッ!!」
 
 「……どうして?」
 
 「その横ッ面をひっぱたいてやるからに決まってンでしょうがッ!!」
 
 
 
 カヲルは、溜息をついた。
 
 
 
 視線を、もう一度、アスカに戻す。
 
 無表情。
 
 「嫌だよ、そんなの。なんでそんなこと……」
 
 「アタシが、よけてないからよ!」
 
 「……は?」
 
 アスカの言葉に、語尾を失って口を噤むカヲル。
 
 アスカは両拳を腰に当て、仁王立ちになってふんぞり返る。
 
 「ア・タ・シ・が! よけて、ないからよッ!!」
 
 もう一度、繰り返す。
 
 
 
 「……は? 何を言って……」
 
 あっけにとられたカヲルの言葉を、また皆まで聞かずに声を被せる。
 
 「い・い・か・らッ! ここまで降りて来いッ!」
 
 言いながら、ドンッ、と右足で床を踏み鳴らす。
 
 
 
 沈黙。
 
 
 
 カヲルは、もう一度……溜息をつく。
 
 後ろ頭を掻いて、視線を初号機に向けた。
 
 「すまないね……シンジ君。ちょっと、先に済ませてくるから、待っててくれるかな」
 
 『……え……え? ……あ、……うん……』
 
 呆気に取られた表情で、シンジが呟く。
 
 カヲルは、スーッと滑るように、眼下に向かって滑空する。
 
 
 
 そのまま、アスカの前まで、ゆったりと降下した。
 
 地面に立つアスカの前で、地表から数十センチ上空に浮いた状態で止まる。
 
 
 
 アスカが、そのまま右手を振りかぶり、思い切り振り抜いた。
 
 
 
 カヲルの顔の前に、七色の光の壁が現れる。
 
 アスカの手の平は、その壁に阻まれて跳ね返った。
 
 「A.T.フィールドを使うな!」
 
 アスカが、カヲルを睨んで叫ぶ。
 
 カヲルは、無表情でアスカを見つめる。
 
 「嫌だよ」
 
 その言葉に、アスカはいっそう強く睨みつけた。
 
 
 
 「アタシに使えない物を、使うんじゃないッつってんのよ!」
 
 
 
 「は?」
 
 呆気に取られるカヲル。
 
 その頬を、アスカの手の平が捉える。
 
 
 
 乾いた音が響き渡り、カヲルがよろめいて地面に膝を付く。
 
 背後で、レイはただ呆然と、二人を眺めていることしかできない。
 
 アスカは、鼻を鳴らして口元を歪めた。
 
 「そ。そ〜やって、ちゃんと地面に降りてなさいよね」
 
 カヲルはゆっくりと体を起こすと、膝を払って腰を伸ばす。
 
 頬を撫でて、アスカを見る。
 
 「痛いな」
 
 「痛くなきゃ意味ないでしょ」
 
 アスカが腕を組んで、フンと睨みつける。
 
 カヲルは表情を消して、アスカを見返す。
 
 「……大体、君は、僕がA.T.フィールドを使っても、驚かないんだな」
 
 「んなの、当たり前じゃない」
 
 両手を広げて、呆れた、というジェスチャーをすると、アスカは盛大に溜息をついてみせた。
 
 「アンタ、使徒なんでしょ? 使徒がA.T.フィールド張れたって、不思議でも何でも無いわよ」
 
 言いながら、肩を竦めてみせた。
 
 
 
 アスカの言葉に、カヲルは僅かに目を見開いて……それから、微笑んだ。
 
 「……それはそうだ」
 
 次の瞬間、アスカの頬が鳴る。
 
 虚を突かれたアスカは、一歩よろけたが、そこで踏み止まった。
 
 右手を振り抜いたカヲルは、その手の平を、穏やかにポケットに戻した。
 
 
 
 「これがフェアってものだ。そうだろ?」
 
 カヲルの言葉に、アスカはギッと顔を上げて、右手を振りかぶる。
 
 「この野郎!」
 
 ブン、とアスカの手の平が振り抜かれるが、カヲルは宙に浮いて、そのまますっと後ろに下がる。
 
 「よけるな!」
 
 「嫌だよ、君との話は終わりだ」
 
 言いながら、カヲルの体は反転し、スーッと宙を上がっていく。
 
 
 
 その脇腹に、アスカの飛び蹴りがめり込んだ。
 
 
 
 弾き飛ばされたカヲルは、湖に盛大な水柱を上げて落下した。
 
 その後ろで、アスカが軽やかに着水する。
 
 膝上まで水に浸かり、スカートの裾が水面に広がる。
 
 
 
 初号機からその様子を見下ろしていたシンジは、ただ、唖然として口を丸く開くばかり。
 
 二の句が継げない。
 
 レイも、口に手を当てて、びっくりしたような表情でアスカの背中を見つめている。
 
 
 
 「な……」
 
 頭からびしょ濡れになったカヲルが、目を丸くして立ち上がった。
 
 ざばぁっ、と、シャツの袖から水が流れ落ちる。
 
 アスカは腰に手を当ててふんぞり返った。
 
 「まだ、アタシと話し中よ!」
 
 勝ち誇ったように言い放つアスカに、カヲルは呆れたような表情を浮かべる。
 
 「……話は、終わったろう?」
 
 「勝手に決めんじゃ無いわよ」
 
 「僕に話すことは、もう無い」
 
 「うっさいわね! アタシが話があるって言ってんのよ!」
 
 
 
 「……やれやれ」
 
 カヲルは溜息をつくと、濡れた前髪を掻き分けた。
 
 「分かったよ……じゃぁ、もう、さっさと話だけ聞くことにするよ。聞かないと終わりそうもないし……何だい?」
 
 
 
 アスカは、フン、と鼻を鳴らした。
 
 「じゃ、アタシがありがたい話をしてあげるから、耳かっぽじって、よぉ〜く聞きなさい」
 
 「分かったから、早く話してくれ」
 
 カヲルの言葉に、アスカはムッとした表情で眉を寄せると、そのままずい、と顔を寄せた。
 
 「じゃ、言うわよ。……アンタ、さっきから随分と、勝手なこと言ってくれてるじゃないの」
 
 「勝手? 何が?」
 
 「生きるだの死ぬだの言う話よ」
 
 「……ああ」
 
 裾を絞って水を切りながら、カヲルが感情の篭らない声で応える。
 
 「それが、何? まさにその話をしに、僕はシンジ君のところまで戻らなきゃいけないんだけど」
 
 「今は、アタシと話をしてんだッつの!」
 
 「だから、聞いてるじゃないか……なに? 何が言いたいんだ」
 
 「結論は、ひとつよ」
 
 アスカは言いながら、ビシッと人差し指を立てる。
 
 そのまま、その腕をぐいっとカヲルの鼻先まで伸ばし、口を開いた。
 
 
 
 「アタシに断りも無く、勝手に死ぬなんて許さないわ」
 
 
 
 「……は?」
 
 カヲルが、怪訝な表情で、アスカを見る。
 
 
 
 「聞こえなかった?」
 
 笑いながら、アスカがカヲルを睨みつける。
 
 「アンタを、勝手に死なせやしない、って言ってンのよ」
 
 言い放つ。
 
 
 
 数秒の沈黙。
 
 アスカは人差し指を突きたてたポーズのまま、威圧するようにカヲルを睨みつける。
 
 カヲルは、訝しげな表情のまま、口を開いた。
 
 「……何を言ってるんだ、君は」
 
 「日本語、分かんないの? バカ?」
 
 「……シンジ君が、僕に生きて欲しいという、その気持ちは、性格的にも理解できるよ。シンジ君には、引き止められるだろうと予想もしてたしね。……だが、君は、何故? 君は、僕が嫌いじゃなかったのか?」
 
 「大ッ嫌いよ!!」
 
 ビシャッ、と、叩きつけるように、アスカが言う。
 
 カヲルは眉根を僅かに寄せたまま、肩を竦めた。
 
 「……それは、結構。だったら別に……」
 
 「別に、ナニ!? アンタがここで死んだら、アタシの寝覚めが悪いのよ!」
 
 「なんでだよ。嫌いなやつが死んで、気分がいいだろう?」
 
 「アンタ、アタシを馬鹿にしてない? 嫌いだからってね、他人が死ぬのを望むほど、このアタシは落ちぶれちゃいないわよ!」
 
 カヲルは溜息をついた。
 
 「……僕には、僕の都合がある」
 
 「アンタの都合? このアタシが、なんでアンタの都合なんか気にしなくちゃなんないワケ?」
 
 カヲルの言葉尻を喰うように、アスカの言葉が被る。
 
 
 
 カヲルは、困惑した表情で、アスカを見返した。
 
 「……君は、何を言ってるんだ」
 
 「文句があンの?」
 
 仁王立ちでアスカが応える。
 
 カヲルは、濡れた頭をがりがりと掻いて、溜息をついた。
 
 「文句は、幾らでもあるよ……。大体、その理論で言ったら、僕だって君の都合を聞く必要なんて無いじゃないか。だったら、僕の好きにさせてくれ」
 
 「世界は、アタシを中心に回ってんのよ! シンジも、使徒も、アンタも!」
 
 
 
 断言。
 
 
 
 カヲルはその顔に疲労を浮かべながら、口を開く。
 
 「……何を言ってるんだ、君は、本当に……。理論も何も無い」
 
 「理論? フン、世界の理論より、アタシの理論よ。知らないの?」
 
 「知ってるわけないだろ」
 
 「じゃ、今度から、しっかり頭に叩き込んどきなさいよね」
 
 カヲルは、どうしようもない、という表情で、ゆっくりと首を振る。
 
 「……ふぅ……」
 
 「ナニよ? なんか、言いたいことがあるンなら、言えば?」
 
 アスカはカヲルを睨みつける。
 
 
 
 カヲルは全ての表情を消したまま、アスカを見返した。
 
 「いや……君の理論が、メチャクチャなのは分かった。破綻していようが何だろうが、君がその理論に従う、という主張も理解した。
 
 だが、僕には僕の理論がある。僕にとっては、これこそ世界に優先する理論だ。僕は、僕自身の理論に、従う」
 
 
 
 「アンタの理論が、アタシの理論に優先するとでも思ってるわけ?」
 
 アスカは、鼻先で笑うように、カヲルに言う。
 
 カヲルは眉間に皺を寄せた。
 
 「……そりゃそうだろう、僕にとっては……」
 
 「じゃ、言ってみなさいよ。アンタの理論とやら、聞いてやるわよ?」
 
 アスカはそう言うと、両腕を組んで、カヲルを睨む。
 
 
 
 カヲルは、一瞬、虚を突かれたように口を噤む。
 
 そのカヲルの様子に、アスカは口元を歪めて笑った。
 
 「言えないの? アンタの理論なんて、ホントは存在しない、ハッタリってワケ?」
 
 アスカは、口を閉じて、挑発するような視線をカヲルに送る。
 
 カヲルは一秒にも満たない時間、そんなアスカの顔を見返して……それから、口を開く。
 
 
 
 「……だから……さっきシンジ君にも言ったんだが、僕か人類か、そのどちらかにしか、未来は開かれていない、っていう……」
 
 
 
 「ハァ? アンタ、馬鹿? そんなの、いつどこで誰が決めたのよ?」
 
 言い終わるより早く、アスカが呆れた表情でカヲルの言葉を喰った。
 
 カヲルは溜息をついて、首を振る。
 
 「誰でもない、誰かさ。これはもう決まったことなんだ。僕が死なないのなら、人類が滅びるしかない」
 
 「ンなの、冗談じゃないわよ」
 
 眉根を寄せるアスカに、カヲルは肩を竦めてみせた。
 
 「だったら、僕を殺すしかない。そうだろう?」
 
 「そうだろう? ……じゃないッつの、この馬鹿!」
 
 ぶん、とアスカの拳が伸びるが、カヲルはこれを軽くかわす。
 
 「好戦的なのは、相変わらずだな」
 
 「うっさい! いい? アタシたちも、アンタも、死なない。それでいいでしょうが!」
 
 「そういうわけにはいかない」
 
 カヲルは首を振った。
 
 
 
 アスカがカヲルを睨む。
 
 「何でよ?」
 
 「君たちが僕を殺さないのなら……僕は、サードインパクトを起こす。そうすれば、人類は滅びることになるからね」
 
 「ふざけんじゃないわよ!」
 
 ざばっ、と水を蹴って、アスカがカヲルに詰め寄る。
 
 カヲルは、そのままの姿勢で一歩下がった。
 
 アスカは、カヲルに掴みかからんばかりの勢いでカヲルを睨みつけると、怒りを孕んだ表情で口を開く。
 
 
 
 「サードインパクトを起こす!? ざッけんな! アンタが、んなことしなきゃ、それでいいでしょうが!」
 
 アスカの怒声に、しかしカヲルは、冷ややかな視線を返す。
 
 「アダムとの融合を果たすことは、使徒にとって、定められた道だからね。僕にそれを許すか、僕を殺して阻止するか、そのいずれかしか無い」
 
 「馬鹿言ってンじゃないわよ!」
 
 「馬鹿を言っているつもりは無い」
 
 「アンタが、いま、馬鹿なこと言ったじゃないの! サードインパクトを起こす? 定められた道? 馬鹿も休み休み言えっての! 何でそんなこと分かンのよ!」
 
 「何で、と言われても困る」
 
 カヲルは真顔で答える。
 
 「僕は……使徒は、その為に生まれてきたんだからね」
 
 
 
 その言葉は……その理由が分からなくても、聞く者を納得させてしまうような、そんな重さを含んだ言葉だった。
 
 上空で聞いていたシンジは、思わず自分の心臓の辺りの服を、ぎゅっと掴む。
 
 なんて、理不尽な。
 
 だが……だが、
 
 反論することが、できない。
 
 
 
 これが……
 
 カヲルの……
 
 崇高な……
 
 
 
 ……意思……!
 
 

 だが、アスカは、鼻で笑うように、フン、と息をついた。
 
 カヲルは、そんなアスカを見る。
 
 「……なんだい?」
 
 カヲルの言葉に、アスカは口の端に笑みを浮かべた。
 
 「大いなる勘違い、ってやつね」
 
 アスカはそう言いながら、肩を竦めてみせる。
 
 
 
 カヲルが、アスカを見る。
 
 
 
 「勘違い?」
 
 
 
 「あ〜あ……馬鹿を相手にしてると、こっちが疲れるわ」
 
 アスカは大げさな身振りで、額に手を当て溜息をついてみせる。
 
 
 
 「……何を言ってるのか、分からないが」
 
 「あら、分からない? アンタがサードインパクトを起こすために生まれてきたなんて信じてるあたりが馬鹿だって言ってんの。分かった?」
 
 「……分かるわけないだろ」
 
 「アンタが生まれてきた理由なんて、他にハッキリあるのにね。それが分からないなんてねぇ……」
 
 やれやれ、とあからさまな溜息をついてみせる。
 
 
 
 「……他に? ハッキリ?」
 
 
 
 カヲルが、混迷の度合いを深めた表情で、アスカを見る。
 
 アスカは口許に笑みを浮かべたまま、その視線を受け止める。
 
 その表情に篭る意図が、読み取れない。
 
 何を言っているのか、この女は。
 
 言っている意味が、分からない。
 
 
 
 「そぉよ、聞きたい?」
 
 アスカはニコニコと微笑んだまま、カヲルを見る。
 
 カヲルは、溜息をついた。
 
 「……そんなものは、無いよ」
 
 
 
 そうだ、
 
 自分が、いかにして生き、
 
 いかにして、死ぬか。
 
 その全ては、自分が最も理解している。
 
 
 
 だが、アスカは、浮かべた笑みを絶やさない。
 
 
 
 「聞きたい?」
 
 アスカは、もう一度繰り返した。
 
 カヲルは、首を振る。
 
 「だから、無いって……」
 
 「聞けッつってんのよ」
 
 「………」
 
 
 
 もう一度、溜息。
 
 
 
 「……分かったよ、言いたければ言いなよ」
 
 「聞きたい?」
 
 「………」
 
 「聞きたい?」
 
 「………」
 
 「聞きたいって言えッつってんのよ」
 
 「分かったよ……聞きたいよ……」
 
 「じゃあ、耳の穴の奥のおぉ〜くまで、よ〜くかっぽじって、拝聴しなさい?」
 
 満面の笑みを浮かべて、アスカは体を反らせる。
 
 
 
 カヲルは、アスカの顔を見る。
 
 
 
 アスカの口が、動く……。
 
 
 
 「アンタはね、アタシにぎゃふんと言わされるために、生まれてきたのよ」
 
 
 
 ……静寂。
 
 
 
 誰も……
 
 ……口を、開かない。
 
 
 
 そのまま、優に一分は経過しただろうか。
 
 スイッチが切れたように、ただアスカを見ていたカヲルは、ようやく電気が通ったように、口を開く。
 
 
 
 「……君は、馬鹿か?」
 
 
 
 「さっきも言ったでしょ? 馬鹿は、アンタ」
 
 アスカはそう言うと、組んだ腕の間から人差し指を立てる。
 
 「さ、何か言うことがあるんじゃないかしら?」
 
 「……言うこと?」
 
 「そ」
 
 ニコニコとした表情のまま、アスカはもう片方の指も立てる。
 
 「さ、ぎゃふん、って言ってごらん」
 
 
 
 「……言うわけないだろ」
 
 カヲルが、心の底から呆れた表情で、アスカに応える。
 
 
 
 しかしアスカはその言葉に怒るでもなく、ニコニコしたまま言葉を続ける。
 
 「あ、そ? 言わないの?」
 
 「……言わないよ」
 
 「じゃ、死ぬわけにはいかないわね。だって、ぎゃふんって言うまで死んじゃいけないんだから」
 
 「……なんで」
 
 「だから、アンタはぎゃふんって言わされるために生まれてきたんだっつの。その使命を果たさず死ぬなんて許されないでしょ?」
 
 「……そんなこと……一体、誰が、決めたんだよ」
 
 「アタシに決まってんでしょ?」
 
 アスカは勝ち誇ったような表情で、言う。
 
 「さっきも言ったでしょ? 世界はね、アタシを中心に回ってんのよ」
 
 
 
 「……信じられん」
 
 カヲルは頭に手を置いて、左右に振る。
 
 疲れ切った、カヲルのそんな様子を全く意に介さず、アスカは笑って言葉を続ける。
 
 「さ、どうなの? ぎゃふん、って言う?」
 
 「……馬鹿か、君は」
 
 「だ〜か〜ら、馬鹿は、アンタ。さ、言う? 言わない?」
 
 「………」
 
 「言わなきゃ、ずっと死ねないわよ」
 
 
 
 カヲルは、魂の間から漏れるような、溜息を、ついた。
 
 「……言うよ、それくらい。幾らでも……。この程度で、納得してくれるって言うんなら、幾らでも言ってやる」
 
 「あ、そ。じゃ、言えば」
 
 「………」
 
 「………」
 
 
 
 「……ぎゃふん」
 
 
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……馬鹿?」
 
 「……君が言えって言ったんだろ……」
 
 疲れ切った顔で、カヲルが呟く。
 
 
 
 ともかくアスカは満面の笑みを浮かべると、ざぶざぶとカヲルの前まで歩み寄った。
 
 カヲルは落ちた肩を上げ、アスカを見る。
 
 カヲルの目の前まで来ると、アスカは勝ち誇った表情で、ぐい、と胸を突き出した。


 
 「いいザマね」
 
 言いながら、アスカは笑う。
 
 カヲルは肩を落としたまま、そんなアスカを見上げた。
 
 「いいよ、もう、何でも……だが、とにかく、これで……」
 
 「これで、アンタは、死なないわけね」
 
 「は?」
 
 カヲルは驚いた表情で腰を伸ばすと、アスカを見返した。
 
 
 
 「さっきと言ってることが……」
 
 「違わないわよ? いい?」
 
 微笑みを絶やさぬまま、アスカは指を立てる。
 
 
 
 「アタシの言う通り、アンタは、ぎゃふんって言った。
 
 ってことは、アタシの理論に従うってことでしょ?
 
 最初に言った通り、アタシはあんたを死なさない。それが、アタシの、理論。
 
 それに従うって言うんだから、あんたは死ねない。
 
 そうでしょう?
 
 分かった?」
 
 
 
 ……シンジは、呆然と、そのやり取りを聞いていた。
 
 
 
 カヲルの困惑が、手に取るように、分かる。
 
 
 
 アスカの理論は、めちゃくちゃだ。
 
 完全に破綻している。
 
 あの理論では、この世界のどんな物事も、アスカの言う通りになる……と、いうことではないか。
 
 あんな、無茶苦茶な理論で、カヲルを説得できるなら、誰だって苦労しない……。
 
 
 
 ……そう思って見ていると、眼下のカヲルの肩が、微かに震えているのに、気付いた。
 
 
 
 『……カヲル君?』
 
 
 
 ぷる……ぷる……
 
 小さく……小刻みに震える、カヲルの肩。
 
 
 
 小さく……
 
 
 
 ……やがて、徐々に大きく。
 
 
 
 ……その、伏せた顔から、声が漏れる。
 
 
 
 「……くっ……く……く」
 
 
 
 泣き声?
 
 いや……違う……。
 
 
 
 「……く……くく、……く、くっは……くはは……はは、は、はははっ!」
 
 
 
 カヲルは顔を上げた。
 
 
 
 疲れ切った顔は、笑いに包まれていた。
 
 淀んだ空気が支配しているはずの空間は、清廉な笑いに彩られていた。
 
 
 
 カヲルは笑う。
 
 「くっ……くくく……くくっ……ははははっ」
 
 シンジは、またも呆然として、その姿を見つめている。
 
 別の、意味で。
 
 
 
 ……あんなに笑うカヲルの姿を、今まで見たことが、あっただろうか?
 
 
 
 仁王立ちのアスカは、憮然とした表情で、そのカヲルを睨む。
 
 「なぁにが、おかしいのよ?」
 
 「くっ……はははっ……いやいや」
 
 笑いながら、カヲルが片手を挙げてみせる。
 
 「惣流さん……めちゃくちゃだよ」
 
 「……んなこたぁね、アタシが一番分かってるってのよ」
 
 
 
 見ると……アスカは、微かに頬を染めて、不機嫌そうな表情で、そっぽを向いていた。
 
 自分の理論の恥ずかしさは、自分が一番、理解している。
 
 その顔を見て……カヲルは、穏やかな微笑を浮かべた。
 
 「だろうね……君は、聡明だ」
 
 「なんか企んでんの?」
 
 眉根を寄せ、疑惑の視線を送るアスカ。
 
 「いやいや、素直な言葉さ」
 
 カヲルは言いながら、ぱんぱん、と体の水を払った。
 
 
 
 「……さて……と」
 
 
 
 言いながら、ゆっくりと、腰を伸ばす。
 
 その、横顔は……いつになく……。
 
 
 
 「……すっかり、引っ掻き回されてしまったな」
 
 カヲルの呟きに、アスカは、フンと鼻を鳴らした。
 
 「悪かったわね。……でも、引っ掻き回されたぐらいでグラグラする理論なんて、再考の余地あり、ってことよ」
 
 アスカの言葉に、カヲルは、ふ……と笑う。
 
 「ま……そうかも、知れないね」
 
 言いながら、ふわり、と、宙に舞い上がった。
 
 
 
 水面から2メートルほどの高さまで上がったカヲルを、アスカは眉を上げて睨みつけた。
 
 「アンタ、まだ……」
 
 「違うよ」
 
 片手を顔の前に挙げて、カヲルは小さく横に振る。
 
 そして、言葉を、
 
 続ける。
 
 
 
 「呆れるくらい、メチャクチャだ……惣流さん。
 
 
 
 メチャクチャ……だったけど、
 
 ……その、突拍子もない勢いは、面白かった。
 
 
 
 今まで、予測通りなんて言ってすまなかった。予測なんて、無理だ、君の理論には。
 
 
 
 その、発想はどこから来るのかな?
 
 君という人間は、一体、どんな思考回路をしているんだ?
 
 
 
 君の、その勢いを、見届けてみたい、と、ちょっとだけ、思うよ。
 
 どこまで行ってもメチャクチャだけど……
 
 その勢いに免じて、今は、短絡に死を選ぶのを、思い留まってみよう、という気に、なった。
 
 
 
 使徒として、
 
 死に殉ずるのではなく。
 
 
 
 人間として。
 
 君が……
 
 あるいは、君を含む、人類が。
 
 どんな未来を歩んでいくのか……もう少しだけ、先まで、見届けて、みたくなった」
 
 
 
 カヲルは、穏やかに……そう、言った。
 
 穏やかに……
 
 微笑みを、浮かべて。
 
 
 
 アスカは、腕をぐいっと突き出すと、人差し指を下向きに、びっと向けた。
 
 不機嫌そうな表情で、カヲルを見上げる。
 
 「……だったら、そこから降りてきなさい」
 
 「え?」
 
 カヲルがきょとん、としてアスカを見ると、アスカは眉間に皺を寄せて、カヲルを睨みつけた。
 
 
 
 「人間は、空なんか飛ばないのよ!
 
 いいから、降りなさい!
 
 エレベーターで帰るわよ!!」
 
 
 
 ……数秒の沈黙を横たえて。
 
 カヲルは、苦笑ともつかぬ微笑みを浮かべた。
 
 「……分かったよ、お姫様」
 
 「殺すわよ」
 
 ぶすっ、とした表情を浮かべてカヲルを睨むと、くるりと後ろに向き直り、ざぶざぶと水を掻き分けて岸まで歩き始めるアスカ。
 
 カヲルはすーっと下降してその背後に着水すると、アスカの後に続いて、ざぶざぶと水を掻き分けていく。
 
 
 
 アスカは肩をいからせながら、ブツブツとつぶやき続ける。
 
 「ったく……大体、あたしの弐号機を勝手に持ち出した件は、まだナンも解決してないんだからね! あとで殺してやるから待ってなさいよ」
 
 「やれやれ……死ぬなと言ったり殺すと言ったり、せわしないな、君は」
 
 「うっさいわねぇ〜、大体シンジを泣かして死ぬような真似、許しゃしないわよ。当たり前でしょ? 馬鹿?」
 
 「はは……まぁ……そうだな、君と同じ程度には、僕も馬鹿だってことかもね」
 
 「うっさいわねぇ〜……ああ言えばこう言う……」
 
 
 
 言いながら、アスカは岸に上がる。
 
 スカートの裾からぽたぽたと水滴を垂らしながら、レイの横を通り過ぎる。
 
 「レイ、帰るわよ」
 
 レイの肩をポン、と叩くと、そのまま扉に向かって歩いていくアスカ。
 
 同じようにレイの横を通り過ぎながら、カヲルは柔らかく微笑んでみせた。
 
 
 
 岸に取り残されたレイは……呆然と、固まったまま、動くことができなかった。
 
 ハッチの向こう側に消える、アスカと、カヲル。
 
 そうして……数瞬の時を経て、レイは、顔を上げる。
 
 初号機のシンジを見上げた。
 
 
 
 シンジも、呆然とした表情で、レイを見下ろす。
 
 
 
 シンジも、レイも。
 
 何も、言葉を発することが、できず。
 
 
 
 ただ、呆然と、口を開いていることしか、できなかった。



六百



 シンジが私服に着替えて更衣室の扉を開けると、数メートル離れた廊下に、カヲルが立っていた。
 
 
 
 壁に寄りかかっていたカヲルは、シンジに気付いて足を踏み出す。
 
 「カヲル君……」
 
 思わず呆然としたシンジの声に、カヲルは微笑む。
 
 
 
 「シンジ君、すまなかったね。手間を掛けさせてしまって」
 
 「あ……いや、それは……別にいいんだけど……」
 
 シンジは首を振る。
 
 
 
 そして、思い出したように、カヲルの顔を見る。
 
 思わず、小走りに駆け寄るようにして、カヲルの許へ。
 
 その手を握って、微笑んだ。
 
 「……でも、よかった……カヲル君が死なないで、本当に、よかった」
 
 そう、言う。
 
 
 
 そうだ……
 
 ……あまりにも、嵐のような展開で、現実感が欠けていたが……
 
 
 
 ……カヲルは、死ななかった。
 
 カヲルは、生き残った。
 
 カヲルは、生きる、と、そう言った。
 
 
 
 もはや避けられないと、諦めかけた未来が、カヲルの目の前に続いている。
 
 カヲルと共に歩くことのできる未来が、自分の前に、続いている……。



 ……この、喜びを……
 
 どうやって、カヲルに伝えたら、いいんだろう……!



 カヲルの手をただ握り締めて、シンジは笑った。
 
 目の端から、また涙が零れ落ちそうだった。
 
 カヲルも、そんなシンジに、微笑み返し……
  
 
 
 ……カヲルはしかし、ゆっくりと瞼を伏せて……口を開く。
 
 
 
 「いや……さっきはああ言ったけど、完全に、気持ちを切り替えたっていうわけじゃ、ないんだよ」
 
 
 
 「……え?」
 
 戸惑った表情を浮かべるシンジに、カヲルは、まつげを揺らす。
 
 微笑み。
 
 「人間と使徒の、いずれかにしか、未来がない……
 
 ……その考え方が、変わったわけじゃないんだ。
 
 ただ、もう少し先まで、見てみたくなっただけさ。
 
 
 
 ……いつか、再び、人間と使徒を、天秤にかける時が、やってくる。
 
 その時こそ、二者択一だ。
 
 ……その選択は、また……君に、任せることになると思う」
 
 
 
 白い、壁。
 
 リノリウムに包まれた、この長い廊下には……シンジと、カヲルと……あとは、沈黙しか、ない。
 
 慣れているはずの沈黙は、軽い耳鳴りを伴って、シンジを苛んだ。
 
 
 
 理解できない、カヲルの言葉。
 
 もう一度……
 
 もう一度……シンジに。
 
 また、選べ、と。
 
 
 
 ……そう、言ったのか……?
 
 
 
 「……どうして、一緒に生きちゃ、いけないんだ……」
 
 シンジが、擦れた声で……呟く。
 
 
 
 カヲルは、柔らかく……親愛の情を込めて、シンジに微笑んだ。
 
 「それが……神の定めた、プログラムだからさ」
 
 
 
 足音を立てて、カヲルの姿が、遠ざかっていく。
 
 シンジは、ただ、
 
 その背中をじっと見つめていることしか、できなかった。