第百十九話 「レール」
五百九十



 「そもそもシンクロ率を自由に調節する、っていうのは、理論的には可能なわけ?」
 
 ミサトはそう言いながら、書類に電子印を押していく。
 
 
 
 リツコの代わりに処理しているこれらの書類群は、大半はただ内容を確認して、了承の意味を示す印を押せばいいだけだ。それは、押印者がミサトでもリツコでも構わない内容が殆どだった。
 
 自分では意味が分からず、リツコの確認を仰がなければならないような技術的な書類は、渡された書類群の中では、二十枚に一枚といったところだろうか。
 
 そうしてミサトでは了解できない書類だけを、「未」と書いたディレクトリに放り込んでいく。
 
 
 
 「今までの研究では、そういうことはできない、とされていたわね」
 
 キーボードを叩きながら、リツコが振り向かずに答える。
 
 ミサトが手を止めて、その背中を見た。
 
 「でも、カヲル君はやってるわけでしょ。この矛盾は、技術責任者としては、どう考えてるの?」
 
 「別に、矛盾しているわけじゃないわよ」
 
 リツコの言葉に、ミサトは眉根を寄せた。
 
 「だって……」
 
 「今までは、そういうことができると言えるような現象は確認できていなかった、と言うべきかしら。要するに、シンクロ率を自由に操ることができると言い切れるような証拠は無く、状況証拠から『できないだろう』と考えられていただけ。今回、初めてそういうことをやるチルドレンが出てきたことで、『できる』という新たな条件が追加された。でもそれは、今までの理論が崩れてしまったというわけじゃないわ」
 
 「……ふぅ〜ん」
 
 分かったような分からないような表情で、ミサトが曖昧に頷く。
 
 
 
 リツコは、キーをタッチしていた手を止めると、傍らのマグカップに手を伸ばした。
 
 「まぁ……だからと言って、何故『できる』のか、それはまだ闇の中だけど」
 
 言いながらコーヒーを啜る。
 
 「元々、人間とエヴァの差は僅かだから……何らかのきっかけが理解できていれば、簡単にシンクロ出来るようになるものなのかもね。私たちが、そのきっかけを理解できていないだけで」
 
 
 
 「そのきっかけさえ掴んでいれば、どのエヴァとも自由にシンクロ出来るってこと?」
 
 ミサトの問いに、リツコは肩を竦めた。
 
 「推測よ、あくまで。そのきっかけを掴む、そのさらに前のきっかけの、さらに前のきっかけだって私たちは欠片も掴んでない。まだ理論で裏打ちするのは難しいわ」
 
 「でも、じゃあ、カヲル君は?」
 
 「なにが?」
 
 「カヲル君は、弐号機にシンクロしてみせた。同じように、初号機にもシンクロできるってこと?」
 
 「……可能性で言うなら、そうかも知れないわね」
 
 
 
 ……その可能性には、リツコもとうに気付いていた。
 
 しかし、それを実験するわけにはいかない。
 
 科学者としては、純粋に知識欲から、実験してみたいとは思う。
 
 だが、初号機は弐号機とは違う。
 
 初号機をカヲルの好きにさせることなど、ゲンドウや冬月が許さないだろう。
 
 
 
 「まぁ……渚君に関しては、弐号機に特化した話かもしれないわ。情報が少なすぎて、どちらも同じ程度の可能性がある、としか言いようがない」
 
 リツコが、静かに……呟くように、言う。
 
 
 
 眼前のモニタに映る、渚カヲルの情報。
 
 幾度と無く見せ付けられた「NO DATA」の文字が、自分を嘲笑う。
 
 ……間違いなく、人間ではない存在。
 
 それを、あれだけあからさまに見せて隠そうともしない。
 
 証拠だけがない、この状況は、まるで挑発されているかのようだ。
 
 
 
 何のために?
 
 
 
 「でも……だったら、人間同士はどうなわけ?」
 
 ミサトの声に、リツコは現実に引き戻された。
 
 ゆっくりと、振り返る。
 
 「……何が?」
 
 「だから」
 
 ミサトが、思案しながら呟く。
 
 
 
 「エヴァと人間の差は、ほんの僅か。何かのきっかけが掴めれば、自由にシンクロできる……。
 
 ……だったら、人間同士は? エヴァとの間が僅かな差なら、人間同士なら、種のレベルで言えば同一でしょ。
 
 きっかけがあれば、人間同士は、もっと簡単にシンクロ出来るっていうこと?
 
 それこそ、身も心も、完全に融合してしまうような……」
 
 
 
 リツコは、答えない。
 
 ただ無言で画面を見つめる。
 
 その画面の向こう側に映る自分の顔……。
 
 
 
 「……さぁ、どうかしらね」
 
 ギッ、と音を立てて背凭れから背中を離すと、再びキーボードの上に指を滑らせ始めた。



五百九十一



 ケイジ。
 
 弐号機は肩まで冷却水に浸かりながら、ただ沈黙している。
 
 
 
 その、弐号機の眼前で、通路に一人、アスカは居た。
 
 冷たい金属の床に腰を下ろして、その膝を抱えて座っている。
 
 静かな……冷え冷えとした暗い空間に、いるのはただ、アスカと弐号機のみ。
 
 
 
 薄手のワンピースを越えて、寒さはその肌から心にまで浸透しているようだった。
 
 膝を抱える腕に顔を半ばうずめるようにして、ただ……上目遣いに、その先の赤い機体を見つめる。
 
 
 
 カヲルの声が、脳裏に響く。
 
 
 
 『君は、弐号機の理解に甘んじているだけだ』
 
 
 
 思わず、指に力が篭った。
 
 爪が、自分の腕に食い込むのが分かる。
 
 
 
 視線を、じっと、弐号機に注ぐ。
 
 ただ、じっと。
 
 
 
 「……どうしろってのよ」
 
 口の中で、毒づく。
 
 小さなその声は、口の端から微かに漏れるものの、自分の耳以外には届かない。
 
 リフレインされる、カヲルの言葉。
 
 昨晩から、繰り返し、繰り返し……。
 
 「アタシは、精一杯、やってる」
 
 誰に訴えるでもなく、ただ、自分に言い聞かせるように。
 
 「弐号機のことだって、アタシが一番理解してるわ」
 
 呟く。
 
 
 
 渚カヲルに対する怒りや憎しみは澱のように沈殿していたが、それに併せて、ふつふつとした「自分自身への揺らぎ」が見え隠れし始めていた。
 
 自覚が、ゼロだったわけでは、ない。
 
 弐号機のことを自分が最も理解しているという自負に陰りはないが、同時に、シンクロ率が往々にして100%に達しない原因がおそらく自分自身にあることも、また感じていたのだ。
 
 
 
 それを認めることを避けてきた、と言うと、随分と後ろ向きなイメージになる。
 
 だがアスカは、決して逃げていたわけではない。口に出してそれを認めるのは確かにプライドが許さなかったが、しかし自分自身の問題として、何とかその原因を探ろうという努力は続けてきた。
 
 ……それが、「弐号機のことを理解していないから」と言われてしまうと、その点には自信を持っていただけに認めがたい気持ちにはなってしまう。
 
 
 
 大体、カヲルの言葉を認めがたい理由は、他にもある。
 
 もちろん、カヲル本人がいけ好かない、ということもあるのだが……
 
 「……第一、いきなり来たアイツが、アタシより弐号機を理解してるなんて、ありえないじゃない」
 
 ぶつぶつと呟く。
 
 そうだ……ありえない。
 
 本物の弐号機にまだ一度も搭乗したことが無く。
 
 本物の弐号機と、まだ僅かの心の交流も持ったことのないカヲルが……どうして自分よりも弐号機を理解している、などということになる?
 
 「勝手なこと言いやがって」
 
 だが、それを戯言だと足蹴にして立ち上がることが出来ない。
 
 小さな楔が、心の奥に打ち込まれているのが分かる。
 
 妄言だ、と振り切ってしまう力が持てない。
 
 
 
 立ち上がろうとして、体の関節が硬くなっているのを覚えた。
 
 よろめいて、柵にもたれかかる。
 
 息をついて眼下を見ると、すぐ足許に広がる冷たい水が、まるで枝のように冷気の手を伸ばしているのを感じる。
 
 
 
 顔を上げて、弐号機を見た。
 
 四つのレンズが、自分を見ている。
 
 ……いや、このレンズが自分を見ているなどと思うのは、カヲルの言葉に影響を受けているせいか。
 
 実際には、ただの機械的な機構に過ぎない。
 
 電源の入っていない今、このレンズはただのガラス玉に過ぎず、それを介して弐号機が何かを見ていることなんて、無い。
 
 ……はず、……だ。
 
 
 
 「……アタシは、アンタを理解してる」
 
 アスカは、じっとそのレンズを見つめて……呟くように、言う。
 
 その言葉は、弐号機に投げかけられたものか、
 
 それとも自分自身に対してのものか。
 
 「アンタは、アタシのパートナーでしょう?」
 
 言い聞かせるように。
 
 静かに。
 
 言う。
 
 「アタシは、アンタを、理解してないの?」
 
 
 
 「……答えなさいよ」
 
 しかし、当然のことながら、弐号機は何の答えも返さない。
 
 ただ、アスカの言葉だけが、冷たい空気の中に溶けて、消えていく。
 
 
 
 溜息。
 
 顔を伏せて、自分の足を見る。
 
 長い髪の毛が垂れる。
 
 
 
 「……どうしろってのよ……アイツ……」
 
 
 
 しかし、その言葉に応えるものは、誰も居ない。



五百九十二



 食堂で、シンジはカレーを食べていた。
 
 昼食の時間から若干外れていて、見回した限りでは他の人影はない。
 
 シンジは一人、食堂の中央近くの椅子に腰を下ろして、黙々とスプーンを口に運んでいる。
 
 
 
 そのカレーが半分ほど減ったところで、目の前の席に人影が現れた。
 
 気付いてシンジが顔を上げると、そこにはジュースのコップを持ったカヲルが立っていた。
 
 
 
 「やぁ、シンジ君」
 
 カヲルは屈託無く笑うと、そのまま椅子を引いてシンジの前の席に腰を下ろす。
 
 「や……やぁ、カヲル君」
 
 慌てて返事をする。
 
 
 
 カヲルはストローを咥えて一口飲むと、微笑んでシンジを見た。
 
 「どうしたの? なんだか、ぎこちないね」
 
 「え……い、いや、別に。びっくりしてさ」
 
 顔を赤くしてシンジが答える。
 
 ……実際、カヲルのことを考えていた矢先だった。
 
 カヲルが何を考えているのか、
 
 カヲルとどう接すればいいのか。
 
 一人でそんなことを考えていたところに、そのカヲル本人が現れたので、シンジは少し焦ってしまったのだ。
 
 カヲルは不思議そうな表情でシンジを見てから、もう一口ジュースを飲む。
 
 
 
 暫く沈黙が続いてから、カヲルは口を開いた。
 
 「シンジ君と、話をしようと思って探してたんだ」
 
 カヲルの言葉に、シンジは顔を上げる。
 
 「え……僕と?」
 
 「いいかな?」
 
 「あ……うん、……いい、けど」
 
 「実はさっき、綾波さんと惣流さんと、話をしたんだ」
 
 コップをテーブルに置いて、カヲルが身を乗り出す。
 
 
 
 「……綾波と、アスカと? ……何を?」
 
 「二人とも、どうしてシンクロ率を上げないのかな?」
 
 「え?」
 
 「どうしてだろう?」
 
 
 
 カヲルの言葉に、シンジは面食らったように、カヲルの顔を見た。
 
 カヲルは、ただシンジの顔を見ている。
 
 シンジは困ったように眉をひそめて、視線を逸らした。
 
 「………」
 
 「どうしてだと思う?」
 
 畳み掛けるカヲルの言葉に、シンジは逸らした視線をおずおずと戻して……カヲルの視線とぶつかり、また逸らす。
 
 「……どうしてって……努力は、みんなしてるよ」
 
 辛うじて言ったシンジの答えに、カヲルは微笑んだ。
 
 「そうかな?」
 
 「そ、それに……綾波の場合は、零号機が試作機で出力が不安定だから、っていうこともあると思うけど」
 
 「だったら、惣流さんに限った話でもいいよ」
 
 カヲルは両手を広げて言う。
 
 
 
 「惣流さんは、どうしてシンクロ率を上げないんだろう」
 
 「どうしてって……だから、アスカも、努力はしてると思うよ」
 
 「シンジ君は、シンクロ率を200%まで上げたことがあるんだって?」
 
 「……うん」
 
 「だったら、シンジ君にとって、シンクロ率を上げるのは苦じゃないわけだ。それなら、どうして惣流さんはシンクロ率をあそこまでしか上げられないのか、疑問に思ったことは無いの?」
 
 「………」
 
 「簡単なことだ、少なくとも、君や僕にとってはね。それが彼女にはできない理由、それは何?」
 
 
 
 カヲルの質問に、即座に答えることはできない。
 
 明快な回答があるのなら、誰も苦労しない。
 
 シンジだって、シンクロ率にまつわるメカニズムを、きちんと知識として理解しているわけではないのだ。
 
 どちらかと言うと、もっとフィーリングに近いもので、これを他人に教えろと言われても難しい。
 
 
 
 ……ただ、アスカに関して言えば、弐号機の中にいるのが彼女の母親であり、アスカと本当の意味で分かり合える存在であること……それをアスカ自身が理解することができれば、もっとシンクロ率は上がるだろう、とは思えた。
 
 ただし、それをシンジが言葉で伝えても意味は無い。
 
 何でシンジがそんなことを知っているのか、という問題でもあるし、何よりアスカが自分でそれに気付かなければ意味は無いと、思える。
 
 ……明確な根拠は無いのだが。
 
 
 
 カヲルの質問に、シンジは思案するように天井を見上げた。
 
 数秒を置いて、視線を戻す。
 
 困ったように鼻の頭を掻いて、口を開く。
 
 「……口笛が吹ける人と、吹けない人の違い、みたいなものじゃないかな……」
 
 「口笛?」
 
 シンジの答えに、カヲルはきょとんとしうた表情を浮かべる。
 
 「……口笛って、吹ける人には簡単でしょ。でも、そのやり方を吹けない人に説明しても、吹けない人はやっぱり吹けないよね。……そういうものなのかも」
 
 考えながら、シンジは言葉を紡ぐ。
 
 思いつきの言葉だったが、比較的、実際の感覚に近いことが言えた、とシンジは思う。
 
 しかし、カヲルは肩を竦めて、首を左右に振った。
 
 「違うね」
 
 「えっ?」
 
 「分かっているだろう? 君は、誤魔化してるね」
 
 「……いや、そんな……」
 
 「惣流さんといい、みんな、どうしてそこで言葉を濁すのかな」
 
 心底、不思議だという表情で、カヲルはシンジを見る。
 
 
 
 「エヴァと、心の奥底から、通じ合えばいいだけだ。それで、幾らでもシンクロできる」
 
 「………」
 
 「それは、誰にでも可能なはずだ」
 
 「……いや……それは」
 
 「実際、それを君はやった。だから、200%なんてシンクロ率が出せるんだ。分かっているだろう?」
 
 「………」
 
 「それを、惣流さんは、何故できないのか。それが知りたいんだ」
 
 
 
 カヲルの言葉に、シンジは答えに窮した。
 
 だが、シンジが言葉をひねり出す必要は無かった……そんな会話の流れをぶった切るような怒鳴り声が、食堂に響き渡ったからだ。
 
 
 
 「大きなお世話よ!」
 
 びりびりと空気を震わすような声が、二人の体を叩く。
 
 慌ててシンジが振り返ると、食堂の入り口に、真っ赤なオーラを背負ったアスカが仁王立ちになっていた。
 
 そのままズカズカと大股開きで歩いてくると、カヲルの横に立って、眼下に座るカヲルを睨みつける。
 
 
 
 カヲルは全く平静のまま、片手を軽く挙げた。
 
 「やぁ、惣流さん」
 
 「言いたいことがあるなら、アタシに直接言いなさいよ!」
 
 カヲルの言葉尻を食って、アスカの怒りを孕んだ声がぶつけられる。
 
 カヲルは肩を竦めた。
 
 「別に、惣流さんに言いたいことは無い。シンジ君と話をしていただけだよ」
 
 「アタシの話してたでしょ! なに勝手に、アタシの話をシンジにしてんのよ!」
 
 「君とはもう充分、直接話をしたじゃないか。でも、あまり建設的な話にならなかった。僕の疑問も解消されなかったし……だから、別の角度から情報収集に努めただけさ。別に悪いことじゃないだろ?」
 
 「悪いわよ! アタシのことを、ベラベラと他人に話すんじゃない、っつってンの!」
 
 「アタシのこと、って言われてもね。この疑問自体は、僕のものだ。僕の疑問を、どう扱うかは、僕の自由意志による」
 
 「そ・の・自由意志を、勝手に使ってンじゃないわよ!」
 
 
 
 カヲルは、溜息をついて、指先でストローを回した。
 
 細かく砕かれた氷が、シャラシャラと軽い音を立てる。
 
 「……どうして、そこまで怒るのかなぁ」
 
 カヲルはそう言うと、椅子を引いて立ち上がった。
 
 すぐ目の前で、アスカと向かい合う形になる。
 
 睨みつけるアスカの瞳をじっと見つめて、諭すように言葉を紡いだ。
 
 「いいかい、どうしてシンクロ率が上がらないのか。聞いても君には理解できなかった。でも、僕が代わりにそれを調べて、原因が分かれば君のシンクロ率だって上がる。君にだってメリットがあるだろう? それを調べて、なんで僕が責められる?」
 
 
 
 パパン!
 
 乾いた音が、連続して2回、食堂内に響いた。
 
 
 
 右手を振り抜いたアスカが、呆然としてカヲルを見る。
 
 アスカの頬が赤い。
 
 同じく右手を振り抜いたカヲルも、無表情でアスカを見つめている。
 
 その、カヲルの頬も赤い。
 
 
 
 シンジは、唖然として二人を見上げていた。
 
 
 
 説明すると、こうだ。
 
 カヲルの言葉に激昂したのか、殆どノーモーションで、アスカの平手がカヲルの頬を張った。
 
 突然の事で避けられなかったのだろう、その掌は見事にカヲルの左頬をはたいていたが、それとほぼ同時に、カヲルの平手がアスカの左頬を叩いたのだ。
 
 
 
 「………」
 
 シンジは、ただあんぐりと口を開いて、その様子を眺めていることしかできなかった。
 
 あまりにも突然にヒートアップした状況に、思考が追いつかない。
 
 
 
 「なッ……」
 
 言いながら、アスカは自分の頬を押さえた。
 
 熱い。
 
 渾身の憎しみを込めて、ギッとカヲルを睨みつける。
 
 
 
 「アッ……アンタッ……女に手を上げンの!?」
 
 アスカの罵声に、カヲルは意に介した様子も無く、飄々と肩を竦める。
 
 「君が僕を殴ったから、殴り返しただけだ。フィフティ・フィフティだろ? 君が殴らなければ、僕だってこんな暴力的な真似をする気は無い」
 
 「女の顔を殴るなんて、サイテーだと思わないわけ!?」
 
 「男と女と、なにが違うのさ?」
 
 「女の顔は大事なのよ!」
 
 「そうだね、男の顔と同じ程度にはね」
 
 
 
 「同じじゃない!」
 
 叫びながら、ぶん、と右手を振りかぶった。
 
 慌ててシンジが飛び上がり、その腕を掴む。
 
 「ア、アスカ、ストップストップ!」
 
 とにかく叫んでアスカの第二攻撃を踏み止まらせると、アスカは自分の腕に取り付くシンジの顔をギンッと睨みつけた。
 
 「離せ、バカシンジ!」
 
 「い、いや、お怒りはごもっともですけど。とにかくストップ!」
 
 必死に制止するシンジに、今度はカヲルが憮然とした表情で声を発する。
 
 「お怒りはごもっとも?」
 
 「い、いや、カヲル君もストップ! とにかくストーップ!」
 
 
 
 シンジに宥められて、ともかく二人は距離を離した。
 
 腕を振り上げてはいないものの、アスカは肩で息をしながらカヲルの顔を呪い殺さんばかりに睨みつけている。
 
 カヲルは肩を竦めると、やれやれといった表情で溜息をついた。
 
 
 
 「全く……どうして君は、そんなに好戦的なんだ」
 
 「アンタが怒らせてンでしょーが!」
 
 アスカが怒鳴る。
 
 カヲルは困ったような表情で頭を掻く。
 
 「そんなつもりはないけどな……。まぁ、これ以上ここで惣流さんと話をすると、また殴られそうだ」
 
 言いながらきびすを返す。
 
 「邪魔が入ってすまなかったね、シンジ君。またゆっくり話をしよう。……じゃ」
 
 軽く右手を挙げると、そのまま振り返らずに、食堂から出て行ってしまった。
 
 
 
 アスカの右脚が振り抜かれる。
 
 パイプ椅子が宙を舞い、激しい音を立てて床に落下した。
 
 「……アイツ……ム・カ・ツ・クゥ〜〜ッ!!」
 
 体をプルプルと震わせながら、憤怒の表情を浮かべてアスカが叫ぶ。
 
 
 
 シンジは、そんなアスカを呆然と見つめていた。
 
 ……少なくとも、みんなで買い物に行った時は、仲良しとは言わないがここまで険悪な雰囲気ではなかった。
 
 いつの間に、こんなに仲が悪くなってしまったのか?
 
 あまりの険悪ぶりに、どこから手を付けていいのか分からない。



五百九十三



 部屋に戻ったアスカは、ドカッと壁を殴りつけた。
 
 拳が痛む、
 
 こんなことで怒りは解消されない。
 
 「クッソ……アイツゥ……」
 
 呪詛を吐いて拳を離すと、そのまま奥の洗面所へ向かった。
 
 
 
 鏡の前に立つ。
 
 怒りに彩られた自分の左頬が、掌の形に赤くなっている。
 
 両手を鏡について、じっと自分の顔を見つめる。
 
 「……本気で叩きやがって」
 
 ギリ、と奥歯を噛み締める。
 
 
 
 自室の鏡の前に立ったカヲルは、首を回して、しげしげと自分の顔を見つめた。
 
 左頬がくっきりと赤くなっている。
 
 「う〜ん……イキナリひっぱたかれるとは予想外だったな」
 
 言いながら蛇口をまわして、両手に冷水をすくう。
 
 それをバシャッと顔に当てて、傍らのタオルで水滴を拭い、部屋に戻った。
 
 
 
 椅子に座り、背凭れに体重を預ける。
 
 じっと、白い壁を見つめる。
 
 そこに、アスカの顔を思い浮かべる。
 
 
 
 ……彼女は、どういうつもりだろう?
 
 もちろん、碇シンジや綾波レイも、自分を心から認めているような雰囲気は無い。
 
 無いが、しかし、表面ではそれを隠し、繕って付き合おうとするのを感じる。
 
 ……だが、惣流・アスカ・ラングレーはどうだろうか。
 
 彼女は、好戦的な姿勢を隠そうともしない。
 
 敵愾心を最大限に表してぶつかってくる。
 
 
 
 「どちらが人間だろう?」
 
 口の中で呟く。
 
 それとも、両方が人間なんだろうか?
 
 人間の持つ二面性に過ぎない?
 
 
 
 ……だが、嫌いではない、とカヲルは思う。
 
 むしろ繕わない分、分かりやすい。
 
 ああいう性格なのだ、と思えば、むしろ単純で、次の行動を予測しやすい。
 
 
 
 「本当かな?」
 
 カヲルは首を傾げた。
 
 予測しやすい? あのアスカが? 本当かな?
 
 「……試してみようか」
 
 言うと、ギシッと音を立てて背凭れから体を起こし、次いで立ち上がった。
 
 赤くなった頬を軽く撫でてから、部屋を出て行く。
 
 
 
 ベッドに寝転がっているアスカの耳に、インタホンの音が響いた。
 
 「?」
 
 アスカは体を起こすと、ツカツカと入り口に向かい、扉を開けた。
 
 
 
 バシュッ、と音を立てて扉が開くと、そこに立っていたのはカヲルだ。
 
 「やぁ」
 
 とカヲルが言うよりも早く、扉がシュッと閉まる。
 
 だがその隙間に、ワンテンポ早くカヲルの足が滑り込んだ。
 
 安全装置が働いて、自動ドアは直前で止まる。
 
 
 
 アスカは、あからさまに舌打ちをしてみせる。
 
 カヲルは再び開く扉を目で追いながら、肩をすくめた。
 
 「予測通り」
 
 「……何しに来たのよ、アンタ」
 
 憮然とした表情で、アスカがカヲルを睨む。
 
 カヲルは視線をアスカに戻すと、にこやかに微笑んだ。
 
 「いや? 喧嘩してばかりじゃぁ、よくないと思ってね。親交を深めに来たのさ」
 
 「アタシはそんなこと求めちゃいないわよ」
 
 「別に、いいじゃないか。……それとも、逃げるのかい?」
 
 「……そういう言い方が、ムカツクって言ってんのよ!」
 
 カヲルの言葉に、アスカは吐き捨てるようにそう言うと、くるりときびすを返して部屋の中に戻っていく。
 
 カヲルはそれに続き、部屋の中に入る。
 
 「予測通り」
 
 背後で扉が閉まる。
 
 
 
 アスカはベッドにどさっと腰を下ろし、立っているカヲルを睨みつけた。
 
 顎で椅子を示す。
 
 座る場所くらいは提供してくれるらしい。カヲルは微笑んで、椅子に腰を下ろした。
 
 「茶ぁなんか出さないからね」
 
 「別に期待してないよ」
 
 「フン……で?」
 
 「ん?」
 
 「ん? ……じゃないわよ。なんか用事があって来たんじゃないの?」
 
 
 
 「あぁ……いや、別に何か具体的な用事があってきたわけじゃないよ。強いて言えば、人間観察かな」
 
 「人間観察?」
 
 「世間話をしに来たのさ」
 
 カヲルはそう言って微笑む。
 
 アスカは、はぁ……と溜息をつくと、頭を左右に振った。
 
 「アタシは、アンタと世間話なんか、したくないんだけど」
 
 「僕だって、好んでしたいわけじゃないけどね」
 
 「はぁ? ……じゃ、やめれば?」
 
 「他に話題が無い」
 
 「無理して話す必要なんてないでしょうが」
 
 「う〜ん、まぁ……そうなんだけど、僕は、君と何か、話がしたいんだ」
 
 「だったらアンタが、話題の一つや二つ、用意してきなさいよ」
 
 アスカの言葉に、カヲルは鼻の頭を掻く。
 
 「……まぁ……話題が、全く無いわけじゃないんだが」
 
 「じゃ、それ話せば?」
 
 「喧嘩しに来たわけじゃないからね」
 
 「は?」
 
 「さっきの話を、蒸し返したら怒るだろう?」
 
 
 
 部屋が静まり返る。
 
 
 
 時計の針の音だけが、響く。
 
 アスカは腕を組んだまま、じっと……カヲルの顔を睨みつけている。
 
 カヲルはその視線をそのまま受け止めて……しかし、まるでそれに気付いていないかのように、全くの平穏な表情を浮かべてアスカを見返す。
 
 
 
 そのまま、優に一分。
 
 
 
 ……はぁ、とアスカは溜息をつくと、カヲルの顔を見つめたまま、聞こえるように舌打ちをしてみせた。
 
 組んでいた両腕を解き、首を左右に振る。
 
 「話したきゃ、話せば?」
 
 アスカの言葉にカヲルは微笑む。
 
 「いいのかい?」
 
 「いいも悪いも、話したいんでしょうが。勝手にすれば、って言ったのよ。アタシは聞かないから」
 
 「聞かなくたって聞こえると思うけど……まぁ、分かった。じゃあ、話そう」
 
 カヲルはそう言うと、斜めに横に向いていた体を、椅子を回して改めてアスカの方に向けた。
 
 
 
 「さっきの話の繰り返しになるけど……まず、確認しよう。君は、弐号機と自分の心が通い合っている、という自覚はあるかい?」
 
 カヲルのゆっくりとした口調に、アスカは答えない。
 
 そのまま沈黙が続き、暫くしてからアスカが上目遣いにカヲルを睨む。
 
 「……聞かないって言ってるでしょうが」
 
 「聞こえてるじゃないか。まぁ……僕と会話なんかしたくないのかもしれないけど、一方的に僕が話すだけだと、弁明の機会もないよ。精神衛生上、よろしくないんじゃないかな? 言葉をキャッチボールした方が、たぶん今よりまだ気分もマシだと思うけどね」
 
 「うっさいわね……」
 
 ブツブツとアスカは呟き、しかし口を開けて言葉を続ける。
 
 「じゃ、答えてやる」
 
 先程までだんまりを決め込んでいたアスカの素早い変化に、カヲルは眉を上げる。
 
 「さすが、聡明だね」
 
 「……そーいう言い方がカンに触ンのよ」
 
 ブツブツと文句を口の中で繰り返すアスカ。
 
 カヲルは微笑んで、そんなアスカを見る。
 
 「で? じゃあ、答えはどうだい?」
 
 「……フン……大体、心が通い合ってる、ってナニよ。アタシは弐号機のことが分かってる。弐号機はアタシのことが分かってる。それで充分でしょ?」
 
 
 
 「分かっている……それは、本当? その自覚はある?」
 
 「………」
 
 「彼女は、君に対して、本当に心を開いているわけじゃないかもしれないよ」
 
 「彼女?」
 
 「弐号機さ」
 
 「……そう言やアンタ、前にもそう言ってたわね。女だって言うの?」
 
 「ン? そこに引っかかるか……今の話題には、それは大して重要じゃないんだけど」
 
 「……じゃ、いいわ」
 
 「ん? あっさりだね」
 
 「アンタが重要じゃないって言ったんでしょうが! じゃ、なんで女なのか言いなさいよ!」
 
 「いや……それは、君が自分で理解できないなら言うべきじゃないな」
 
 「バカじゃないの。言えないんなら思わせぶりなこと言うんじゃないわよ」
 
 「う〜ん……思わせぶりって言うか……」
 
 「い・い・か・ら! 話は終わり!? もう続きはナシ!?」
 
 「いやいや。じゃぁ、続けよう。ともかく大事なのは、君と弐号機の心は、通い合ってるとは限らないってことだ」
 
 「……何で、そんなことが言い切れンのよ」
 
 「シンクロ率がその証拠さ。シンクロ率は、心の壁があると上がっていかない。君、100%いかないだろう? それは、心が真の意味で通い合ってはいない証拠さ」
 
 「……じゃ、シンジは初号機と心が通い合ってるって言うの?」
 
 「彼は、その点について疑う余地はない」
 
 「じゃ、アンタは?」
 
 「僕?」
 
 「……そうだ、アンタ、大体、弐号機に実際に搭乗したことも無いじゃない。よくも、テストプラグのパターンにシンクロしただけで、そんな大きな口が叩けるわね」
 
 「それは問題ない」
 
 「……なんでよ」
 
 「いいか? シンクロはプラグ側の問題じゃない。エヴァとシンクロできるか否かは、99%、パイロット側の問題なんだ。でなきゃ、テストをする意味がないだろ?」
 
 「………」
 
 「パイロットが心を開放すれば、おのずとエヴァも心を開く。君のシンクロ率が低いのは、エヴァのせいじゃない。君が、心を開いていないからだ」
 
 
 
 アスカはベッドから立ち上がった。
 
 無言で、椅子に座ったカヲルの前に立つ。
 
 カヲルを睨みつけるアスカ。
 
 そのアスカの顔を暫く見つめ返して、溜息をついてカヲルも立ち上がる。
 
 
 
 向かい合う二人。
 
 
 
 時計の針の音だけが、
 
 時を正確に刻む。
 
 
 
 アスカがゆっくりと、右手を振りかぶる。
 
 その掌を、目で追うカヲル。
 
 
 
 秒針の音が響く。
 
 
 
 ……振り下ろしたアスカの手が乾いた音を立てると同時に、ノーモーションで振り抜いたカヲルの掌がアスカの頬を叩く。
 
 間断なく、アスカは振り下ろした手をすぐ戻して、また叩く。
 
 と、同時にカヲルもアスカの頬を叩く。
 
 同時にアスカもカヲルを叩く。
 
 同時にカヲルもアスカを叩く。
 
 同時にまた振り下ろされたアスカの手を、カヲルは一歩下がってよけた。
 
 アスカの手が空を切る。
 
 
 
 「よけるな!」
 
 アスカがカヲルを睨みつけて怒鳴る。
 
 カヲルは、やれやれといった表情で首をゆっくりと左右に振った。
 
 「つくづく、予測通りだ」
 
 「なによ!」
 
 「こうなるんじゃないかと思っていたよ。だから、今回はこの話題は持ち出したくなかったのに。……不毛だ」
 
 「アンタが、アタシを馬鹿にするからでしょ!」
 
 アスカが叫ぶが、カヲルは小さく肩を竦める。
 
 「そんなつもりは無い」
 
 アスカがまた平手を振りかぶるが、今度はカヲルは半歩下がってそれを軽くよけた。
 
 
 
 「よけるなってんでしょうが!」
 
 「よけるよ。痛いし」
 
 呆れた声でカヲルが言う。
 
 「第一……叩かれたら、僕だって叩き返すよ。そんなこと繰り返したってしょうがないだろ」
 
 「そんなもん、よけてやるわよ!」
 
 「あ、そう? じゃ、よけないから叩いていいよ」
 
 
 
 カヲルの言葉に、アスカは思わず無言になる。
 
 「ん?」
 
 カヲルはアスカを見る。
 
 アスカはぐっと言葉を飲み込み……数秒の隙間を開けて、改めてギッとカヲルを睨む。
 
 右手を振りかぶり、振り下ろす。
 
 パパン!
 
 アスカの手がカヲルの頬を叩くと同時に、カヲルの手がアスカの頬を叩く。
 
 重なり合った乾いた音が、部屋にこだまする。
 
 
 
 「ほらね」
 
 カヲルの言葉に、アスカはこめかみの血管が切れるのではないかと思うほど怒りで顔を赤くして、叫び返す。
 
 「もう一回!」
 
 「やだよそんなの」
 
 また呆れた顔でアスカを見るカヲル。
 
 
 
 「こんなことしてても意味無い。今日はもう会話になりそうもないし、帰るよ」
 
 言うと、そのままカヲルはひょいっと入り口に歩み寄り、自動ドアを開ける。
 
 「あっ、待て!」
 
 「じゃ、また」
 
 アスカの前で、カヲルを飲み込んだ扉は閉じた。
 
 
 
 「……っっっ!」
 
 アスカは右足を床に踏み下ろした。
 
 ズシン、という振動が聞こえた気がした。



五百九十四



 再び開いた扉に、アスカは間髪を入れずクッションを投げつけた。
 
 そのクッションは、カヲルの顔面に当たる……かと思いきや、そこにいたのはレイだ。
 
 廊下に立ったまま顔の真正面でクッションを受け止めたレイは、そのまま無言で立ち尽くす。
 
 やがてクッションは、ぽとりと床に落ちた。
 
 
 
 「……クッション?」
 
 怪訝な表情で、レイが首をかしげる。
 
 アスカはバツの悪そうな顔で頭を掻くと、歩み寄って床に落ちたクッションを拾い上げた。
 
 
 
 「ごめん、渚かと思って」
 
 言いながら腰を伸ばすと、そのままポイ、と後ろのベッドにクッションを投げる。
 
 部屋の中に入るアスカの後ろに、レイが続く。
 
 「渚君?」
 
 「……ううん、いいの、勘違い。ごめん」
 
 アスカはベッドにごろりと横になる。
 
 
 
 そのまま両手を頭の後ろで組んで、天井を見上げるアスカ。
 
 
 
 そのアスカの顔を覗き込んで、レイが口を開く。
 
 「……ほっぺた、どうしたの?」
 
 「え? ああ……」
 
 答えながら、頬をさする。
 
 触ると、少しぴりぴりする。
 
 「どうなってる?」
 
 「赤い」
 
 「うん……ま、ちょっとね」
 
 言って、溜息をつく。
 
 
 
 腫れているだろうか、それは少し情けないな、と、アスカは思う。
 
 だが、同じくらい、カヲルの横っ面を叩いてやったはずだ。
 
 自分の頬が腫れているなら、同じようにカヲルの頬も腫れているはずだ。そう思うと、少しだけ溜飲が下がった。
 
 「渚君、どうしたの?」
 
 「え?」
 
 レイの言葉に、アスカは視線だけそちらに向ける。
 
 「……なにが?」
 
 「なにがって言うか……渚君だと思って投げたんでしょう、クッション。どうして?」
 
 「あぁ……うん、まぁ……色々。アイツと喧嘩してるんだ」
 
 「そう……」
 
 「アイツ、むかつくわ」
 
 「渚君のこと、嫌いなの?」
 
 「レイは好きなの?」
 
 
 
 アスカの問いに、レイは目を僅かに見開いて、口を噤んだ。
 
 数秒の間、二人の間に沈黙が横たわる。
 
 
 
 そうしてやがて、レイは小さく、首を振った。
 
 「……嫌い」
 
 「でしょ」
 
 望む言葉が返ってきて、アスカは気を良くして鼻を鳴らした。
 
 「アイツ、いちいち腹立つのよね……」
 
 「私はまだ、そんなに渚君と、話、してないから……」
 
 「でも、嫌いなんでしょ?」
 
 「……うん」
 
 「ろくに話なんかしなくたって、アイツのことは誰だって嫌いになるんじゃないの。……シンジはどうだって?」
 
 「え?」
 
 「シンジ」
 
 「……ああ」
 
 「アイツのこと、何か言ってた?」
 
 「………」
 
 「ん?」
 
 「……友達……だって、言ってた」
 
 
 
 アスカは露骨に顔を歪めて、上半身を起こした。
 
 「……本気?」
 
 「………」
 
 「友達ぃ?」
 
 レイの言葉を繰り返して、天を仰ぐ。
 
 「よくそんなこと言えるわね、アイツ。……渚の、どこがいいんだろ」
 
 「さぁ……」
 
 レイは、曖昧に返事をして、言葉を切った。
 
 実際、前回の人生で、シンジとカヲルがどうやって友情を築いたのか、それはレイには分からなかった。
 
 今のカヲルを見ている限り……彼とは友達になれない、と言われた方が、やはり数倍はしっくりくるのだ。
 
 
 
 訪れたカヲルを部屋に招きいれたシンジは、椅子に座るカヲルの顔を見て、驚いたように目を見開いた。
 
 「……どうしたの、その頬」
 
 「ああ、これ?」
 
 カヲルはそう言いながら、頬を撫でる。
 
 触ると、皮膚にぴりぴりとした感覚が走った。
 
 
 
 「……ちょっとね。惣流さんに、叩かれた」
 
 「ま……また? なんで……」
 
 シンジは、唖然とする。
 
 カヲルは肩を竦めた。
 
 「彼女は単純だね」
 
 「そ、そうかなぁ?」
 
 シンジに、アスカが単純だという認識はない。
 
 彼女は聡明だし、シンジにしてみれば、自分の方がよっぽど単純に思える。
 
 「アスカは頭もいいし……カンもいいし、そんな感じはしないけど……」
 
 「いや、確かに彼女は、頭もいいしカンもいい。それと、単純かどうかは関係ないけどね」
 
 「う〜ん………」
 
 「彼女が何を考えているか、次にどんな行動を取るか。大体予想できる。君や綾波さんのほうが、複雑な思考の持ち主だ」
 
 「そんなことはないと思うけど……」
 
 シンジは、困惑したように首を傾げた。
 
 そんなシンジの表情を見て、カヲルは柔らかく微笑む。
 
 「やっぱり、君に選択権を与えた方が、よさそうだ」
 
 「何の話?」
 
 「いや、もっと君と早くから、仲良くしておけばよかったなと思ってね」
 
 
 
 シンジは、眉間に皺を寄せた。
 
 両腕を開く。
 
 
 
 「……仲良く、しようよ」
 
 ゆっくりと、呟くように、言う。
 
 「しておけばよかった、なんて言い方しないでさ……。これからも、ずっと一緒に闘っていくんでしょ? 同じ、仲間じゃないか」
 
 
 
 微笑むを浮かべたまま、カヲルは静かに口を開く。
 
 「……やっぱり、君は好意に値するよ。君に出会えて、よかった」
 
 「僕だけじゃないだろ?」
 
 シンジは、少し大きな声を出していた。
 
 「綾波や、アスカや、トウジだって、仲間だ。カヲル君……君と、僕達は、仲間だろう?」
 
 「………」
 
 「同じ仲間……同じ、人間じゃないか」
 
 
 
 シンジから発せられる張り詰めたオーラは、しかし、糠に釘を打つように、真綿の向こう側にずぶずぶとのめりこんでいく。
 
 カヲルのまとう空気は、穏やかなままだ。
 
 「……同じ、人間か」
 
 「そうだよ!」
 
 カヲルの反応に数ミリの苛つきを覚えながら、焦るように応える。
 
 しかし、カヲルはゆっくりと首を振る。
 
 
 
 「人間か、そうじゃないか……それをはかる基準は、どこにあると思う?」
 
 
 
 「え?」
 
 カヲルの突然の言葉に、シンジは意識を引き戻された。
 
 カヲルは言葉を続ける。
 
 「僕は、その生命体が持つ、業のようなものだと思っている。
 
 人間は、人間として生まれ、人間として生き、人間として死にゆく。
 
 逆に人間ではないものは、人間であろうと望んでも、人間ではないものとして生まれ、死にゆく。
 
 電車のレールのように、同じ方向を向いていても、決して交差しない」
 
 
 
 「……そんなことはないよ……カヲル君。……君は……人間だろう?」
 
 
 
 「それを決めるのは、僕じゃないよ」
 
 「……じゃぁ、誰が決めるのさ」
 
 
 
 「……僕や、君を創った、誰かさ」
 
 
 
 自動ドアが閉まり、カヲルは廊下に一人立った。
 
 何も言わず、唐突に部屋を後にしたが、シンジが追ってくる様子はなかった。
 
 暫く無言で立ち尽くして、それから顎を上げて体を向けると、ちょうどアスカの部屋からレイが出てくるところだった。
 
 
 
 レイはカヲルの顔を一瞥したが、そのままゆっくりと歩き、カヲルの脇を無言ですれ違う。
 
 そうして行き違い、やがてレイの部屋の自動ドアが開く音がする。
 
 
 
 カヲルは、呼吸をするように自然に、振り返った。
 
 「綾波さん」
 
 レイに、声を掛ける。
 
 
 
 レイは、ドアの前で立ち止まり、カヲルを見た。
 
 呼び掛けには応えず、ただ視線を向ける。
 
 
 
 カヲルは、微笑を浮かべて……静かに、口を開く。
 
 
 
 「綾波さん……君は、人間かい?」
 
 
 
 「………人間よ」
 
 数秒の沈黙を携えて、しかし揺ぎ無く、答える。
 
 カヲルは表情を変えずに言葉を続けた。
 
 「何故?」
 
 「何故……って?」
 
 「人間が人間である、その証明は、なに?」
 
 「………」
 
 
 
 「それが無くて、人間を定義なんて、できない」
 
 
 
 「……なにが言いたいの?」
 
 レイの言葉に、カヲルはただ、波のない湖のおもてのような微笑で、呟くように、口ずさんだ。
 
 「電車のレールは、いつまでも対に進む。
 
 だけどこのレールは、どちらかが失われる運命だ、ってことさ」



五百九十五



 真っ暗な部屋で、アスカはベッドに寝転がって、天井を見上げている。
 
 
 
 静寂。
 
 
 
 ただ、暗闇を見つめている。



五百九十六



 ケイジ。
 
 
 
 冷却水に浸かる赤い機体を、カヲルはじっと見つめていた。
 
 
 
 やがて……
 
 慈愛を込めて、小さく……
 
 かすかに、呟く。
 
 
 
 「さぁ……行こうか」