第百十八話 「波紋」
五百八十三



 レイは、手に持った紙コップの中を見る。
 
 半分ほど減ったオレンジジュースの上に、自分の顔が映っている。
 
 僅かに手首を回すと、それにあわせて波紋が起きる。
 
 映る、自分の顔も歪む。
 
 ゆらゆら、ゆらゆら。
 
 それはまるで、今の自分自身のように。
 
 
 
 レイは、誰にも聞こえぬほど小さな溜息をついて、オレンジジュースをまた一口、飲んだ。
 
 廊下に面した休憩所の長椅子に座っているのは、自分ひとりだけ。
 
 先程まで行われていたシンクロテストでは、レイとカヲルだけがまず先にテストを行い、その後に、シンジ、アスカ、トウジのテストが始まった。
 
 シャワーを浴びて、着替えてここで休憩している今も、後半組の三人のテストは、まだ行われている真っ最中だろう。
 
 
 
 ふと、人の気配に気付いて、レイは顔を上げた。
 
 
 
 「!」
 
 小さく息を呑む。
 
 
 
 「……やぁ、綾波さんじゃないか」
 
 そう微笑みながら休憩所の中に入ってきたのは、カヲルだ。
 
 カヲルはレイのそばを横切り、自動販売機にコインを投入する。
 
 「綾波さんも、テストが終わって、一休みかい?」
 
 コップの中にジュースが注がれていく様子を眺めながら、カヲルが言う。
 
 レイは、返事をしない。
 
 紙コップの中に液体が注がれる、小さな音だけが響く。
 
 やがて取り出し口から紙コップを取り出すと、カヲルはレイの座る位置から少し離れた場所に、腰を下ろした。
 
 
 
 沈黙が、場を支配する。
 
 
 
 レイは、言いようのない居心地の悪さを覚えていた。
 
 カヲルと話すことなんてない。
 
 しかし、即座に立ち上がってこの場を去るのも、なんだかおかしい気がしていた。
 
 カヲルに一声掛けられた時に、当たり障りのない返事でもしておけばよかった、とレイは思う。あそこで咄嗟に返事をしなかったために、無視をしたような格好になってしまった。おかげで逆に、この場を去りづらい空気になってしまっている。
 
 
 
 「機体が無いんだって?」
 
 
 
 唐突に、カヲルに声を掛けられた。
 
 レイは、思わず顔を上げる。
 
 カヲルは、先程のレイの無視など、カケラも気に止めていないような屈託のない表情で、レイを見ている。
 
 
 
 掛けられた言葉は予想外で、レイはまたしても即答するタイミングを逸していた。
 
 「………」
 
 口を噤み、だがカヲルの顔を見ているレイ。
 
 カヲルはジュースを啜ると、再び口を開く。
 
 「機体が無いんじゃ、パイロットとして、意味がないんじゃないかな?」
 
 「………」
 
 カヲルの言葉に、レイの表情は険しくなる。
 
 挑発しているのだろうか?
 
 カヲルはそんなレイの表情に、気にすることなく言葉を続ける。
 
 「君がここに居続ける理由は、なんだい?」
 
 「……機体が無いのは、あなたも同じだわ」
 
 「違うよ」
 
 カヲルはそう言って、レイの目を見る。
 
 「僕は、弐号機にもシンクロできるからね」
 
 
 
 「……え?」
 
 レイは、思わず目を見開いた。
 
 
 
 今、何を言った?
 
 そんなレイの反応に、今度はカヲルが、軽く眉を上げる。
 
 「あれ? 聞いてないの?」
 
 「………」
 
 「なんだ、伝えてないのか……何でだろうな」
 
 
 
 「……シンクロ?」
 
 「ん?」
 
 「……シンクロ……できる? 誰と?」
 
 「だから、弐号機さ」
 
 「……そんなこと」
 
 「驚くようなことじゃないだろう?」
 
 「……シンクロ率は?」
 
 「別に、幾らでも」
 
 「……幾らでも……?」
 
 
 
 カヲルの言葉に、レイの表情は険しさを増した。
 
 「……そんな」
 
 「?」
 
 「……そんな……そんなこと、無理だわ」
 
 「何故?」
 
 「何故って……パーソナルパターンの違う機体に……低いシンクロは可能でも、それ以上なんて、理論的に不可能だわ」
 
 「理論? 理論ってなんだい?」
 
 カヲルは、不思議そうな表情でそう言うと、髪の毛を軽く掻きあげる。
 
 
 
 「いいかい? パーソナルパターンなんて、有っても無くても関係がないものさ。もちろん、シンクロしにくいパイロットにとってはきっかけとして大事なものだけど……本来、塵ほどの隠し事もなく、その心を全て開けば、どのエヴァとだってシンクロできるんだから」
 
 
 
 「………」
 
 「……綾波さんだって、分かってるだろう?」
 
 「………」
 
 「君だって、できる筈だ」
 
 
 
 「……弐号機は、アスカの機体だわ」
 
 「彼女は、弐号機の力を限界まで引き出せていない」
 
 カヲルは、静かに言う。
 
 「弐号機に対して、完全に心を開いているわけじゃないからだ」
 


 「……誰だって」
 
 レイが、小さな声で呟く。
 
 カヲルが、レイを見る。
 
 「え? なに?」
 
 「誰だって……」
 
 繰り返すように……言い聞かせるように。
 
 「誰だって……自分の全てを、さらけ出せる人なんて、いない」
 
 押し殺したような声で、そう言う。
 
 
 
 心から信じて、そばにいたいと誓った、シンジ。
 
 そのシンジに対してすら、自分の出生の秘密の全てを話すと決めるまでに、どれほどの苦悩を重ねたことか。
 
 シンジだって、彼自身の、それこそ他の誰も想像できないほどの苦悩を自分に語るまでに、どれほど苦しんだだろう。
 
 そうしてお互いに全てを明かしあった自分たちも、まだそのお互いの秘密を、他の誰にも語ることが出来ずにいる。
 
 心を開く……
 
 言うのは、簡単だ。
 
 しかし、それを本当に行える人間など、そうはいない。
 
 
 
 レイは顔をあげて、カヲルを見る。
 
 目の前の、この少年は……
 
 ……それが、出来る。
 
 いとも簡単に。
 
 心を、平気で開くことを……
 
 ……人間には、出来ないことを。
 
 
 
 それを、羨ましいと、単純には思えない。
 
 それが単純な美徳とは、考えられない。
 
 
 
 心を、開く。
 
 そのてらいのない、美しい言葉の裏側に、厚みを感じないのは何故だろう。
 
 心を開くことの出来ない人間の姿の方が、愛しいと感じるのは、何故だろうか。
 
 
 
 「分からないな」
 
 カヲルは、目を閉じて、首を横に振った。
 
 心底、理解できない、という表情。
 
 「……それは一体、どういう感情? 遠慮だとか、気遣いだとか、そういう類のものかい? ……そんなもの、下らないと、どうして思わないのかな」
 
 「………」
 
 「そのまま、素の自分を相手にぶつけて、相手からも、素の姿のその人を受け取る。それで、世界は丸く収まるんだよ。それがもっとも望ましい、最高の状態なのに、何故、それをわざわざ避けるんだ? ……人間は、相手によって態度を変えすぎるんじゃないかな」
 
 「………」
 
 「綾波さん。君も、そう、思わないか?」
 
 
 
 カヲルの顔を、見る。
 
 カヲルも、レイの顔を、見る。
 
 
 
 「僕と、同じ、君なら……」
 
 静かに、
 
 呟く。
 
 「……そう、思うだろう?」
 
 
 
 レイは、紙コップの中身をあおった。
 
 一気に飲み干し、その紙コップを握り締める。
 
 そのまま立ち上がり、ゴミ箱の中に、それを放り込んだ。
 
 
 
 振り返る。
 
 一点の動揺も無く、カヲルを見る。
 
 カヲルも、そんなレイの視線を、ただ、見返す。
 
 
 
 「……分からないわ」
 
 レイが、小さく……しかし、はっきりとした声音で応える。
 
 「そうかい?」
 
 カヲルの言葉に、レイはただ、再び口を開く。
 
 「……私と、あなたは、違うもの」
 
 「……そう? どこが?」
 
 
 
 「私は、人間だもの」
 
 
 
 レイはそう言うと、そのまま視線をカヲルから切り、すたすたと休憩所から出て行った。
 
 歩き去るレイの足音を聞きながら、カヲルは、紙コップの中のジュースを、また一口飲んだ。



五百八十四



 「……前回も今回も、テスト結果の集計が間に合わないなんて、ありえないわ」
 
 アスカの強張った声が、室内に響く。
 
 
 
 シンクロテストを終えたアスカ、シンジ、トウジは、着替えて管制室に集合していた。
 
 いつも通りのブリーフィングで、テスト結果が一覧になったプリントを渡される。
 
 しかし、そこにはやはり、フィフスチルドレン・渚カヲルの結果だけが印字されておらず、詰問したアスカに対して、ミサトは前回と同じ理由を説明したのだ。
 
 アスカは、納得しなかった。
 
 横で聞いていたシンジも、その理由で二回もやり過ごすのは無理があるのでは、とは思う。
 
 
 
 「そう言われてもね……それが、事実なんだし」
 
 ミサトは、平静を装ってそう応える。
 
 しかし、開き直っているようにも見える。
 
 「何か隠してるでしょ、ミサト」
 
 アスカは、詰問する口調を緩めない。
 
 「別に、何も隠してないわよ」
 
 「だって、おかしいじゃない、こんなの」
 
 「おかしくないわよ、別に」
 
 「それで納得しろって言うの? 第一、今回は、渚の方が先にテストを受けたんじゃない。後からやったアタシの結果がテスト終了後にこうして出てンのに、アイツの結果の集計がまだなんて、あるわけないわ」
 
 ぱん、と手の甲で手許のプリントを叩き、ミサトの顔を睨む。
 
 
 
 「だから、それは……」
 
 言いかけたミサトの肩を、リツコが掴んだ。
 
 
 
 ミサトが振り返る。
 
 リツコは軽く首を振って、溜息をつきながら髪の毛を掻きあげた。
 
 「しょうがないわね」
 
 「リツコ!」
 
 「アスカの言う通り、まぁ……ちょっと無理があったわね。それに、いつまでも隠しておくわけにはいかないんだから、どのみち」
 
 
 
 ミサトは、それ以上言葉を続けることが出来ず、黙ってしまった。
 
 ミサトだって、いつまでも隠しておくことが出来るとは思っていない。だが、まだどうするか決めかねていた。時間稼ぎがしたかったのだ。
 
 だが、こうなってしまっては、もう、仕方が無かった。
 
 
 
 「はい、アスカ」
 
 リツコはそう言うと、アスカに一枚のプリントを手渡した。
 
 カヲルのものまで含め、全員の結果が印刷されたものだ。
 
 アスカは一瞬リツコの顔を見て、それからそのプリントを受け取った。
 
 印字されている内容に、視線を走らせる。
 
 
 
 ぶつぶつと呟いて、内容を読み上げて言く。
 
 「レイ……シンジ……アタシ……鈴原……渚……なぎ……」
 
 そして、声。
 
 「……え?」
 
 
 
 視線が、止まった。
 
 ……プリントを凝視する、アスカ。
 
 全員が、そのアスカを見ている。
 
 アスカは、暫くそのプリントを見つめ……それから、小さく声を発した。
 
 
 
 「……100%?」
 
 
 
 「……そうね」
 
 リツコが、静かに応える。
 
 アスカはプリントを凝視したまま、言葉を続ける。
 
 「……ぴったり?」
 
 「そうね」
 
 「……なにそれ……しかも、え? 六回? 六回とも? え?」
 
 アスカは顔を上げる。
 
 リツコの視線とぶつかる。
 
 リツコは、アスカの顔を見つめたまま……無言。
 
 アスカは、そんなリツコの顔を見つめ……
 
 「……計器の……故障?」
 
 「いいえ」
 
 アスカの声に、リツコは小さく首を横に振った。
 
 
 
 アスカは呆然とリツコの顔を見つめ、それからもう一度プリントに視線を落とした。
 
 「……アイツが……意図的に、やってるって言うの?」
 
 「……さぁ」
 
 「……だって、これ……こんな……こんなの、偶然のワケが……え?」
 
 
 
 今度こそ、今まで以上に、大きく瞳が開かれた。
 
 穴が開くように、プリントの一点を見つめている。
 
 
 
 そこには、一行、短い文字列が印字されていた。
 
 
 
 『 Personal pattern : SORYU ASUKA LANGRAY 』
 
 
 
 「……どーゆーコト?」
 
 静かに……押し殺すように、アスカの声が響く。
 
 誰も……何も、答えない。
 
 
 
 「……どーゆーコト!?」
 
 バッ、と顔を上げて、一歩踏み出してリツコを睨む。
 
 アスカの表情は険しい。眉間に皺が寄る。
 
 「どうして、こんなトコにあたしの名前が書いてあんの!?」
 
 「………」
 
 「なんかの間違い? そうよね、アタシのパーソナルパターンで、こんな結果ありえない」
 
 「………」
 
 「そうでしょ?」
 
 「………」
 
 「……答えて!」
 
 
 
 沈黙……
 
 ……そして、やがて、小さな溜息。
 
 
 
 「……間違いじゃ、ないわ」
 
 リツコが、静かに……口を開く。
 
 「彼は……アスカのパーソナルパターンのまま、シンクロ率100%を出してるのよ」
 
 「……え?」
 
 固まる、アスカ。
 
 
 
 数歩後ろで、ただ二人のやり取りを傍観していたトウジが、横に立っていたシンジの裾を引っ張る。
 
 「……センセ……ど〜ゆ〜イミや」
 
 おずおず、と小さな声で囁く。
 
 「パーソナルパターンって、なんや? 惣流のパーソナルパターンでシンクロするっちゅうのは、つまり、どういうコトや」
 
 
 
 シンジは、静かに……アスカの横顔を見る。
 
 ……その、怒りと困惑が、うっすらとオーラのように沸き上がる、アスカの顔を。
 
 
 
 ……そう。
 
 
 
 口を開く。
 
 ……アスカの耳に、はっきりと、言葉が届くほどの、声で。
 
 「……弐号機と、完全にシンクロできる……って、ことさ」
 
 ……言う。
 
 
 
 振り返って、シンジの顔を見る、アスカ。
 
 シンジも、その顔を、じっと見る。
 
 
 
 この結果は、分かっていた。
 
 分かっていた、ことだ。
 
 
 
 これは、事実だ。
 
 ……避けることの、出来ない……事実。
 
 
 
 リツコの言う通り、隠し続けることなんて、出来ない。
 
 
 
 「……え?」
 
 呟くように……アスカが言う。
 
 シンジの顔を見て……
 
 ……それから、リツコの顔を見て。
 
 また、プリントに目を落とす。
 
 「……え? ……なによ、ソレ……そんな……こと」
 
 
 
 「理論上は、ありえないことね。でも……それが、事実よ」
 
 リツコは、重く……一片の感情も孕まない声で、そう、言った。
 
 アスカは、視線をプリントから離すことが出来なかった。



五百八十五



 カヲルの自室。
 
 カヲルは、机に頬杖を付いて座っていた。
 
 
 
 目の前には、カヲルの腕時計が置かれている。
 
 もっとも、普段、カヲルが腕時計をしている様子はない。
 
 
 
 「こんなことしてて、いいのかなぁ」
 
 カヲルが、独り言のように、そう言った。
 
 
 
 「まがりなりにも、ジオフロントの中だよ。MAGIに傍受されるんじゃないの」
 
 『その心配はない』
 
 腕時計が、カヲルの言葉に呼応して、声を発した。
 
 声音は、キールのものだ……この腕時計が、通信機の役割を果たしているようだ。
 
 『通信体制には、万全を期してある』
 
 「盗聴器とかないわけ?」
 
 『その点についても、事前に調査済みだ。ジオフロント内にも、我々の息がかかった者が何人もいる』
 
 「ま……どっちでもいいんだけど」
 
 言いながら、カヲルは椅子の背凭れに寄りかかった。
 
 
 
 『おまえの役割は分かっているな』
 
 キールの声に、カヲルは、目の前に相手がいるかのように、肩を竦めた。
 
 「役目? サードインパクトを起こすって事?」
 
 『ふざけるな』
 
 「冗談だよ。……シンジ君とはまだ、接触したばかりなんだ。もう少し待って欲しいな」
 
 『言うほどゆとりは無いぞ』
 
 「シンジ君もそうだけど、綾波さんも惣流さんも、ちょっと予想してたのと違うんだよね。不思議な感じ……変に敵意を向けてきたり、つっけんどんだったり、そうかと思えば他人のことをやたらと気遣ったり……これが、人間なのかな?」
 
 『それは、お前の任務とは関係が無いな』
 
 「そう言わないでよ」
 
 カヲルはそう言うと、苦笑交じりの微笑を浮かべて、天井を見上げた。
 
 
 
 こうして明るい中ならば、天井の小さな傷までもはっきりと見える。
 
 昼と夜の違いは、その明るさによるものだけだろうか?
 
 「……僕だって、色々、気になる。当然だろ? 僕も、人間なんだからさ」
 
 『おまえは人間ではない』
 
 「分かってるよ。言ってみただけ」
 
 肩を竦めると、再び上体を起こした。
 
 
 
 『ともかく、役目を忘れるな』
 
 キールが最後にそう言うと、プツッ、と小さな切断音がして、それ以上言葉は続かなくなった。
 
 カヲルは暫く無言でその腕時計を見つめてから、それを取り上げる。
 
 机の引き出しを開けて、そこに無造作に放り込むと、再び閉めた。
 
 
 
 「でも、興味が湧いたってのは本当さ、キール」
 
 
 
 静かに……カヲルは、じっと目の前の壁を見つめて、そう、呟く。
 
 
 
 脳裏に、シンジの、レイの……アスカの、姿が浮かぶ。
 
 
 
 「人間って、一体なんだ?」
 
 
 
 答えの返ってこない、問い。
 
 視線は、揺るがない。
 
 「僕は、人間じゃない」
 
 キールに言われた言葉を、繰り返す。
 
 「……だけど、そう……彼女は、自分を人間だと、言った」
 
 
 
 綾波レイと、自分。
 
 何が違うのか?
 
 
 
 綾波レイは、人間ではない。
 
 それは、彼女自身も理解していることのはずだ。
 
 にもかかわらず、彼女は、はっきりと……躊躇も逡巡も無く、自分は人間だと言い切った。
 
 
 
 人間か否か。
 
 
 
 それが遺伝情報によるものならば、彼女は間違いなく、人間ではない。
 
 しかしそれでも彼女が人間だというのなら、その理由は?
 
 人間かそうでないかを分ける基準は、遺伝情報によるものだけではない、ということだ。
 
 では、その基準は、一体なんだ?
 
 自分と彼らの、一体何が違うのか?
 
 
 
 人間の、人間足りうる条件とは、なんだ?



五百八十六



 ドガン!
 
 
 
 鈍い音が、控え室の中に響いた。
 
 
 
 アスカは、ロッカーに握り拳をぶつけたまま、顔を伏せている。
 
 
 
 控え室には、彼女一人しかいない。
 
 他の皆を半ば振り切るようにして、一人でここまでやってきていた。
 
 
 
 拳を引くと、ロッカーの扉は、僅かにたわんでいた。
 
 
 
 「……弐号機は、アタシの機体よ!」
 
 ギリ……と、奥歯を噛み締めて、そう、呟く。
 
 顔を上げて目の前を睨むと、その歪んだ扉に、カヲルの顔が浮かんだ。
 
 間髪を入れず、ふたたびアスカの拳がうなる。
 
 ドガン!
 
 拳の先から伝わってくるはずの痛みは、怒りで麻痺した脳には届いていないようだ。
 
 
 
 突きつけられた、事実。
 
 カヲルが、パーソナルパターンの書き換えもしないで、弐号機にシンクロした。
 
 
 
 100%。
 
 それが偶然なんて、ありえない。
 
 意図的にシンクロ率を操作しているのだということは、それ以上の数値にも、簡単に持っていくことが出来る、ということだ。
 
 それに対して、自分は……テストで100%を超えるシンクロ率を叩き出すことは、稀だ。
 
 実戦の中では、集中によってそれを超えたことは幾度かあるが、その数値を自由に出せるのとそうでないのとでは、雲泥の差があるだろう。
 
 
 
 弐号機のパイロットとして、自分より、カヲルのほうが、上……。
 
 その言葉が脳裏をよぎり、アスカは思わず、激しく頭を振った。
 
 長い髪の毛が、左右に舞う。
 
 考えたくない。
 
 だが、決して拭い去れない。
 
 それは、予想でも推測でもなく、事実だから。
 
 間違いなく、既にそびえ立ってしまった、彼女の前の大きな壁なのだ。
 
 
 
 「……戦いは、シンクロ率が全てじゃぁ、ない!」
 
 アスカの叫びが控え室にこだまする。
 
 
 
 自分の言葉の空しさは、自覚している。
 
 だが、言わずにおれない。
 
 そのまま、はいそうですかと、受け入れるわけにはいかない。
 
 
 
 拳を引いて上体を起こすと、ツカツカと歩いて、傍らの洗面台の前に立つ。
 
 蛇口を捻ってカランから水を出す。
 
 洗面曹に、水が溜まっていく。
 
 
 
 波紋の中で、揺らめく自分の顔。
 
 
 
 おもむろにその水を両手ですくい、一気に自分の顔にぶつけた。
 
 バシャッ、と音を立てて水が飛び散る。
 
 
 
 冷たい。
 
 
 
 「譲らないわ」
 
 小さく……
 
 しかし、決意を籠めたような声で、アスカが、呟く。
 
 激しく揺らめく、自分の顔を、睨みつける。
 
 
 
 「……負けるもんか……弐号機は、渡さない」
 
 アスカは、吐き捨てるように、そう、言った。



五百八十七



 「……伝えてよかったのかしら」
 
 ミサトは溜息をついた。
 
 
 
 アスカの驚愕は、予想がついたものだった。
 
 ……それだけに、避けられなかったのか、という思いが去来する。
 
 走り去っていくアスカの後ろ姿を思い返す。
 
 
 
 リツコはコーヒーを啜って、ミサトを見た。
 
 「言ったでしょ。いつまでも、隠しておくわけにはいかないわ。これからもシンクロテストはやらなきゃいけないし……そのたびに、理由を付けて彼の結果だけ見せないってわけにもいかないもの」
 
 「……まぁ……そりゃ、そうなんだけどね」
 
 ミサトはもう一度溜息をつくと、手許のコーヒーを見る。
 
 揺らめく波紋に映る、歪んだ自分の顔。
 
 「……じゃ、例えばさ……90%くらいのデータを印刷しておけば良かったんじゃない?」
 
 「その場限りの嘘ね。そんなの、アスカが直接、渚君に確認したらどうするの? いずればれる。意味ないわ」
 
 「……そうよねぇ」
 
 
 
 もう少し、時間が欲しかった。
 
 ……だからと言って、どう解決できるというわけでもないのだが。
 
 
 
 「……アスカ、大丈夫かしら」
 
 ミサトの言葉に、リツコは瞼を閉じた。
 
 「心配しても仕方がないわ……アスカが弐号機のパイロットでいたいなら、彼女が頑張るしかない。彼女に事実を隠してどうするの? 渚君がシンクロ率でアスカを上回っているのは事実。それを彼女に隠しておいたって、彼女が降板を免れるわけじゃないわ」
 
 
 
 「……やっぱり、アスカは降板かな」
 
 ミサトは力なく呟く。
 
 チルドレンの就任や降板を決めるのは、彼女ではない。それは司令や副司令の仕事だろうし、そうでなくてもまだリツコの権限の方が近い。
 
 ミサトは作戦を決める決定権はあっても、チルドレンのような重大な立場の人事を左右する力はないのだ。
 
 淡い懇願のような……しかし同時に、それは避けられないと自分でも認めざるを得ない、そんな力の無い視線をリツコに向ける。
 
 
 
 リツコは、コーヒーを啜ってから、軽く首を振った。
 
 「現状では、降板はないわね」
 
 「え?」
 
 リツコの言葉に、ミサトは驚いたように顔を上げる。
 
 
 
 リツコはミサトの顔を見つめてから、もう一度コーヒーを啜る。
 
 「……考えてもみなさいよ。シンクロ率を自由に操る、しかもパーソナルパターンの書き換えも無しに。そんなの、普通じゃないわ」
 
 「……そりゃ、そうだけど」
 
 「そのまま、実戦に参加させるなんて怖すぎるわよ。原因を究明するにも、データもまだ足りない。……他に弐号機のパイロットがいないって言うんなら、必然的に彼が出撃することもあるでしょう。でも、アスカだって別に大きな問題はないのに、危険を冒してまで渚君にすげかえる必要なんてない。そうでしょ?」
 
 言って、更に一口、コーヒーを啜る。
 
 
 
 「……なんだぁ」
 
 ミサトはそう呟くと、ほっとしたように、長く息を吐いた。
 
 「だったら、それ、さっきアスカに教えてやればよかったのに」
 
 ミサトの言葉に、しかしリツコは首を振る。
 
 「言っておくけど、今の、アスカには内緒よ」
 
 「え? ……どうして?」
 
 「別に、アスカが奮起してくれる分には、問題はないわ。彼女がシンクロ率100%を常時叩きだせるわけじゃ無いのは事実なんだし……そうでしょ? 彼女が頑張る理由を、わざわざ潰す理由なんて、ないわ」
 
 
 
 リツコの言葉に、ミサトは、暫くその目を見つめて……それから、顔を伏せた。
 
 目の前の床を見つめる。
 
 
 
 アスカの、動揺した、表情。
 
 見ているこちらの胸が痛くなるような、そんな彼女の表情を、思い返す。
 
 
 
 助けてあげたい、
 
 拭ってあげたい、と、思う。
 
 
 
 でも……。
 
 
 
 「……心配しなくても、アスカは強いわよ。見た目以上にね」
 
 「……そうね」
 
 リツコの言葉に、ミサトは、小さく頷く。
 
 
 
 分かっている。
 
 彼女の、強さ。
 
 こんな問題を、きっと乗り越えてくれると、そう信じることの出来る、彼女の強さを。
 
 
 
 妹のように、一緒に暮らしてきた彼女の強さ、それを痛いくらいにミサトは知っている。
 
 
 
 「分かってる……アスカには、秘密ね」
 
 ミサトは、静かに……強く、そう、呟いた。



五百八十八



 シンジの部屋。
 
 ベッドの上で横になって天井を見上げていたトウジが、ゆっくりと、口を開く。
 
 
 
 「……やっぱり、プライドっちゅうことなんかなぁ」
 
 
 
 「え?」
 
 椅子に座っていたシンジが問い返すと、トウジは首をまわしてシンジを見た。
 
 「さっき、弐号機に渚がシンクロする言うて、惣流が驚いとったやないか。それ、渚が弐号機パイロットになるんかも知れん、ちゅうことやろ?」
 
 「……まぁ、そうだね」
 
 「ワシから見たら、より操縦がウマい方が乗るのって、当たり前や。人類の未来がかかっとんのやし……それでパイロット降ろされたら終わり、とか言うんならまだしも、実際、綾波もワシも機体がないからパイロットやない。そういう人間はもう何人もいるわけやし、別に、パイロットを降りることがそんなに重大なことやっちゅう気いせえへんのやけどな」
 
 
 
 「う〜ん……」
 
 シンジは、言葉を失って、唸った。
 
 それは、確かに、事実だけ見るならその通りだ。
 
 だが、エヴァのパイロットであることに対するアスカの自負は並外れているし、それに……機体を失って結果的に搭乗機会を失っているだけのレイやトウジと、他のパイロットにその座を引きずり下ろされるアスカでは、やはり立場は違う。
 
 
 
 「やっぱり、弐号機は自分の機体や、っちゅう自負があるンかな」
 
 「……それは、あると思うよ」
 
 「シンジも、初号機を別のやつに乗られたら、嫌なんか?」
 
 「え? ……ああ……う〜ん、そう、だ、なぁ……。まぁ、今のチルドレンなら、他の誰が乗っても、そんなに構わないけどね」
 
 「ふ〜ん……」
 
 「まぁ……アスカは、弐号機に、特に思い入れがあるからね。僕とは比べられないよ」
 
 「思い入れ? 何でや?」
 
 「……さぁ」
 
 
 
 それは、弐号機が、母親だからだろう。
 
 昔はそういう理由ではなく、もっとトウジの言うような自負やプライドに起因するところが多かっただろうが、今は、もっと愛着に似た感情を強く抱いているはずだ。
 
 彼女自身は、弐号機の中にいるのが自分の母親だとは、気付いてはいないだろうが。
 
 
 
 ……確かに、それを言うなら、初号機の中にいるのも自分の母親だし、シンジも初号機に愛着がある。
 
 それでも他のチルドレンが乗ってもさほどの嫌悪感が無いのは、ひとえに彼らを信頼することが出来るからだ。
 
 「シンジは平気なんやろ。それはアレか、他の連中の気心が知れてるから、っちゅうことか?」
 
 「……まぁ……そう、だね」
 
 「じゃ、惣流と渚の仲が悪いのが問題なんやないか?」
 
 「う〜ん……」
 
 カヲルとの仲が良くたって、弐号機に彼が乗るのをアスカが許せるとは思えない。
 
 アスカの場合は、それは微妙に別の問題だ。
 
 ……だが確かにトウジの言う通り、彼らの仲の悪さが、より問題を悪化させているのは、疑いようがない。
 
 
 
 「……ま、どの機体にもろくにシンクロできんワシの言うことやないかも知れんけどな」
 
 トウジはそう言うと、再びごろりとシンジに背を向けた。



五百八十九



 控え室を出たアスカは、そのまま自室に戻りかけたが、思い直して廊下を戻っていた。
 
 休憩所に向かって歩く。
 
 ジュースで喉を潤したかったし、シンジやレイに会いたかった。
 
 
 
 ……いや、正確に言えば、今のような精神状態で、彼らに好んで会いたいわけではない。
 
 だが、彼等と無理矢理にでも会話することで、ささくれた気持ちを少し、鎮めておきたかった。
 
 
 
 そこに彼らがいることに淡い期待を抱いて休憩所に足を踏み入れたアスカは、その期待が後悔に変わるのを自覚していた。
 
 「やぁ、惣流さん」
 
 休憩所に一人腰を下ろしていたカヲルは、片手を挙げて、アスカに微笑んだ。
 
 
 
 アスカは無言で休憩所に入ると、自動販売機でジュースを買う。
 
 それを手に取ると、そのままきびすを返して休憩所から出ようとした。
 
 しかし、その背中に、カヲルが声を掛ける。
 
 「あ、ちょっと惣流さん」
 
 「………」
 
 アスカは立ち止まると、ギロリと視線をカヲルに向けた。
 
 「……なに?」
 
 「惣流さんが来るかと思って待ってたんだよ。話があるんだ、少しいいかな?」
 
 「………」
 
 カヲルを睨みつけたまま、アスカは無言。
 
 カヲルも、微笑んで無言。
 
 ……そうして、数瞬の間、どちらも動かない。
 
 
 
 ……だが、そのままそうして、どちらに行くでもなくただ立っていることに、逆にプライドが許せなかったのだろう。アスカは再びくるりと向き直ると、ずかずかと歩み寄って、カヲルの目の前にどっかりと腰を下ろした。
 
 
 
 「ナニ?」
 
 アスカはカヲルの顔を睨みつけて、敵意を剥き出しにして、言う。
 
 カヲルは全く動じず、微笑を浮かべたままアスカを見返した。
 
 「惣流さん、僕のシンクロ率、聞いた?」
 
 
 
 ぴくっ、と、アスカのこめかみに血管が浮かぶ。
 
 怒りを抑えたまま、張り付いたような笑顔で、アスカが口を開く。
 
 「……自慢?」
 
 「違うよ」
 
 カヲルは笑ったまま顔の前で手を振る。
 
 「……さっき、綾波さんとも話をしたんだ。彼女にも聞いたんだけど、はっきりとした答えが貰えなくてね」
 
 「……なによ」
 
 「惣流さん、きみ、どうしてシンクロ率を伸ばさないの?」
 
 
 
 グシャッ、と、アスカの手の中で紙コップが潰れた。
 
 いっぱいに入っていたはずのジュースは、溢れて彼女の手と床を濡らす。
 
 だが、それに気付いていないかのように、アスカはただカヲルの顔を睨みつけている。
 
 
 
 ひくひくと口角を歪めながら、アスカが呟く。
 
 「……喧嘩売ってンの?」
 
 
 
 「違うよ。何でそうなるかな」
 
 「……売ってんでしょ、どう見ても」
 
 「? なに、随分好戦的だね」
 
 「アンタが怒らせてんでしょ!」
 
 「そんなつもりはないよ。僕が聞きたいのは、そんなことじゃない」
 
 「………」
 
 「なんで?」
 
 「なにが」
 
 「だから、なんでシンクロ率を伸ばさないのかって」
 
 「喧嘩売ってんじゃないのよ!」
 
 「違うよ、なんでそうなる? いいかい、どうやってシンクロ率を上げるのか、それは理解してるんだろう?」
 
 「理解? 努力しろってことでしょ、要は」
 
 アスカが吐き捨てるように言う。
 
 カヲルは溜息をついた。
 
 「違うよ。それでよく90%もシンクロ率が出せるね、逆に尊敬するよ」
 
 「だ・か・ら、喧嘩売ってンの?」
 
 「君ねぇ……エヴァは、心を開かなければ動かないよ」
 
 「……アタシが、心を閉ざしているって言うの?」
 
 「君は、心の底から、彼女を理解しているかい?」
 
 「彼女?」
 
 「弐号機さ」
 
 「……アタシは、弐号機を理解してる。弐号機のことを一番分かってるのは、アタシよ」
 
 「それはどうかな」
 
 「……何ですって?」
 
 言いながら、アスカは立ち上がる。
 
 カヲルは頭を掻くと、同じように立ち上がった。
 
 至近距離で、視線を合わせる。
 
 
 
 「君は、弐号機の理解に甘んじているだけだ」
 
 
 
 カヲルの言葉に、アスカは眉間に皺を寄せる。
 
 「……甘んじている?」
 
 「そう。……彼女は、君を理解しているだろう。君のために動いてくれるだろうし、だから、シンクロ率もいい。……だけど、君は言うほど、彼女のことを理解していないよ。君は、甘えているだけさ」
 
 
 
 アスカの拳が唸った。
 
 だが、カヲルはさっと椅子を飛び越えて、それをよける。
 
 宙を切ったアスカの拳は、一瞬目的を失って戸惑いを見せたが、そのままぐっと伸びてカヲルの紙コップを掴んだ。
 
 「えっ?」
 
 予想外の動きに呆気にとられたカヲルの隙を突いて、アスカはその紙コップを奪い取る。
 
 一瞬、視線をコップに注ぐ。
 
 揺れるジュースに映る、散り散りに乱れた自分の顔。
 
 
 
 その間、僅か一秒未満。
 
 次の瞬間、バシャッ、と、その紙コップの中身をカヲルに浴びせかけた。
 
 
 
 「うわ」
 
 その攻撃をよけることが出来ず、びしょ濡れになるカヲル。
 
 アスカは空になった紙コップを握り潰し、怒りに任せて、床に叩き付けた。
 
 跳ね返って、くしゃくしゃになった紙コップが、高く宙を舞う。
 
 
 
 その紙コップが再び床に落ちるよりも早く、アスカは休憩所を飛び出していった。